はじまりから終わりに至るまでウマ娘と共にあった人がいます。彼ほどウマ娘を愛し、ウマ娘から愛された人はいないとも言われています。
最初は厩舎*1、母である
「私達はこの御方に仕えるため生まれたのだ」
政治家、外交官、学者、そして指導人(トレーナー)。その全てで才能を遺憾なく発揮した飛鳥時代の皇族、聖徳太子。
彼は後世、日本史上最もウマ娘から愛された人物とも呼ばれています。
同じ時期、大陸から新たなものが流入しました。インドで紀元前8世紀に生まれ、姿や形を変えながら信者を増やし、大陸を経て日本にやってきたのが仏教です。百済から贈られた仏像と経典は日本の宗教感を大きく揺さぶり、それはウマ娘にとっても他人事ではありません。なぜならば、仏教を積極的に導入した蘇我氏はウマ娘の一族なのですから。
ここに、ウマ娘に最も愛された男と、日本で最も権力を握ったウマ娘一族の歴史が描かれます。
日本ウマ娘放送協会特別企画
ウマ娘と辿る日本の歴史
第2回『飛鳥時代 仏教の伝来と聖徳太子」
「こんばんは。本日は飛鳥時代、十七条憲法や冠位十二階、遣隋使の派遣で知られる聖徳太子を中心に我が国とウマ娘の歴史を振り返ります。今夜お越しいただいたのは淀大学教授のアスカアタックさんです。アスカさんよろしくおねがいします」
「よろしくおねがいします」
「早速ですが、今の映像では聖徳太子を最もウマ娘から愛された人物だと言っていましたが、本当なのですか?」
「んー、主観にもよるとは思いますが、ウマ娘としての一般論では聖徳太子こそ最も愛された人物であると言えます。まず、聖徳太子の特徴として出生からウマ娘が関わっていますからね」
「厩舎で生まれたというものですね」
「厩舎というのは宮中でウマ娘が暮らす区画で、高貴な方も時折訪ねる場所でした。急遽そこで出産ということになったのですが、中には年配のウマ娘もいましたし出産に携わる役目もありましたので、特に問題なく太子は生まれたようです。ただ、太子は赤子ながらに何かウマ娘の直感に訴えるものがあったようで、冒頭の映像にある言葉が残っているわけですね」
574年、橘豊日皇子(後の用明天皇)の子として生まれた聖徳太子。
名は
太子が生まれる以前、553年に百済を経由して日本に仏教が伝わります。
仏教は、インドの仏陀が開いた宗教で、修行等で功徳を積み悟りに至ることを目的とするものです。この仏教成立にはウマ娘も大きく携わっています。仏陀が出家から生涯を通じて従者として連れたウマ娘、
健陟は仏陀の出家から入滅に至るまで常に寄り添い、後に
阿難陀と健陟により成立した仏教はインドを越え中華、朝鮮半島にまで広まり、遂に日本にやってきたのです。
当時の欽明天皇は大臣達に仏教を受け入れる可否を問います。賛成派の蘇我稲目は「諸国はみな仏教を信仰しており、日本だけがこれに背くことができましょうか」と答えます。これに対して
朝廷としてはただちに仏教を受け入れることには慎重でしたが、蘇我氏は強固に受け入れるべきと主張し譲りませんでした。蘇我氏が仏教に固執するのには理由があります。それは、彼女達がウマ娘の一族だからです。
蘇我氏は近年までは渡来系の一族だと思われていましたが、研究が進むにつれ日本に古くから続く家系であり、
ーーと説明するのが定説ですが、蘇我氏の権威拡大は副産物であり、実際には健陟が推奨し経典の中にしつこいほど盛り込んだ走ることで無心となり悟りに近づく走禅という概念に稲目は魅了されたようです。何せ大好きな走ることが修行であり好ましいとされるのですから。実のところ、稲目は仏法や仏像は良く分からないけれど走ることで褒められるのはうれしいという理由で広めようとしたみたいです。
欽明天皇が下した判断は、試しに蘇我氏だけが信仰してみるというものでした。
稲目は邸に仏像を安置して礼拝し朝と夕に走禅を行いましたが、直後に疫病が起こり多くの人々が亡くなります。尾輿と鎌子は神罰であると主張して仏像の廃棄を奏上し、天皇はこれを許します。仏像は海に流され、これで一度仏教の受け入れは止まってしまいます。稲目はせっかくもらった仏像が捨てられたことにしょんぼりしますが、それ以上に走禅目的に走ることまで禁止されたのがショックで寝込み、そのまま病没したと伝わっています。
しかし、蘇我氏は諦めませんでした。稲目の跡を継いだ蘇我ウマ子は再び百済から仏像と経典を入手し、
なお、鞍部多須奈は苗字から分かる通り前回登場した鞍部木蓮と金久氐の子孫であり妹共々ウマ娘です。日本最初の僧はウマ娘だったのです。
585年3月、ウマ子は敏達天皇から許可をもらい再び仏教を広めようとします。しかし、直後に再び疫病が流行したのです。
前回の仏教信仰に反対した物部尾輿の跡を継いだ
ウマ子は直ちに善信尼達を助けようとしますが守屋は、
「信仰を捨てるまで続ける。これは勅命である」
と聞く耳を持ちません。さしものウマ子も勅命には逆らえませんでした。
ところが、そこに通りがかった少年が守屋の前に立ち塞がります。少年は、
「なぜ少女から衣を剥ぎ衆目に晒したうえ鞭打つのだ」
と問います。その子供らしからぬ叡智をたたえた雰囲気に守屋はたじろぎますが、
「国中に疫病が流行しているのは蕃神を持ち込んだことに祖先神がお怒りだからだ。だからこやつらに信仰を捨てさせるために鞭打つのだ」
と答え、再び鞭を振りかぶります。すると少年は善信尼達の前に座り、
「ならばまず私を鞭打ちなさい。私は救世観音であり阿弥陀如来でもある仏の化身である。この者達の代わりに打たれるならば本望」
と言い、上衣をはだけさせたのです。守屋は度肝を抜かれるとともにこの少年の並々ならぬ雰囲気を察して「今度は止めにする」と言い、呆気にとられるウマ子に、
「言っておくが仏法を認めたわけでは無い。この子に敬意を表したのだ。次に寺や仏像を見れば容赦なく破壊する」
と耳打ちして去りました。
我に返ったウマ子は善信尼達を保護すると彼女達を身を挺して助けた少年に言いました。
「礼を言う。けど、こんなところで何をしているんだ、皇子」
「偶然通りがかっただけです。本当ですよ」
この少年こそが厩戸皇子、聖徳太子その人だったのです。
太子の母は蘇我氏の出身*5であり、ウマ子とも面識がありました。
幼少期から仏教に厚く帰依していたとされる太子。2歳の時、東方に向かって小さな手を合わせて「南無仏」と念仏を唱えたという。このとき、大使の手からは仏舎利*6が生じたと言います。幼いころから仏の化身と言われた太子は、おそらく幼い尼僧が鞭打たれていると聞いて駆け付けたのでしょう。
ウマ子は自分一人で仏教を広めることにも権力を広げることにも限界を感じていました。寺を焼かれ、善信尼達が鞭打たれていても何もできなかったことがそれを確信へと変えます。だが、目の前の少年とならば、単なる信仰や権力の先にある未来を見ることができるのではないか。
歴史は語ります。日本最古のトレーナー*7とは誰かを問われると間違いなく聖徳太子である、と。
日本初のトレーナー、聖徳太子。
後にウマ娘の皇帝とまで言われる蘇我ウマ子。
この二人の天才が、飛鳥時代の日本を作り上げていくこととなるのです。
「聖徳太子と蘇我ウマ子が出会い、これから日本の歴史を作っていくわけですが、そもそも何故蘇我氏はウマ娘を当主にしたのでしょうか」
「理由としては蘇我氏は外交関係を専門にしていた一族で、国内での権力を増すためには更に百済等の大陸へ近い立場になる必要がありました。そこで蘇我高麗という人物が大陸からやってきたウマ娘を妻とし、生まれたウマ娘の稲目を当主に据えたのです。しかし、期待した外交関係では目立った成果は無いにも関わらず宮廷内での評価は何故か上がったみたいで結果として蘇我氏の力が増す事に繋がります」
「評価が上がったのは単にアイドル的な扱いだったのでは?」
「まあ、否定はしません。
「たしか宣化天皇は即位時に70歳近い高齢の天皇でしたよね。それってもしかするとウマ娘セラピー的なものでは……*8」
「外交的に大した成果はありませんでしたが、稲目は優れた政治センスを持っていたようです。これは本来のんびり気質で、言ってしまえばゆるい性格なので政治闘争には向いていないウマ娘にとって例外のような存在です。ウマ娘王朝の国であっても実際に政治を行うのは人間の男性が多かったので、ウマ娘自身が政治力を持っているのは極めて稀と言えますね。そして、その政治センスはウマ子へと受け継がれていたのです」
「なるほど。さて、太子とウマ子は共に仏教を広めようとするのですが疫病の流行によりあまり芳しくありませんでした」
585年8月。疫病はますます激しくなり敏達天皇が崩御します。
葬儀の際にウマ子と守屋はそれぞれ
守屋は長い剣を差して誄言を読む小柄なウマ子へ「不相応に長いものを持つのは見栄っ張りのすることだ」と言い、ウマ子は緊張で体を震わせる守屋に「出走前のウマ娘の方が落ち着いている」と挑発しました。
太子の父、橘豊日皇子が即位し用明天皇となります。用明天皇は蘇我氏寄りの天皇であり、蘇我氏と物部氏の対立はさらに深まっていきます。
587年4月、即位から僅か二年を待たずして用明天皇は病に倒れます。太子やウマ子から仏教について教わっていた用明天皇は仏法を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔します。守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対しますが、ウマ子は「勅命に従うべき」として宮中に僧を迎えて仏教を説かせます。奇しくも勅命によって寺を焼き、善信尼を鞭打った守屋と立場が逆転したものでありました。
政局が不利と見た守屋は朝廷を去り、別荘のある河内国へ退いて味方を募ります。排仏派の中臣勝海は守屋に味方しますが、直後に暗殺されてしまいました。数少ない味方を失い守屋は孤立していったのです。
4月9日、用明天皇崩御。守屋は自分と親しい穴穂部皇子を皇位につけようと図りますが、6月7日、ウマ子は
穴穂部皇子は前年に義姉にして未亡人の炊屋姫に恋をしてしまい喪も明けないうちに彼女を手にしようとしましたが敏達天皇の寵臣だった
587年7月、ウマ子は守屋討伐の兵を挙げます。守屋の館へ向かう軍勢の中には太子の姿もありました。
太子を見つけたウマ子は尾を振って喜び、「君は覚悟をもって、私と同じ視座へ立ってくれた。それがとても喜ばしく、とても頼もしく思う」と声をかけました。
一方、守屋は一族を集めて城を築き守りを固めます。その軍は強盛で、弓の名手だった守屋は大樹の枝間によじ登り、雨のように矢を射かけました。物部軍の精強さもありますが、何故か蘇我軍は士気が低く退却を余儀なくされます。それは戦闘が開始される直前にウマ子が言い放った一言が原因でした。
「物部守屋なんか
蘇我軍の士気は著しく下がり、太子でさえ絶句したと言います。
これを見た太子は仏法の加護を得ようと四天王の像をつくり、戦勝を祈願しました。太子の
この一連の戦いを
8月、ウマ子は欽明天皇の皇子で蘇我氏の血を引く
ところが、実権がウマ子にあることに崇峻天皇は不満を持ち、592年10月4日に献上された猪を見て剣を抜き、猪の首を叩き落すと「いつかこの猪の首を斬るように、あの獣が如き女を斬りたいものだ」と言い放ちます。ウマ子は最初「帝にそこまで言わせる女がいるのか。ひどいやつもいるものだ」と呑気にしていますが、太子から「いえ、たぶんあなたのことですよ」と言われてしょんぼりします。しょんぼりしすぎて屋敷に引き籠ってふて寝し、桃しか喉を通らなくなるほどでした。
ところが崇峻天皇が思わぬところで崩御します。
後にも先にもウマ娘に蹴られて崩御した天皇は崇峻天皇だけとなります。
突然の事態に引き籠っていたウマ子は困惑しながらも崇峻天皇の葬儀を行いますが、事態が事態だけに大々的にするわけにもいかずその日のうちに遺体を葬りました。
この崇峻天皇の突然死は当時でも怪しまれ、ウマ子は一部から王殺しの汚名を着せられることとなります。しかし、王殺しという異常事態にも関わらず国内外はさほど動揺しておらず、いわれなき汚名にますますしょんぼりするウマ子に対して炊屋姫が「
崇峻天皇崩御の翌月、当初は次の天皇として敏達天皇と炊屋姫の子である竹田皇子を擁立しようとしますが、ウマ子への反対勢力がこれを拒否します。まだ気落ちしているウマ子は炊屋姫や太子に相談を持ち掛けますが、ここで太子がある妙案を思い付きます。
「伯母上、あなたの父上はどなたでしたか」
「ええと……欽明天皇ね」
「旦那さんは?」
「敏達天皇ね」
「もひとつ質問いいかな。あなたが即位した後にあなたの子に譲位したとしても皇統はどうなるでしょうか」
「……あなたのような勘の良い子は好きでしてよ」
593年12月、皇族出身かつ夫も天皇だった炊屋姫が即位。日本最初の女帝、推古天皇です。
当初は竹田皇子への中継ぎとしての即位でしたが、直後に竹田皇子が薨去。これにより聖徳太子が皇太子となりました。しかし、蘇我氏の血が強く他の豪族から反発が予想されるため太子が即位するわけにはいかず、結果として推古天皇が長きに渡り在位することになります。
ここから、推古天皇の治世の下で太子とウマ子による改革がはじまるのです。
「……崇峻天皇、ウマ娘に轢き殺されたんですか」
「まあ、交通事故みたいなものです」
「本当に蘇我ウマ子は関与していないのですか?」
「確かに当時から疑いの声は根強く、それもあって蘇我氏の血が強い聖徳太子やウマ子が推挙した竹田皇子は即位できませんでした。しかし、当時の朝廷の中枢にいる人々からは同情の声が多く寄せられていますし、ウマ子自身も大変気落ちしていたと記録されています」
「では本当に崇峻天皇に嫌われたショックでふて寝していたと?」
「彼女もウマ娘ですから、人に嫌われるのはやっぱり辛かったのだと思いますよ」
「けれど殺意を向けられるまで嫌われている事に気づいていなかったんですよね。蘇我ウマ子は何と言うか、割と天然ボケなのでは?」
「政治の手腕等を見ると間違いなく天才なんですけどね……」
ウマ子は後世のイメージとは違い、実際には愉快な性格だったようです。
聖徳太子と言えば十人の話す内容を同時に理解したという伝説がありますが、日本書紀にある記録は何とも言い難いものでした。
ある日、太子が激務の中で多くの人の話を次々に聞いて的確な指示を出していると、たまたま出仕してきたウマ子が太子の仕事ぶりに感心したのは良いものの、悪い癖が出ます。
「
誰にも聞こえないと思って小さく漏らした言葉に一人笑うウマ子。ところが太子はおもむろに立ち上がるとウマ子の頭目掛けて
涙目で蹲るウマ子を見下ろしながら太子は呆れ果てたかのように言い放ちます。
「せめてもう少し面白いことを言えませんか」
「前々から感じていたが、君の評価はいささか辛くないだろうか?」
ウマ子は全く反省せず、太子のやる気が下がりました。
これ以外にもウマ子がくだらないことを言う度に太子がどこからか現れてウマ子の頭や尻を杓で叩いた記録が多数存在します。
二人の仲を表すエピソードではありますが、後世の私達はどのように思えばよいのでしょうか。
「……えっと、これ、史実ですか?」
「残念ながら日本書紀や法隆寺縁起等に伝わる紛れもない史実です」
「ええ…」
「蘇我ウマ子はウマ娘の皇帝と言われるほどの天才なんですけれど……その、ユーモアのセンスは凡才以下だったようです」
「それでもひどすぎません? これのせいで戦争にも負けかけてましたよね」
この他にも、
「調子は『
「
「由緒正しい朝廷の役人として、走りに勉学に”
等々の言葉を残しており、飛鳥時代を研究する学者達を困惑させてきました。
ある歴史学者は言います。
この世に絶対はないが、彼女には絶対があった。
数多の美点より、たった三つの欠点*15を語りたくなる偉人。
それが蘇我ウマ子というウマ娘だ。