ウマ娘と辿る日本の歴史   作:ぶ狸

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第1回「古代、ウマ娘達の黎明期」下

「解説にはウマ娘史の権威で府中大学教授のヤナトミノル教授にお越しいただいています。本日はよろしくおねがいします」

 

「よろしくおねがいします」

 

「ヤナトさん、私としてもウマ娘が大陸では疎外されていたというのはなかなか理解しかねるのですが、なぜ大陸の国々はウマ娘を蔑ろにしていたのでしょうか」

 

「先程の映像にもありましたが、人間の男性優位の社会ではウマ娘というのは非常に都合の悪い存在なのです。何せ、人よりも遥かに力に優れている上に完全なる女性部族なわけですから、男性中心の社会である中華王朝としては認めるわけにはいかない。また、匈奴のウマ娘にとっては自由に走ることが至上命題でありますから、モンゴル高原へ進出してくる文明や都市開発は受け入れられないわけですね。一方で匈奴は一族を繋ぐために人間の男性を、中華王朝はモンゴル高原の土地を欲するわけですから当然争いが絶えなかったのです」

 

「ウマ娘を兵士として利用することもあったみたいですが、国のために戦ってもウマ娘の地位は上がらなかったのですか?」

 

「歴史には(すい)赤兎(せきと)のように一騎当千の働きをするウマ娘が産まれることもあり、彼女達は項羽や関羽と確かな信頼関係を築いています。また、漢王朝も匈奴と友好的な時期もあり、その時はウマ娘の地位も上がっていたと思われます。しかし、基本的には大陸において人権を得ることは無く、国同士のパワーバランスによって地位は常に変化し、5世紀から10世紀にかけてウマ娘の地位は非常に低いものとなりました」

 

「一方で、日本はウマ娘に対してはじめから好意的でしたね。何というか、やはり三韓征伐以前からウマ娘を知っていないとあの反応はありえないと思うのですけど、どうなのですか?」

 

「歴史書にウマ娘が登場するのが三韓征伐の際が最古で、それは今も変わっていません。そのため、歴史学的にはそれ以前にウマ娘が日本に渡ったという記録が無く、三韓征伐後のウマ娘の大量渡来で日本にウマ娘がやって来たとしか言えませんでした。しかし、日本の遺跡発掘が進んだ結果ある説が発表され、新たに通説となりつつあるものがあります」

 

「教科書にはまだ載っていない情報ですね。どのような説なのですか?」

 

「それは、邪馬台国(やまたいこく)の女王卑弥呼(ひみこ)がウマ娘であり、日本は遅くとも弥生時代頃にはウマ娘と関わっていたのではないかというものです」

 

 魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記録される幻の国、邪馬台国。

 邪馬台国が存在していたのは2世紀頃で、後漢書東夷伝と魏志倭人伝には2世紀中盤ごろから日本で争乱が起こり、女王卑弥呼によってこれが治まったと書かれています。卑弥呼がウマ娘ならば、これまでの通説よりも早く日本はウマ娘と出会っていたことになります。

 邪馬台国の所在について、九州王朝説や大和王朝同一説等がある中、四年前に新たな発見がありました。邪馬台国の女王卑弥呼と同一説がある倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓とされる奈良県の箸墓古墳周辺から翡翠や黒曜石で彩飾されたウマ具が発掘されたのです。

 年代を測定すると、何と弥生時代中期から後期だと判明し、今までの通説を覆す大発見として新聞を賑わせました。

 このウマ具はウマ娘が渡来していないのならば存在すらしないはずです。そこから、百襲姫がウマ娘であったのではないかという説が出たのです。

 そして先月、宮内庁により衝撃的な事実が公表されます。箸墓古墳(はしはかこふん)に埋葬されているとされる百襲姫はウマ娘だったのです。

 世界的に見てもウマ娘王朝だったモンゴル帝国などを除き、人間の王朝でウマ娘を王族として迎え、巨大な墓を建造するなど例がありませんでした。宮内庁も長きに渡り箸墓古墳に埋葬されていたウマ娘は殉葬者(じゅんそうしゃ)だと考えていたようですが、皇室の希望もあり秘密裏に発掘調査を実施。すると、豪華な石室と石棺、様々な副葬品とウマ具、大陸由来と思われる鏡が複数見つかり、石棺の中に眠っていた人物の特徴は明らかにウマ娘であったというのです。

 これらの発見から宮内庁は箸墓古墳の被葬者がウマ娘かつ百襲姫だと断定します。

 続けて宮内庁は箸墓古墳の近くにある豊鍬入姫(とよすきいりひめ)の墓と伝わるホケノ山古墳を再調査したところ、木棺の一部に残された遺髪を解析するとウマ娘のものだと判明し、総合的に考えると崇神天皇の娘で百襲姫の後継者的立場だった豊鍬入姫が卑弥呼の後継者である壱与と同一人物だと発表しました。

 隣り合うように存在する箸墓古墳とホケノ山古墳。そこに眠っていたのは太古の昔、日本人から愛情を持って信仰されたウマ娘の姫君だったのです。

 

 

「卑弥呼と壱与がウマ娘だったのは私としても衝撃的な話なのですが、これは今後歴史を学ぶ上でどのような変化をもたらしていくのでしょうか?」

 

「まず邪馬台国が大和王朝と同一であることがほぼ確実となりました。邪馬台国というのは中華思想からみた蔑称で、大和王朝のことを彼らからすると邪悪なウマ娘が台頭する国と当て字をしたわけですね。また、ウマ娘でも皇族で、しかも信仰を集めていた巫女ならばあれほど豪華なウマ具を身に着けていても不思議ではありません。そして、日本書紀に照らし合わせると百襲姫の兄妹は吉備津彦命(きびつひこのみこと)になります。吉備津彦命は吉備平定で温羅(うら)を退治し、桃太郎のモデルとなった人物です。百襲姫と吉備津彦命は同腹の兄妹ですから、吉備津彦命も実際はウマ娘ということになります。伝説にある人並み外れた怪力も、ウマ娘なら納得できるのです。なお、二人の兄にあたる孝霊天皇の母は皇后細媛命(ほそひめのみこと)であり、こちらが現在の皇室にも血脈を受け継いでいます。そして、日本書紀によると百襲姫と吉備津彦命は共に血脈を残していません。おそらく、ウマ娘の皇族が増えることを(はばか)り、敢えて配偶者を取らなかったのではないかと推察しています」

 

「しかし百(もも)と吉備(きび)とは、何というか、桃太郎が御伽噺に出たのは室町時代ですが、狙ったとしか言えないセンスですよね」

 

「果糖を含む桃は古くからウマ娘を魅了しました。(きび)もまた高い栄養価からウマ娘が常食していた代表的な穀物です。神聖な果実である桃を巫女の名前に、屈強な肉体を作る黍は武人の名前に当てたのでしょうね」

 

 

「ところで、魏志倭人伝と日本書紀では食い違う部分もあるかと思いますが、それはどう整合していけば良いのでしょうか?」

 

「時系列で言うと、卑弥呼が存在したのは2世紀後半。三韓征伐は3世紀中盤で約50年ほどの差です。記紀と整合性を取るなら、百襲姫の晩年に崇神天皇の叔父にあたる武埴安彦命(たけはにやすひこのみこと)が反乱を起こし吉備津彦命が鎮圧するも国が乱れ、これを治めるために百襲姫の先例に倣って崇神天皇は娘の豊鍬入姫を巫女にした。この豊鍬入姫が魏志倭人伝でいう卑弥呼の後継者の壱与にあたります。彼女は魏に度々使いを送っていたようですが、最初の皇帝謁見の時点で時代は崇神天皇と豊鍬入姫の代で、使者は大和王朝がどのような歴史がある国なのかを紹介したところ魏の通訳か記録係がリアルタイムの情報だと勘違いしたまま記録したため、百襲姫(卑弥呼)が西暦180年前後に既に年増だったと記録されているにも関わらず250年ごろまで生きていた風に記録されてしまいます。おそらく倭国が内乱状態にあった以前に百襲姫は亡くなっており*1、彼女達の記録が混ざったことから弥生時代にも関わらず異常に百襲姫(卑弥呼)が長命となり、豊鍬入姫(壱与)の記録が少なくなってしまっています。本当は豊鍬入姫がメインで、百襲姫は自分がどのような立場にあるかを説明する際に紹介した先代の巫女なのでしょう」

 

「なるほど。そして、その後三韓征伐の時代まで続くわけですね」

 

「はい。豊鍬入姫の後継者が垂仁天皇の娘である倭姫(やまとひめ)です。倭姫もまたウマ娘の可能性が高い皇族で、倭姫の母が薨去した際に殉死を悪習と嘆じてた垂仁天皇に野見宿禰(のみのすくね)*2がウマ娘の姿を象った焼き物を一緒に埋めてはどうかと提案し、これが埴輪となります。倭姫は豊鍬入姫からよく教えを受けて後に伊勢神宮を創建した人物としても知られています。また、彼女は父に疎まれ日本各地を転戦させられる甥の日本武尊(やまとたける)を大変可愛がり、草薙剣を貸し与えています。その日本武尊の息子が仲哀天皇であり、その妻が神功皇后となるわけです。神功皇后からすればウマ娘である倭姫は義父の唯一の味方であり、彼女もまた三韓征伐の託宣を受けるなど巫女としての力があったことから倭姫から教えを受けたと考えられます。そうなると倭姫は神功皇后の師匠にもなり、大陸でウマ娘がひどい扱いを受けていると知った皇后が驚いたのも当然と言えるでしょう」

 

「日本武尊で思い出したのですが、確か熊襲*3征伐の際、女装したと記録されていますよね」

 

「その時の衣装は叔母の倭姫から借り受けたものですね。日本最古の女装でありコスプレでもあります。熊襲の支配者だったクマソタケルの兄弟は日本武尊を本当に可愛らしい童女だと思い込んで二人の間に座らせ酒を飲んでいたようで、その隙に日本武尊は――」

 

「ちょっと待ってください。童女ですか?」

 

「はい、童女です。しっかりと日本書紀に書かれています。なので、日本武尊はロリ系の男の娘で、叔母と服をシェアできるくらい華奢な体躯で、倭姫も外見はロリである可能性が非常に高いです」

 

「情報量が多過ぎませんか⁉」

 

「仕方ないですよ、史実ですから。ともかく油断したクマソタケル兄弟の兄に寄りかかる振りをして懐剣で刺殺。驚いた弟が逃げようとするも追いつかれ尻に剣をブスリと刺されしまいます。この時に敵ながら女装してまで潜入して自分達を討ったことを讃え、自らの名前であるタケルに敵方であった大和を加えたヤマトタケルの名を贈り、これが転じて日本武尊となります。その後、女装に味を占めたのか出雲の豪族であるイズモタケルを討つ際も女装して近付き、水浴びをする時に刺殺していますね」

 

「日本最古の英雄が何と言うことを!」

 

「イズモタケル以降この手を取らなくなっているので、案外イズモタケルに男だと分かってなお襲われそうになって懲りたのかもしれませんね」

 

「業が深い……」

 

「また、ヤマトタケルはウマ娘を何人か后に迎えていますね。悲劇的な別れをしたオトタチバナ姫や、最後に后となったミヤヅ姫です。この二人は叔母である倭姫に似ていたことから日本武尊の心を射止めたとも伝わっています。また、ミヤヅ姫は三重県で薨去した日本武尊の死を悲しんで墓の前で泣いていたところ、墓から白鳥が現れ、それが夫の化身だと確信した彼女は白鳥を三重から大阪まで走って追いかけた伝説も残っています」

 

「結構な距離を走りましたね。それにしても、ウマ娘王朝ではないにも関わらず日本の皇族はウマ娘をよく受け入れましたね」

 

「歴史的には皇族がウマ娘を寵愛することは珍しくありませんし、蘇我氏を除いてウマ娘は権力闘争に無関心だったのである意味皇族としても安心できる存在だったのでしょう。また、想いあえば一途極まりないので、政略結婚が主だった皇族からすれば本当に愛し合う事ができる相手として選んだ部分もあります」

 

 

 歴史上、時の天皇や皇族がウマ娘を寵愛し后にする例は決して少なくありません。聖徳太子も黒駒と呼ばれる美しい芦毛のウマ娘を后とし、蘇我ウマ子とも親密な関係にあったとも言われています。ウマ子の娘であるエミシも太子と関係を持ってイルカを産み、事実上の后となっています。

 奈良時代には光明皇后がウマ娘の皇后となり、その娘である称徳天皇はウマ娘の女帝となりました。

 平安時代は陽成上皇がウマ娘の綏子内親王に恋の歌を贈り、その歌は百人一首にも選ばれています。

 院政期には白河院、末期には後白河院がそれぞれ白拍子のウマ娘を深く愛した記録が残っています。

 このように、歴史的に見れば皇族がウマ娘を愛する事は珍しく無かったのです。

 

 

「こうして歴史を辿っていくと、実際にはもっと昔から日本人とウマ娘は出会っていたのではないかと思えるくらい深い絆を結んできましたね」

 

「そうですね。私見ですが、大規模なウマ娘達の渡来が3世紀頃であって、小規模な流入はもっと以前からあったのではないでしょうか。現状、箸墓古墳のウマ具が日本最古のものですが、九州や出雲地方で弥生時代前期頃と推測されるウマ具が発掘されています。このような考古学的発見により日本とウマ娘との関係がもっと古くからのものだったと証明されるかもしれません」

 

「出雲と言えば荒神谷遺跡から全国でそれまで発掘された銅剣を超える本数が一挙に見つかり、記紀でも重要視されていた出雲に巨大な国家があった説が一気に信憑性を増しました。青銅器もまた大陸から伝来したわけですし、その時にウマ娘が渡ってきてもおかしくはありませんね」

 

「はい。なので、最近の学会では日本は邪馬台国以前からウマ娘が渡来しており、時には巫女として信仰していたというのが通説になっています。なので、ウマ娘の地位が高かった我が国からすれば大陸でウマ娘の扱いがひどいことには本当に驚いたでしょう」

 

 

 まとめーー

○少なくとも弥生時代頃にはウマ娘は日本に存在していた。

○邪馬台国の女王卑弥呼はウマ娘であり、大和王朝の巫女たる百襲姫と同一人物。また、吉備津彦命もウマ娘である可能性が高い。

○信仰の対象となっていたためウマ娘が社会文化に深く根を下ろし、大陸とは異なり権力者が積極的に庇護した。

○5世紀頃に大陸の情勢が不安定となり日本へ渡来するウマ娘が爆進的に増加した。

○農耕が広まっていた古代日本でウマ娘は歓迎され、全国に広がった。

 

 

「今日だけで多くの通説が覆されたと思うのですが、教科書も変わってゆくのでしょうか」

 

「はい。少なくとも日本とウマ娘との出会いは弥生時代まで遡り、卑弥呼と百襲姫は併記されることは確実でしょう。もともと古代史が新たな発見により改訂されるのは珍しくないので、早ければ来年には各社の教科書が変わるでしょう」

 

「なるほど。ヤナトさん自身は、この古代における日本の人々とウマ娘の関係をどのようにお考えですか?」

 

「そうですね……この時代はまだウマ娘の競技が完全に制度化されておらず、トレーナーという概念もありませんでした。にもかかわらず、人間と私達ウマ娘は確かな絆でむすばれていました。ウマ娘を王族として受け入れた大和王朝や、戦場から始まった木蘭と久氐の物語を知ると、きっと弥生時代よりもっと昔、最初に日本に渡ったウマ娘も愛されたのだと思います。陳腐な言葉かもしれませんが、はじめに愛があったからこそ、今この時まで私達の関係は変わらず寄り添い支え合うものであり続けたのではないでしょうか」

 

「私もそう思います。さて、今夜紹介した我が国とウマ娘との歴史、これは今後の新たな発見によりまた変わっていくものかもしれません。しかし、日本のヒトとウマ娘はいつの時代も互いの信頼と敬愛によって結ばれてきました。その絆は単なる神話と伝説とによって生まれたものではありません。きっと、私達の歴史は愛に満ちていて、そして今に続いているのです。ヤナトさん、今夜はありがとうございました」

 

「ありがとうございました」

 

 

 ウマ娘達が大陸から大量渡来してから飛鳥時代まで200年。その間にウマ娘は日本人の一員として根を下ろし、皇族から民衆に至るまで相愛の仲となりました。

 5世紀中頃からは古墳の副葬品としてウマ娘を象った埴輪が登場し、6世紀初頭に建造されたウマ坂古墳の石室に描かれた壁画には自由に大地を駆けるウマ娘の姿があります。彼女を見守る人物は、この古墳に眠る男性なのでしょうか。その瞳は優しく慈愛に満ちています。

 大阪府四條畷市からは5世紀後期の寄り添うように葬られた人間とウマ娘の墓が発見され、この頃には民衆の中にウマ娘が溶け込んでいた証拠であると発表されました。同時に、鑑定の結果この二人は共に70代頃で長年連れ添った夫婦だと思われることから、時を越えて変わらぬ愛として話題となりました。なお、古代において人間とウマ娘が同じ場所に眠るのはウマ娘王朝の国を除けば日本でしか見つかっていません。

 この他、いくつもの遺跡や古墳から人間とウマ娘の物語が見つかり、後世に伝わっています。これらに共通するのは、間違いなく愛なのでしょう。

 

 

 

 

 

 終

 

 制作 日本ウマ娘放送協会府中支部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回予告ーー

 

 〜日出処の天子、書を日没処の天子に致す。恙無きや〜

 

 飛鳥時代の伝説的偉人、聖徳太子。その人生は多くのウマ娘に愛されるものでした。

 そして、仏教の伝来とそれを推し進めた豪族、蘇我ウマ子。

 二人の天才によって日本は大きな変革の時を迎えます。

 

 第2回「飛鳥時代 二人の天才と仏教伝来」

 

 ご期待ください。

*1
日本書紀では百襲姫が内乱を予言した後に亡くなったとされ、崇神天皇との関係性(大叔母と甥)から180年頃には相当高齢だったのではないだろうか。

*2
力士の始祖ともいわれる怪力無双の人物。

*3
九州南部に存在した豪族。

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