殺さずの剣客、そして人斬りの君   作:沖田愛好家

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すごい、昔の作品ですが、書きたくなったので書きます。
ごめーんちゃい!


会津藩京都本陣

 ――翌日。京の空は、抜けるような青だった。

 壬生浪士組一行は、会津藩京都本陣へ向かうため、早朝から身支度に追われていた。普段であれば、寝癖を跳ねさせたまま縁側で欠伸をしている連中すら、今日は妙にそわそわしている。

 

 それも当然だろう。

 これから彼らが向かう先にいるのは、京都守護職――会津中将・松平容保その人なのだから。

 

 幕末。京の町の治安は、一言で表すなら「最悪」の二文字に尽きた。

 尊王攘夷を叫ぶ不逞浪士どもによる辻斬り、放火、脅迫、要人暗殺。今日の味方が明日の敵という泥沼の政争のなか、公家や諸藩の要人ですら夜間の移動には細心の注意を払わねばならない、不穏極まる魔境である。

 

 その過激化する尊攘派の動きを象徴する、前代未聞の不敬事件が起きたのは、つい数ヶ月前のことだ。

 等持院に安置されていた足利尊氏・義詮・義満の「足利三代木像」の首が何者かに落とされ、あろうことか賀茂川の河原に晒されたのである。

 世に言う――足利三代木像梟首事件。

 足利将軍を徳川将軍に見立て、「現幕府も次はこの通りだ」と暗に突きつけた、過激派浪士たちからの強烈な政治的恫喝であった。

 

 この事件は、それまで言路洞開を掲げ、尊攘派に対しても比較的穏健な融和姿勢を保とうとしていた京都守護職・会津藩の方針を、大きく変えさせる契機となった。

 

 これ以上の尊攘派の暴走は看過できないという会津藩内の危機感。そこへさらに、江戸から十四代将軍・徳川家茂がおよそ二百三十年ぶりとなる「将軍上洛」を果たすという、絶対に失敗の許されない一大行事。

 最高権力者の御前を血で汚すわけにはいかないという時間的猶予のなさが、会津藩をして「反幕府は力で取り締まる」という強硬路線への舵切りを決定づけた。

 

 しかし、京にひしめく不逞浪士を文字通り力でねじ伏せるには、正規の会津藩士だけでは物理的な人手がまるで足りない。

 そこで、不逞浪士の手には同じく荒事に慣れた猛者をぶつける、という実務的な思惑から白羽の矢が立ったのが、腕は立つが素性の知れない流れ者の集まり――すなわち、近藤や芹沢率いる『壬生浪士組』であった。

 

 ゆえに、壬生浪士たちにとって松平容保という男は、単なる雲の上の大名ではない。

 混沌の京において、自分たちを預かり、京都の治安維持という大義名分と活動の場を与えてくれた、文字通りの巨大な後ろ盾であったのだ。

 

「おい沖田、お前まだ——か……」

 

 そんな背景の中。屯所の前で腕を組んでいた土方が、不機嫌そうに声を張った、その時だった。

 振り返った彼は、そのまま言葉を失ってしまう。

 

 そこに立っていたのは、確かに沖田総司であった。

 顔も同じ。声も同じ。間の抜けた表情もいつも通り。

 

 ただし。

 

「? どうしました、土方さん。鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔して」

 

 のんびりとした声で首を傾げる沖田の格好だけが、どう考えてもいつも通りではなかった。

 

 今日は会津中将との御接見の日。

 そのためか、沖田は珍しくしっかりと化粧を施していた。

 

 白粉は薄めながらも丁寧に整えられ、唇には紅。

 髪も普段のように雑に括っただけではなく、きちんと結い上げられている。

 着物もまた、いつもの動きやすさ重視の格好ではない。落ち着いた色合いながら、女らしさを感じさせる上物だ。

 

 そして何より。

 

 普段巻いている晒が無い。

 いつもは「斬り合いに邪魔ですね、これ。……潰すか」と剣士らしく押さえ込まれていた胸元が、今日は年相応に主張していたのである。

 

 土方が呆然とするのも無理はなかった。

 屯所前にいた他の浪士たちが、揃いも揃って妙な顔になる。

 

「…………お前。今日、嫁入りか何かか?」

「は? いきなりなんです? 斬りますよ?」

「いや、斬るな。……んじゃなんだ、その妙にめかし込んだふざけた格好は」

 

 土方が額を押さえながら問えば、沖田は「失礼ですねぇ、せっかく八木邸の方に手伝ってもらったのに」とジト目で見る。

 そこへ、ふらりと現れた斎藤が、沖田を見るなり目を丸くした。

 

「あーらら。どうしたってーの、沖田ちゃん。随分気合い入った格好してるじゃない」

「あ、斎藤さん。聞いてくださいよ。土方さんが、会津中将様にお会いするための装いをしたのに、ふざけてるとか言ってくるんですよ? 酷くありません?」

「あー……酷いっていうか、まぁ……沖田ちゃん、本当にそれだけ?」

「? それだけですけど?」

 

 沖田はきっぱりと言い切った。

 

「永倉さんが、大名に会う時は、こういう格好するもんだって――」

 

 その瞬間だった。

 

「はははは!!」

 

 屯所の奥から、とんでもなく豪快な笑い声が響いた。

 

「ひーっひーっ、腹痛ぇ! 見ろよ、左之助! 本当にあの格好してんぜ、沖田の野郎! 賭けは俺の勝ちだな!」

「うぉ、すげぇ。普通に美人じゃないですか、沖田先輩」

 

 腹を抱えて現れたのは、他でもない永倉新八である。

 後ろからは、原田までもが感心したような声を上げた。

 

「……」

 

 そんな彼らを見て、聞いて、ぴたり、と沖田が固まった。

 そうして、ゆっくり、ゆぅっくーりと。沖田の首が、ぎぎぎ、と音を立てそうな勢いで永倉へ向く。

 

「……永倉、さん?」

「おう?」

「これ、少しくらい派手にした方が会津中将様も喜ぶって言いましたよね?」

「言った言った!」

「どうせなら、普段着ねぇ格好した方が驚かれて印象も良いとも」

「言ったなァ!」

「…………」

 

 沖田の頬が、みるみる引き攣っていく。

 周囲の浪士たちはというと、「あっ、これ駄目なやつだ」とでも言いたげに、そっと目を逸らしていた。

 これまで沈黙を続けている藤堂なんかは、既に二、三歩後ろへ下がっている。

 

 経験則というのは大事なのだ。

 特に、沖田総司の地雷を踏み抜いた時などは。

 

 そして。

 

「……土方さん、この人斬っていいですか?」

「……あぁ、ほどほどにしとけよ」

 

 あまりにも雑な許可だった。

 だが、土方としても永倉が悪いとしか言いようがない。

 

 復調直々に切り捨て許可をもらった沖田は、ふわりと永倉へ笑みを向けた。

 

「永倉さん」

「おう?」

「騙りましたね……このがむしんがあぁぁぁぁぁ!!」

「ちょ、おまっ! いやだってよぉ! 本当にやるとは思わねぇじゃねぇか!!」

 

 真剣片手にどかどかと永倉へ突撃する沖田。

 それを見た永倉は、堪えきれず背を向けて逃走を始める。

 彼の逃げ足だけは、やたら速かった。

 

「待ちなさいッ!! その硬そうな頭ごと叩っき斬ります!」

「だからなんで真剣なんだよ!? せめて木刀にしろ木刀に!」

「安心してください、峰打ちですから!」

「お前の峰打ちは安心できねぇんだよ!」

 

 朝っぱらから響く阿鼻叫喚。

 屯所前を駆け回る二人を見ながら、藤堂は「これ止めた方がいいですよね?」と恐る恐る斎藤に呟いた。

 

 しかし。

 

「いやぁ……今入ると、平助も斬られると思うよ?」

「ですよね……」

 

 経験者は語る、であった。

 

 一方、そんな騒ぎを聞きつけたのか、赤衣の剣客が、通りの奥から駆けてきた。

 

「いやー、すまんすまん! 少々遅れたでござる!」

 

 だが、

 

「……どうして、沖田殿が真剣で永倉殿を追いかけ回しているでござる?」

「……俺に聞くな」

「……どうして、沖田殿はあのような格好を?」

「俺に聞くんじゃねぇ」

 

 要領を得ない土方に、赤衣の疑問符は増えるばかりである。

 というか、増えすぎてもう目が完全に「何が起きてるんでござるか、これ」と言っていた。

 

 だが、そんな優男に向けても、土方は言いたいことがあるらしく、その鋭い眼差しを目の前の赤衣へと向けた。

 

「お前、その格好で会津中将様に会う気か?」

 

 土方が眉間を押さえる。

 赤衣の男は、きょとんとした。

 

「む? 何か問題でもござったか?」

「問題しかねぇ」

 

 今日という日。

 多くの浪士たちは、沖田ほどではないにしても、少しでも見栄えを良くするため、羽織を整え、袴を洗い、努力をした。

 普段は泥だらけで稽古している連中ですら、今日は気合いが違う。

 原田など、珍しく髪を整えているくらいだ。そのせいで逆に落ち着かないのか、さっきからやたら髷を触っていた。

 

 だが赤衣の格好と言えば、着流しに草鞋、若干煤けた江戸茶の衣。しかも片袖が破れている。ついでに、どこで擦ったのか袖口が微妙に焦げていた。

 どこからどう見ても、近所の浪人崩れである。

 いや、浪人崩れというより、腰に刀さえ差していなければ、寺の縁側で掃除していそうな奉公人といってもいい風体だった。

 そうやって、土方が指摘してやれば、

 

「いやだって某、これしか持ってないでござるし……」

「だからって限度があんだろうが」

「むぅ」

 

 本気で困った顔をする赤衣。どうやら男は、本当に悪気がないらしく、なんなら替えの服も持っていないようだった。

 そんな空気の中、土方は生まれて初めて頭を抱えた。

 

「俺の服を貸してやる、とりあえず、それを着て来い」

「む、かたじけないでござる……」

 

 妙な空気感がふたりを支配したのは、言うまでもない。

 

 

 

 

 

― 壱 ―

 

 

 会津藩京都本陣――。

 

 そこは、壬生浪士たちが普段屯所としている八木邸などとは、まるで別世界のような場所だった。

 廊下は磨き抜かれ、柱には一切の曇りがない。庭へ視線を向ければ、丁寧に刈り込まれた松が風に揺れている。敷石一つ取っても歪みがなく、手入れの行き届いた池には、澄んだ水が静かに波紋を浮かべていた。

 

 いかにも、大名が陣を構えるべき場所、という感じである。

 

 武家の威厳。

 大藩としての格式。

 そして、京守護職を任された者たちの矜持、といえばいいだろうか。

 壬生浪士たちのような浪人集団が普段出入りする長屋や道場とは、空気そのものが違っていた。一歩踏み込めば、草鞋の裏についた砂粒ひとつですら、気にしてしまいそうになる。

 そんな空気に飲まれているのか、屯所までは騒がしかった連中も、ここへ着くなり口を針で縫われたかのような静けさを保っていた。

 

 道中では「会津中将ってどんな顔してんだろうな!」だの、「飯とか出るんですかね?」だの騒いでいた永倉や原田も、今では借りてきた猫である。

 藤堂に至っては、さっきから無意味に袴の皺を伸ばしてばかりだった。

 

「おい平助、さっきから三回くらい同じとこ直してんぞ」

 

 永倉が小声で突っ込めば、藤堂は「く」と図星をつかれたように顔を向ける。

 

「仕方ないだろ……こういう場所、落ち着かないんですよ……」

「分かるけどよぉ、だからって今さら身なり整えても変わんねぇって」

「うるさいなぁ……! 永倉さんだってさっきから腹引っ込めてるじゃないですか」

「ばっ、おま……!」

 

 こちらもまた図星だったらしい。永倉が慌てて腹筋へ力を込め直した。

 

 そんな一連を見ていた土方は、あがっている連中にため息をつきそうになる。

 が、気持ちが分からないわけでもない。

 相手は会津中将。京守護職。将軍後見職ですら一目置く存在であり、今の京都で最も力を持つ男の一人だ。

 農民上がりや浪人崩れが大半を占める壬生浪士組にとって、雲の上もいいところである。

 

 局長である近藤は、こういうときにはあまり力にならない。

 道場稽古中や、斬りあい最中ならまだしも、もともと会津中将に強い思い入れがある近藤自身、浮足立っている連中の一人ではある。

 先ほどから妙に姿勢が良いし、髷だって普段より気合いを入れて整えていた。

 おそらく昨夜は寝付けていないだろう。

 

 隊士たちの士気をあげることはできても、こういう場面で緩まった螺子を締めるのには不得手な人物である。

 同じく局長である新見にそれを求めるのも論外だ。芹沢の腰巾着である男に、近藤一派の自由奔放な面々をどうにかできる器量はない。

 ならば、筆頭局長である芹沢が一本場を締めてくれればいいのだが、あの男はあの男で、「会津中将との謁見? そんな堅苦しいものは君たちだけでやってくれたまえ」などと言い、自分の一派である平山や平間たちを引き連れ、さっさと上覧試合の会場へ先乗りしてしまった。

 

 となれば必然、こういう空気を引き締めるのは、副長という役職を与えられた者の仕事になる。

 

 もっとも。

 

「おぉー……立派でござるなぁ」

「ですねー」

 

 と、そんな緊張感を木端微塵にしている二人組も存在した。

 

 そう言って庭の池を覗き込んでいるのは、呑気に土方の服を借りた赤衣の男と、化粧を落とし普段の服装に戻っている沖田である。

 まるで物見遊山で田舎から初めて都へ出てきた旅人のようだ。

 

「あ、見てくださいよ、錦鯉! 大きいですよ!」

「おっ、本当でござるな」

「これ食べたら美味しいんですかね?」

 

 などと言い出した。

 

 まったくもって、やめてほしい。

 会津藩本陣の庭池を見て最初に出る感想が食欲なのは、本当にやめていただきたい。

 

 完全に旅先の市場を見る夫婦みたいな会話だった。

 しかも沖田は池へ身を乗り出しながら、「これ一匹くらい減ってもバレませんかね?」などと恐ろしいことまで言い出した。

 

 流石に見かねた山南が静かに振り返る。

 

「二人とも、ここは観光地じゃないんだから、あまりはしゃがないようにね?」

 

 穏やかな声音。

 だが、その笑顔は柔和ではあるものの、眼鏡の奥にある双眸は一切笑っていない。

 

 流石は、山南先生と壬生浪士組内でも一目置かれる男である。

 

 基本的に壬生浪士組という集団は、治安維持組織の皮を被ったならず者集団みたいなものだ。

 いや、流石にそこまで言うと語弊があるかもしれないが、少なくとも、礼節を重んじる武士の集まりなどという上品な代物では断じてない。

 酒を飲めば喧嘩が始まり、喧嘩が始まれば誰かが刀を抜き、刀を抜けば最終的に「まぁまぁ」と止めに入った人間まで殴られる。

 そんな救いようのない連中で構成されている。

 

 そして、その手の輩というのは大抵、怒鳴る相手には反抗するが、静かに怒る相手には滅法弱い。

 山南敬助という男は、まさに後者だった。

 

 声を荒げるわけでもなく、威圧するわけでもない。

 ただ静かに微笑みながら、「あ、これ以上やったら普通に嫌われるな」と本能に理解させてくるのである。

 例えるなら、寺子屋の教師というより、怒らせたら一番怖いタイプのお母さんだ。

 しかも、本人はわりと無自覚でやっている節があるから恐ろしい。

 

 これにはさすがの赤衣もたじたじになり。

 

「あはは……これは、失礼したでござる」

 

 と、苦笑しながら頭を掻いた。一応、空気を読もうという意思はあるらしい。

 一方、沖田は。

 

「えー、いいじゃないですか、別に減る物でもなし」

 

 と、まるで悪びれなかった。

 

 彼女は強いのである。

 いや、剣の腕前とかではなく、神経が。

 たぶん会津藩本陣の池から錦鯉を素手で引っこ抜いても、「魚は食べるものでは?」と平気な顔で言って済ませるまであるかもしれない。

 実際、沖田総司という人間は、そういう女だった。

 

 見かねた土方は、自分からも一発入れてやるべきかと思い口を開きかけた――その時だった。

 

 廊下の奥。

 襖の向こうから、複数の足音が静かに近づいてくる。

 

 それだけで、その場の空気が変わった。

 

 まるで室温そのものが数度下がったかのような錯覚。

 つい先ほどまで、池の鯉を焼くか煮るかで盛り上がっていた空気が、一瞬で凍りつく。

 

 先頭を歩いていたのは、壮年の武士だった。歳は四十前後だろうか。華美な装束を纏っているわけではない。むしろ身なりは驚くほど質素ですらある。

 だが、その一歩ごとの重みが違った。

 背筋の伸ばし方。視線の配り方。腰に差した刀の揺れ方一つに至るまで、長年武門という世界に生きてきた者特有の風格が滲み出ている。

 

 会津藩士たちである。

 

 しかも、ただの藩士ではない。

 その場に現れた瞬間、近藤と新見が即座に膝を折ったことで、誰もが理解した。

 

 上役。

 それも、かなり上の立場の者たちだ。

 

「壬生浪士組、近藤勇以下、参上仕りました!」

 

 近藤の声を合図にするように、その場にいた全員が一斉に頭を垂れる。

 畳へ視線を落としながら、土方は内心で小さく舌打ちした。

 

 嫌な空気だ。

 いや、慣れた空気と言い換えるべきか。

 

 値踏み。品定め。人間を道具として見る者特有の視線。

 会津藩士たちは静かに壬生浪士組を見回していた。まるで、農具市で並べられた中古の鍬でも眺めるように。

 

 無理もない。彼らからすれば、壬生浪士組など所詮は寄せ集めの浪人集団に過ぎないのだ。

 出自は雑多。思想も統一されていない。中には人斬り、博徒崩れ、食い詰め浪人まで混じっている。

 言ってしまえば、便利だから使っている野良犬程度の認識でしかない。

 

 使えるなら使う。使えぬなら切る。

 

 ただ、それだけの話だった。

 そんな緊張感の中。

 

「……ふむ」

 

 一人の会津藩士が、わずかに眉を動かした。

 

「芹沢の奴はどうした?」

 

 低い声だった。

 怒気はない。

 だが、それゆえに答える側の胃が締めつけられる類の声音である。

 

「はっ! 芹沢殿でしたら、先に上覧試合の会場へ向かうと!」

 

 近藤が即座に答える。

 だが、その返答を聞いた藩士は、すっと目を細めた。

 

「なに? 殿への一見もせずに?」

「っ……失礼いたしました! 今すぐ、ここへ戻られるよう私の方から――」

『よい』

 

 その声は、決して大きくはなかった。

 むしろ静かな声音だったと言っていい。

 先ほどまで人の気配と息遣いで満ちていた空間が、まるで湖面へ一滴の墨でも垂らしたかのように、すう、と静まり返る。

 

 廊下奥。閉ざされていた襖が、すう、と音もなく開かれた。

 

 自然、そこにいた者たちの視線が一斉に吸い寄せられた。

 誰かが命じたわけではない。それでも、その場にいた者たちの視線は、吸い寄せられるようにそちらへ向かってしまう。

 

 現れたのは、一人の男だった。

 

 年若い。少なくとも、土方が無意識に思い描いていた会津中将の姿よりは、遥かに若い。

 もっと脂ぎった老獪な男か、あるいは威厳を誇示する豪胆な武人を想像していたのだろう。

 しかし、現れた男は、そのどちらでもなかった。

 

 華美な装束を纏っているわけではない。

 威圧するような気配を撒き散らしているわけでもない。

 むしろその面差しは穏やかで、どこか柔和ですらある。

 

 それなのに。

 

 その人物が座敷へ姿を現した瞬間、この場の空気そのものが、目に見えぬ何かへ塗り替えられていくのを、誰もが肌で感じ取っていた。

 

 張り詰めた静寂。

 畳へ伏せられた視線。

 無意識のうちに伸びる背筋。

 それは単なる権威への畏れではなかった。

 

 この動乱の京において、血と怨嗟と陰謀の渦巻く都の政を預かり続けてきた者。

 日々、帝と幕府、攘夷志士と諸藩、その全ての思惑と責を一身に受けながら、それでもなお会津の男として立ち続けてきた者のみが纏う、ある種の重責。

 人の上に立つ者というのは、それだけで重い。

 ましてや、この時代の京は、一歩誤ればたちまち血の海へ沈む火薬庫そのものである。

 そんな場所で、徳川の盾として在り続けることが、どれほどの重荷か。

 

 無論、壬生浪士組の面々に、それを理屈として理解している者は少ないだろう。

 だが、それでもなお、本能が悟ってしまうのだ。

 

 ――この男こそが、今の京を背負っているのだと。

 

 会津中将――松平容保。

 

 朝敵と攘夷が渦巻く幕末京都にあって、徳川の威信を背負い続けた男、その人であった。

 

「御前ッ!!」

 

 会津藩士の鋭い怒号が飛ぶ。

 

 それを合図とするように、壬生浪士たちは再び一斉に平頭した。

 赤衣の剣客も、半拍ほど遅れて慌てて真似をする。

 

 もっとも、その動きはどうにも不慣れで、礼式を学んだ武士というより、周囲を見て慌てて頭を下げた旅芸人のようだったが。

 

 そんな一同を見渡しながら、容保は静かに口を開く。

 

「そう固くならずとも良い」

 

 穏やかな声だった。

 

 声量があるわけではないのに、殊更に威厳を作っているわけでもないのに、不思議と耳へ残る声音だった。

 まるで、冷え切った場へ静かに湯を注ぐように、その一言だけで、壬生浪士たちの張り詰めていた空気がほんのわずかに和らいでいく。

 

 そして容保は、ゆっくりと彼らを見回した。

 

 近藤、新見、土方、山南、佐伯、永倉――。

 

 壬生浪士組の主だった面々を、一人ずつ確かめるように視線が流れていく。

 

 その目は鋭いわけではない。

 だが、奇妙なほど人を見る目ではあった。表面だけではなく、その奥にある気質や性根まで測ろうとするような視線だった。

 

 そして。

 

 そんな視線が、ふと止まる。

 

「……赤いな」

 

 赤衣の剣侠。

 鮮烈なまでに色素が抜けようとしていた赤い茶髪の異物の上で、容保の双眸がわずかに細められた。

 

「貴様、名は?」

「? 某でござ……ですか?」

「貴様以外に誰がいる」

 

 即答だった。

 

 その返しに、土方は「この馬鹿」と言わんばかりに眉間に縦皺を刻んでいる。

 

 そうして、一拍。

 

 赤衣は困ったように頭を掻いた。

 

「失敬、名乗るほどの名を、某は持ち合わせていないでござる」

「どういう意味だ」

「そのままの意味ですよ。某に名はありません」

 

 あまりにも自然な口調だった。

 虚勢でもなければ、挑発でもない。本当に、そういう事実を説明しているだけの声音。

 

 会津藩士たちの間に、わずかなざわめきが走る。

 怪訝か、警戒か、あるいは不審かもしれない感情。

 

 しかし当の本人だけは、本当に困ったような顔をしていた。

 

 少なくとも、嘘をついている人間の顔ではなかった。

 

「……そうか」

 

 ふっ、と。

 容保は、ごく僅かに口元を緩めた。




ということで、みなさーんお久しぶりー!
元気してたー!?

これ2021年の作品なんですよー、知ってますー?笑

いつの間にか、気づけば新撰組のメンバーがめっちゃ増えていました。
ええええ、よきかなよきかな。
しかし、それにより全体をすべて書き直したというレベルです。
ええええ、よきかなよきかな(忸怩たる涙)

一応、昔の話も手元にはあるので、見たい人がいれば、どこかに公開しておきます。
まだFGO未登場だったときの、オリジナル藤堂平助くんちゃんや、お兄さん属性のオリジナル永倉新八さんがいたりします。

というか、この作品のオマージュ元である某古流剣術さんが、アニメリメイクされていたが一番の驚きですよねー!

この話を投稿する前に、1週間前から、ひそかに今までの話を改稿していたので、こいつ生きてやがる!?って思った人もいるかもしれません。いや、いないか。

ということで、まぁ、お久しぶりの挨拶もかねて、歴史的知識でも落として生きましょう。



ちょこっとだけ豆知識。

・浄土宗大本山・金戒光明寺
通称「黒谷さん(くろ谷)」として知られ、幕末ファンには非常に有名な史跡の一つです。
文久二年(一八六二年)、会津藩主・松平容保が京都守護職に就任すると、会津藩は京都市中の警備・治安維持を担当することになり、その際、本陣として使用されたのが、この金戒光明寺だったんですよ。
理由は単純で、立地が非常に良いから!
金戒光明寺は京都盆地の東側、小高い丘陵地に位置しており、市中を見下ろせる。
さらに、御所にも比較的近い。
つまり、
・朝廷への対応がしやすい
・市街地へ出動しやすい
・防衛拠点としても使いやすい
という、軍事・政治両面で都合の良い場所だったのである。
実際、会津藩はこの寺に大人数を駐屯させ、周辺には砲台まで設置していた記録が残っているのだとか。
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