疑似幸福論   作:喬 

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この命を君へ譲渡出来たなら × 熊野

「……誰?」

 

 それはまだ少し冷たい風が吹くニ月下旬のこと。

 腰を下ろし、目の前に広がる壮大な海とその先に見える明石海峡をただぼんやりと見つめる青年がいた。左手に親指大の石を握り、右手には火のついていない煙草を持ち、確かに足音は無かったはずなのに、後ろに立った少女へ向けて声をかけた。

 

「それはこちらのセリフでしてよ」

 

 振り向きもせず悟られたというのに、少女は驚くどころかため息混じりに言葉を返す。

 

「ここはわたくしのお気に入りの場所なんですの。お煙草がお吸いになりたいのでしたらどうぞ喫煙所へ」

「……きっと傷口によくないだろうからやめておくよ」

 

 持っていた煙草をそのまま右ポケットにしまい、刺々しい少女の言葉に青年は苦笑を浮かべながらゆるりと後ろを振り返った。

 幾らか言葉を交わしたのち、ようやく顔を合わせた二人はお互い同じタイミングで驚きに一瞬言葉を詰まらせる。

 

「……ひどい怪我ですわね」

「……声だけかと思ったけど、お顔も随分と綺麗だな」

 

 よく見ると青年は着ている学ランのあちこちが擦り切れ砂埃がついていて、右目のまわりは青く腫れ上がり左の瞼と唇は切れたところから血が滲み出ている。

 一方少女は隅々までアイロンの行き届いた綺麗なブレザーに身を包み、粟色(あわいろ)の髪は後ろでひとつに纏められ、吹いた風に揺られたポニーテールから覗く真っ白なうなじが大層魅力的であった。

 

「一体なにが……」

「あー、ちょっと待って。質問は俺が先でいいかな?」

 

 右手を突き出し少女の言葉を遮ると直ぐに、良いも悪いも答えていないというのに青年は問いかけた。

 

「君はよくここに来るのかい?」

「一ヶ月ほど前から毎日来ていましてよ」

「へえ。なにか悩みでも……」

「次はわたくしの番ですわ。一体なにがどうしてそんな酷い顔になったのか教えなさいな」

 

 今度は少女が、青年の言葉を遮り問いかけた。

 

「一問一答のターン制かよ……」

「持ち掛けたのはあなたの方ではなくて?」

「質問の数まで制限した覚えは無いよ」

 

 呆れてため息をついた青年をいなすように少女は柔らかく微笑んだ。それは少しばかり早く咲いた桜のように繊細で綺麗だと、呆れてもう一度ため息をつく。

 彼女には制服よりも真っ白なワンピースと大きな麦わら帽子、それから照り付ける太陽と辺り一面に敷き詰められたひまわりの花が似合いそうだと、くだらないことを考えてしまった自分に。

 

「それで、その怪我はなんですの?」

「……父親は俺が小学生のときに病気で亡くなって、つい先日、母親が同じ病気で亡くなったんだ。そんでヤケを起こして不良の真似事なんてしてみたり」

 

 青年は自嘲するように、歯を見せて笑った。

 なにをしたって死んだ人間は戻らないのにさ──そう言ってずっと左手に握っていた石を海へと投げ捨てた。

 

「仲の良い奴らと夜の街をフラフラしたり、他校の連中とケンカしたり、結局なにをしたって満たされやしない。毎日が……死ぬほどつまらないんだ」

 

 少女は青年の寂しそうな背中を見つめたまま、口を開こうとはしなかった。

 

「次は俺からの質問だ。君の名前は?」

 

 先ほどとは打って変わり、明るく問いかけた青年へゆっくりと近づき少女は隣に腰を下ろす。

 

「熊野、ですわ。あなたはどうしてここへ? あなたのお名前は?」

「二つに増えてますけど……」

「答えてくださいまし」

 

 強く見つめた熊野の瞳から逃げるように明後日の方へ視線を移し、波の音に掻き消されてしまうのではないかと思うほどに小さな声で青年は答えた。

 

「吾輩は自殺志願者である。名前はもう無い……なんつって」

「そう」

「……そうって、ここ笑うとこなんだけど」

「あら、冗談でしたの? 本音にしか聞こえませんでしたわ」

 

 そう言って熊野は片目を閉じ、緩やかに口角を上げた。ポケットから取り出した桜色のハンカチを青年の傷口にあて、汚れるからいいと突き返した青年を無視してまだ乾いていない血を拭き取っていく。

 時折、男の子は直ぐに暴力を振るう。野蛮ですわ、と愚痴を織り交ぜながら。

 言葉は刺々しいものの口調は柔らかく、その優しさがむず痒くてたまらないと感じた青年は念入りに手当てしてくれている熊野の右手を掴み、逸らしていた瞳をぶつけた。

 

「さっきの……」

「はい?」

「本音だとしたら、君は止めてくれるのかい?」

「……止めはしませんけれど、要らないのであればわたくしに譲って欲しいですわね」

 

 その言葉の意味を確かめるため再び問いかける。

 

「譲れって……命のコレクションでもしてるのかい?」

 

 熊野は、茶化すように言った青年の瞳をじとりと睨め付け、手にしたままのハンカチをポケットの中へと仕舞った。

 無論、青年も熊野が冗談で言ったわけではないことを知っている。感はよく働く方だ。恐らく彼女か、傍にいる大切な人の命が長くないのだろうと悟っていた。

 

「あす、わたくしは艦娘になるための手術を受けるんですの」

「それは随分と立派だ」

「勘違いしないでくださいな。わたくしには、それ以外に選べる道が無かっただけですわ」

「……そうか。なれると良いね」

 

 ──その会話で青年は全てを理解した。

 熊野は生まれつき病弱で、まだ高校生であるというのに余命はもう半年も無かった。現代の医療で熊野の命を繋ぎ止める術は無く、そういった少女が一か八かを賭け艦娘になるための手術を受けるという話は稀にある。

 健康的な人間であれば失敗するようなことは万が一にも無いが、熊野のように病弱な人間であれば手術中に体力が尽き死に至る確率と、成功し艦娘として生涯戦い続ける確率は五分と五分である。

 だから熊野は選んだのだ。なにもできず、なにもせずに死んでいくくらいなら、全てを懸けて生を掴み取るのだと。

 枝分かれした道の先は、片方は途中で崩れ落ち、もう片方は真っ暗で先が見えない。

 成功したとして、初陣で海の底へと沈んでいく者たちもいる悲痛な世界へ、きっとそこにしか続いている道は無いのだと知っていたから。

 

「……止めはしないけれど、ひとつしか無いものはずっと握りしめていた方がよいのではなくて?」

 

 俯き、黙り込んでしまった青年へ向けて熊野は微笑んだ。

 

「今の俺じゃ余してしまうから……誰かが預かってくれると良いんだけどね」

「そう。では手術が成功すればわたくしはまたここに来ますから、それまで生きていなさいな」

 

 そう言いつけて熊野はゆっくりと腰を上げた。

 苦笑を浮かべ見上げた青年へ、ポケットから取り出したハンカチを手渡し、次に会うときまでに綺麗に洗っておきなさいと付け加えその場を去っていく。

 

「……だから、汚れるから良いって言ったじゃん」

 

 青年は再び苦笑を浮かべ、遠ざかる熊野の背中へ「またあした」と、小さく投げかけた。

 

 

 

 

 

   ×  ×  × 

 

 

 

 

 

 ──熊野と別れてから青年は毎日その場所へとやって来たが、一日、一ヶ月、一年経っても熊野が現れることは無かった。

 

「……もしもあのとき、この命を君へ譲渡出来たなら……君は笑って受け取ってくれたかな?」

 

 あの日ポケットに仕舞い込んだ火のついていない煙草はクシャリと潰れて、湿気ったせいでもう火はつかない。

 代わりに新しく買った煙草に火をつけゆっくりと吸い込み、肺に煙を入れた途端青年はひどく咳き込み、薄らと涙を浮かべた。

 

 

 

 

 

 あの日から一年経った今もまだ、『熊野』という艦娘は生まれていない。

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