疑似幸福論   作:喬 

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雨の降る停留所 △ 時雨

「その腕時計、可愛いね」

 

 田舎の路面を走るバスはゆるりと、時に大袈裟に揺れながら先へ進んでいく。窓際の席から見渡せる外の景色は壮大で、早春に咲く花々が見送ってくれているかのように風に揺れていた。

 春と呼ぶにはまだ肌寒いそんなある日、隣に座る時雨は腕時計をつけた俺の左手をそっと撫でて言った。

 

「結構な年代物だし、可愛いと言っていいのかこれ……」

 

 幼い頃、亡くなった祖父から譲り受けたこの腕時計は可愛いと言うには少々ゴツく、何度も修理に出してなんとか使えている状態だ。

 それでも時雨の瞳を見ればそれは冗談ではなく、本心なのだとわかった。

 

「見ろよ時雨。あそこに咲いてる青い花、なんて花か知ってる……」

「アネモネでしょ」

 

 問いかけた俺の言葉を途中で遮り、時雨は得意げな表情を浮かべ「簡単だよ」と付け加えた。

 別に花に詳しいわけではないし、かろうじてあった知識をひけらかそうとしたわけでもない。ただなんとなく、頭の片隅にあったその花言葉を思い出したから、訊いてみたくなっただけなんだ。

 

「俺が死んだらさ――」

「うん……」

「この腕時計、譲ってやろうか?」

「……僕で良いの?」

 

 寂しそうな口元と、潤んだ瞳をしっかりと見つめ返して柔らかく微笑んだ。

 君に貰ってほしい、と。

 

 まだ幼かった頃、一度だけ同じバスに乗ったことがある。

 今みたいに、腕一本分開けられた窓から入り込んでくる冷たい風と、鳥の鳴く声を全身で聴いていた。

 あの時はどこへ向かっているのかも知らなかったから、俺の頭を優しく撫でた祖父よりも、腕時計にばかり意識がいっていたことを思い出す。

 腕時計ひとつで、自分が誰より早く大人になれた気でいたのだ。

 

「提督は……幸せ、だった?」

 

 左手に触れていた時雨の右手は震えている。

 それは生まれてから今日までのことを指しているのだろうか。それとも、共に過ごした日々のことを指しているのだろうか。

 どちらにせよ答えは決まっていた。

 もちろん辛いことだってたくさんあったし、生きていれば得られるものと同じくらい失うものもある。あれがしたいこれがしたいって、渡された時間だけじゃ全てを叶えることはとても出来なくて。本当は叶わないことの方が多くて、失うものの方が多いのだろう。

 ――けれど最後はきっと、失ったりはしない。

 

「幸せだったさ。こんなにも可愛くて綺麗で優しくて、誰より気が利いて美味い飯も作ってくれる。世界で一番素敵なひとと歩けたんだから」

 

 その言葉に時雨が涙を落としたのと同時に、走り続けていたバスが止まった。

 俺たちの二つ後ろの席に座っていた老夫婦のおじいさんが立ち上がり、見上げて優しく微笑むおばあさんの頬をそっと撫でた。

 のんびりと待っているよ――と、そう告げてバスを降りていく。

 再びバスは動き出し、建物のひとつも無い田舎道をゆるりと進む。

 

「僕は……きっと受け入れられないよ」

「大丈夫。君の帰る場所にはたくさんの仲間がいてくれるんだ。みんな君を待っている」

 

 困ったことに時雨は泣いてばかりいた。縋るように俺の左手に頬を擦りつけ、願うように声を押し殺し。

 そんな時雨の頭をそっと撫で、胸元へと抱き寄せた。

 

「泣かないでくれ……って言っても君は意外と泣き虫だからな」

「どうして提督なのさ……。まだ、あまりに早すぎるじゃないか……」

「なにも俺ばかりじゃないよ。それこそ俺の人生の半分も生きていない子だってここにはいる。ほら、あの子はもう泣いてないぞ」

 

 俺の視線の先にはまだ小学生高学年くらいの歳の子がいた。その子は泣き崩れる母親に、とても小学生とは思えないほどに優しい笑みで「ありがとう」と告げてバスを降りていく。

 母親は窓を開け、何度も少年の名を叫び、やがてバスが動き出すと小さな声で「こちらこそありがとう」と呟いた。

 その様子を見守っていた時雨はごしごしと強く目元を擦り、赤くなった目を細め「僕ももう泣かないよ」と。

 

 七年前、まだ新人で右も左も分からなかった俺をずっと隣で支えてくれたのは時雨だった。

 五年前、大本営から送られてきたケッコン指輪を渡すと時雨は涙を浮かべ、嬉しそうに笑って受け取ってくれた。

 三年前、なんの効果も無いただの指輪を渡すと時雨はやっぱり涙を浮かべ、嬉しそうに受け取ってくれた。生涯外さないよと、指輪を嵌めた左手を撫でながら。

 一年前、執務中に倒れた俺を医療施設まで運んでくれた時雨は泣きながら、起き上がれない俺の名前を何度も呼んでいた。

 

「時雨……」

 

 立ち上がった俺を見上げた時雨はきゅっと下唇を強く噛み、その瞳は潤んでいる。

 

「もう……行くのかい?」

「ああ。最後まで隣にいれなくてごめん。それから、ありがとう。愛しているよ」

「僕、も……」

「これ、大事にしてやってくれ」

 

 左手につけていた腕時計を外し、俯く時雨の目の前に差し出した。

 すぐ隣に幸せがあって、その反対側には不幸せがある。止まない雨はなくて、時は止まったりしない。

 だからどうか俺がいなくても、その腕時計と共に幸せな時を刻んでいけますように。

 

「僕も……愛しているよ、ずっと」

 

 

 ――今日、もう泣かないと言ったばかりの時雨は、大粒の涙をこぼしながら微笑んだ。

 

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