ウマ娘と辿る日本の歴史   作:ぶ狸

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第2回「飛鳥時代 二人の天才と仏教伝来」下

 594年2月に太子とウマ子は仏法僧の三宝を興隆させるべく仏教興隆の詔を発します。これにより各豪族で氏寺の建立が盛んになり仏教が広まってゆきました。また、この詔ではウマ娘が修行の為に走ることが推奨され太子とウマ子によって従来の行事としての競争の他に多くの競争が生まれ、都中の人々を熱狂させたようです。

 596年には蘇我氏の氏寺である飛鳥寺が完成します。当時は東西210m、南北420m、塔の高さは40mという大寺院であり、蘇我氏の権力を象徴する建物でした。完成記念の競争には当然ウマ子自らも出走し年齢を感じさせない圧倒的な強さで1着をもぎ取っています。

 また、太子はウマ娘の育成にも力を入れます。598年4月に全国から優秀なウマ娘達を都に呼び寄せ、数百人ものウマ娘が集まったのです。と、ここで太子は運命的な出会いをします。

 集められたウマ娘の中から太子の目を釘付けにする娘がいました。彼女こそが後に甲斐の黒駒と呼ばれる伝説のウマ娘です。黒駒の髪は艶やかな黒で四肢は透き通るかのような白でした。太子は彼女に神懸かった才能が秘められていると見抜き、自らが育成を行います。すると、同年9月には東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至り、3日を経て都へ帰還したという伝説が生まれるほどの名バとなったのです。

 太子が黒駒の育成に力を入れる様子をウマ子は複雑な様子で見ていたようです。太子によりウマ娘の競技が活性化し、朝廷の儀式のみならず様々な場で走る機会が増えた事は彼女としても喜んでいたのでしょう。しかし、ウマ子もまた一人のウマ娘として優れた力を持ち、競技では無敗とまで言われていました。そんな彼女の目の前で太子が若い才能に魅了されているのはどうにも嫉妬心を抱かずにはいられず、太子と黒駒の逸話には度々ウマ子や、時にウマ子の娘であるエミシが登場し、太子を巡って女の戦いを繰り広げるのです。

 一方で、黒駒は田舎から上京した後は常に太子の側を離れず、依存する傾向にあったと見られます。ある日、黒駒が太子と共にトレーニングから屋敷に帰ると、ずっと太子の顔を見ていた黒駒が屋敷の門にぶつかってしまいます。太子は驚いて「気を付けてね」とだけ言ったのですが、黒駒は太子を驚かせたことを悔やみ過ぎ、挙句の果てに嫌われたと思い込んで絶食してしまいます。慌てて太子が「私は気にしていないよ。それよりいっぱいお食べ」というと今度はモリモリ食べ過ぎて若干太り気味となってしまい、太子を苦笑させたと伝わっています。

 600年、太子は隋に対して第一回目の遣隋使を派遣します。しかし、推古天皇に代わり太子やウマ子が政治を取り仕切る運営は隋の皇帝楊堅には理解できず*1、国交を結ぼうとはしませんでした。

 外交の失敗に気落ちする太子でしたが、遣隋使からもたらされた知識により改革の糸口を掴みます。また、とあるウマ娘により気落ちする間も無い状況においやられてもいました。

 603年にウマ子と共に冠位十二階を制定。身分ではなく才能を基準に人材を登用し、天皇中心の中央集権を強めるのが目的でありました。

 翌年、「和を以て貴しと為し」からはじまる十七条憲法を制定。憲法と言っても官僚や豪族に対する道徳的な規範が示されており、行政法としての性格が強いものでした。

 これらの改革は中央集権を強めるものであり、隋に倣ったものです。太子は次の遣隋使派遣の準備として国内の制度を整え、今度こそ国交を結ぼうとしたのです。しかし、太子が遣隋使派遣に取り掛かるにはここから3年の月日が必要でした。それも政治的な問題では無く極めて個人的な理由によって。後世のウマ娘達がサムズアップし、男性が恐れおののき、女性は力なく首を横にする珍事、聖徳太子監禁事件です。

 事の始まりは600年。一人のウマ娘が朝廷への出仕をはじめたのがきっかけです。彼女の名は蘇我エミシ。ウマ子の娘です。

 エミシはこの時15歳。明るくて活発、そして輝くような笑顔が眩しいウマ娘です。母譲りの競技の才はもちろんのこと、特に舞踊に長けており身軽で跳ねるように踊ったと言います。一方で偉大な母ウマ子に対しては妄信的になっている節もあり、政治や競技で母が活躍することを誇りとし、さらには練習とは言え実の母に競技で敗れても「やっぱり母上はすごい」と悔しさすら滲ませないほどでした。

 エミシの転機となるのが太子との出会いです。太子は一目で潜在能力はウマ子を越え、黒駒にも匹敵するエミシの才を見抜くと同時に「もったいない」と思ったのです。

 今のままでは偉大な母に隠れて才能を発揮できないまま終わってしまう。それはあまりにも不幸なことです。

 そこで一計を案じた太子は非公式の場で黒駒、ウマ子、エミシの三人に競わせたのです。結果、ウマ子は黒駒にクビの差で敗れるほどの大接戦となりましたがエミシは二人に大差を付けられてしまったのです。絶対だと思っていた母の敗北。黒駒と言う余りにも高すぎる壁。エミシを縛っていたプライドは粉々に砕け散ったのでした。

 これを切っ掛けに心境に変化が起こり、打倒黒駒と日本一のウマ娘になることを掲げて太子の指導下に入ったのです。太子はエミシの変化を喜び、黒駒と共に切磋琢磨させる日々を送ります。

 決戦の日となったのは603年11月下旬。冠位十二階の制定を記念した競技であり、優勝者には天皇から楯を下賜される栄誉あるものでした。

 太子に神懸かりとまで言われた黒駒。その黒駒に匹敵するとまで言わしめたエミシ。逃げの黒駒と差しを狙うエミシの頂上決戦は、全くの同着であります。互いに全力を出し切ったエミシと黒駒は相手を讃え合い、周囲は後世にまで残る名勝負であったと語り継ぎました。

 しかし、エミシと黒駒の戦いは予想もしない形で決着となります。競技こそ同着となった二人ですが、競技と競技後の舞踊は切り離せないものであり、どちらもこなしてこそ真のウマ娘であります。ところが黒駒、この舞踊が壊滅的に不得手だったのです。先程までの威風堂々とした様子は微塵もなく、優雅に踊るエミシの隣で硬直する黒駒。結果、日本一のウマ娘の称号はエミシに与えられたのでした。とは言え、エミシとしては納得がいかなかったらしく二人で日本一と公言し、後に黒駒に舞踊の手ほどきを行っています。結果は……記録にありません(ワケワカンナイヨー)

 この件から自信と誇りを取り戻したエミシは偉大な母に負けぬ程に政治と競技の両方で活躍していくこととなります。しかし、太子は気付いていませんでした。自分を見つめるエミシの瞳が、時折光を失っていることに。

 もともと誰かに依存する傾向のあったエミシですが、日本一のウマ娘となった後に太子への恋心を自覚します。しかし、太子はこの時既に30代を目前に控えながら政治に指導と過密なスケジュールによって身を固める暇もありませんでした。唯一の出会いの場がウマ娘の指導であり、天性のトレーナーとしての才を持つ太子は多くのウマ娘から想いを寄せられていました。今までは黒駒が牽制することで太子に急接近するウマ娘は現れませんでしたが、黒駒と同格になったエミシの存在は良くも悪くも太子へのアプローチを増加させることになります。しかし、嫉妬深く独占力に定評のあるウマ娘。その中でも日本一とまで言われたエミシは恋敵となる相手に対して黒駒ほど優しくはありませんでした。

 太子が他のウマ娘の走りを見ていた事に嫉妬した際には、

 

「もー、ダメダメ!キミはボクの指導人でしょ!しょーがない!今日は追加で1周だけ走ってあげてもいいよ!……見るべきはほかの子か、ボクか。その目でちゃんと確かめてよ」

 

 と言うや否やまだ育成もままならぬ新人のウマ娘を圧倒的な脚力でねじ伏せて心をへし折ります。

 太子に群がる恋敵を払う日々が続きますが、肝心の太子は相変わらず激務に追われ一向に身を固める気配がありません。一方で、エミシの太子への感情は次第に抑えがたいものとなっていきました。

 そしてーー

 

「3年間、一緒に走ってきてわかったよ。ボクには太子しかいないって」

 

 603年、聖徳太子失踪す。この報せに朝廷はパニックに陥ります。推古天皇はただちに捜索を命じ、ウマ子は持てる兵力を動員し捜索隊を結成。

 ギャグの一つも思い付かないほど憔悴するウマ子でしたが、ふとここで違和感を覚えます。エミシの姿が見えないのです。

 嫌な予感がしました。と言うか、もはや確信していました。

 

「あいつ、やりやがったッ!」

 

 急いで飛鳥中の蘇我家所有の屋敷を調べましたがエミシと太子は見つかりません。

 もはや神仏に縋るしかないと飛鳥寺を訪れたウマ子に聞きたかったものであり聞きたくなかったものでもある声が耳に入りました。詳細については記紀ならびに飛鳥寺縁起にさえも箝口令と記録の抹消が徹底され残っていませんが、ともかく太子は無事に保護されたのでした。

 娘の暴挙に対しウマ子は「加減しろおパカ!だがでかした」と痛罵(?)し、黒駒は「その手があったか」と納得する始末。

 心身ともに傷ついた太子は推古天皇の前でさめざめと泣きました。推古天皇もかつて襲われかけた恐怖があったため太子に深く同情しましたが、彼女としてもいい齢した甥がいつまでも身を固めないことを心配していました。その点ではエミシに感謝していたのです。

 

「あんなことがあってから言うのも何ですけど、これを機に身を固めたら?」

 

 推古天皇の勧めもあり后を迎えることとなった太子。償いと称して相手はウマ子が手配する事となりました。

 しかし、何故か太子は一抹の不安がよぎります。まるで最後の直線で後ろからウマ娘が差し込む様子を伺っているかのような感覚です。

 しばらくしてウマ子が太子の后候補を連れて来ました。相手はウマ子の娘である蘇我トジコ……いや、どう見てもエミシです。

 太子は絶望した。外堀は埋まっていたのだ(もう逃げられないぞ♡)

 

「だましたなァ!だましてくれたなアアアアア!」

 

「覚悟を決めろ。うまぴょいから逃げるな」

 

 記録で確認される最古の「うまぴょい」という単語である。結局うまぴょいとは何なのだろうか。

 何にせよ太子の后である蘇我エミシとトジコは同一人物であり、611年には蘇我イルカが誕生しています*2

 この事件を現代のウマ娘達は「お美事」と讃え、現在でも手本としています。日本のウマ娘の結婚相手がトレーナーである割合の高さ*3からもそれが事実である事が察せられます。全国のトレーナーの皆様は身辺にお気を付けください。

 

「……(絶句)」

 

「史実とは言え鮮やかな手管でしたね。攻めると決めるや一気呵成。いやー、天才はいますね、くやしいけれど」

 

「えー、全国のトレーナーさん、本当に気を付けてください。我々人間の男はウマ娘には勝てません。適切な距離とリスク管理を徹底してください!」

 

「無理だと思いますけどね。本能レベルで私達は走ること、人を楽しませることに喜びを感じますから。その力を引き出してくれるトレーナーさんを好きになるのは自然の摂理。かくいう私も現役時代にトレーナーさん(旦那)を実家に紹介(拉致)したり温泉で絆を深めたり(うまぴょい)と外堀を埋めてゲットしてますし」

 

「救いは無いのですか!」

 

「諦めなさい。うまぴょいからは逃げられない」

 

 

 全国の男性諸君の悲鳴はさておき、歴史に戻ります。

 607年、第2回遣隋使が派遣され国書を皇帝煬帝に奉呈します。

 この国書の書き出しこそがかの有名な「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや」というものです。

 これまで世界に天子(皇帝)はただ一人という中華王朝に対し、日本は自らも天子であり対等の立場であると宣言したのです。

 当時、隋は高句麗と緊張状態にあったため高句麗の背後に位置する日本を重要視し、冊封無き国交が成立したのでした。

 610年、太子の跡を継ぐこととなる山背大兄王が誕生。母親は蘇我氏の縁者だとされますが、非常に嫉妬深かったエミシが許したとは考えられず、おそらくウマ子が男子の後継者も必要だと考えて蘇我氏から人間の一族を嫁がせて儲けたと思われます。

 611年、蘇我イルカが誕生。公的にはエミシの子としか記録されていませんが、父親は太子だと考えられています。

 612年、日本書紀に百済から帰化した味摩之(みまし)という人物が「呉で学んで伎楽の舞を習得した」と聞き、太子はウマ娘を集めてこの伎楽の舞を習わせました。伎楽はチベットやインド発祥の仮面劇で、所作は猿楽、伴奏は雅楽に大きな影響を与えたとされます。ウマ娘達の舞踊にも大陸の風が入り、より多種多様な発想が生まれていきました。

 614年、2回目の遣隋使が派遣。彼等は隋の滅亡から唐の建国までを経験する事となり、帰国後に日本に大きな貢献をすることとなります。

 この後、太子とウマ子は共に目立った政治的な動きをしなくなります。隋との国交も成立し、多くの優秀な人間とウマ娘により国政は安定しています。太子は法隆寺の夢殿に引き籠り仏教の著作に専念するようになり、ウマ子は既に老齢にさしかかり穏やかな余生を楽しむようになりました。

 620年、太子とウマ子は協力して国記、天皇記を作成。現在は消失してしまいましたが、現存していれば日本最古の歴史書であり、古代史の解明に大きな役割を果たしたことでしょう。

 621年、黒駒が死没。太子は早すぎる死を嘆き、長年に渡って良きライバルだったエミシも深く悲しみました。

 翌年、太子は病に倒れます。同じ月には太子の母も薨去しており、近しい者達が次々と亡くなり気落ちする中を病魔に襲われたのです。

 倒れる直前、太子は夢殿で不意に「私は疲れてしまったよ。そろそろ死ぬかもしれないね」とこぼします。

 太子を訪ねていたエミシは、「なんで、そんな悲しいことを言うんだよー。ボクの尽くし方が足りないの?」と不満そうにします。

 ウマ娘は老衰で亡くなる寸前まで若く美しい姿を保つ場合が多いです。20年間変わらぬ姿のエミシを見て太子は柔らかく笑いました。

 

「君との暮らしに飽きたわけでは無いよ。けど、近頃は何をしても気持が沈み込んでいくんだ」

 

「ふーん。じゃあさ、あと1年だけでいいから生きてよ」

 

「どうして?」

 

 エミシは言います。来年に太子の50歳記念の競技があり、そこで復帰するのだと。

 数年前に足を骨折したエミシは長らく競技から離れていました。その後もウマ子に代わり政治の舞台で活躍していたため練習も不足していましたが、太子の見立てでは1年あればエミシの才能ならば十分に現役のウマ娘達にも通用、いやそれ以上になれると思えるのです。

 

「ボクは太子の愛バで無敵のエミシ様。ウマ娘界のテイオーだよ。絶対優勝するから」

 

「そうだね。君は絶対だものね」

 

「約束だよ。ボクの走りを見たら暗い気持ちなんて吹き飛んじゃうんだからね」

 

 しかし、彼等の約束は果たせませんでした。

 太子の病はますます重くなり、もはや余命いくばくも無いほどです。

 最期の時、太子を見舞ったのは長年に渡る友であったウマ子でした。

 この時、ウマ子は80歳近く。さしものウマ娘とはいえ老いが表れています。

 

「早すぎるぞ太子。私より先に行くなんて、順序が逆じゃないか」

 

「これも天命ですよ。それに、私の役割はもう果たしたでしょう。やるべき事は……ああ、一つだけありましたね。しまった、あと1年生きないといけないのに」

 

「どうした?」

 

「エミシが復帰するんですよ。ちょうど私の50歳の誕生日記念の競技で。そこで優勝するから見てくれと、約束したんです」

 

「それは、悪い男だね君は。向こうで()()()を考えておくことだ。きっと()()()と許してくれるさ。ふむ、いささか無理やり過ぎか」

 

「最後の最後まで本当にあなたは……本当におパカな方ですね」

 

「なに、死は終わりでは無い。輪廻の果てにまた会えるから、その時にはもう少し粋なことを言えるよう努力するさ。そういう教えを信じて来ただろう、私達は」

 

「はは……そうですね。死は終わりじゃない……けれど、見たかったなぁ……」

 

 エミシがもう一度、1着で駆け抜ける姿を。

 

 621年2月22日。聖徳太子、薨去。

 ウマ娘の手で産まれ、ウマ娘に看取られる生涯でした。

 

「うそつき……」

 

 翌年の第1回聖徳太子記念。

 蘇我エミシ、1着。

 奇跡の復活と周囲は騒ぎますが、彼女に笑顔はありませんでした。

 この競技を最後にエミシは引退。以後は母の跡を継いで政務を行いますが、娘のイルカが成長すると早々に跡を譲り、記録にも殆ど登場しなくなります。

 

()()子の生涯、()()くいったな。……うん、悪くない。ふふふ、これなら太子も腹を抱えるな。叩かれるのも、まあ癖にならなくはなかったが、次は撫でてほしいものだ」

 

 626年5月20日。蘇我ウマ子死去。

 ウマ子の墓は彼女の好物だった桃の木を植えられたため桃原墓(ももはらのはか)と呼ばれ、現在の石舞台古墳であると言われています。また、霊廟は太子の眠る叡福寺北古墳のすぐ側に作られ、二人は今も寄り添うように眠り続けています。

 こうして二人の天才は去りました。しかし、遺したものは多く、これが律令国家日本を作り上げていく原動力となるのです。

 

 まとめ

〇蘇我氏はウマ娘が当主を務め、蘇我ウマ子の時に最盛期を迎えた。

〇ウマ娘が設立に大きく関わった仏教を日本に広めることで走禅を大々的に広めようとした。ついでに蘇我氏の権威も拡大する。

〇太子とウマ子によって競技が増え、ウマ娘が活躍する場が増えた。

〇遣隋使の派遣などで日本を国際社会に進出させ、大陸から知識や技術を取り入れていった。

 

 

「聖徳太子と蘇我ウマ子。色々と言いたいこと、ツッコミたいことはありますが、彼等は共に晩年には権力を手放していますね。ああいうものに執着する人が多い中で、彼等は潔いと言いますか、引き際が分かっていたのでしょうか」

 

「んー、もともとウマ子は何というか太子がいなければここまで大きな権力を持とうとしなかったと思います。彼女は結果として権力者に昇り詰めましたが、晩年にはあっさりとそれを手放して穏やかな老後を過ごしていますし、何より太子の死後はほとんど記録が無いくらいに引き籠ります。娘のエミシも後継ぎが成長すると同時に政治の世界から離れていますし、彼女達にとって政治や競技は太子がいたから頑張れたのであって、執着するようなものでは無かったのでしょう。それよりも、競技や舞踊で人に喜んでもらったり、太子に褒められることの方が大事だったのだと思います」

 

「太子も権力には興味なかったと?」

 

「太子は仏教を広めることと日本の対外関係を良くすることが自分の政治家としての役割だと思っていましたからね。それが成し遂げられると燃え尽きてしまったのでしょう。一方でウマ娘の育成については夢殿に籠るようになってからも続けており、それすら手につかなくなるのは黒駒が亡くなってからです。本質的には政治家と言うより学者であり根っからの指導人だったのだと思います」

 

「そもそも太子は、なぜあそこまでウマ娘に愛されたのでしょうか」

 

「それはウマ子が守屋との決戦に赴く前に太子に掛けた言葉にあります通り、同じ視座に立ってくれる。同じ夢を見て、それを現実にする方法を示してくれるからだと思います。これは現在のトレーナーにも言えることですが、ただ指導力があるだけでは良いトレーナーにはなれません。そのウマ娘が何をしたいか、何を夢見ているかを理解し、共に歩んでいく意思が必要なんです。ウマ娘は善意にも悪意にも敏感なので、トレーナーがどう思って指導しているのかをよく見抜きますが、ウマ娘にとって太子の在り方と言うのは満点のものだったと思います」

 

「和を以て貴しとなし、夫れ事は獨り斷むべからず必ず衆と與に論ふべし。十七条憲法にも繰り返し調和や寄り添い合う意思を強調しています。太子がこのような考えを持つにいたったのは仏教の影響よりも、生まれた時からウマ娘と寄り添う中で、彼女達のように穏やかに楽しく生きられたらいいのにと思ったからなのかもしれませんね。アスカさん、本日はありがとうございました」

 

「ありがとうございました」

 

 太子の死後も、ウマ娘達は様々な分野で活躍します。

 ある時、人間の役人があまりに熱心に働く彼女達に、どうしてそこまでするのかと問います。それに対して彼女達は誇りを持ってこう言うのです。

「私達は聖徳太子の愛バだから」と。

 そして、遣隋使の帰還により大陸から様々な知識や書物が日本に入ります。

 それらを基に日本は律令国家への歩みを進め、世界史にも関わる国へと大きな進化を遂げます。

 はじまりの指導人、聖徳太子。

 永遠なるウマ娘界の皇帝、蘇我ウマ子。

 二人の天才によってあの日、日本は世界に届いたのです。

  

 

 

 

 終

 

 制作 日本ウマ娘放送協会府中支部

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

次回予告ーー

 

「イルカが何をしたと言うの……」

 

 悪辣非道と言われたウマ娘がいた。

 太子の血族を滅ぼした血みどろのスレイヤー。

 忠臣か、朝敵か。暴挙か、改新か。

 彼女の名はーー蘇我イルカ。

 次の歴史を語ろう。

 

 第3回「ウマ娘の動乱 大化の改新」

 

 ご期待ください。

*1
当時の隋は中央集権的な皇帝親政を行っていたため、日本のありかたは道理に外れていると思った。

*2
表向きには蘇我家の当主エミシの子であり、流石に太子の子と公表することはできなかったのだろう。

*3
実に全体の9割。




言い訳をさせてください。
私はゴリゴリの歴史系を書いていたつもりでした。
ほんの出来心だったのです。カイチョーとウマ子を合体させてみたら合うのではないかと言う、些細なきっかけだったのです。すると、あら不思議。ウマ子がどんどん浸食されて勝手に動き始めるではありませんか。
おまけにテイオーが現れて気が付けば太子がうまぴょいされていました。太子は犠牲となったのです。最近から続く湿度の犠牲、その犠牲に。

来週は…もうお分かりですね。みなさん一緒に曇りましょう。
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