『暗殺教室RPG』RTA 殺せんせー札害チャート 作:朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足
「俺の名前は鷹岡明! よろしくな、E組の皆!」
たくさんのスイーツやジュースが入った大きな袋の束を両手に、ある日突如としてE組へとやって来た男――彼、鷹岡明は惟臣の同僚らしい。何でも防衛省から彼の補佐をするために派遣されたのだとか。
「明日から体育の授業は俺が受けもつ! 皆、父親の俺を信じて全部任せてくれ!」
だが、両者の性格は正反対であった。
いつも厳しい顔を浮かべている惟臣に対し、明は笑顔でフレンドリーな雰囲気を漂わせている。当人の恰幅のよさも相まって、その姿はまさしく頼りになる父親のよう。
惟臣が不人気という訳ではないが、彼は常に生徒たちと一定の距離を保っている。
そのため向こうからぐいぐいと距離を詰めてくる明は、皆からすれば非常に新鮮だったのだ。
彼の存在は早々に受け入れられつつあった。
きっと授業も楽しいものになるのだろう――誰もがそう思っていた。……実際にその時が来るまでは。
「……は? 何だこれ?」
「う、嘘でしょ……」
「十時間目……夜九時まで……訓練……?」
訓練内容の一新に伴い変更されたというE組の時間割、全員がそれを見て一斉に驚愕する。
時間割表をびっしりと埋める『訓練』の文字、そのうえそれは十時間目の夜九時まで続いているのだ。釣り合いがおかしいのは一目瞭然である。このようなカリキュラム、到底中学生がこなせるものではない。
ただでさえE組には成績不振の生徒が集うというのに、これではさらに下がってしまう。……明の話では理事長も承諾したそうだが、その理由を察するのは容易い。
何にせよこんなものは絶対に認められない。
陽斗を筆頭に、納得できず不満に思った何人かの生徒が彼に抗議しようとして――
「鷹岡先生、少しよろしいでしょうか?」
透き通った声が空間に響き渡る。
その声は鈴を転がしたかのように繊細だが、それでいて力強い意思を秘めているようにも感じられた。
声の主が明らかとなり、一瞬騒々しくなりかけた現場はやがて静かに収束する。
修学旅行の誘拐事件では一貫して冷静な態度を失わず、先日の球技大会では驚異の情報収集能力と運動能力を周りに見せつけた。これまで鮮やかな活躍を果たしてきた彼女ならば、もしかしたらこの状況もどうにかしてくれるかも知れないと。皆、無意識にそんな淡い期待を抱いたのだ。
果たしてその思いを察したのかどうか。
普段のように笑顔を浮かべる水雲は、しかし普段よりも少しだけ真剣な様子で明と向かい合ったのだった。
「……何だ? 一応言っとくが、時間割に関することなら受けつけないぜ。地球の危機なら仕方がないと理事長先生にも承諾して貰ってるからな」
「はい。私は別にこの時間割自体に異議を唱えるつもりはありません。あの浅野理事長がお認めになったということですし、それに何よりも人類の命運がかかっている訳ですから。スケジュールの変更も致し方ないでしょう」
「お? 物分かりのいい子は父ちゃん好きだぞ――」
「ですが鷹岡先生、
再びE組一同は驚愕する。
それは水雲がこのむちゃくちゃな時間割を是としたこともそうなのだが、それ以上に彼女の明に対する直球過ぎる言動に驚きを隠せなかったのである。
「……そりゃまたどういう意味だ?」
「どうも何も言葉の通りです。貴方が烏間先生より優れた指導者であることは話には聞いていますが、私にはそうは思えません。初日から食べ物を持ち込み、私たちに対して妙に馴れ馴れしい態度で接して……ああ、別にそういったやり方を否定している訳ではありませんよ? むしろ相手との距離を詰めるには最良の方法かと。ただ貴方の場合、何か裏があるような気がしてならないんです」
例えどんな相手だろうと積極的に、友好的に接するのが彼女だ。自身を嫌悪している竜馬にさえ嫌われていることを分かっていてなお話しかけにいくのだから、それはもう筋金入りである。
ところが今回に限り、水雲は明に対して露骨に警戒心をあらわにしていた。昨日会ったばかりの相手である。にも関わらず、彼女は疑惑の眼差しを彼に向けている。
とはいえ、彼女が言いたいことも理解できる。
現時点で、E組の生徒たちの内の何人かは密かに彼女と同じような感情を抱いていた。微量ながら、彼の態度にはどこか作為的なものを感じると。
「烏間先生は最初の授業でちょっとしたパフォーマンスを披露して下さいました。磯貝君と前原君がナイフを持って同時に攻撃し、そして先生がそれらを無手で捌くといったものです。貴方のように物を配った訳でも、露骨に距離を詰めてきた訳でもありませんが、それでも彼は私たちから信頼を得ました。……鷹岡先生、貴方はどうでしょう? 繰り返しますが、私は別に貴方のそういったやり方を否定している訳ではありません。貴方からは烏間先生のような誠意が感じられない、そこが一番の問題なんです」
――事務作業の方には、鷹岡先生が専念すればよろしいのでは?
非常に、非常に珍しい。
水雲によるきっぱりとした拒絶の言葉。
そんな彼女の言葉を聞いた明はというと――なぜか未だ朗らかな笑みを浮かべたままであった。
平時ならともかく、これから教えようとしている生徒の一人にいきなり冷たく突き放されてのそれはむしろ不気味でしかない。こめかみを人差し指でぽりぽりと掻きつつ、明はより一層その笑みを深める。
「はっはー! お前、随分と面白いことを言うな!」
そして彼は、そのまま水雲の元へと近づいて。
「生意気なガキが。調子に乗るなよ?」
その瞬間、何が起きたのか目視できた者はいない。
辺りに響き渡る破裂音と地面に吹き飛ぶ水雲の姿、その両方を見てようやく何が起こったのかが分かった。
彼女はぶたれたのだ。つい先程までフレンドリーな人物だと思われていた明の手によって。
……ああ、ゆえに彼女は警戒していたのだろう。
時間割変更の時点で嫌な予感はあった。しかし、まさか彼の本性がここまで危険なものだったとは。
「お前、親元でぬくぬくと育ってきた口だろう? 俺にはよーく分かる。たまにいるんだよ、お前みたいな温室育ちの小娘が。周囲からかわいがられ、甘やかされ、その結果大人をなめるようになる。何でもかんでも自分の思い通りになるってか? 心底呆れるぜ……。だがな、今日からは俺がお前の父親だ。しっかりと一から教育し直してやる。なに、これも父親として当然の務めだからな」
右手をひらひらと振り、完全に本性を現した明は地面に倒れる水雲を狂気的な目で見下ろした。
次いで、彼はその視線を残りの生徒たちに向ける。
「お前たちも父親の俺に逆らおうだなんて考えるなよ? 俺たちは家族なんだ。父親の言うことを聞かない家族が、世の中のどこにある?」
確かに穂波水雲という少女は優秀だ。
容姿端麗、頭脳明晰、スポーツ万能と三つの要素を兼ね備えた彼女に敵などない。
しかし忘れてはならないのが、彼女がまだ中学生であることと、加えて力の弱い女性であること。理不尽な暴力の前には、さしもの彼女ですらどうしようもなくて。
その事実は誰もが知っていた筈であった。
特に、この間の修学旅行で彼女と同じ班であった渚たちなんかはなおさらに。
「ああ、抜けたいやつは抜けてもいいぞ? その時は俺の権限で新しい生徒を補充する。……けどな、できれば俺はそんなことしたくない。父親として一人でも欠けて欲しくないんだ。なっ! 家族皆で地球の危機を救おうぜ!」
あまりにも極端な“
子ども相手に平気で暴力を振るう異常者。
またしても新たなるモンスターが三年E組に襲来したのだった。
「穂波さん、大丈夫!?」
「怪我は!? ちょっと顔見せて!」
「――っ! ほ、穂波さん!
明が同期の惟臣に対して抱く感情――それは強い対抗心である。現役時代、兵士の資質では彼に劣り、それゆえに見出した活路が教官への道であった。
家族のように近い距離で接する一方、暴力的な独裁体制を築くことにより短期間で忠実な精鋭を生み出す。
効率面のみを重視するなら問題はない。……もっとも、教えられる側からすればたまったものではないが。常日頃から暴力を振るわれる彼らは強烈なストレスを感じ続け、中には心身ともに潰れてしまった者もいる。
これと同様のことを明はE組でも行おうとしていた。
相手が子どもだろうが関係ない。強引にでも精鋭として仕立てあげ、そしてあの超生物を殺せた暁には……もはや惟臣など取るに足らない。英雄を育てた英雄だ。さぞかし素晴らしい心地だろう、と。
「やめろ、鷹岡!」
だが、惟臣がそんな蛮行を易々と見逃す筈もなく。
異変に気づいた彼はすぐさま現場へと駆けつけてきた。
「どういうつもりだ? 言った筈だ、彼らは職業軍人ではないと。手荒なまねはよせ!」
「ちゃんと手加減はしてるさ、烏間。大事な俺の家族なんだからな。ほんのちょっとばかりしつけただけだ。まあ、いわゆる“愛の鞭”ってやつだな!」
一切悪びれる様子もなくいけしゃあしゃあとそう言ってのける明に、惟臣の表情も険しくなる。
この男は本気だ。生徒たちの体など気にもせず、本気でこんなむちゃな訓練を強行しようとしている。
そんなことを成長期の学生にやらせればどうなるのか。まさかそれが分からないなんてことはないだろう。彼らの体を考えるなら、ある程度の加減というものが必要だ。
明を説得するには一体何を言えばいいのか。
惟臣が言葉を探す最中、続いてその場に現れたのはE組の担任教師であった。
「――いいえ。彼らは
二メートルをゆうに超える巨大な体に、そこから生える何本もの触手。極めつけは、人間には視認できないマッハ二十という驚異的なスピード。
そんな超生物が今、明の眼前に立ち、彼に向けて怒気を発している。
しかし、彼は全く臆さない。むしろそれどころか、その超生物相手に堂々と食ってかかる始末である。
「何だ? 何か文句があるのか? 体育は教科担任の俺に一任されている筈だぜ。今の
そこには確かに、彼自身が信奉とする確固たる教育理念が存在した。
……彼の言うことにも一理ある。
時間に余裕があるならともかく、ない以上はそれ相応に厳しくいくしかない。こうしている間にも、地球の危機は刻一刻と迫っている。悠長にしている暇などない。
加えて、殺せんせーは
そんな彼が何を言おうと、明が聞く耳を持つ訳がない。彼の教育理念を否定することができるのは、彼と同じ立場にいる惟臣だけであろう――本来ならば。
「……なるほど。貴方の言うことにも一理あります」
「理解できたか? なら、部外者どもはさっさとどこかへ消えろ――」
「ただし。それは貴方の言う罰が、きちんと罰の範囲内に収まっていればの話です」
にゅっと伸ばされた一本の触手の先。促されるがままにその先を見た明は、初めて顔色を変化させた。
そこにいたのは、数名のクラスメイトに介抱されている金髪の少女。つい今し方、明がぶった相手である。
その彼女が――口から夥しい量の血を流していた。
「――っ!」
「これが罰ですか? 生徒に血を流させることが、貴方にとっての罰だと? ……ならば、もはや貴方の教育論など知ったことではない。私には生徒たちを守る義務がある。大事な生徒を傷つけた貴方を排除することに、私は微塵も抵抗を感じませんよ?」
大きく見開かれた目が彼の動揺の具合を表している。
力の加減には細心の注意を払った筈だ。少なくとも
彼の教育方法は暴力を主体としているが、始まって早々いきなり暴力ばかりを振るえばあっという間に生徒たちが潰れてしまう。明とてそこまで考えなしではない。無論、将来的には大半が潰れる見通しではあるが、何も今無理にその時期を早める必要はないだろう。
振るうにしても、最初は生徒が自分に従わなかった場合のみに限定し、力も大分弱めにしている。そこから徐々に振るう機会と力を増やしていくことで自身に対する恐怖心を育てていくのだ。そしてある程度の時が過ぎれば、彼の意思に極めて忠実な兵士たちの完成である。
ところが、文字通り最初の一手から彼は失敗した。
初手から相手に出血させる程の強過ぎる暴力を振るってしまい、結果彼がE組の生徒たちの心に植えつけたのは、恐怖心ではなく反抗心だった。
「クソッ……力加減をミスったか? あー、分かった分かった。そんなに睨まれるのは父ちゃんとしても不本意だ。そこの金髪に傷をつけたことは謝る」
惟臣は言わずもがな、生徒たち全員からも鋭い目つきで睨まれる明。特に彼にとって手痛かったのは超生物の怒りを買ってしまったことであった。
体色を漆黒に染めた殺せんせー、その姿は見ているだけでも身の毛がよだつ。それ程までに恐ろしい。
完全に四面楚歌な状況に焦りを覚えたのか、とりあえず謝罪の言葉を口にする。
だが、決して自らの過ちを認めた訳ではない。
彼はタイミングを見計らっていた。当初に想定していた展開とは異なるが、
「でもな、俺だって仕事でここに来てるんだ。少しは俺の顔も立てて欲しい。それに、仮に俺の教育が間違っていたとして、烏間の教育が正しいとも限らんだろう?」
だからこうしよう。そう言って明が提案したのは一種のゲームのようなものであった。
これから惟臣が一人の生徒を選び、その生徒がナイフを持って明と闘う。そして一度でも彼にそのナイフを当てることができれば。その時は惟臣の教育が自分のものよりも優れていたと認め、明はこのE組を立ち去る。
「要は烏間がやったことと同じだ。お前らに示してやる、俺の誠意ってやつをな」
……そこまで悪くない提案ではある。
惟臣による暗殺の訓練を受け始めてしばらく、最初の頃と比べれば体力も随分と増えてきた。先日の球技大会でも男女ともに好成績を残せたのがその証左だ。彼らは着実に成長している。
今なら一度ナイフを当てるくらい訳ないだろう。
それにこれは、ここで好き放題暴れ回った明へ合法的に仕返しできるチャンスでもある。
「受けようぜ、烏間先生!」
「俺たちが先生の授業の正しさを証明します!」
やる気満々の生徒たち。そんな彼らの表情を見て、明は一度大きく頷く。
「よし! 皆、やる気十分のようだな! それじゃあ早速始めるか――と、その前に。この勝負で俺が勝った場合の話をしておこう」
――もし俺が勝った場合、お前らは今後俺の言うことに絶対服従。外野にも一切口を出させない。
「それと……使用するナイフは
不意に彼が鞄の中から取り出した物、それは――刀身が銀色に輝くナイフであった。
見慣れたゴム製の対先生ナイフではない。
彼の手に握られていたのは、あろうことか金属でできた本物のナイフである。
衝撃のあまり、その場の空気が凍りつく。
この男は本気で言っているのか? 生徒にこんな危険な物を使わせようなどと、本気で? ……とても正気の沙汰とは思えない。
「――待て、鷹岡! 正気か!? 生徒たちは人間を殺す訓練も用意もしていない! 本物を持っても体がすくんで刺せはしないぞ!」
「安心しな、寸止めでも当たったことにしてやる。さて、そろそろ誰を選ぶか決まったか? 烏間。なんなら諦めて降伏してくれてもいいんだぜ!」
ざくりと地面にナイフを刺し、高らかに下卑た笑い声を上げる明は既に自身の勝利を確信している。
当たっても危害がない対先生ナイフと違い、これは人に当てれば確実に怪我をさせてしまう代物。このガキどもがそんな物を扱える筈がない。下手をすれば、本当に相手を殺してしまうなんてこともあり得るのだ。
よしんば扱うことができたとして、実際にそれをかつて精鋭部隊に所属していた彼に当てられるかどうかとなるとまた別の問題になってくるであろう。
「……」
一方で、惟臣は判断に迷っていた。
誰を選ぶべきかで悩んでいるのではない。それならもう既に決まっている。
まず、候補として考えられたのは
そのため選択肢は必然的に一つに絞られる。彼女の対のもう一人を選ぶより他ない。……惟臣が迷っていたのは、自身の指導者としてのあり方であった。
その生徒を危険にさらしてしまっていいのか。
その選択が教員として本当に正しいものなのか。
これを託す前に、せめて本人の意思を確認しなければ。
地面に刺さるナイフを引き抜いた彼は、その足でとある生徒の元へと向かおうとして――
「――烏間先生、僕に
その生徒の方から申し出られたことに酷く驚いたのだ。
潮田渚という少年は穏やかな性格をしている。
その華奢な見た目からも分かるように、彼は争いごとに好き好んで参加するような人物ではない。
だから渚が自ら進んでそのようなことを言い出した時、周囲は酷く困惑した。
実は、この場で一番困惑していたのは当人であった。
明に対して腹が立っていたのは事実だ。生徒へ理不尽な弾圧を行おうとしたり、惟臣に対してやたら挑発的な態度を取ったり、それらは到底看過できるものではない。
何より許せなかったのは、水雲に傷をつけておきながら少しも反省の色を見せなかったこと。いくら温厚な彼とて親しい友人を害されれば気分も悪くなる。
……とはいえ、まさか自分でもあんなことを口走るとは思いもしなかったが。
しかし、不思議と後悔の感情はない。
ちらりと一瞬だけ水雲の方を見た後、改めて渚は惟臣と向かい合う。その瞳には彼の覚悟が表れていた。
「……分かった。君にこのナイフを託そう」
対先生ナイフとはまた異なる、ずっしりと重量感のあるナイフを惟臣は渚に託す。
元より彼を選ぶつもりではあったのだ。
運動能力は平凡、体格と力も決して大きくはないが……だからこそ可能性がある。明が決めたルール下で行われるこの勝負において、彼ならばあるいはと。
そして――見事渚はこの勝負を制した。
「渚、お前すげーじゃん!」
「めっちゃスカッとしたわ!」
自然と近づく体運びのセンス、急所を狙える思いきりのよさ、元来持ち合わせている貧弱な見た目。
それらがうまくかみ合い、彼はこの闘いで暗殺の才能を開花させたのだ。その場にいた皆の予想をはるかに上回る結果である。
歓喜に沸くクラスメイトたちからもみくちゃにされて、渚は思わず笑みをこぼしてしまう。彼の心にも少なからず喜びの感情があった。
その一方で、惨めな敗北を喫した明はというと。
『経営者として様子を見にきました。新任の先生の手腕に興味があったのでね』
『でもね、鷹岡先生。貴方の授業はつまらなかった』
『教育に恐怖は必要です。……しかし、暴力でしか恐怖を与えられないのなら、その教師は三流――』
『そして
――この学校には必要ありません。
突如として現場に現れた浅野理事長によって直接解雇を通達され、その後怒りと悔しさに顔を歪めつつどこかへと去ってしまった。
この学校の支配者からの直々の追放処分である。二度とここへは戻ってこられないだろう。
およそ全てが丸く収まり、改めて渚は彼女の方を見た。
「はい、口開けてー……。うわ、やっぱ結構痛そうだね。ざっくり切れてるわ、ざっくり」
「ご飯の時とか、しばらくは大変だね……」
「……ひぇはひっひほへーははへんへいほ、ひふへひはふはっはっは」
「えっと、『イェラヴィッチお姉様先生と、キスできなくなっちゃった』……え? 悲しむとこ、そこ?」
「っていうか、その呼び方まだ続けてたんだ……。それが一番びっくりだわ」
仲のいい女友だちに囲まれながら談笑している。
……あの様子なら、体の調子も問題なさそうだ。ほっと胸を撫で下ろした渚は校舎の中へ戻ろうとして――
「――潮田君!」
その声に、背後を振り返った。
振り返れば、そこにはおとぎ話の妖精が。妖艶な笑みをたたえており。その笑みに目を奪われた途端。彼女の姿は見えなくなっていて。全身を包む温もりと香りに、自分は今抱きしめられていると。理解した時には耳元で。
騎士に祝福を与える姫が如く。
甘美なる声で、彼が望む言葉を贈るのだ。
「さっきの貴方、とっても格好よかったよ♪」
……。
ふと気づけば、彼女は既にいなくなっていた。温もりと香りも消えつつある。
果たして今のは夢だったのか、それとも現実か。
まるで狐にでも化かされたかのような心境で、渚はただその場に立ちつくすしかなかった。
「――渚? 何でこんなところで突っ立ってんの?」
「……へ? あ、えっと、その、ちょっとぼうっとしてただけ。別に何でもないよ! あはは……」
生徒たちの様子を外から眺めながら、二人の大人たちは静かに語り合っていた。
その内容は、暗殺の才能を開花させた渚について。
もし彼が将来暗殺者になることを望めば、その時お前はどうするのか。そんな惟臣の問いかけに対し、殺せんせーは答えに悩むだろうと返す。
けれども、それがいいのだと。
教師という存在は迷って当然のものだと。
「なら、
「……。穂波さんのことですね?」
「ああ、そうだ。今回の件で彼女が取った行動について。お前も一応気づいてはいるんだろう?」
二人の視線の先では、金色の少女が友人たちと楽しそうに会話している。
俺も気づいたのは今になってからだが――そう前置きをした後、惟臣は自身の考えを語り出した。
「彼女が怪我を負った時、『手加減はしている』と鷹岡は言っていた。決してあいつを擁護する訳ではないが、俺はその言葉に嘘はなかったと思う。なんせあの段階で彼女に傷をつけるのはどう考えても悪手だからだ。生徒たちから反抗心をもたれ、お前からも怒りを買うというどこまでも不利な状況を、あいつが望む筈がない」
「……」
「では、彼女があれ程までに出血するような怪我を負ったのはなぜか? 順当に考えれば、鷹岡が力加減を失敗したと考えるのが自然だ。……だが、本当にそうか? 仮にも軍では優秀な教官として評価されていた男だ。そんな男がそんな失敗をすると思うか?」
つまり、
「もっとも、これは鷹岡にミスがなかったという前提での話だ。あいつも人間である以上はミスの一つや二つしてもおかしくない」
「……しかし、貴方は確信しているのでしょう? 彼女のあの傷が、彼女自身の意思によるものだと」
「根拠はないがな……。まあ、勘のようなものだ」
「勘、ですか? ヌルフフフフ、勘というものもあながち馬鹿にはできませんからねぇ〜」
そう言って触手を唸らせる殺せんせー。
ひとしきりにゆらゆらと動かした後、突然彼はぴたりとその動きを止めて。
「では、私の見解を述べましょう。結論から言えば、私も烏間先生と同じ意見です。彼女はまず鷹岡先生に向かってわざと煽るような発言をし、自身に暴力を振るわせるよう誘導した。それからぶたれた瞬間に自ら口内を噛みきり、深刻な怪我を負わされたと周囲に勘違いさせ、彼にとって不利な状況をつくり上げた。間違いありません」
惟臣の意見に同意した。
「私が違和感を感じたのは、やはり彼女の口の中を実際に見た時でした。最初は外部からの衝撃によってできたものと疑わなかったのですが、それにしては傷口がやけに深いような気がしましてねぇ〜。出血の量も多かったですし。あれ程までに深い傷、本人がよほどの力を入れて噛みでもしない限りは発生しないでしょう」
不自然だったのはそれだけではない。
例えば、明に対する態度と言動。会ったばかりの彼に、彼女は随分と失礼な物言いをしていた。
……今思えば、あれも彼女の策略だったのだろう。
明が特に嫌ってそうな性質の生徒を装い、自らに暴力を振るわせるよう仕向けた。
「なるほど。……ただ、一つ分からないことがある。彼女は一体いつ鷹岡の本性を見抜いたんだ? あいつが着任してからまだ二日も経っていなかったぞ」
「それは簡単な話です。烏間先生、鷹岡先生がこのE組へやって来た時、彼女から何か質問されませんでしたか?」
「ああ……そういえばされたな。あいつがどんなやつか、かなり細かく聞かれた記憶がある」
「恐らく彼女は他の防衛省の方々にも質問をしています。彼がどのような人物か、とね。そして得られた情報から、彼女は彼を危険な人物だと判断し――」
「ここから追い出す計画を立てた。それもあの短時間で、か……」
恐ろしい少女だと心の底から思う。
情報収集、分析、立案、実行。これらをたった一人で、短時間で行えるだけでも異常なのに、必要とあらば自傷もいとわないという……。
中でも恐ろしいのは、目的を達するためなら国を脅かす超生物すらも躊躇なく利用できるところであろう。
彼女は殺せんせーをたきつけることで明をこのE組から追い出そうとした。
なぜなら、それが一番手っ取り早いからだ。
非常に合理的な手段と言えるだろう。そう、まるであの理事長のような――
「穂波さんとあの人は全然違いますよ」
惟臣の思考を遮るように殺せんせーは口を開いた。
「彼女は
「……利用されたことについては何も思わないのか?」
「えぇ。利用と言えば聞こえは悪いですが、逆に考えれば彼女がそれ程までに私のことを信頼してくれていたという証明にもなります」
ただ前向きに捉えている訳ではない。
確信があって、彼はそう言っている。
……ああ、つまりそういうことか。
どうやらこの超生物は大体の見当がついているらしい。惟臣にさえ分かっていない穂波水雲という少女の本質を、その根幹にあるものを、抱えている何かを。
それでもなお動こうとしないのは、今がそのタイミングではないということか。察するにかなりデリケートな問題なのだろう。数多くの知識と技術を有する彼がこんなにも迷い、悩んでいるのだから。
「いずれにせよ、渚君同様にお前に任せていいんだな? 彼女のことは」
「もちろん! 彼女も私の大事な生徒です。担任教師として、しっかり導いてみせますよ。……まあ、彼女の場合はそう易々とはいかないでしょうが。必ずや苦悩することになるでしょう。しかし、それでいい――」
――よい教師とは迷うものですから。
にやにやとしたいつもの笑みを浮かべつつ、彼は最後にそう締めくくったのであった。
「ところで烏間先生、さっき貴方が生徒たちと話していた今回の報酬の件ですが……」
「ん? それがどうした?」
「お願いします……! どうか、どうか私にもそのお恵みを……! お願いします……!」
「……はぁ。色々と台なしだな」