実のところ、大仏建立の詔によってすぐに大仏を作り出せたわけではありませんでした。理由としてはひどく現実的な話しであり、予算と人手不足の問題です。
詔には、「大仏くらい日本中の富と力を持っている私からすれば簡単に作れるけれど、大事なのはみんなで協力して作って、功徳を積む事だよね。だからみんなで協力して作ろうね。あ、役人は無理強いとかしちゃだめだよ。このことをみんなに伝えてね」、とありますが、簡単に作れるとか言うのは明らかに虚勢です。実際には予算がなかなか下りず、寄付やボランティア頼りなってしまったのでしょう。そして、国分寺・国分尼寺を作って間もない状況で仏法が浸透するはずもなく、当然人でもお金も足りない状況になってしまったのです。
「諦めたくないが、人もモノも金もない。最近では東大寺に力が集中することを他の寺院が嫌がってきているし、どうすべきか」
「また弱気ですわね、陛下。けれど、わたくしも悲田院や施薬院での活動に競技もありますし、今度はあまり力は貸せませんわよ。常識外れのわたくしには何も思い付きませんし」
「だからあれはそう言う意味じゃないからな。うーむ、このままじゃ本当にどうにもならない。そんな民衆が力を貸して、しかも寄付とかも集めてこれて、他のお寺に顔が効くようなお方が――いたな」
万策尽きた聖武天皇は行基に
「かくかくしかじかぶもぶもと言うわけなのですが、どうか師匠のお力をお借りしたくーー」
「良いぜ」
「そこを何とか、もう頼れるのは師匠だけなんです。役人は無理ぃ―無理ぃ―しか言わないし、お寺は邪魔するし、アスカはご機嫌斜めだし。兄を名乗る大臣や最後の良心真備はいまいち協力してくれないし。私には師匠しかいないんです。師匠がやれと言えば私、何だってしますよ。うまぴょいでもうまだっちでもむしろご褒美と言うか師匠だったら私――」
「いや、聞けよ。力貸すって言っているだろパカ弟子。あとお互い齢なんだからうまぴょい言うな*1」
「師匠ォーッ!」
「ぎゃぁぁぁ! だから抱き着くなパカ弟子ィ!」
聖武天皇の大仏建立にかける思いを感じ取った行基は協力を快諾し、彼女が率いる職能集団が全面的に動き始めます。
行基が大仏建立に協力していると言う話は瞬く間に広がり、彼女が今まで手助けをしてきた土地の人々が我先にと都に駆けつけ、事情で来れない者はせめてもと勧進(寄付)を送って来たのです。
滞っていたはずの大仏建立が動き出したことを察知した寺院関係者とそれに連なる役人は行基の活動とそれを支持する聖武天皇を批判しますが、御前にて行われた話し合いの場でしばらく行基はやれ不可能だのやれ無理ぃだのと相手の言いたいことを言わせた後に、天地がひび割れるほどの大音声を出したのです。
「喝ーーーッ! 陛下が諦めず、このギョーキもやると言っているのにお前らが諦めてどうするんだ! 天に従わず、衆生を救おうともしない。それでどうして仏門を名乗れる。どうして役人を名乗れる。そんなに何もかも諦めるんだったら、役人も仏門もやめちまえ! せめてギョーキ達の邪魔をするな!」
行基の一喝により僧たちと役人は沈黙し、何も言い返せませんでした。
玉座から一部始終を見ていた聖武天皇と光明皇后はいたく感激し、これ以降も寺院関係者や役人から不平不満が出る度に行基に一喝してもらうようになったのですが……その光景は、何か大きく間違っているような気がするものでした。
「喝飛ばせー、ギョ・ウ・キ! 喝飛ばせ―、ギョ・ウ・キ!」
「ああもパカ弟子ィ! お前の嫁さん何とかしてくれ! 見世物じゃないんだぞ!」
「喝飛ばせー、シ・ショ・ウ!」
「ぬわぁぁぁお前もかよォォォ!」
後の日本最古の応援歌であります。
光明皇后は行基に対して嫉妬心から否定的な立場でしたが、これ以降はある程度認めるようになったみたいです。
その後、行基は全国を行脚して大仏建立の意味を人々に説き続け、日本中から支援が集まります。
「師匠、何で白い牛に乗ってるんです?」
「長門国から借りた。いやーすげぇ力持ちだし便利なんだよコイツ」
「良い
行基が全国を行脚する際には寺をついでに開く場合もあり、山口県にある龍蔵寺には次のような伝説があります。
行基上人が全国から人材や物資などを集めていると、長門国では神がかった力を持った白牛が送られてきた牛達の中にいました。歳を取って疲れやすくなった行基はいたく気に入り、工事現場を回る際にはこれに乗って移動し、その力を活かしてウマ娘でさえも難しい作業もこなしたと言うのです。
大仏が完成すると聖武天皇は白牛とその飼い主を褒め、飼い主には土地と「国守」の姓を与えました。しかし、白牛は役目を果たしたからか、あるいは背に乗せたもう一人の主を追いかけたのか長門国に帰る途中で亡くなり、そのことを知った天皇は白牛を悼み、行基上人が開き白牛を偲ぶ寺に「白牛山 龍蔵寺」の勅額を与えました。
他にも行基が訪れた場所には様々な形で大仏建立に協力したとの伝承があり、全国を回り協力を得ていたのは確かでしょう。この時、思わぬ副産物も生まれています。
「師匠、今度は何をしているので?」
「地図作ってる」
「地図ですか。どのくらいの規模を?」
「日ノ本全体だけど?」
「!?」
後に行基図と呼ばれるもので、現存していれば日本最古の日本地図です。地図自体は738年8月に朝廷が国郡図を諸国に提出させた記録があるため存在していますが、全国を行脚し日本列島の形を最初に把握したのは彼女だったのかもしれません。
「聖武天皇、行基師匠が好きすぎませんか?」
「聖武天皇は幼い頃に父を亡くし、母とも40年近く会えない中で成長しましたから。頼ることのできる年長者があまりいなかったのです。数少ない頼れる人々も政変や疫病で亡くなったわけですから、フラストレーションが爆発した彷徨で行基と触れ合うことでいざとなれば頼れる年長者がいることに安心できたのでしょうね。何と言うか、二人の関係は師弟というより年の離れた姉に甘える弟みたいなものでした。光明皇后も相当嫉妬したらしく、関係改善まで聖武天皇が行基に会いにゆく際には必ず監視を付けていたと言われていますから」
「頼れる年長者といえば……橘諸兄は?」
「あれは兄を名乗る不審者なので。いえ、忠誠心と能力は確かなんですけど、あそこまで突然の兄ムーブされると聖武天皇も困惑したのでしょう」
「学者から不審者とか言われる偉人他にいますかね」
「前回登場の日本人が選ぶお兄様ランキング殿堂入りに比べるとどうしても薄いですからね、この人」
「いや、義妹のために命をかけた人と比べるのは流石に可哀想でしょう。……さて、全国から支援が集まり、大仏建立はいよいよ大詰めを迎えてまいりました。しかし、誰よりも大仏の完成を見たかった彼女に残された時間は余りにも少なかったのであります」
743年6月。聖武天皇は墾田永年私財法を制定。これは律令制の根幹である全ての財を国家(天皇)の所有物とする方針を崩すものでしたが、人々が自らの意思で土地を切り開き発展することが国を豊かにすることだと考えたのです。
745年、聖武天皇は行基に仏教界の最高位である大僧正の位を日本で最初に贈ります。行基は「ギョーキはそんな大したウマ娘かね?」と言いつつ、照れくさそうに笑いました。
746年には大仏の鋳型が完成し燃灯供養を行われ、翌年からは鋳造が開始されます。
大仏の完成は着々と近づき、誰もがその日を夢見ていました。しかし、鋳造も終わりかけた749年2月。一人のウマ娘がその役目を終えようとしていたのです。
「あはは、わざわざお前が見舞いに来るなんて、ギョーキは随分偉くなったね」
「師匠は大僧正なんですなら、もう十分に偉いですよ。それより、はやく元気になってくださいよ。もうすぐ大仏も完成して、師匠には開眼供養の大役があるんですから」
「うーん、そうしたいのはギョーキもやまやまなんだけどねぇ。ずっと全力で走り続けてきたから、ちょっとしんどいかな」
「諦めないでください、師匠。あなたが諦めないでくださいよ」
「そりゃ違うよパカ弟子。ほら、お釈迦様だって言っているだろう。諸行無常、是生滅法。人もウマ娘も、生きていればいつかは死ぬ。けれど、その限られた時間の中でやれることを全力でする。それが、ギョーキの考えた諦めないってことさ。もうギョーキは、与えられた時を走り切ろうとしているんだから、別に諦めたわけじゃないだろ。なあ、パカ弟子。お前は、全力で走っているか? ギョーキには、やりたいこと我慢してるように見えるんだよな」
行基からの最後の訓示です。聖武天皇は居住まいを正して彼女の声に耳を傾けました。
「人みなを 御法の歌に泣かせけん 君が聲こそ聞かまほしけれ*2。大丈夫だよ。お前の声は、みんなに届いただろう? なんだってやれるさ。お前なら」
「だけど、私にはーー」
「ギョーキの一番弟子ならさ、諦めるなよ。もうやりたいことをやっても仏様は何も言わないから、やれるだけ全力でやってみろよ、
「……」
「ギョーキは、少し先を走っているからさ…追いつけたら教えてくれよ。大丈夫、大丈夫。諦めなければ、必ず…何とか……なる……から……さ」
「……師匠?」
「ーーー」
「またいつか、会いましょう。その時も、あなたの弟子として。本当に、ありがとうございました……」
749年2月2日。行基、入寂。
釈迦と同じ涅槃の姿で、少しも心乱れることなくこの世を去ったと伝わっています。
悲しみの中、彼女の亡骸は生駒の地で荼毘に付されるため弟子達により輿に乗せられて運ばれました。その弟子達の中には沙弥勝満と名乗る人物があり、彼女の遺骨を舎利瓶に納めると、生前に行基が建てていた庵の側に埋葬しました。
聖武天皇は行基に菩薩の称号を贈り、彼女は文殊菩薩の化身として今でも語り継がれています。
師を失った聖武天皇は眼病の悪化もあり意気消沈してしまい、光明皇后や娘の阿倍内親王は心配でなりませんでした。
「なあ、父よ。いい加減に元気を出してくれないか。母さんも心配してーー何をしているんだあなたは」
引き籠もる父を見かねた阿部内親王が部屋に入ると、そこには剃髪してスキンヘッドになった父がいました。
「おお、女東宮*3か。どうだ、似合うか?」
「う、うむ、似合っているかいないかではなくてだな……何故剃髪しているのだ。帝が出家するなど聞いたことがないぞ」
「いや、確かにそうだが。けど似合ってるだろ?」
「……」
「似合ってない?」
「だから、似合っているかどうかではなく、現役の帝が出家したら駄目だと言っているの!」
「私は似合っていると思うんだがな」
「ーーッ、勝手にしなさい!」
「似合ってないのか…」
同年、8月19日。聖武天皇は突如出家。一説には行基が入寂前に出家させ、5月には沙弥勝満太上天皇の署名を使うなど既成事実化させていたとも言われています。ともかく、ある意味では恒例となった聖武天皇の突発的行動に朝廷は慌てて譲位の手続きをし、男子のいなかったため娘の阿部内親王が即位。彼女が日本史上唯一のウマ娘の女帝、孝謙天皇であります。
天皇の地位から開放された聖武上皇は、今まで力を入れられなかった社会福祉やウマ娘の育成に積極的に参加し、行基の教えを広めていきました。
「師匠の言うとおり好きにしてみたけれど、やっぱり色んなところに迷惑かけちゃったな。女東宮ーーいや、今は帝か。あの子には呆れたとか言われちゃったし」
「何だか色々ありましたけど、わたくしはこれで良かったと思いますわ。また陛下と一緒に走ったり、みなさまのお世話をできるなんて夢のようですもの」
孝謙天皇の後見は光明皇后となっていますが、実際には橘諸兄や吉備真備、藤原仲麻呂らがサポートしており彼女は自由の身となった夫と今まで以上に一蓮托生の存在として活躍していました。
「そりゃ、私も後悔はしていないけれど…やっぱり娘に剃髪が似合ってないと言われたのは辛い、とてもツライ」
「あら、そうですの? わたくしは似合ってると思いましてよ」
「そうだよな。やっぱり似合ってるよな!」
穏やかな時が流れ、このまま何事もなく日本は大仏の完成とともに再生を宣言できると思われていました。ところが、晩秋には完成の目処が立っていたにも関わらず思わぬ問題が発生しました。
「黄金が足りないだと?」
「はい。あれほど巨大な御仏ですので、今あるものだと全体を覆うにはとてもとても」
「それは……マズくないか?」
「はい。非常にマズいです」
「どうにかならないかキビキビマキビィー」
「陛下、変なあだ名を付けないでください。私は吉備真備です」
「変……なのか。似合ってると思うのだが」
「(何で変なところだけ似ますかねこの父娘)」
孝謙天皇をはじめ朝廷としては、大仏は何としても金色に輝かねばならなかったのです。
もはや大仏は希望の象徴であり、三千世界の隅々にまで輝く姿により人々に朝廷への畏敬と明日への望みを抱かせるためにはただの大仏では駄目なのです。金色に輝くことではじめて大仏は真の完成を迎えるのです。
困った孝謙天皇は父に相談しました。
「なるほど、分かった。先ずは全国から金を掘り出せないか調査を命じよう。次に、これは最悪の場合だけど大陸から金を輸入する手もある。けれど、今の財政で大陸から輸入するのは厳しいから、あくまでも我が国から金が見つかるのが望ましいな。大丈夫、諦めるにはまだ早い」
何でもないように落ち着いて理想案と妥協案を提示した父に孝謙天皇は驚き、
「まだ引退せずとも良かったんじゃないのか?」
と問いましたが、上皇は
「やりたいことをやるって師匠と約束したからね。だから、お前に譲ったことを後悔はしていないさ」
と答えました。
そして、間もなく陸奥国から金が発掘され、大仏は予定通り金色に輝く姿で完成の時を迎えるのでした。
「師匠、見ていますか? 諦めなければ、本当に何とかなりましたよ」
749年12月、鋳造が完了。
そして、752年5月。聖武上皇夫妻と孝謙天皇をはじめ多くの人々が見守る中で菩提僊那により大仏の開眼供養が行われました。大仏建立の詔から11年、ついに大仏は完成したのです。
日本史上初となる金色の巨大な大仏を目にした人々は口々に仏の威光を称え、その瞳にはもはや影一つなく皆が光り輝いていました。
「めでたい日だな、父さん」
「ああ、本当にめでたい日だ。ところで帝よ、何かこういう日にはすべきことがあったと私は思うのだが、どうだろうか?」
「無論、帝としてこういうめでたい日には何を行うべきか、わかっているさ。母さん、準備は良いか?」
「いつでもよろしくてよ。皇后として、何より誇り高き藤原家のウマ娘として、わたくしは常に1着を目指しますわ」
「頼もしいな。では、宣言するとしよう。第1回大仏開眼記念競技の開催を!」
「えいえいおー、ですわ!」
大疫病以来、小規模な競技や儀式として欠かせないものを除き国家行事としての競技は取りやめられていました。しかし、今日この日から再びウマ娘達が大舞台で競い合うことができるようになったのです。
競技には光明皇后をはじめ日本中の名だたるウマ娘が参加。その中には、何と孝謙天皇の姿もありました。
「おいおいおい。帝が参加するなんて前代未聞だろう」
「前代未聞とあなたが言うか、父さん。確かに私は治天の君だが、その前に一人のウマ娘だ。はじめての大舞台、走らざるを得ない!」
孝謙天皇は疫病の関係で遅咲きのデビューとなりましたが、偉大な母譲りの優れた体躯と名指導者たる父の薫陶により女帝にふさわしい最高の仕上がりでした。
日本史上、ウマ子とエミシですら公式では叶わなかった母娘対決。それが遂に光明皇后と孝謙天皇によって実現することになったのです。
奇しくも大外枠で隣同士となった二人。互いに戦意は最高潮であり今か今かと出走の時を待っています。
「たとえ娘が相手でも、全力で参ります。お覚悟なさい」
「相手が誰であろうと関係ない。私が目指す理想への礎にしてやる」
火花散らす母娘。そして、聖武上皇の合図により全てのウマ娘が一斉に駆け出しました。
圧倒的な脚力で先頭を駆ける光明皇后。しかしその後ろ2バ身から孝謙天皇は虎視眈々と前を狙います。最後の直線、仕掛けたのは孝謙天皇。だが光明皇后の脚色も衰えない。並びかけた二人、その差は僅か。聖武上皇は一瞬たりとも見逃すまいと二人を見つめていました。
「例え新しい風が吹こうとも…勝利は譲りませんわ!」
「女帝は、負けないッ!」
ゴール手前、本当に僅かのところで抜け出したのは、孝謙天皇。見事な差し切りにより親娘対決は娘の勝利で幕を下ろしたのです。
光明皇后はこれまで無敗の絶対的な強さを見せており、そのあまりの強さから「退屈」とまで言われるほどでした。しかし、最後の最後で劇的な勝負を披露し、その無敗の伝説を娘に譲ったのです。
「おめでとう、わたくしのかわいい子。あなたこそ、ウマ娘の女帝ですわ」
最強を降し、名実共にウマ娘の女帝となった孝謙天皇。そして、光り輝く一等星はその競技人生に終止符を打ったのでした。
752年。鑑真和上が来日。聖武上皇と光明皇后が出迎え、日本に多くの戒律をもたらしたと言われています。
引退後の光明皇后は聖武上皇と共に変わらず社会福祉活動とウマ娘の育成に携わり仲睦まじく暮らしていましたが、もはや聖武上皇は与えられた役目を全て果たしつつありました。
ある日のこと、二人で連れ立って歩いていると人々は口々に大仏の威光とこれからの発展を口にしていました。それを聞いた聖武上皇夫妻は自分達におもねるため言っているだけではないかと心配になりました。しかし、傍らで農作業の休憩をしていたウマ娘達は「退屈だね〜」、「また走りたいな〜」、「退屈だけど、平和だね〜」と談笑しているのを聞いてはらはらと涙を流しました。ついに、あの大疫病を乗り越えて人々が「平和」を退屈になるほど享受していると知り感極まったのです*4。
「ああ、私の役目は果たせた」
756年、聖武上皇は病に倒れます。光明皇后は必死の看病を行いますが、病は次第に重くなり余命幾ばくもないほどです。しかし、聖武上皇はどこか晴れ晴れとした気持ちで自らの最期を迎えようとしていました。
「アスカ、私はね、やりたかったことを全てできたよ。それは師匠の教えもあったけれど、君がいてくれたから私は夢を持てたんだ。君がいなければ、私は何もできなかっただろうね」
「それは……わたくしも同じですわ。あなたがいたから、わたくしはここまで走り続けてこれましたの。どうか、どうか、わたくしを置いていかないでください。わたくしたちは一蓮托生、あなたなしでは生きてゆけません」
「大丈夫だよ、アスカ。私は、天地の間で少し休むだけだから。涅槃の先には君を待ってから共に行くよ。だから悲しまないで。ゆっくり、君がしたいことを全て終えてからおいで。大丈夫……大丈夫だよ……」
756年8月。聖武上皇、崩御。
彼は全力でその生涯を駆け抜け、その顔は満足そうに微笑んでいたと言います。
「あなた……オビト様*5、わたくし、駄目ですの。あなたがいなければ、わたくしは、何もかもーー」
光明皇太后となったアスカは、亡き夫の遺品の中で悲しみに暮れて過ごし、光り輝くウマ娘とさえ言われた彼女から笑顔は失われてしまったのです。
事態を重く見た孝謙天皇と、皇太后の甥である藤原仲麻呂は相談して聖武上皇の遺品を東大寺に寄進することを提案します。最初、皇太后は激しく拒絶しましたが、亡き夫を悼むためと説得されてしぶしぶ遺品の一部を寄進しました。その後、相変わらず夫との思い出の中に引き籠もる母を孝謙天皇は必死に説得し、計3回に渡り遺品を寄進させたのであります。これで元気な母が戻ってくるかと思いきや、完全にふてくされてしまった皇太后は孝謙天皇の後見の立場にもかかわらず悲田院と施薬院での社会福祉の場以外は完全に数少なくなった夫の遺品を抱えて過ごし、公の場に出ることはほとんど無くなりました。
この時、朝廷は橘奈良麻呂の乱などに揺れていたのですが、その全てに皇太后は無視を決め込みます。孝謙天皇と仲麻呂は遂に諦め、皇太后をそっとするように政治から遠ざけて余生を送らせました。
そして、760年。光明皇太后はこの世に未練など無いかのように夫を追いかけていきました。亡骸は当然夫と同じ陵に埋葬され、奈良時代のオシドリ夫婦は今も寄り添い眠り続けています。
「……大仏建立ですか。私が習ったのは仏教の力で国をまとめようとしたという、よくよく考えるとそれって為政者としてどうなのか、と思ってしまうものでした。そこにはこういった考え方もあったわけですね」
「何事にも象徴は必要ですからね。戦後復興を64年オリンピックが象徴したように、大仏建立は単なる他力本願ではなく国民を一つにすることにより大疫病からの復興を象徴する意図があった。人々にとって、まさに希望だったのだと思います」
「この時代に輝く星々とは全てのウマ娘であり、人々だったわけですね。そして、その中で最も光り輝いていたのが光明皇后や行基上人という一等星でした。まさしく、光り輝くウマ娘達。今日は彼女達の遺した思いに触れながらお別れといたします。セントさん、本日はありがとうございました」
「ありがとうございました」
光明皇后が寄進した思い出の品々が保管される東大寺正倉院。この中に、光明皇后直筆の「楽毅論」の模写があります。これは中国において帝王学と王道を説いたものですが、光明皇后の字は非常に力強く断固とした意志を感じさせる筆跡をしています。特に力が入っていたのが、末尾にある「王となりたければ、王道を征け。そうでなければ自分の生き方を断固として押し通せ」という文。民のため、国のために不退転の覚悟で尽力した彼女は、最後までその生き方を変えることなく人々に慈悲を示し続けました。
聖武天皇が建立した大仏は、戦火により二度の消失を迎えます。しかし、その度に日本中から寄付が寄せられて再建されました。奈良の大仏は、今も人々の希望の象徴として存在しています。
終
制作 日本ウマ娘放送協会府中支部
「逆境を覆し、返り咲いてこそ“女帝”を名乗れるというもの。貴様もそう思うだろう? なあ、道鏡」
ウマ娘の女帝たる彼女に何があったのか。
幾多の野望もつれた大混戦の末に散った狂臣、蘇我イルカ。
その子孫が、再び日本を支配する。
昏き瞳は宿命かーー
彼女の名は、孝謙天皇。
第5回「女帝と道鏡 怪僧と呼ばれた男の真実」
ご期待ください。
出演
光明皇后…メジロマックイーン。
聖武天皇…トレーナー(CV:大塚明夫)
行基…ツインターボ
エンディングでこんな名前が流れてそうですね。