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聖武天皇の跡を継いだ女帝、孝謙天皇。
遅咲きながらも大仏開眼供養記念にて母、光明皇后を降し日本一のウマ娘を名乗るに相応しい抜きん出て並ぶもの無しといった勢いを誇りました。
臣下に従兄妹の藤原仲麻呂をはじめ、橘諸兄や吉備真備といった長らく聖武天皇の治世を支えてきた功臣がいたこともあり、彼女の治世は順調な駆け出しを見せようとしています。父が整えた絶好の良バ場。誰しもが今までの女帝と同じく歴史に残る賢帝となるのを期待して止みません。まさか、芝がダートと化すなど誰も思いもせずに。
日本ウマ娘放送協会特別企画
ウマ娘と辿る日本の歴史
第5回『女帝と道鏡 怪僧と呼ばれた男の真実』
「こんばんは、今宵のウマ娘と辿る日本の歴史。主役は日本史上唯一ウマ娘の天皇となった女帝、孝謙天皇であります。最初期の彼女の治世では、藤原仲麻呂や橘諸兄、吉備真備といった日本の俊英が集まっていました。彼等は既に長い政務の経験を積んでいましたからこれからの治世は安定する。誰もが、希望を持っていたのです」
しかし、孝謙天皇の即位以前から火種は存在していました。橘諸兄の息子、奈良麻呂は藤原氏がこれ以上に力を持つことを良しとせず他の皇族を立てようとしたのです。
候補となったのは
ところが、皇族達からはある程度の支持を得たものの貴族や役人、ウマ娘は「女帝で良くない? むしろウマ娘の女帝とか見たくない?」と奈良麻呂を支持せず、父の諸兄でさえも「余計なことするなや」と冷たい反応でした。
結局、749年に聖武天皇が突如スキンヘッドとなって出家し慌てて孝謙天皇が即位。つつがなく女帝となったのです。
755年、橘諸兄の舘で開かれた宴会において酔った諸兄はつい失言をしてしまいます。
「ここだけの話、上皇の剃髪は似合ってないと思う」
これを諸兄の家令が不敬発言として上皇に報告。上皇は涙目になりながらも、
「べ、別に気にしてないし。アスカが似合ってるって言ってくれたら何と言われても知らんし。私は聞かなかったことにするね。はい、この話は終わり。気にしてなんか無いんだからね!」
と、不問としました。一方で、病床の父に追い打ちをかけたかのような諸兄の行いに孝謙天皇は怒り、真相究明のため宴席に参加していた佐伯美濃麻呂を呼び出します。美濃麻呂は参加してはいたものの諸兄のボヤキを一々覚えているはずもなく「知らんがな」と答え、ムキになった孝謙天皇が他の参加者も喚問しようとしたところで光明皇太后が「おやめなさい、みっともない。ところで、陛下のあの頭は絶対に似合っています。異論は認めませんわ」と孝謙天皇を宥めて事態を収ました。
しかし、酔いが醒めた諸兄は一連の話を聞くと顔面蒼白となり、
「俺は駄目なお兄ちゃんだ。もう駄目だ、おしまいだぁ」
と大臣を辞して自ら謹慎し、さらに仲直りする前に聖武上皇が崩御すると魂が抜けたようになってしまい757年1月に74歳で薨去しました。
これを拙いと思ったのが奈良麻呂。藤原氏以外で唯一権力を握っていた父の死により橘家が力を失うのは目に見えています。更に、先の皇位継承のいざこざで彼自身孝謙天皇や藤原氏との関係が悪く出世も望めません。
この頃から再び奈良麻呂の暗躍が始まります。
一方、女帝は全く関係のないところで危機に陥っていました。
「待て
「脱ぎたいからだ」
「いや、確かに今日は暑い。だが仮にもウマ娘で帝である私の前でなぜ脱いだ」
「気持ちが良いからだ」
「……(啞然)」
「ところで、俺の道祖神*2を見てくれ。こいつをどう思う?」
「すごく…小さいです。って、何見せとるんだゴラァァァ!」
聖武天皇の遺勅により皇太子となった道祖王。彼は仕事こそ真面目ではありましたが私生活ではどうしょうもない変態であったらしく孝謙天皇にウマっ気*3を出してしまい孝謙天皇の蹴りが炸裂。そのまま品行に問題ありとして僅か1年で廃太子となります。これ以降、元々男嫌いの兆候があった女帝はすっかり男性恐怖症となってしまったのです。
流石に次こそはまともな人を皇太子にしようと仲麻呂が推薦したのが日本書紀の編集で知られる舎人親王の息子である
奈良麻呂はこの行いに激怒します。急に出てきたぽっと出の皇族を推すならば今まで自分が推していた皇族は何なのかと不満が高まったのです。そして、仲麻呂の排斥を本格化させてゆきます。
奈良麻呂にとって、この時が最後のチャンスでした。聖武上皇の崩御で光明皇太后はすっかり政治から遠ざかり、孝謙天皇は道祖王のトラウマで混乱しています。仲麻呂を討つには今しかありません。そこで黄文王や道祖王など皇位継承権を持つ皇族を集めて反乱を計画します。ところが、この集まりに誘われなかった皇族が密告したことによりあっさり朝廷に露見してしまいます。
孝謙天皇と仲麻呂はひどく困惑しました。反乱の疑いのある者は全員親族と言ってよく、先帝や諸兄の喪が明けぬうちに何をしているのかと呆れ果てています。ともかくせっかく世の中も平穏となりつつあり、彼等は彼等で夫を恋しがって泣き暮らしている光明皇太后にこれ以上心配をかけないためにも早期解決を求めます。
757年7月、孝謙天皇は今回のことを不問とする勅旨と同時に「貴様ら親戚なんだからある程度仲良くしろよ」という旨の宣告をしました。
これでひとまず落ち着くだろうと安心したその日の夜、都の警備をしていた中衛舎人*5
獄に入れられた容疑者達に対し、仲麻呂の兄である右大臣の藤原豊成が尋問しましたが親戚ゆえの甘さからか自白を得られませんでした。ことを荒立てずに収めようとしたその日のうちに反故にされたことで精神的に余裕のない孝謙天皇は隣に信頼する仲麻呂を立たせながら「反乱なんか信じない。もうこの話は終わりだ、解散!」と涙目で宣言しますが、良い意味で空気の読めない男が一人ーー
「待ってくれ陛下。そいつらの尋問、ちょいと私に任せてくれないか?」
「
「仲麻呂ォ、本当は分かっているだろ。あいつらは黒だ。生かしておいてもろくなことにはならない。まあ、私は豊成の兄貴みたいに優しくはないから、奴らがどうなっても構わないからな」
仲麻呂は正直嫌でしたが、真相究明をして禍根を断つというのは尤もであると考え従兄弟の藤原永手に尋問を任せました。
結果、何をどうしたのかは全く不明ですが全員が反乱を計画していたと自白したのです。
孝謙天皇の御前で行われた尋問で天皇は奈良麻呂に何故反乱を起こそうとしたのかと問うと、奈良麻呂は「東大寺の大仏なんか作って何になる。あれのせいで国は乱れ民は苦しんでいるから私が政治を正すのだ」と吠えましたが周りは呆れ果てて絶句しました。
「貴様…仮にも貴人でありながら大仏建立の意義が分からないのか?」
酷く頭痛がしてやる気が下がったと言いたげな表情を浮かべながら孝謙天皇が問うと、奈良麻呂は「あれになんの意義がある」と言ってふんぞり返るばかり。遂に孝謙天皇はこんなパカは知らんとばかりに玉座を立ってふて寝し、仲麻呂はあまりの愚かさに呆れてものが言えませんでした。
「お前さぁ、大仏建立には民の希望でありお前の父親も関わったんだぞ。それをお前がなんのつもりで糾弾してるんだよ。しかも反乱の理由になりもしない。まるで意味が分からんぞ?」
永手のひたすら侮蔑の籠もった言葉に奈良麻呂は何も答えられませんでした。永手の言葉と態度は、その場にいた者達全員の総意でもありました。
全ての取り調べが終わると孝謙天皇は今まで抑えていた怒りを遂に爆発させ、苛烈な裁きを下しました。内容は以下のとおりです。
橘奈良麻呂…杖により撲殺。
黄文王…改名の上で撲殺。
道祖王…改名の上で撲殺。
安宿王…佐渡へ流罪。
大伴古麻呂…撲殺。
佐伯全成…自害。
小野東人…撲殺。
撲殺というのは公には牢獄に閉じ込めていたとしていますが、実際には獄中で杖によって撲殺処刑されたことを意味します。
改名というのは特に孝謙天皇が腹を立てた者に対して改名を強要したものです。例えば、
「黄文王、貴様は余りにも愚かすぎるから名前を
「道祖王…貴様は二度と見たくなかったぞ。貴様のような男には
「お前は…ええと…(いや、誰だこいつ)。仲麻呂、此奴は?
と、微妙な子供じみた悪口レベルの珍名を付けまくりました。隣の仲麻呂にとっては絶対に笑ってはいけない大臣24時状態であり非常に腹筋が鍛えられたでしょう。
ともかく、多くの者が処罰される政変となり、藤原氏とその関係者が一挙に躍進することとなりました*8。
この政変を橘奈良麻呂の乱と呼びます。
「今夜の解説は先週に引き続きセントチャンです。セントチャンさんーー」
「セントで良いよ〜」
「では、セントさん。今回の反乱は未然に防げたのは良かったですけど……前回の藤原広嗣レベルのパカだと私は感じましたが、どうでしょうか」
「うん、おパカだね。頭に芝でも生えてるのかってレベルだね」
「ありがとうございます。一方、本件に光明皇太后は本当に全く関わらなかったのですか? 皇室と実家の一大事なのに」
「……この時彼女がナニしてたのか記録があるんだけど、知りたい?」
「知りたいです」
「本当に?」
「はい」
「旦那の服着てトリップしてました」
「………………………………………はい?」
「ですから、亡くなった旦那の残り香をくんくんとーー*9」
「いや、もう結構です。訊いた私がパカでした。今のところはカットしましょう*10。さて、奈良麻呂の乱を防いだ孝謙天皇でしたが、元々中継ぎとしての存在であり、母の光明皇太后が病に倒れたことで看病に専念するため譲位を決意します。しかし、それが後に間違いであったと思い知るのです」
758年、病に倒れた光明皇太后*11の看護にあたるため孝謙天皇は皇太子の大炊王に譲位。淳仁天皇が即位します。
淳仁天皇を擁立した仲麻呂は独自の政治を行うようになります。彼は人々が成人する年齢を繰上げることにより租税が発生するのを遅らせ、雑徭の半減、問民苦使や平準署の創設など困窮する人々を救うための徳治政策を進めます。また、唐贔屓だったため官名を唐風に改称させる唐風政策を推進します*12。そして仲麻呂自身は右大臣に出世しました。さらに、仲麻呂の一家は姓に恵美の二字を付け加えられるとともに、仲麻呂は押勝の名を賜与されます。
「仲麻呂、お前に新しく名前をやろう」
「はい、ありがとうございます(うわっ、絶対微妙な名前だよ)」
「私はどれだけ不機嫌でもお前の顔を見ると笑顔になってしまうから、えみに字を当てて恵美。そしてどんな意見も最終的には私が根負けしてしまうので押勝。合わせて恵美押勝と名乗るのだ。ムフー、これは良い名だろう?」
「いやクソダセェな(ありがたく名乗らせて頂きます)」
「え?」
「ーーあ」
「………グスン」
「つ、謹んで名乗らせて頂きまーー」
「仲麻呂のパカ! もう知らん!」
思わず本音が出た仲麻呂。これ以降、二人の関係はギクシャクしてしまうのです。
実はこの直前から二人が不仲となる兆候がありました。孝謙天皇は遅咲きのウマ娘であり、大仏開眼供養記念の時点で既に全盛期をとうに過ぎています。娘に敗北するまで無敵を誇り、強すぎて退屈とまで言われた光明皇后は逃げ先行主体で危うげのない競技をしていましたが、孝謙天皇は体力面の不安から最後の直線まで脚をためて差し切る競技を行い、毎回接戦での勝利でした。辛うじて敗北はないものの当人としても気力体力共に限界を感じていました。
そんなある日の鍛錬中の出来事です。
「陛下、まだ本日の目標を終えていません。休むには早いですよ」
「仲麻呂、今日はどうも体調が優れなくてな。私も色々忙しくて休めておらんし、今日の鍛錬はここまでにしよう」
「何をおっしゃいます。陛下には競技においても女帝でいたもらわねばならぬのです。さあ、走り込み100本行きますよ」
「む、無理ぃ〜、できるわけなかろうそんな本数!」
「諦めんなよ…」
「ゑ?」
「諦めんなよ陛下、どうしてそこでやめるんだそこで!もうすこし頑張ってみろよ。ダメダメダメダメ諦めたら、周りのことだって思えよ、応援してる人の事思ってみろって、あともうちょっとの所なんだから、私だってこのクソ忙しいとこユメヲカケルって頑張ってんだよ絶対やってみろ、そしたら必ず目標達成出来る!」
「いや、仲麻呂、何か暑苦しいぞ」
「言い訳してるんじゃないですか?出来ない事、無理だって、諦めてるんじゃないですか?駄目だ駄目だ!諦めちゃ駄目だ! 出来る!出来る!絶対に出来るんだから!」
「あ、ハイ」
結局追加の走り込みまでさせられた孝謙天皇のやる気は急激に下がり、競技からの引退を検討しはじめたのです。
すれ違う事の増えた二人。そして事態はさらなる悪化を遂げていきます。
同年、大陸では安史の乱が発生*13。唐の弱体化を好機と見た仲麻呂は半島で長年に渡り苦境に立たされているウマ娘の解放と百済復興を名目に新羅征伐を計画します。これは軍船394隻、兵士4万700人を動員する本格的なものになる筈でしたが、そこに待ったをかけたのが孝謙上皇です。
彼女からすれば大疫病から始まった飢饉と急激の人口減少からまだ20年。確かに国政は安定し人口も増えて来ましたが、外国に攻め入る余力があるとはとても思えませんでした。加えて、あの大疫病は新羅からもたらされたのだと上皇をはじめ多くの人々は固く信じており、近年の関係悪化もあり半島に関わるろくなことは無いと考え、できれば大陸の情勢にも触れたくなかったのです。
結局、上皇をはじめ貴族や民衆の理解を得られず計画倒れに終わりました。しかし、この一件で孝謙上皇は仲麻呂の政治家としての能力を疑問視するようになったのであります。
760年、光明皇太后薨去。さらには武部卿*14であった弟の乙麻呂も失います。さらには2年後に尚侍*15妻の藤原袁比良、腹心だった参議の紀飯麻呂と中納言石川年足を失うという呪われているかのように訃報が連続し、仲麻呂の政治基盤は大打撃を受けるのです。
慌てて仲麻呂は自らの子や娘婿などと言った親族を政権に加えますが、この人事が仲麻呂に反対する人々にとって格好の批判材料となり逆に仲麻呂の力をそぐこととなりました。
761年、淳仁天皇は平城京の宮殿改築のため孝謙上皇を伴い近江国の保良宮へ移ります。この時、心労と慣れない土地での暮らしに体力を奪われたのか孝謙上皇は病に倒れます。病といってもおそらくは風疹程度で、大事を取れば問題のないものです。ところがここで思わぬ事態が発生していました。天皇や皇族の主治医である内薬司の侍医がこの時一人だけ同行していたのですが、この侍医は人に対する医療行為が専門でありウマ娘は範疇外だったのです。慌てて平城京からウマ娘の医療知識を持つ先代の侍医が召喚されますが、その間誰かが看病をしなければなりません。
責任者不在の中で誰が上皇の看病をするのか揉める中、一人の老僧が手を上げたのです。
「ほんなら拙僧が看病しますよ。ここでぐだぐだしとってもしゃあないやないか」
老僧はそう言うや否や自らが厨房に入り粥をこしらえ、湯と清潔な布を持って上皇の寝所へと入っていったのです。
「失礼するよ」
「失礼するなら出ていけ」
「ほなさいなら……ってあかん、いくら拙僧が 河内国*16出身でも洒落にならんわ。ていうかなんや、上皇陛下も案外元気そうやないか」
「やけになれなれしいな。病と言っても少し熱が出ただけで大したことはない。このくらい、すぐに治る」
「そない言うても病に大きいも小さいもありまへんがな。小事が大事になることなんて世の中ままあるんやからここは粥でも食うて安静にしとき」
「いや貴様は私の母親か。まったく大げさだが、確かに病を侮るのは良くないな。この粥は有り難くいただくから貴様はもう下がって――」
膳にある土鍋の蓋を開けた瞬間、孝謙上皇の声が止まります。信じられないものを見たと言わんばかりの表情のまま自ら椀に粥をよそうと一口だけ口にしました。
「あら、もしかして口に合わんかった? 確かに下々が食うもんかもしれんけど栄養はあるし美味しいと拙僧は思てつくったんやけど」
「いや、美味だ。本当に美味だ。すまない、少しだけ一人にしてくれ」
「んー、分かりました(知らんけど)。食べ終わったらまた言うてください。ほな、また」
部屋に一人になった孝謙上皇。一口、また一口と粥を口にします。
不意に頬を涙が伝い、彼女は震える唇からどうしようもない想いを吐露しました。
「……母さん」
二度と知ることの無い筈だった母の味。それも、悲田院で振る舞われた正真正銘の手料理。まだ幼い頃、身分も様々な人々の中でみんなと椀をかきこんだ思い出。どんな美食も、どんな珍味も、あの日の粥より美味しいものではありません。それを、思いもしない場所でまた味わう事ができたのです。
少しして、用意されていた布と湯で顔や身体を拭い、元女帝としての身支度を整えた彼女は老僧を呼びました。
「馳走になった。ところで貴様、この粥をどこでおぼえた?」
「ああ、この粥ですか? あれは拙僧がまだ若かりし頃。その時は奈良の都では酷い飢饉が多く、都にはその日の飯も食えん人らが多かったんですわ。それを見かねた光明皇后、あんときはまだ藤原アスカ姫やったな。あのお方が悲田院を作った。拙僧はそのとき悲田院のおかれた興福寺で修行をする小僧でして、そこに紫がかった髪のウマ娘がな、暇なら手伝え言うんで手伝ったんです。何やかんだ話したら、同い年と言うことでそこから仲良うなって、他の人には教えていない本当の粥の作り方を教わったんですわ。そのあとすぐに他の寺に移って修行することになってもうて、そのウマ娘とはそれっきりですわ」
「そうだったのか。ところで貴様、先帝夫妻。つまり私の父母と会ったことはあるか?」
「はは、いやはや恥ずかしながら拙僧、ここ最近までいろいろな場所を禅師として回っておりまして光明皇后の御尊顔は終ぞ拝見しておらんのです。いやー、行基師匠と伊勢の辺りで少しだけ行動を共にした時期に沙弥勝満を名乗る当時のみかd――いえ、さる高貴なお方を見た事はありましたが、その後は下野や陸奥やらへ行き、戻った頃には両陛下はお隠れ*17あそばされた後でしたから。実のところ、拙僧宮中では新参者なんですわ」
「ふふ、そうか。紫の髪をしたウマ娘か。貴様、さては今年で齢は61だな」
「そうですが、何で拙僧の齢がお分かりに?」
「さて、何でだろうな。ところで貴様、名は何というのだ?」
「拙僧の名でございますか。名乗るほどのものではございませぬ」
「そういうのいいから名乗れ」
「では、謹んで。拙僧、俗世では弓削氏の末裔。仏門では義淵・良弁から梵語と走禅を学び、行基菩薩から競技の指導について才無しと太鼓判を押されつつもウマ娘を気遣う性根だけは認められた者。名を――」
――道鏡。
701年、河内国生まれ。この時、61歳。
これといった出世もせず、単に誰も責任を取りたがらず孝謙上皇の看病がおろそかになっているのを見かねた老僧が、後に日本三大悪人。皇統簒奪を目論んだ怪僧と呼ばれるようになると、誰が予想しえたでしょうか。おそらく、それは本人でさえも思わなかったのではないでしょうか。
注意:私は非関西圏なので似非関西弁です。大阪府の方々お許しください。
一部抜けたまま投稿してしまったので修正しました。道鏡と孝謙上皇の会話している部分です。
ちょっと下はいつもより遅くなります。申し訳ございません。