孝謙上皇の病はすぐに平癒しましたが、看病以来上皇は道鏡を傍に置くようになりました。当初は単なる話し相手でしたが、次第に道鏡は心の拠り所となり上皇は彼を寵愛するようになっていきます。
この道鏡、指導人としては全くの無才でありましたが、一方で真心を込めてウマ娘の世話をすることで知られておりました。その腕前はどのような暴れウマであろうと彼の前では穏やかとなり、孝謙上皇も道鏡の真心に絆されてしまったのです。あるいは、全くの同年齢であった父母の面影を見たのかもしれません。
この状況に危機感と妬心を抱いたのが仲麻呂です。彼は今は関係が悪化しているものの長年従妹を支えてきた自負がありました。それがどこのウマ娘の骨*1とも知れぬ人物に上皇の寵が移ったことは我慢なりませんでした。
仲麻呂は淳仁天皇を通して道鏡を遠ざけるよう進言します。彼としては最大限に気を遣い、天皇から諫めるという形で体裁を整えたものになるはずでした。
だがそれが逆に孝謙上皇の逆鱗に触れたのです。
「貴様、私が色ボケしたとでも言うのか。そんなウマ娘に私が見えるのか。違う違う違う違う、私は限りなく清らかなウマ娘だ」
「いえ、しかしながら先帝として卑しか者を傍に置くのを控えてもらいたく――」
「誰を傍に置くのかどうか、いちいち貴様が決めるのか? そもそも、卑しいなどとよく言えたものだ。傍系の貴様が帝位にあるのは私の寛容さあってのこと。勘違いするな、貴様などいつでも帝位から外し、誰よりも身分卑しき者にできるのだ。分かったら、二度と、私を煩わせるな」
「御労しや。そこまであの坊主にたらしこまれましたか」
「誰が色に狂うものか! 私の五体は元正天皇が如く清らかなり*2。そもそもうまだっちする奴なんか大嫌いだ!*3」
激怒した孝謙上皇は淳仁天皇を痛罵した上で廃位をほのめかしました。
実際、仲麻呂の傀儡であった淳仁天皇は貴族や民衆から人気があったわけではなく、傍系ということもあり立場は脆弱でした。一方で絶大な人気を誇った聖武天皇夫妻の子である孝謙上皇には今なお根強い人気があり、彼女が復位を望めば容易に叶う程でした。
この上皇の変わりように仲麻呂は道鏡への憎しみを強め、「かー、卑しか坊主ばい」と意味不明な言葉で罵る奇行を見せたと伝わります。
とはいえ、道鏡との仲を邪推されるのを嫌った孝謙上皇は792年5月に宮殿の改築が終わり天皇が平城京に戻ったにも関わらず、母である光明皇后が開基した男子禁制の国分尼寺である法華寺を居所とします。これが都の人々には上皇と天皇の関係悪化が表面化したと捉えられました。
翌月、孝謙上皇は仲麻呂を除く五位以上の官人を呼び出して「帝の不孝は目に余るから二度と顔もみたくない。また、政務を執るにも頼りなさすぎるため国家の重大事は私が決める。皆もそのつもりで」と宣言。実質的に政権が分裂してしまったのです。なお、都の人々の反応はと言うと貴族たちは概ね中立であり事態を静観する構えを見せ、ウマ娘を中心とする民衆は孝謙上皇を支持し、淳仁天皇は自らの立場の弱さを見せつけられることとなりました。
763年に孝謙上皇は道鏡を少僧都に昇格させます。これは奈良時代の僧侶の階級で上から6番目。ちょうど中間に位置するものです*4。この人事に既に老齢の道鏡は「この齢で中間管理職とは、陛下は拙僧に過労で死ねと申すか!」と抗議しましたが、孝謙上皇はげらげら笑いながらも「貴様ならできるできる。諦めるなよ」とどこかで聞いた気がする愛ある
翌年、孝謙上皇の派閥であった吉備真備が大宰府から呼び戻され*5、再び中央に返り咲きます。もっとも、本人は学者肌ながらも大宰府での軍政が決して嫌いでは無く、むしろ大陸で多くの軍事学を学んだ彼は国内で最も恐るべき軍略家としての才能を開花させていたのです。とはいえ、聖武天皇から最後の良心*6と呼ばれ信頼された彼も御年70。いい加減に楽隠居したいと辞表を都に奏上したのですが、裁可が下る前に都に呼び戻すことで辞表を握りつぶしたのです。このことを知った真備は癖のある白髪を掻きながらも「やれやれ、私が活躍するような事態が無ければいいけれど」と呟きました。
徐々に暗闘が広がる孝謙上皇の派閥と淳仁天皇の派閥。その決定的な決裂の時はすぐそこまで迫っていたのです。
「何か、イメージと違いますね道鏡」
「この時期の道鏡は今までパッとしなかった老僧が人の良さでいきなり抜擢された状況なので立場に困惑しています。今後も基本的に彼は困惑し続けて、状況に流されてゆくのです」
「道鏡といえば、性欲を持て余す色魔で、ウマっ気も第三の脚と言われるほどのモノを持ち、孝謙上皇とうまぴょいしたともいわれますがそれはーー」
「ただの貶めるための悪評ですね。それもおそらく始皇帝の母と関係を持ち簒奪を企んだ嫪毐のものを流用したものです。同じ悪評を聖武天皇に仕えたマッド坊主こと玄昉が同様に流されているのでこの頃の悪評テンプレートだったのでしょう」
「良心真備はいつの間にか太宰府に飛ばされていましたね。70とは、歳を取りましたね真備」
「何で真備に感情移入してるのかは知りませんが、彼は一応橘家の閥だったので仲麻呂の力が強まると左遷されています。と言っても当時の孝謙天皇は真備を大変信頼していたので表向きには大陸への警戒として彼に相応の位階を与えた上で仲麻呂が追い出した形です。が、10年ほど太宰府の長となった真備が見事に軍政改革をして九州の安定化と防衛力の向上を果たしました。どんな立場でも役割を果たす彼は朝廷にとって最大の忠臣であり、孝謙天皇も彼が引退を考えはじめたと知り慌てて地位を上げて辞表をなかったことにしたのです」
「そして、その判断がまさかの展開を生むわけですね。それでは暗闘が続く平城京に、ついにその時がやってきたのです」
孝謙上皇が自らの閥を作り政治への影響力を強めたことに関係修復を絶望視した仲麻呂はついに強硬策を打ち出します。
764年9月、奈良時代の朝廷は諸国から毎年20名の若者を上京させ軍事訓練を行うのが通例でした。しかし、この年は一つの地域から600人を招集することを勅旨を取りまとめて奏上する役割である
計画は次のとおりです。まず各地から何も知らない若者たちを即席の大兵力として用い、淳仁天皇の勅命を受けた皇軍に仕立てるのです。そのために必要な太政官印を事前に確保し、自らの手で勅命を発行可能な体制を整えました。そして、吉備真備や道鏡ら政敵を殺害した後、孝謙上皇からは完全に権力を奪い幽閉する。その根回しのために皇族たちを味方に引き込んだのです。
ところが、二度あることは三度あるのか。計画が漏れるのは広嗣・奈良麻呂と続きもはやお約束。やはり今回もあっさり漏れてしまいます。しかも計画の初歩中の初歩。何と最初に協力を命じた高丘比了麻呂が即座に孝謙上皇に報告したのです。更には自らが計画成就を占わせたお抱えの陰陽師*7、皇族も我先にと密告。仲麻呂の人望の無さなのか、あっという間に明るみに出てしまいました。
9月11日。仲麻呂の反乱を知った孝謙上皇は太政大臣まで務め、今上帝を操る仲麻呂がいきなり思い切った行動はしないだろうと思っていたため半ば呆然としたまま現実を受け止めきれませんでした。その中で、ズレた冠を気にせず被る老人がひどく不本意そうに発言を求めました。
「残念ですが起きてしまったことは仕方ありません。陛下、まずは敵に太政官印があるのがこちらに不利なので、より決定力のある玉璽と駅鈴を帝から取り返しましょう。既に我々に味方する山村王が確保に動いてくれています。当然、敵もこれを取り戻そうと躍起になります。そこで、私に策があります」
今まで学者上がりの文官としての真備しか知らなかった孝謙上皇をはじめとする朝廷の面々は立て板に水の如く軍略を披露する真備の語り口にすっかり呑まれていました。
「この玉璽と駅鈴を二つの意味で陽動にするのです。一つは、これを取り返す部隊はそれなりの地位のある敵将が少数精鋭を率いてくるでしょう。我々は彼らに一度玉璽と駅鈴を奪わせます。すると、敵は目的を果たして必ず油断するのでそこを待ち伏せした部隊と、引き返した山村王の兵で挟撃して殲滅、再び玉璽と駅鈴を確保します。同時に、この動きに敵の目が奪われている間に我々は軍勢を集め、数的有利を確保する。それが私の策です」
「なるほど!」
もっともらしく道鏡が大声で納得の声を出した。一介の僧である彼に軍略がわかるはずもないが、彼は真備が与えられた役目を必ず果たす男だと短い付き合いながらも信頼していました*8。
道鏡の声に反応して、貴族達も一人また一人と真備の策に賛同します。
一方、いまだ状況を受け止めきれぬ孝謙上皇は真備に、なぜ仲麻呂は反乱を起こしたのか問います。真備は白髪頭を一掻きすると拝して答えました。
「畏れながら陛下。蘇我と物部との争いのように世の中の戦争の九割は後世の我々からすれば愚かと思える理由で起こるのです。そして、残り一割は広嗣然り、奈良麻呂然り、当時の者達ですら愚かだと思う理由で起きます。此度の仲麻呂めは、一割の方でありましょう」
この答えにようやく孝謙上皇は覚悟を決め、真備に緊急で従三位・参議に叙任し、さらには中衛大将として指揮権を委ねたのです。
「やれやれ、この歳になって大将軍とは私も運がない。とはいえ陛下から禄をもらう身分。給料分くらいは働くとしますか」
真備の策は見事に的中し、山村王の持ち出した玉璽と駅鈴を狙って仲麻呂は自らの息子である藤原訓儒麻呂を追手に差し向けます。山村王は計略通り僅かな抵抗の後に玉璽と駅鈴を奪わせ、這々の体で逃げ出したと見せかけました。追手側はまんまとこれに引っ掛かり、帰路で真備の命を受けた坂上苅田麻呂*9に待ち伏せされ、大混乱に陥ったところを折り返した山村王の兵に挟撃されます。
訓儒麻呂は苅田麻呂に狙撃され戦死。
ここで苅田麻呂は現場の判断で敵方が戦力を逐次投入するかもしれないと見抜き、再び山村王をあえてゆっくりと進ませます。すると、再び仲麻呂の命を受けた手勢が攻めてきたので待ち受けて撃滅。玉璽と駅鈴は計略通り孝謙上皇の手に渡り完勝を治めます。
孝謙上皇は勅を発して、仲麻呂一族の官位を奪い、藤原の氏姓の剥奪と全財産の没収を宣言します。同時に仲麻呂の傀儡であった淳仁天皇を幽閉し仲麻呂が万が一にも正当性を得ることを阻止したのです。
敗色濃厚と悟った仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出し、長年国司を務めて彼の地盤となっていた近江国での再起を目論見ます。
仲麻呂の脱出を許したことに孝謙上皇陣営はにわかに色めき立ちますが、真備が相変わらずの不本意そうな顔で近畿の地図を見ているのを見て落ち着きを取り戻します。孝謙上皇はもはやおそるおそるといった風に真備に問いました。
「ま、マキビィ。もしかしてもう策を打っているのか?」
「不本意ながら。敵が巻き返しを計るには当然兵を集うことから始まります。仲麻呂の場合、それは自らの治めた近江であるのは分かりきったことですから先んじて準備はしました。合言葉は『美容と健康のために食後に茶を一杯』。これが伝わり次第、近江に至る橋を焼くよう命じました。おお、やだやだ。何が悲しくて税で掛けた橋を税で焼かねばならないのですか。全く持って不本意極まりない」
文官らしくぶつぶつと文句を言う真備に一同は苦笑せざるをえませんでしたが、同時に真備の用意周到さに心胆が冷える思いでした。
この働きを孝謙上皇は「マキビィは恐ろしい。まるで魔術を使ったように敵の動きを全て読み先んじて潰す。もはや我らに負けはない。女帝と僧侶と魔術師、そして勇敢なる兵士が揃えば天魔さえも調伏できよう」と心から恐れると同時にその軍略を讃えました。
ともかく、仲麻呂の行動を予測した真備の策により官軍を先回りさせて橋を焼き、関所を設けて近江への進路を塞ぐことに成功します。仲麻呂は子息の辛加知が治める越前国に入り再起を図るべく、琵琶湖を縦断し越前へ北上することを企てます。また、奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、偽の勅命を乱発し味方を募りました。しかし、それは既に真備の読みどおりでしかなく、孝謙上皇は仲麻呂を討ち取った者に厚い恩賞を約束するとともに、諸国には、太政官印のある文書を信用しないように国璽を押印した勅命を以て通達します。太政官印と国璽では重みが雲泥の差であり、仲麻呂に味方する者は誰一人として名乗りを上げなかったのです。
「……さて、仕上げだ。果たして私はこの無益な戦で流れた血に対して、残された僅かな時間でそれに見合う何かを残せるだろうか」
真備の命を受けた官軍はまだ事変を知らぬ辛加知を斬ると、近江と越前の国境で仲麻呂軍の先発隊数十人を撃退します。辛加知の死をまだ知らない仲麻呂は、舟で琵琶湖対岸に渡り、越前への入国を試みますが逆風により断念。上陸した塩津から越前への突破を図る仲麻呂軍を再び真備の官軍が奇襲し仲麻呂の軍勢は行き場を失ってゆきます。
北上を断念した仲麻呂軍は近江の古城に立て籠もると、攻め立ててくる討伐軍に対し必死で応戦します。ここまでわずか2日間の出来事でした。
9月18日。真備率いる討伐軍によって海陸から激しく攻められた仲麻呂軍はついに崩壊。湖上に舟を出して逃れようとする仲麻呂は、一兵卒の石村石楯*10に斬られ、残る一族も皆殺しにされました。
栄華を極めた男の最期は、一兵卒に問答無用で斬殺され末期の言葉さえ遺せぬ惨めなものだったのです。
一週間前の時点では仲麻呂の軍権と支配力は上皇を圧倒していました。仮に彼が機を待っていれば直系の後継者のいない孝謙上皇は時と共に不利となり、高齢だった道鏡と真備もまもなく世を去っていたでしょう。たった一つの判断ミスが全てを瓦解させたのです。
この反乱を、藤原仲麻呂の乱。または恵美押勝の乱と後世では呼びます。
「良心真備、魔術師になる。この魔術師は必ず還ってきますね」
「何気に遣唐使として危険な航海を何度も経験し、帰路で屋久島で難破した際にはサバイバルして生き延びているので首から下も有能なんですよね」
「この人欠点とか無いんですかね」
「色々と凄すぎる人ですからね」
以下、吉備真備の伝説一覧。
・陰陽道を趣味感覚で学び奥義を会得。その技法を友人だった阿倍仲麻呂の子孫に伝えて日本の陰陽師創設に寄与。なお、阿倍仲麻呂の子孫が安倍晴明。
・六韜三略を日本に持ち込んだ日本兵学の祖。
・日本最初の碁打ち*11。
・あまりに有能すぎて皇帝玄宗が帰国させるのを拒否。
・マッド坊主玄昉を呪い殺した藤原広嗣の怨霊をワンパンで調伏。
・人外にもモテモテ。何と日本への帰国の際には九尾の狐が真備を慕って日本にやって来た。
「この人主役の和風ファンタジー作ったらエラいことになりそうですね。やっていることが凄すぎて逆に何したのか分からないパターンでは」
「理解できる範囲の凄い人が一番評価されて、それを超えると逆に影薄くなるのが人の世の常ですから」
「さて、仲麻呂の乱を鎮圧した孝謙上皇。著しく政治が乱れた中で、再び彼女が立つときが来たのです」
乱を鎮圧した孝謙上皇は764年の10月に淳仁天皇に皇位の資格なしと判断して廃位を宣言します。淳仁天皇は親王の待遇で淡路島への配流が決められ、淡路廃帝と呼ばれるようになりました*12。空いた皇位には孝謙上皇が出家の身のまま復位し、称徳天皇となります。
称徳天皇は今まで仲麻呂により左遷されていた者達を重用し、その中には先の奈良麻呂の乱でついでとばかりに左遷されていた藤原豊成も存在し、右大臣として返り咲いたのです。
同時に道鏡は仲麻呂に変わる女帝の相棒として太政大臣禅師の位を贈られ、真備もまた中納言に昇任しました。
3年前まで鳴かず飛ばずではありましたがそれなりに満足した生活をしていた道鏡からすれば中間管理職だけでも精一杯だったのにいきなり太政大臣と禅師を合体させた即席の地位を贈られてしまい思わず「やめぇや、拙僧こんな地位につく人間やあらへんやろ」と嫌がりますが、称徳天皇は「ははは、こやつ。まだ上を求めるとは欲しがりさんめ」と変な誤解を起こしたのか翌年には法王の地位を贈ります。意味が分からず呆然とする道鏡の肩を真備が優しく叩き、「気にしたら負けだよ。親子揃って訳わからないことを極稀にするから」と同情しました。
称徳天皇の掛かりは留まることを知らず、765年には48歳で競技の世界に電撃復帰。「何だか今なら行けそうな気がした」とは本人の談。
「いやね、結果はもうどうでも良いですわ。拙僧は指導者でも何でも無いただ陛下のお世話をするだけの年寄りですから。だから陛下、無理せず無事に帰ってきてや」
ひたすら拝み倒すようなに高齢での復帰を心配する道鏡。そんな彼に称徳天皇は微笑みかけます
「全く、貴様は変わらんな。少しくらい偉ぶっても良かろうに。まあ、無事に帰るのは当然だがーー別に、一着を取ってしまっても構わないだろう?」
復帰戦は平城京で行われた春の儀式に伴う小さなもの。しかし、長年のブランクに加えて指導人不在の称徳天皇が勝つなど誰も思っていません。いわばゲスト走者の記念みたいなもの。競技場のウマ娘達でさえそう思っていました。そう、僅か数分後まで。
「悪いな、皆の衆。私は女帝として、負けるわけにはいかんのだ」
信じられぬものを見た。
観客も、競技者として走ったウマ娘達も同じ気持ちでした。残り僅かな直線で女帝が先頭にまで恐るべき追い上げをもって登り詰め、宣言通り一着でゴールしたのです。
幾度目か分からなくなるほどの衝撃にただただ呆然とする道鏡な駆け寄った称徳天皇はこの上ない笑顔でした。
「逆境を覆し、返り咲いてこそ“女帝”を名乗れるというもの。貴様もそう思うだろう? なあ、道鏡」
「あかん、参ったわ。拙僧には敵いませんわぁ、陛下」
道鏡は考えるのをやめた。
事実、ウマ娘に限らずアスリートにとって精神面は結果に大きく作用します。道鏡との出合いは称徳天皇に今までなかった安らぎを提供し、彼女の力を再び第一線で戦える領域にまで仕上げたのです。
ここでお話が終わっていれば、称徳天皇はウマ娘の女帝にして奇跡の復活を遂げた一流の競技者として名を残し、道鏡は天皇からの重すぎる親愛を贈られつつも彼女を支えた名僧で終えられたのかもしれません。
しかしながら、げに恐ろしきは人間の浅ましさ。当人の知らないところで事態は変わっていったのであります。
油断しました。
ネタが多くて書ききれない!
またもや下に続きます。
今日中に投稿できるのか甚だ怪しくなって参りました。