「君は……」
一瞬、その姿を見た時ギョッとした。ゴミ山の端に捨てられた少女がまるで死体のように映ったから。
――ごく稀に、整備も出来なくなって使い物にならなくなった艦娘が遺棄されるという話を聞いたことがあった。それを知らなければきっと今頃大声を上げて逃げ出していただろう。そう思うほどに少女はひとの姿をしていた。
「球磨だクマ……」
光を宿さない瞳を伏せたまま、少女は力なく言った。動くこともままならないのはその機能を完全に停止してしまったからなのだろうか。それとももう――全てを捨ててきてしまったのだろうか。
俺は軍人ではない。どこにでもいる平凡なサラリーマンなのだから、そんなことをしてやる義理はなかったはずなのに……気が付けば少女をそっと抱き寄せていた。
土と埃、血と硝煙の匂いが混ざり合って咽せ返るような酷い匂いだったというのに、何故だか離すことはできなかった。
離してしまえば今にも消えてしまいそうで、そんな弱々しい少女に同情していたのかもしれない。
「ウチに来て風呂にでも浸かるといい。君は酷い匂いだ」
「……女の子にそういうこと言っちゃダメだクマ」
少女は両腕をだらりと落としたまま、自嘲するように――。画面の中でしか見たことが無かったから、抱きしめてようやくそのか細さが実感できた。わかったつもりでいたけれど、見た目は本当に俺たち人間となんら変わりは無い。艤装を持たなければ折れてしまいそうなほどに華奢で、内にある心はきっと人よりもひとらしいのだと、傷付いた少女をもう一度強く抱きしめた。
勝手な都合で生み出され、勝手な都合で捨てられていく。戦えなくなったのであればより一層大切にするべきではないのだろうか。確かに彼女らは人では無いが兵器でも無い。
何処へにも行けない想いがただ、少女を強く抱いて離そうとはしなかった。
× × ×
「こう見えて俺は料理が得意……ではないけれど苦手でもないんだ。君が望むなら……」
「球磨」
「え?」
少女を背に乗せながら自宅へと向かう道中、たあいのない会話を遮って少女は小さく呟いた。
「球磨だクマ」
「……球磨はなにか食べたい物とかあるか? なんでも好きな物を作ってあげられるよう努力はしてみるよ」
「鮭が食べたいクマ」
「くまだけにってか、ハハ……」
「つまらんクマ」
「手厳しいな……」
重さはさほど感じなかった。見た目通りの体重と、背中に触れたほんの少し柔らかな、とても慎ましい胸の感触も見た目通り。いや特に期待していたわけではない。本当にこれっぽっちも、微塵も下心は抱いていない。球磨を背負ったのはウチに来ることを拒まなかったくせに動こうとしなかったから仕方なくだし、胸は無いし太ももは細いけど白くて柔らかくて温かくて綺麗だとかも思っちゃいない。ていうかそんな言い訳を考えていると変に意識して手汗かいちゃいそうだ。
2、3、5、7、11……。
「どうして優しくしてくれるクマ?」
素数を数えて心を落ち着かせていると、球磨は俺の両肩の辺りに置いていた小さな手で服をきゅっと握りしめ、消え入るような声で問いかけた。
「……どうだろう。きっと優しさなんかじゃないよ。打算的なわけでもないけれど、そうすることで自分はまともなんだと思いたかっただけなのかもしれないね」
「よくわからないクマ……」
「……感情が無いわけじゃないんだ。でも上司や部下、同僚が事故や自殺なんかで明日来なくなったとしてもきっと俺は平気なんだと思う。少しばかり課される仕事が増えるだけでなにごとも無かったかのように日々を過ごすんだろう。だからきっかけが欲しかったのかもしれない」
戦えなくなったから捨てられるなんてあまりに悔しいじゃないか――と苦笑を浮かべて続けた。
「名前も顔も知らない俺たちのために命を懸けて戦ってくれてるんだからさ」
それらしい言葉を並べて、たったひとつの願いさえも嘯いて。
正義感だけは持っていて、なにもしないくせになにもしない奴らが許せない。年端もいかない子供たちが世界の裏側で死んでいく不平等を呪いながら、命を懸けて戦っている艦娘たちを画面越しに眺めながら……今日も変わり映えのしない一日だったと吐き捨てて眠りにつく。
だからきっと、彼女を見つけたとき心の奥底では喜んでいたのだろう。
「それでも見つけてくれたクマ」
「だからそれは……」
「どんな理由だろうと、こんな汚れた球磨を抱きしめてくれたのは事実だクマ」
――毎日が止まることなく進んでいく。父親が亡くなったときに流した涙も、祖母と母親が亡くなったときには出なかった。確かに悲しいはずなのに、プライドが邪魔をしたのだろうか。いつしか泣くことは恥ずかしいことだと、男なら泣いてはいけないと、知らず知らずのうちに自分に課していたのだ。きっとそうして人は泣き方を忘れていくのだと、成人した頃にはそれを受け入れていた。
別に涙を見せることだけが感情表現になるわけではない。見せないことで見える嬉しさや悲しさだってあるわけで、それが大人というものなんだと変に納得していた。
「球磨にとっては、それだけで十分過ぎるクマ」
表情は見えなかったのに、その声は温かくて優しかった。
どれだけ嘯いたとしても、心を失くすことなんてできやしないことくらいわかっている。結局そのときが来たら簡単に思い出せるのだろう。
それは明日かもしれないし、死ぬ間際かもしれない。
「……なんか、ずるいなあ」
「なにがずるいクマ」
「うまく言葉にできないけど、その優しさがずるいよ」
「……それはこっちのセリフだクマ」
ただ失くしてしまったものを取り戻したくて声をかけただけなのに、彼女からすれば俺は『良い人』に映ったのだろうか。
きっと与えてやれるものは偽物ばかりで、与えてもらうものは本物ばかりなのだろう。
それが歯痒くて、それ以降は言葉を交わさなかった。
× × ×
「とりあえず風呂に入ってきてくれ」
ひとり暮らしにしては広い方だろう。1LDKの間取りをぐるりと見回し、「ほー、贅沢なところに住んでるクマ」なんて少し刺々しい言葉を投げかけてくる球磨へ投げ返した。
すると球磨はこちらを振り返り、ふにゃりとだらしなく微笑んだ。
「一緒に入るクマ」
「んんっ……」
バカなのかもしれないと、そう思った。
「バカなのか……?」
思うどころか声にまで出た。
「ひどいクマ」
「いや入るわけないでしょ。もっと自分を大切にしてください」
「なんで入らないクマ? 欲情しちゃうクマ?」
「浴場だけにってか、ハハ……」
「つまらんクマ」
「手厳しいな……」
もういいから早く入ってきてくれと、背中を押して脱衣所へ追いやると、とても小さな声で球磨は呟いた。
「両腕が肩より上に上がらないから、球磨は捨てられたんだクマ」
――どう見たって女の子なのだから、そんなことを言われたところでただ困ってしまうだけだ。
しかも可愛い。いや可愛さはハッキリ言って関係ないが女の子と一緒に風呂に入った経験など無いのだ。どうしろと?
「……髪」
「クマ?」
「髪洗うのだけ手伝う! 頼むから身体は自分で洗ってくれよ……!」
「やったクマ!」
結局服を脱がすところから手伝い、髪だけでなく背中まで流すことになってしまったのは決してその綺麗な身体に欲情したからではない。
別に白くて滑らかで柔らかいなんて思っちゃいないし、本当にこれっぽっちも、微塵も下心は抱いていない。
「んっ……」
「な、なに」
「優しく擦りすぎクマ……。くすぐったいクマ……」
「やめて。男心を刺激する声は」
「なに言ってるクマ」
2、3、5、7、11……と、素数を3571まで数えた頃には球磨の長湯も終わり、脱衣所から俺を呼ぶ声が聞こえてきた。
「はいはいなんでしょうか」
「髪の毛拭いてほしいクマ」
バスタオル一枚巻いただけの姿で、恥ずかしげも無く満面の笑みを見せた球磨に深くため息をつき、棚から取り出したタオルでわしゃわしゃと乱暴に拭いてやった。
激しいクマ、もっと優しくするクマ…なんて文句を垂れていたがお構い無しに。
そうして雑に拭き終わると、目のやり場に困ってしまうので俺が普段着ているスウェットを差し出した。
「ズボンはぶかぶかで履けないクマ」
「いや、ズボンは履いてくれなきゃ困る。スウェットの上一枚でズボンどころかパンツも履いてないとか流石にやばすぎる」
「パンツは洗濯してるから仕方ないクマ」
「じゃあ俺のパンツを……」
「絶対嫌クマ」
俺は考えることをやめた。
× × ×
「なに作ってるクマ?」
「鮭ときのこのホイル焼きだよ。バターがよく合うんだ」
キッチンに立ち、調理をしていると興味深そうに後ろから覗き込んでくる。
じゃれるように抱きつき、危ないから離れてくれと言っても嬉しそうにアホ毛をふりふりと動かし、早く食べさせろと急かしてくる。
クマというよりは犬のようだと、ため息をつきながらも苦笑を浮かべた。
「ソファに座ってテレビでも見ながら待っててよ。すぐできるからさ」
「ここで見てるクマ」
「やりにくいな……」
「照れてるクマ?」
「違う、そうじゃない」
結局ズボンもパンツも履いてくれなかったし、スウェットからチラチラと覗く白い太ももが気になって仕方が無いのだ。だから視界に入らないでほしい。
と、そんな願いも虚しくなにを言っても離れてくれない球磨と、手を動かしながら会話を続けた。
球磨には
それから自分は両腕だけでなく両足も思うように動かなくなったのだと。走ることもできず、視力もかなり落ちたらしい。普通ならば入渠したり整備してもらうことで簡単になおるらしいのだが、自分のは原因不明の病気みたいなものだと、自嘲気味に言っていた。
「それでもまだ壊れられないのは、きっと最後に――」
服の裾をきゅっと握り、背中の辺りにコツンと頭を預けてきた球磨はそれ以降なにも言わなかった。
球磨は料理ができあがるまでずっとそのままの状態で、はっきり言ってめちゃくちゃ邪魔だったがそんなことを言える雰囲気では無かったので、喉まで出かかった言葉を呑み込んだ。
俺はこの子に甘すぎるのかもしれない……。
「美味そうだクマ!」
先ほどまでの重苦しい空気はどこへやら、できあがった料理を目の前に、球磨はアホ毛でハートの形を作って喜びを表現していた。
うーん、可愛い。
「かわい……じゃなくて、冷めないうちに召し上がれ」
「いただきますクマー」
大袈裟なくらい、本当に美味しそうに食べてくれる球磨を見て自然と笑みがこぼれる。
そういえばこんな風に誰かのために料理を作ったことも、それを美味しいと言ってもらえたことも今まで無かった。
――毎日「美味しい?」と聞いてきた母さんの気持ちも今ならわかる気がする。
親孝行なんてなにひとつできずに失ってしまったけれど、あのときの問いには心の底から「美味しい」と答えていた自分を褒めてやりたくもなる。
「……美味しいか?」
「美味しいクマ!」
× × ×
「歯磨いた?」
「磨いたクマ」
「よし。じゃあ俺のベッド使っていいからゆっくり休んで」
「それはダメだクマ。こんな壊れかけた艦娘にそこまで気をつかう必要は無いクマ」
「壊れかけとか艦娘だとか、そういうんじゃ無いよ。球磨は女の子だから、柔らかいベッドの方がよく似合う」
お互い譲り合うばかりで話は纏まらず、しびれを切らした球磨がまたまたとんでもないことを言い出した。
「じゃあ一緒に寝るクマ」
「はあ……」
この子の貞操観念はどうなっているのだろうかと、大きなため息をついた。
今日出会ったばかりの女の子を家に連れ込んだ俺が言うのもなんだが、簡単に男をベッドに招き入れるのは止めた方がいい。
もちろん、間違っても手を出したりはしないが危機感くらいは持っていてほしい。
信用されているというのであれば悪い気はしないが、それにしては時間があまりに短すぎる。
「これ以上は譲らないクマ」
得意ではないがお説教というものをしてやろうと伏せていた瞳を目の前の球磨へと戻すと、両手を腰にあてて何故かドヤ顔をしている球磨と目があった。
一体何を譲ったのだろうか、なんて考えても仕方がない。
きっと折れる以外に道は無いのだと、もう一度深くため息をついた。
「身体……触れてるから」
「狭いんだから我慢するクマ」
お互い背中合わせという条件を了承してもらい、ひとり用のベッドでふたり眠りにつくことにした。
同じシャンプーを使っているはずなのに、女の子特有の甘い香りが脳を刺激する。足先や背中が触れるたびバカみたいに反応してしまい、眠れるはずも無い。
眠れない夜 君のせいだよ――なんて頭の中で歌って意識を外にやろうとしたが無駄だった。
なにより納得がいかなかったのは、こちらがこれ程までに悶々としているというのに球磨は既に心地良さそうな寝息を立てていることだった。
「鮭……美味しいクマ……」
納得はいかなかったが、その可愛らしい寝言に吹き出しそうになるのをこらえてそっと目を閉じた。
もちろん眠れなかった。
× × ×
球磨と出会ってから早一ヶ月が過ぎた。球磨の両腕はもうほとんど動かなくなって、なにをするにも俺の手助けが必要になった。
ありがとうよりも謝罪の言葉が増えていく。
苦笑して、力なく瞳を伏せながら謝る球磨に、何度も気にする必要は無いと言い聞かせた。
髪や身体を洗ってやることにも慣れ、雛鳥と親鳥のような食事風景も俯瞰で眺めると照れはあるけれど、苦だと感じたことは無い。
だからどうか、それを悪いことだなんて思わないでほしい。迷惑をかけているだなんて気に病まないでほしい。
その小さな背に全てを負ってしまうくらいなら……どうか一緒に背負わせてほしい。
そんな言葉も届かないくらい塞ぎ込んでしまう前に――
「ただ笑って、『ありがとう』でいいんだよ」
ソファに座り俯いていた球磨の目の前にしゃがみ込み、可愛らしい両手をそっと握った。親指で手の甲を優しく撫でると、球磨は怯えたような瞳をこちらへ向けた。
「もう動かないとしてもこんなに温かいんだからさ、離してくれって言われてもお断りだ」
ずっと一緒にいよう、そう言って微笑みかけると、大粒の涙と共に謝罪の言葉を漏らした。
ただその後に「ありがとう」と、ほんの少しだけ口角を上げながら。
× × ×
球磨と出会ってから半年が過ぎた。球磨の両足はもうほとんど動かなくなって、口数も大分減ってしまった。
車椅子に座り窓の外を眺めるだけの日々に、なにを映しているのだろうか。
声をかけても微笑み返してくれるだけだから、なにを言えばいいのか、なにをしてやれるのか、正解がわからなくなっていく。
もう歩けないというのはどんな気持ちなのだろうか。涙がこぼれても自分の手で拭えないのはどれ程の痛みなのだろうか。
こんな世界にも神様がいるのなら叶えてほしい。なおしてくれなんて贅沢は言わないから、ただ代わってやりたい。
「球磨……」
振り向いて微笑むだけで、返事はしてくれなかった。
きっと言葉にならない感情は、抑えつけようとすればするほどあふれてくるはずなのに、我慢しなくていいと……吐き出してもいいのだと言ってやることはできなかった。
その痛みを知らない俺の言葉に重さが無いことくらい、自分が一番よくわかっていたから。
「なにか面白いものでも見つけた?」
努めて明るく問いかけると、球磨は一度窓の外へと視線を戻した後こちらを向いて、ふるふると首を横に振った。
「そっか……」
× × ×
球磨と出会ってから一年が過ぎた。球磨の目はもうほとんど見えなくなって、ベッドから起き上がることも無くなった。
一日の半分以上を寝て過ごす球磨の隣に腰を下ろし、そっと左手に触れた。
……ごめんね。
起こしてしまわないようできるだけ小さな声で呟いた。
「……どうして謝るクマ」
触れていた俺の手を、震える手でそっと握り返し、球磨はほんの少しだけ口角を上げた。
「こんなに優しくされたのは初めてだクマ。本当に……幸せだったクマ」
決して交わらない瞳を見て、お別れのときが来たのだと悟った。
きっと幸せをもらったのは俺の方だ。返し切れないほどの優しさをもらったのは俺の方だ。
それなのにこんなときにもまだ俺は思い出せやしない。
「……別に無理して泣く必要は無いクマ」
握っていた手を離し、手首から肘、肩までゆっくりと辿るように震える手を動かしながら言った。
どうやら目的地はここだったらしい。
俺の頬にそっと触れて、嬉しそうに――
「むしろわんわん泣かれた方が心配で成仏出来ないかもしれないクマ。だから……ただ笑って、『愛してる』でいいクマ」
そう言った。
「恥ずかしいクマ? だったら球磨が先に言ってやるからちゃんと聞けクマ」
「いい……。言わなくても……」
「……ずっと愛してるクマ」
俺の言葉を遮って簡単そうに言っておきながら、球磨は頬を真っ赤に染めて顔を逸らした。
そんな姿を見てようやく、ぼろぼろと大粒の涙があふれ出す。
たったひとつ、いつまで経っても離せなかった願いはただ……失うものばかりだったこの人生にも、確かに愛してくれた人達がいたことを思い出せますようにと。
ずっとひとりで生きてきたから、最後の最後でいいと思ってたんだ。誰の心にも残らず、ひとり寂しく死んでいくときに、「そういや、確かに愛してくれた人たちもいたんだったな」って――最後に涙を流せたらそれだけでよかったのに。
「ボロボロになっても最後まで壊れられなかったのは……きっとこんな球磨でも目一杯愛してほしかったからだクマ。だからもう……笑って行けそうだクマ」
ああ、そうか……。そうだな。
確かに俺は――
「……君を壊せるくらい愛してた」