信頼する長屋王を失い悲嘆に暮れる聖武天皇でしたが、一方でこれは改革の機会でもありました。かつての保守勢力は長屋王の死で萎縮し、貴族と民衆は藤原氏を支持しています。今ならば、以前に流れたアスカの立后も可能となるのです。
同年、藤原アスカは皇后となり、光明皇后と呼ばれるようになります。日本史上唯一のウマ娘の皇后であり、皇族以外が皇后となるのは仁徳天皇以来のことでした。
光明皇后は地位が上がっても相変わらずーーいや、ますます社会福祉に力を入れて自ら前線で働きました。
730年、貧しい病人の保護、治療を行う施薬院を設置。ここでは何と、大陸からもたらされた漢方や薬用人参といった貴重な薬が使用され、民衆やウマ娘は光明皇后と藤原氏に畏敬の念を抱いたと言われます。
また、光明皇后はここで医師が育成することにより疫病に喘ぐ奈良時代の医療を少しでも改善しようともしたのです。
「ナンデオクスリモッテルノ!?」
「それは私が皇后陛下の主治医だからです」
「ワケワカンナイヨー」
施薬院に関してはこのような伝説も残っています。
千人の垢を洗い落とすことを自ら志願した光明皇后が言葉通りに人々の身体を洗っていると、最後の千人目に重症のハンセン病患者が現れました。光明皇后は顔色一つ変えず患者の身体を洗いましたが、患者は皇后に膿を口で吸い出すよう要望したのです。流石に周りもいい加減にしろと怒りますが、皇后は躊躇うことなくその通りにしたのです。
「このくらい当然ですわ。さあ、お身体もキレイになりましたし、次は藤原家特別施薬をーーあら?」
患者は正体を現し、如来となって光明皇后を祝福したと伝わります。流石に史実では無いでしょうが、一方で光明皇后が本当に施薬院で活動していたのは記録にあるので、彼女の働きに感動した人々によってこのような伝説が作られたのではないでしょうか。
そして、この時期、あるウマ娘の活躍が広まりつつありました。
その名は行基。奈良時代を代表する異才です。
彼女は668年に現在の大阪府堺市に生まれ、15歳で仏門に入ります。その後、飛鳥寺や薬師寺で修行をする中で生涯の師となるウマ娘、道照上人と出会います。道照は西遊記でも知られるウマ娘、三蔵法師玄奘の愛弟子であり、彼女から「梨と同じくらい好き*1」と言われるほど愛され、その教えを受けた名バです。道照は師から日本には走禅をもっと詳しく広めるべきとのアドバイスを受け、日本のウマ娘により正しい走禅を広めるべくウマ娘でありながら指導人としても活躍していました。
体格で劣る行基は競技では大逃げをかまそうとして結局体力が足らず惨敗することを繰り返しており、走禅においてもいまいち何かが足りないと不満感を持っていました。しかし、道照との出会いで彼女はついに悟りを開くに至ったのです。
「そうか。大事なのは勝つことじゃない。諦めずに走るから走禅なんだ。それも正しい姿勢で、正しい体力配分で走り切るために修行があり、ギョーキたち仏門はそれを教えるために今まで学んできたのか!」
自分が今まで好きに走り、正しい姿勢や体力配分を軽視していたことを反省した行基は、自らは競技から離れるも様々なウマ娘に師から学んだ走禅の意味に加えて正しい姿勢と体力配分を分け隔てなく教えることを決意します。しかし、当時の指導人は朝廷によって選ばれた者しかなることのできない特別な立場であり、道照のような大陸で修行した実績ある名バがするならともかく、何の実績もない行基が指導をするのは弾圧されても仕方のない行いでした。まだ家族もいた行基は今は雌伏の時と見定め、自由になるその時を待ちます。
714年、最後の家族だった母の喪が明けて46歳になった行基は知識結と呼ばれる集団を結成。これはウマ娘の果たす農業、土木建築、競技の全てを修行とし、大陸由来の知識に長年に渡り行基が独自に研究した情報を合わせて最適化した当時最先端のテクノロジーを持つ職能集団だったのです。
彼女達は近畿地方を中心に各地で開墾、建築、ウマ娘の指導を行い、人とウマ娘が豊かに暮らすとともに正しく走ることのできる世の中を作ろうとしました。しかし、仮にも仏門である彼女の行いは仏教徒が寺の外で活動することを禁じた僧尼令に違反するとされ、717年頃から弾圧を受けるようになったのです。しかしーー
「諦めない。みんなが正しく走って修行をするために、どれだけ禁じられてもギョーキ達は伝え続ける。それに、田んぼを耕すことも、橋をかけることも、みんなを笑顔にする。それは絶対に、間違いなんかじゃないんだから!」
行基への弾圧は730年まで続きますが、その頃には彼女達が開墾した田畑や治水事業が社会を豊かにしてゆき、正しい姿勢で走ることが競技寿命を高めることもウマ娘の間で広まっていました。そこで、朝廷は行基の行いは決して悪しきものではないと判断して少しずつ弾圧を緩めていったのです。
731年。行基は63歳になっていました。
つい昨年までは何をするにしても朝廷からの弾圧を覚悟しなければなりませんでしたが、今では役人の方から行基達に協力し始めています。
この日は行基が前々から計画していた平城京の用水路を拡張する工事を開始する時であり*2、彼女は小高い丘から全体を眺めていました。そろそろ自分も手伝いに行こうかと思っていると、最近やたらとまとわりついてくる青年が今日も行基の許を訪れたのです。
「お前、まーた来たのか。どこの貴族の戯れか知らないけど、勘当されてもしらんぞ」
「大丈夫だ。偉いからな」
「だったら余計に帰れよ。全く、下が苦労するぞ」
「はは、全くそのとおりだ。民百姓には苦労をかけてばかりで、どうしようもない」
「随分大きなこと言うな。本当に偉いんだな、お前。農業や建築もある程度知っていたし、ウマ娘の育成も筋が良い。ギョーキが独学で身につけた理論もすぐ覚えていくし。何か悔しいぞ」
「まだまだ師匠には敵わない。ところで、師匠はどうやってここまでのし上がったんだ?」
「ん? ああ、まあそうだよな。こんなチビのウマ娘のババァが何で職能集団を率いているのか気になるよな。けど、悪いけど何のことはないよ。ギョーキはただ、諦めなかっただけさ。諦めずに走り続けていたら、いつの間にかみんなが認めてくれた。そりゃあ、昔は色々と無茶したけど、走って、米育てて、橋かけて、何でも諦めずにやっていたら周りに人が出来てた。信じられるかい? 競技で一度も勝ったことのないウマ娘が、菩薩だの聖人だの呼ばれるなんて。あたしはただ、諦めなかっただけなんだけどね」
「それができたからあんたは凄いウマ娘なのだと思うよ。全く、今の帝にも見習わせたい」
「ああ、今の帝ねぇ。いや、そんなに悪かないだろ。ギョーキのことを認めてくれたみたいだし、何よりずっと頑張ってるじゃないか。皇后の……たしか、光明皇后陛下だっけ? あの方もありがたいことに御仏の慈悲を示してくださっている。そんなお二人のことを悪く言っちゃぁバチが当たるよ」
「し、師匠ォ! 師匠ォォオ!」
「ぬわぁー何で抱きつくんだよぉ! ていうかお前どっかで見た記憶があるんだけど。服は粗末なのにやけに小綺麗というか、無駄に高貴というかーーって、おま、いや貴方様はーー」
天皇かよォォォ!
731年。聖武天皇、行基と出会う。
前々から行基の行いに興味を持っていた聖武天皇は自ら行基に教えを請い、その知識や技術を学びます。これにより、行基達は公的に認められた存在となり、翌年には日本最古のダム式ため池とされる狭山池の築造には朝廷から行基達に協力を依頼するなど良好な関係を築いていくのです。そしてーー
「陛下、陛下! 言われたとおりの姿勢に変えると今までよりずっと早く走れましたの! どこでこのような知識を学ばれたので?」
「詳しくは秘密だけど、最高の師匠に教わった」
「……秘密? 一蓮托生のわたくしにも秘密ですの?」
「ああ、秘密だ。師匠からあんまり大っぴらにはしないように言われたからな」
「もう、陛下。わたくし、とても気になりますわ」
「そんなに?」
「はい。とても、気になります」
皇居の一角では仲睦まじくトレーニングをする二人の姿がありました。
長屋王の変から月日は流れ、まだまだ苦しいけれどもようやく安定しつつある雰囲気が漂っています。しかし、幾つもの星が煌めく奈良時代。そこに最大級の暗雲が近づきつつあることを、誰も気付いていなかったのです。
「はい、終わりもよろしいようですね。今日はこのあたりでさようならをーー」
「司会さん、現実逃避しないでください。まだ後半がありますよ」
「待ってくださいよ。いい感じで終わる雰囲気だったじゃないですか。長屋王の変の悲しみも癒えて、聖武天皇と行基は協力して国内の治水や農地を整え、光明皇后は救民の前線で働き藤原4兄妹がサポートをする。もう完璧ですね。奈良時代はハッピーエンドです。そうですよね!」
「司会さん、奈良といえば何ですか?」
「ええと、大仏ですかね」
「あれがなぜ作られたのかはご存知ですよね。希望の象徴、願いと救済の権化としてあの大仏は作られました。けれど、あれだけ巨大な救済を願わずにはいられなかったのには、どれだけの絶望があったのでしょうかね」
「………」
「希望を知るにはまず絶望を。さあ、時間も圧しています。続きを、どうぞ」
それは、一人の漁師から始まりました。
九州のとある漁師が朝鮮半島で座礁し、新羅はその漁師を何の悪気もなく、むしろ善意で日本に送り届けました。本来ならば、たったこれだけの歴史の中に埋もれるような出来事です。しかし、この時送り届けられた漁師には、最悪の贈り物も添えられていたのです。
何時だって、地獄への道は善意で舗装されている。まさにここから起こる悲劇は、善意により引き起こされました。
735年8月。九州北部にて疫病が大流行を開始。疫病の名は、天然痘でした。
事態を重く見た太宰府は朝廷に税の免除を申告し、許可されます。しかし、天然痘により農民は激減し、農地を手放す者も多く九州では飢饉が発生します。
736年4月、阿倍継麻呂を団長とする遣新羅使が平城京を出発。使節団は九州北部を経由して新羅に向かいますが、一行はその道中で天然痘に感染し*3、団長を始め多くのメンバーが死亡し、残された一行が平城京に帰還することにより本州にウイルスが持ち込まれてしまったのです。そして、翌年には全国的に大流行することとなりました。
後世、天平の疫病大流行と呼ばれる大惨事であります。
農民の大量死はただちに大飢饉を招きます。聖武天皇は九州に限定していた免税令を全国に拡大し、更には地方を治める国司に対して「疫病治療法および禁ずべき食物等のこと七カ条」を配布し天然痘の対策に当たらせました。
この七カ条の内容は、 以下のとおりです。
1.病は高熱と発疹、下痢が生じる。特に下痢に注意。ツライ。
2.身体を温めること。絶対に冷やさないで。お腹は特に温めて。
3. 布団ないかもしれないけど地べたに寝ないで。何か敷物してね。身体が冷えるから。
4.重湯とかお粥は温かいのが良いけど冷えてもとにかく食べさせて。お粥の米は細かく砕いたら食べやすいよ。
5.食べるのを嫌がってもとにかく食べさせて。塩は砕いて粉にしたものを飲ませたら口は荒れるけどその後の経過が良いみたい。
6.回復後も20日間は生物を食べたらダメ。安静に。また体調崩したら次は助からないよ。
7.インチキ療法とかを信じるおパカは死にます。けど人参は高熱に効くみたいから汁にして飲んでね。
施薬院などの臨床データから分かっていることを多少おパカな人々でも理解できる平易な書き口でしたためられています。また、内容も伝染病対策として不足はあるものの基本的には現在でも通用するものであり、朝廷が伝染病対策について正しく認識していたと言えます。
また、これは日本の医療が奈良時代には加持祈祷と言ったお祈りや神頼みではなく、きちんと根拠と薬学に基づいたものとなっており当時決して医療後進国ではなかったことを示しているでしょう。
文書の効果があったのか否か、ともかく翌年の1月には大流行は沈静化します。しかし、この僅かな期間で日本国民の30%に達する100万人以上が死亡し、日本はあまりにも多い犠牲者を出してしまいました。
そして、犠牲者に貴賤は無く、光明皇后にとってあまりにも悲しい別れが立て続いていたのです。
「ウマカイ姉様! しっかりなさってください!」
「ダメよアスカ。私に近寄ってはいけない。ああ……兄様もみんな死んでしまった。やっぱり、長屋王は私達に怒っていたのかな……」
藤原4兄妹は最初4月に房前が亡くなると、7月に武智麻呂と麻呂が相次いで亡くなり、残るウマカイもまた8月に倒れたのです。
何故か4兄弟の看護を率先して行っているにも関わらずピンピンしている光明皇后*4は姉の忠告を無視して必死の看護を行いましたが、間もなくウマカイもこの世を去りました。
この世の権力を一手に握っていた藤原4兄妹の死を口さがない人々は長屋王の呪いだと言って恐れたといいます。
4兄妹の死後、実権を握ったのは元皇族の
姓を得て臣籍降下した皇族は降下前の名前、諸兄の場合は葛城王を名乗るのが一般的でしたが彼はそうしませんでした。理由としては兄と姉を一気に失ってしまった義妹と聖武天皇に、「お兄ちゃんはまだここにもいるぞ」というメッセージを送るためだったと思われます。事実、彼は生き残った者として国力がどん底にまで落ち込んだ日本を再建すべく聖武天皇と光明皇后を支え続け、全力でお兄ちゃんを遂行したのでした。
この時、大陸由来の知識を遺憾なく発揮して出世した人物に
皇族や知識人を中心に政務を行える人材をかき集め、何とか日本再建へと動き出そうかという740年。九州からあまりにも空気が読めないと言うか、何と言うべきか困る報せが舞い込んできました。
「一応訊きますが皇后陛下、もうよろしいのでは?」
諸兄が問うと光明皇后はうんざりと言わんばかりに頬を膨らませてしまいました。
「わたくしの手に負えません。好きにしてくださいまし」
「皇后もそう言っていることだし、もう良かろう。此奴は親族でもなければ何でもない。朝敵だ。兵士を用意しろ。大軍が良い。水と食料も。出ていってもらおう、この世から」
此奴ーーそれはウマカイの養子で跡を継いだ藤原広嗣を指します。
広嗣が伯母の光明皇后に愛想をつかされ、聖武天皇にここまで激怒されたのはこれまでの所業と今回のやらかしを思えば当然のことでした。
最初の兆候は738年。投薬治療で精神の均衡を取り戻した藤原宮子と治療に当たった玄昉の間を邪推し揶揄したことが親族の逆鱗に触れて大宰府に左遷されます。
そこで大人しくしておけば良いものを740年に世の中が乱れているのは外国かぶれの吉備真備と玄昉のせいだから追放しろと朝廷に上奏文を送りつけたのです。これは二人を腹心としていた橘諸兄にとって当然逆鱗に触れる行いであり、広嗣は反逆を企てていると怒り狂います。聖武天皇はともかく事情を聞こうと広嗣の召喚を命じますが、広嗣はこれを無視。そして、9月には手勢1万を率いて反旗を翻したとの報せが舞い込んできたのです。
このあまりの空気の読めなさと意味不明さに激怒していた諸兄は一周回って冷静となり、批判された真備は乾いた笑いを漏らし玄昉は忌々しそうに舌打ちをします。そして、仮にも姉の跡をついだ義理の甥を何とかしようと光明皇后は動こうとしましたが、話を聞いて早々に匙を投げ聖武天皇は「だめだこいつ早くなんとかしないと」と討伐を命じたのであります。
討伐軍の総大将は
しかし、ある意味で広嗣は予想外の戦果を得ていました。ちょうど広嗣と東人が会敵した辺りのこと、戦の経験などないボンボン相手に歴戦の勇将である東人が敗北するなど天地がひっくり返ってもあり得ないと確信する諸兄はそんなことはもうどうでもよろしいと言わんばかりに国内再建に取り掛かるべく今日も意気揚々と出仕しました。
「おはようございます、陛下。さあ嫌なことは忘れて今日も元気よくお仕事をーー」
玉座は空でした。それどこらか近習の一人もいません。とてつもなく嫌な予感をしながら諸兄が玉座に近付くと、書き置きが一枚置いてありました。
『探さないでください』
この日、諸兄の絶叫が平城京に響き渡った。
「何事ですの?」
叫びを聞きつけた光明皇后が玉座に駆け寄ると、やはり書き置きを見て絶叫。絹を割くような叫びが近畿中に響き渡りました。
一方その頃、伊勢国周辺。
「……何か聞こえたか?」
「聞こえたかもしれんが、聞きたくない。私はもう疲れた。疲労を持て余す」
「お前なぁ、そりゃ頑張ってるのはわかるけど家出はダメだろ。悪いこと言わないから嫁さんのところに帰りなさい」
「違う、私は師匠の一番弟子の
「ま、まあ、とりあえずは好きにしなよ。ここの工事も来週には終わるし、そこからは橘様の依頼で山城に行くからそこで引き取ってもらうよ」
心身ともに限界を迎えた聖武天皇は突然伊勢へと出奔。たまたま治水工事で逗留していた行基を見て我慢が決壊。半ば幼児退行気味になりながら彼女の側にいました。
思えばこれまで誰にも甘えられなかった人生でした。多少なりとも事情を知る行基は、この弟子を名乗る治天の君を少しでも癒そうと寄り添いました。
「何してるんですか聖武天皇」
「本当に何してるんでしょうね」
「これお兄ちゃん……橘諸兄は激怒したのでは?」
「それが意外にも怒るどころか悔やんでいますね。橘氏の氏寺に奉納された文には諸兄直筆で『兄として弟の悩みを見抜けなかった。悔しい』と、あります」
「兄を名乗る不審者について私はツッコむべきなのでしょうか」
「一応光明皇后の義兄ですし皇族なので兄と言えなくは……いや、無理ですね。名前からして
「もしかしてこの時代のツッコミ役は先の疫病で全滅してヤバい人しか残っていないのでは?」
「まだ光明皇后や行基、吉備真備がいるから大丈夫ですよ」
「それ以外はヤバいってことじゃないですかー」
場面は変わり美濃経由で山城国まで来た一行。
山城国に所領を持つ橘諸兄の屋敷前には聖武天皇がよく知る紫色の髪が光り輝いて見えます。回れ右して逃げようとする聖武天皇の首根っこを行基がひっ捕まえると、そのまま光明皇后の前に引き摺って行きました。
「あなたが、お師匠様ですの?」
「誰の師匠かは知らないけど、そりゃギョーキのことかい?」
「ああ、あなたが行基様でしたのね。わたくしは陛下と一蓮托生のアスカです。光明皇后とも呼ばれておりますが、どうぞよしなに」
「お、おう。そんな睨まなくてもこんなウマ娘のババァと陛下の間には何にも起きないよ。とにかく、旦那は連れてきたから受け取ってくれ」
「ありがとうございます、行基様」
目を合わそうとしない聖武天皇。
流石にすべてを投げ出して一週間以上音信不通*6にしていたのは拙いと分かっているのでひたすら気まずそうです。
「陛下」
「……」
「ごめんなさい」
頭を下げたのは光明皇后でした。
驚いた聖武天皇が思わず皇后を見ると、耳を垂らして心から辛そうにする愛妻の姿がそこにあったのです。
「わたくし、あなたには一蓮托生になる覚悟があるかと言っておきながら、わたくしはあなたの辛さを分かっていませんでした。わたくしの家があなたの負担になったのに、本当にごめんなさい」
「私こそすまない。皆にーー君に迷惑かけて。本当に、すまない!」
お互いに謝り続ける二人を見て行基は呵々大笑しました。独身の彼女からすればいい歳した夫婦が今更こんな初々しさを醸す姿はあまりに微笑ましく、声を上げて笑わずにはいられませんでした。
「いい嫁さんだな(ちょっと怖いけど)。大事にしなよ、パカ弟子」
そう言い残して行基は去ってゆきます。
「まあ、しばらく休んでもいーんじゃないの? ギョーキはこれから都で仕事があるから戻るけど、お前はもうちっとだけ休んでなよ。そんで、助けが必要ならまた会いに来な。大丈夫だ、何度も言ってるだろ? 諦めなきゃ何とかなるさ」
その後、今まで留守を守っていた橘諸兄が合流してきた聖武天皇夫妻はしばらく彼の屋敷を臨時の皇居として静養し、難波や紫香楽などに都を移して各地を旅しました。そして、745年に平城京へと戻るのです。これを彷徨五年と呼びます。
無計画に思える行動ですが、結果として各地を訪れたことが民衆への慰撫となり、同時に大量の死体で溢れていた平城京の再建までの時間を稼ぐことにもなりました。なお、平城京の再建や聖武天皇が行く先々の建築には行基の職能集団の姿があり、彼女は陰ながら弟子を支えていたのです。
彷徨の中で人々と関わると、聖武天皇はある事に気が付きます。地方に向かえば向かう程に都ほど社会福祉が行き届いておらず、また仏法の認知率も低いのです。日本において寺院は一種の社会福祉施設であり、教育機関でもありました。全国が疫病が過ぎた今、地方の再建も聖武天皇の課題です。寺院は短期的には社会福祉施設として、長期的には教育機関として民衆を支えるものとしてなくてはならないと考え、741年に聖武天皇は全国に国分寺・国分尼寺の建立を命じました。
仏法により国家の安泰を計る考えを鎮守国家と言います。後世、聖武天皇の施策はこの思想の基に行われたと解釈され、それは確かに正しいです。しかし、国力が最低レベルにまで落ち込んだ状況で単なる他力本願で済ませられるほど状況は甘くなく、聖武天皇は理想を掲げながらと現実に向き合うという非常に苦しい選択を迫られ、その解決として仏法により人々に縋るものを与えつつ、国分寺・国分尼寺の僧侶たちが全国で社会福祉と教育にあたるという方法を採ったのであります。
しかし、先の疫病の損害は大きく、人々は絶望の淵からなかなか立ち直れずにいました。何か、大きな何かが必要なのです。人々の絶望を吹き飛ばすような、大きな何かが。
「と言うわけで助けてくれアスカ! 君が必要だ」
「陛下…結構な無茶苦茶を言っているのは分かっていまして?」
「分かっているが、どうにも考えが浮かばない。何か、こう、常識に囚われない発想が必要なんだ」
「もしかしてわたくし、今喧嘩を売られているのですか。わたくしに常識が無いと言う意味ですわよね」
「それは違う。ほら、アスカは時々常識を超えたことするから*7、今回も何か思いつかないかと思ったんだ」
「うぅ…言われてみれば確かに、そうかもしれませんわね。けれど、そんな大きな何かとかいう漠然としたもの、一体どうすればよろしいので? 大きな仏さまを作るとか、何か具体的なものにした方が皆さんも分かりやすいと思うのですけれど」
「いい
「きゃあ! いきなり叫ばないでくださいまし!」
何気ない一言で聖武天皇に電流奔るッ!
743年11月5日、聖武天皇は平城京に大仏を建立する詔を出しました。
かくして、15m80cm・重さ250トンの巨大な仏像を作るという途方も無い計画がスタートしたのです。
調べてみると意外と奈良時代の疫病対策はまともなこと書いてあるんですよね。