ウマ娘と辿る日本の歴史   作:ぶ狸

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第1回「古代、ウマ娘達の黎明期」上

 ウマ娘大国、日本。

 現在、ウマ娘達は世界中で競技とウィニングライブを行い人々を熱狂させています。同時に物流業界や医療介護、土木建築などで持ち前の力を活かして活躍してきました。

 ウマ娘達の経済規模は実に国内GDPの4割を占め、彼女達無くして我が国の発展は考えられないほどです。これほどまでにウマ娘が社会に深く影響を与えている国は他にないかもしれません。

 日本の歴史においても、ウマ娘は古くから人間と深い絆を育み、多くのドラマで歴史を彩ってきました。

 古代では大和王朝と深くかかわり日本の原点を作り、中世では武士として人と共に戦い抜け、近世では寒冷期の農業を支えるとともに競技者として文化の発達に寄与します。そして、近代では世界が地獄のような戦いをする中で必死に人を支え、戦後復興に大きく貢献したのです。

 日本の歴史とは人とウマ娘の歴史であり、絶えることの無い愛と絆の物語なのです。

 そんなウマ娘達はどのようにして日本にやってきたのでしょうか。彼女達のルーツを辿る中で近年、通説を覆す驚きの発見が続き、遂には日本古代史最大の謎と言われていたあの国について大きな進展がありました。

 今、日本の歴史を彼女達と共に辿ります。

 

 

 日本ウマ娘放送協会特別企画

 ウマ娘と辿る日本の歴史

 第1回『古代、ウマ娘達の黎明期』

 

 

「こんばんは。我が国におけるウマ娘の歴史を紐解くシリーズ企画、『ウマ娘と辿る日本の歴史』の時間がやって参りました。第1回目は古代におけるウマ娘、その黎明期であります。多くの人がご存知の通り、彼女達は我が国の歴史に古くから関わり、常に支え合う関係でありました。積み重ねた時は実に二千年以上とも言われ、断続して人とウマ娘とが友好関係を結ぶ社会は日本が最長であります。世界を見渡せばウマ娘王朝や、ウマ娘が実権を持った歴史もありますが、長い歴史の中では人とウマ娘が争い傷つき、遂には大きな過ちさえ犯す事もありました。そのような世界の中で、二千年以上に渡り人とウマ娘が友好的でいられた日本は非常に特異と言えます。そんなウマ娘達はどこからやってきたのか。なぜ、日本に受け入れられたのか。最新の研究と発見を基にその歴史を辿ってゆきます」

 

 ~ウマ娘達はどこから来たのか~

 

 これまでの通説では日本在来ウマ娘の起源は3世紀頃、モンゴル高原からから九州へと渡来した蒙古系ウマ娘にあるとされていました。この時期は高句麗好太王碑文(こうくりこうたいおうひぶん)にある日本(倭国)と朝鮮半島との間で戦をしていた頃に当たります。

 当時の日本は大和朝廷が国内統一を目指すと共に朝鮮半島への影響力を強めていました。伽耶、百済に大和朝廷の出先機関である日本府が置かれ、国の宰相に名を連ねるなど確固たる関係を築いていったのです。しかし、日本の勢力が強まることを高句麗、新羅(しらぎ)は座視するはずもなく戦乱の世となりました。

 この戦乱の中で、日本はウマ娘の兵士と遭遇します。歴史で確認できる最古の戦場におけるウマ娘は紀元前2500年、戦車を曳く者としてメソポタミアのシュメール絵に描かれています。その後、時代が下がるにつれてウマ娘自身に武装させて戦わせる技術が発達し、機動力に優れた騎兵と呼ばれる兵種が誕生します。中国では紀元前5世紀から騎兵が重要視され、兵法書の『呉子』でも騎兵の重要性が説かれています。

 しかし、ウマ娘による騎兵を大々的に活用できたのはメソポタミアやヒッタイトなどのウマ娘と非常に親しい国を除けば、スキタイやパルティアのような遊牧民族か、古代中国のように圧倒的な数でウマ娘を従えた国だけで、日本には騎兵と言う概念が全く存在しませんでした。

 ウマ娘の戦争利用。それが古代において戦争の勝敗を決定づける重要な要素となった理由をこの時、日本は初めて知ります。人よりも遥かに膂力に優れ、風のように疾駆する。高句麗はウマ娘の数が少なかったため少人数の部隊でしたが、それでも日本にとっては衝撃でした。

 神功皇后(じんぐうこうごう)の伝説において、新羅王は戦わずして降伏したが、ウマ娘達の部隊は少数ながらも勇戦し、敵ながらその美しさと強さに心打たれぬ者はいなかったと称賛しています。

 しかし、日本視点では活躍したウマ娘について、高句麗好太王碑や中国の歴史書には一切の記述がありません。

 何故、日本では英雄とたたえられたウマ娘たちについて大陸は記録しなかったのでしょうか。それは、大陸においてウマ娘が微妙な立場にあったことに理由があります。当時の大陸ーーとりわけ朝鮮半島においてウマ娘の社会的地位は奴隷以下だったのです。

 もともと大陸のウマ娘はモンゴル高原で悠々と暮らす遊牧民であり、その性質は穏やかで、走ることを愛し、悪意を嫌い、平和を尊ぶ、そしてちょっぴり寂しがり屋で嫉妬深く、好いた相手にはとことん甘えん坊な可愛らしいものでした。しかし、そんな彼女たちだからこそ本気で怒るような事態があればいくつもの国を滅ぼす大厄と化してきた歴史があります。

 史記には、ある匈奴(きょうど)の幼いウマ娘が秦の悪漢に乱暴された報復として国境沿いの村々が(ことごと)()(なら)されたと記録されています。匈奴はモンゴル高原で生活するウマ娘達の部族国家であり、少数ながらも強大な武力で歴代の中華王朝をたびたび(おびや)かしていました。そんな彼女達が悪漢の狼藉に激怒し、たちまちに部族同士で連合を組み国境沿いを蹂躙したのです。この時に芽生えた尋常ではない恐怖故に中国を統一した始皇帝は匈奴のウマ娘を恐れ、万里の長城を築いたのです。

 また、ウマ娘は女性しか産まれない生態上、外から人間の男性をお迎え(拉致)する必要があり、時には発情期のウマ娘達が大挙して大陸の国々を蹂躙(性的な意味で)し、男性を略奪することが歴史上多々ありました*1

 中華王朝にとって匈奴の侵攻は民の安寧の為にも絶対に防がなければならないものでしたが、匈奴の討伐に向かった男性がそのままウマ娘達の虜となってしまい勢力拡大を助けただけというケースも多いです。有名なものでは本国からの十分な支援もなしに奮戦した李陵(りりょう)将軍に匈奴のウマ娘達が惚れ込んで虜囚とし、そのまま王族の一員に迎え入れた例があります。

 大陸の国々からすれば匈奴のウマ娘達は一度間違えば理不尽な天災に等しかったのです。

 これらの積み重ねにより、大陸では人間とウマ娘の間には容易に埋められぬ溝が生まれました。そのため、日本が大陸で出会ったウマ娘とは、匈奴からはぐれ高句麗などで捕虜となったウマ娘達の末裔であり、その社会的地位は限りなく低いものだったのです。

 日本書紀においては三韓征伐(さんかんせいばつ)に赴いた神功皇后が戦場で最前線に立たされ、都市では過酷な労役を強いられるウマ娘達の光景に心を痛め、日本への移住を勧めたところウマ娘が受け入れたとされています。

 しかしながら、ここで謎が生まれます。

 歴史書において日本とウマ娘が接触した最古の記述がこの三韓征伐のものですが、日本がウマ娘に驚いてるのは彼女達が兵士として戦っていることであり、ウマ娘のことを元々知っていたのではないかと思われる記述があるのです。

 以下は日本書紀にあるウマ娘が最初に登場する部分を抜き出したものです。

 

『皇后、戦場にて金久氐(キン・ステイ)なる将と相対す。彼の者、ウマ娘なり。皇后、ウマ娘が剣と鎧を持つことに驚きつつも新羅王が戦わずして降伏したと説き、降ることを命ず。久氐、頭を振りてこれを拒否して曰く、「我等が戦わざれば天下万民新羅に強者無しと嗤えり。我等、競いの中に死すに何ら恐るること無し。(しかれ)ど競わずして生きることを望まず」。皇后、久氐を惜しみ木蘭(配下の将軍)にウマ娘の流儀にて決着を付けんと命ず。久氐、木蘭がヒトであると困惑するも相競い、久氐は最初大きく突き放すが鎧兜さえ脱ぎ棄てた木蘭が後半に巻き返し僅かに勝利す。久氐、木蘭を称え皇后に降る。木蘭、相手の不調と神威故に勝てど常なれば必敗なりと賛ず。これを見たウマ娘(ことごと)く降る」*2

 

 これは三韓征伐の正当性を強調性するための伝説であるとして長らく重要視されませんでしたが、まるでウマ娘の流儀(レース)を知っているかのようにも読み取れます。

 また、新羅王が降伏の際には、

 

「今後は末長く服従し、ウマ飼*3となりましよう。 船使を絶やさず、春秋には手入れの刷毛(はけ)と鞭を奉りましよう」

 

 とへりくだったのですが、ある人(木蘭と思われる)が「勇士に鞭を与えるとは何事か」と激怒し王を殺そうとします。しかし、皇后が「降伏を申し出ている者を殺してはならぬ」と諌めて事なきを得たとあります。

 このように、大陸ではウマ娘を鞭を以て従えるようなかなり身分が下の存在としているのに対し、日本はウマ娘に敬意を表し、対等の存在と認めていました。

 やはり日本は以前からウマ娘との関わりがあったのでしょうか。後漢書東夷伝において九州に存在した奴国(なこく)が1世紀頃には大陸に渡った記録がありますが、その際にウマ娘という記述はありません。古事記、日本書紀においてもウマ娘達が登場するのは神功皇后の説話が初めてですが、やはり神功皇后や日本の兵士達はウマ娘を見ても驚いたり恐れたりはしていません。日本書紀にはいくつか欠損(欠史八代)があり、その中にウマ娘達との最初の出会いがあったとも考えられています。

 5世紀頃の中国の歴史書においても、「古来より倭国(日本)はウマ賊(ウマ娘)と親しくす」と書かれています。大陸のウマ娘達と日本が友好的であったことは高句麗と中華王朝にとって好ましからざるものでした。彼らにとって日本とウマ娘達は共に脅威であり、特に半島のウマ娘を通じて日本と匈奴と手を結ぶことは何としても避けたかったのです。

 隣国の危機感とは裏腹に日本とウマ娘達の交友は極めて平和的でありました。大陸の人々とは違い自分たちに好意的な日本への興味から積極的に渡海し、匈奴由来のウマ娘文化が日本に流入しはじめました。三韓征伐の後に、百済や伽耶に影響力を残しつつ大陸への進出が控えられた時期になるとウマ娘達の日本への渡来が加速します。これは中華王朝と高句麗に匈奴が圧され、ウマ娘達の大陸での立場が非常に不安定となったことが原因とされます。半島に取り残されたウマ娘達は過酷な半島では無く自らを受け入れてくれる日本を次なる故郷と定め、はるばる海を渡ってきたのです*4

 この時代のウマ具(古代ウマ娘の競争装束)が全国の遺跡から出土しており、適地を求めて現在の関東地方や東北地方にまで急速に広がり、日本中でウマ娘が定住することとなりました。

 古代日本がウマ娘を広く受け入れたのは世界的にも稀なケースであります。確かにウマ娘は容姿に優れ、基本的には穏やかな気質ではあるものの、人とは明らかに逸した身体能力と、男性が一切生まれない特殊な生態から男性主体の社会では忌避され、疎外される存在となっていました。

 しかし、日本はこの辺りの差別がさっぱり理解できませんでした。力に優れていれば農作業が捗ると思い、男の子が生まれないと言われてもそれが何かと首をかしげ、何より可愛ければ正義なのだと言わんばかりに我先にと嫁入りを求む者が相次いだのです。これには渡来したウマ娘側が大陸とのギャップに困惑してしまったことでしょう。

 大陸から渡って来たウマ娘の中には金久氐もいました。神功皇后を祀った神社には彼女についての後日談が伝わっています。渡来した久氐は自らを負かせた木蘭に恋をしましたが、もはや新羅での身分さえ失った自分には叶わぬ恋だと思い端女(はしため)でいいから側にいさせて欲しいと申し出たところ、木蘭は即座に久氐を伴って自らの祖先神を祀る社へと赴き、彼女を自らの妻とすると誓ったのです。久氐は何かの間違いだと恐縮しましたが、木蘭は「無二の勇士を妻とせずして誰を妻とせん」と一喝し、そのまま生涯の伴侶としました。神功皇后はこれを大いに喜び、木蘭に鞍部(くらつくり)の姓を与え祝福したとされます。この神社は恋愛成就のご利益があると恋する乙女達に人気のスポットとなっています。

*1
これは匈奴に限った話では無く、4世紀頃に登場したフン族はゲルマン民族の国々を襲撃し、王の中には屈辱に耐えかね自害する者もいた。この襲撃がゲルマン人の大移動の原因となっている

*2
人間がウマ娘に競技で勝てるとは思えないが、相手が疲労困憊かつ重武装で、ヒトが全くの丸腰となって長距離を駆け抜ければ勝てる。参考までに、人類最速のボルト氏は最高時速45km、ポニーはだいたい時速40kmなので木蘭が人類最高レベルの脚を持ち、この時代のウマ娘がポニーくらいの力なら勝負になるかも。

*3
当時の大陸でウマ娘の世話をする役職は屈辱的なものであり、主に奴隷階級が就いていた。

*4
人間よりもストレスに繊細なウマ娘が海を渡るのは非常に困難なことだったが、それでも日本に渡りたいと願うほど大陸での立場が悪化していたのである

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