「なーにしてんのさっ」
「────ッ!」
街から少し外れた人通りの少ない畦道を、パンクした自転車押しながらぼんやりと歩いていると、後ろから背中を叩かれた。
急に声をかけられたこともそうだし、艦娘の力で叩かれると、幾ら軽くとはいってもそれなりに痛いのだ。痛みと驚きで声だったのかどうかも分からない変な叫び声が出た。本当にやめてほしい。
「なにもクソもないだろ。家に帰るんだよ……」
「あはは、知ってるー」
右手に持ったみたらし団子を食べながら、「見りゃわかるよ」なんて言って空いた左手を手招くように上下に動かしているのを見て、深くため息をついた。
……だったら聞くな。
「先に言っとくけど、ついてくんなよ?」
「え、なんで?」
「なんでって……普通に考えりゃわかんだろ……」
「――普通かぁ。ね、普通ってなに?」
先ほどまでのおどけた、気の抜けた表情はどこにも無く、ともすればのみこまれてしまいそうなほどの眼光だけが、こちらを捉えて離してはくれない。
時折り、ふと見せるのだ。
ひとつの感情も無い、それは例えるなら星の見えない夜のように、深く暗い空。在るのはどこに続いているのか、どこまで続いているのかもわからなくなるほどに見えない夜道。
そんなイメージを抱かせるほどに、なにも無い表情がひどく怖かった。怖くて、悲しかった。
「それは……」
「あはは、なにマジになってんのさー。なんでもいーよそんなこと」
またいつもの調子に戻り、気の抜けた声を出すから、どっちが本当の彼女なのかわからなくなる。
理解したいと手を差し出したとして、きっと彼女は掴んだりしない。ゆるりと躱すのだろう。
なら今日も気づかないふりをして、繰り返していくしかないのだ。
「おい」
「んー?」
「ついてくんなって言っただろ」
「うひー、頑固だなあ。そんなんじゃモテないよー?」
「あんたほんとむかつくな……」
――多分、あのとき黙って通り過ぎていれば、得られるものも、失うものも無かったのだろう。
高校に通い始めて少し経った初夏、学校が終わり家へと続く畦道を自転車で爽快に飛ばしていたそんなとき、北上と出逢ったのだ。
雲ひとつ無い真っ青な空が、夏の訪れを感じさせる。長袖だと少し暑いが、半袖だと少し寒い。だからネクタイを緩め、ボタンを二つ開けて袖を捲っていた。
不意に現れた彼女は道のど真ん中に立ち尽くし、ぼんやりと空を眺めていた。不覚にも綺麗だと、忌々しいことを思ってしまった自分に腹が立つ。
なんだか放っておけば今にも消えてしまいそうなくらい儚く見えたから、つい声をかけてしまったんだ。
「ぼーっとしてんなよ。轢いちゃうぞ」って。
車体からタイヤまで真っ白なクロスバイクにまたがり、片手に棒アイスを持ちながら。よくよく考えなくても相当生意気だったと思う。
けれど彼女は気にする様子もなく、優しく笑って「おー、生意気だねえ。ギッタギタにしてあげましょうかね!」と言った。めちゃくちゃ気にしてんじゃん。
「ていうかあんたどこの高校通ってんの。この辺にそんな制服の高校無いぞ。へそ出しって……バカなの?」
「いやアタシ高校生じゃないし。艦娘って知らない? クソガキ」
手にしていたアイスを彼女の方に向け、淡々と言った俺に彼女もまた、眉ひとつ動かさず返してきた。
真っ先に思ったのは、嫌いなタイプだなと。
そして艦娘という存在、もちろん知っている。俺の今住んでいるここは結構な田舎だが、中学を卒業するまでは割と都会の方に住んでいた。そこにはバカみたいにどデカい鎮守府があったし、艦娘と会ったこともある。
腰あたりまで伸びた真っさらな黒髪を靡かせていた彼女は確か……赤城という名前だったか。目の前の艦娘とは違いお淑やかで可愛くてとても美しかったのを覚えている。正直初恋だった。
だがここの鎮守府はどうだ。ボロボロの寺子屋みたいな建物で、人の影すら見たことがない。深海棲艦が出たなんて話も聞いたことはないし、ここには艦娘なんていないと思っていたのだが。
「艦娘ってあんただけ?」
「ここにいるのはね」
「へー、この辺深海棲艦は出ないんだろ? いつもなにしてんの?」
「哨戒」
「だけ?」
「そ」
「ふーん。ご苦労さん」
「うるせーやいクソガキ」
言いたいことはまだまだあったが、こんなところで言い合うのもバカらしい。
ペダルに足をかけ、「ここ俺の帰り道だからもう明日から使うなよ」と言って勢いよく漕ぎ出した。
……漕ぎ出したのだが、力を入れども前には進まなかった。それは何故か、単純明快である。彼女が後輪を掴んでいたのだ。片手で。自転車ごと彼女の手元まで引きずられた。
「は? え、なに……」
流石に焦った。艦娘ってギソウってやつをつけてなくてもこんなに強いのかと。いやそれよりなに? なんの用? 会話は終わったはずだ。もう二度と会うことはない流れだっただろう。
「歩くの疲れたからさー、鎮守府の近くまで乗せてって」
「ふ、ざっけんな……離せよ……ッ」
何度も逃走を試みた。そもそも二人乗りができる自転車ではない。見りゃわかることだ。しかし彼女は一向に離そうとしない。多分このまま続ければ、自転車か俺のどっちか、或いはどっちも壊れてしまう。
ああ――安易に話しかけるべきではなかった。
ほんの少し前の自分を殴りたくなる。よくよく考えりゃ道のど真ん中で空見上げて突っ立ってる奴なんて変人に決まっている。何故それがわからなかったのか。
いや、きっとわかっていたはずなのに、見てくれに騙されてしまったのだ。
「わかった! わかったから……。乗せてってやるから手を離せ……」
「やりー。いいとこあるじゃーん」
なに言ってんだ、ほぼ強制的じゃないか……とは言えなかった。少しだけビビってしまっていたのは内緒にしておこう。人間が太刀打ちできる相手ではない。
「なにしてんのさ?」
背負っていたリュックを下ろし、中からある部品を取り出した俺を物珍しそうに見つめていた。
返事はせず、その場にしゃがみ込み後輪に部品を取り付けていると、彼女は俺の右肩からひょいと顔を覗かせた。
「近い」
「なにしてんのさ?」
耳に吐息がかかるほどの距離でもう一度同じ質問を投げ返してくる彼女にため息をつき、素っ気なく返した。
「見りゃわかんだろ。ハブステップ取り付けてんだ、黙ってろよ」
「あー、アタシを乗せるためねー」
なるほどー、なんて気の抜けた声を出していたが、不意に意地の悪い声で彼女は言った。
「ていうかさー、なんでそんなもの持ってんのさ? あ、わかった。いつ彼女ができても良いようにでしょ。それなら最初から二人乗りできる自転車買えばいいじゃん」
「……あんたもう喋んな、マジで」
彼女の鎮守府までは自転車で二十分くらいの距離だった。
うっすらと額に汗をかきながら漕ぐ俺の両肩に捕まり、後ろからしつこく揶揄ってくる彼女を適当に流しつつ、赤面しているのがバレないよう平静を装った。
こうも容易く見透かされると恥ずかしいからやめてほしい。
それから、一応鎮守府の前まで送ると言ったのだが、彼女は何故か頑なに拒んだ。
ここから歩いて五分もかからないからと、どこか寂しそうに笑って。
「じゃ、もう二度と会わないことを祈ってる」
「うひー、むかつくなあ」
言葉とは裏腹に、優しげな瞳がむず痒く咄嗟に目を逸らしてしまった。
気がつけばもう陽は沈みかけていて、虫だか蛙だかよく分からない生き物の鳴き声がどこからか聞こえてくる。
もう一度陽が昇ったら近くの神社で厄払いでもしてもらおうと、そんなことを考えながらペダルに足をかけて漕ぎ出した。
大好きな曲を小さく口ずさみながら少しずつ遠ざかっていく。ああ、そういや名前聞き忘れたけど、まあもう会うこともないだろうし別にいいかと、そう思っていた矢先に、後ろから微かに聞こえた声に足を止めた。
「……きたかみ」
「あ?」
「重雷装巡洋艦……球磨型三番艦、北上。それがアタシの名前だから、覚えときなよ」
じゃあまたねー、なんて言って両手を振りながらふにゃりと笑った北上を無視して再び漕ぎ出した。
……またもクソもあるか。もう二度とごめんだ。
そう言ってやりたかったのに、不思議と口は開かなかった。
きっと家に帰っても、このハブステップは外さないのだろうと、少しだけ自己嫌悪。
× × ×
「いやどこまでついてくる気だよ……」
北上と出会った一年以上も前のことを思い出しながら歩いていると、もう家の目の前まで来てしまっていた。
こうして今まで何度も帰り道で待ち伏せされ、無条件で鎮守府近くまで送らされていたのだが、家までついて来たのは初めてだった。
「いいじゃん、たまにはさー」
「言っとくけどウチ誰もいないぞ」
父親は俺が小学生のときに病気で亡くなり、母親は俺が中学を卒業するほんの少し前に同じ病気で亡くなった。
だからたったひとりしかいないばあちゃんの家に転がり込んで来たのだが、そのばあちゃんも半年前に亡くなってしまった。
俺ひとりには広すぎる家と、十分すぎる財産を残して誰もいなくなったのだ。
「んー?」
「いや、んー? じゃなくて……はあ……。言っても無駄か」
どうせあれだ。北上相手に変な気起こしたり、ましてや北上さまが俺ごときに襲われるなんてことは到底あり得ないのだ。
ならもういい。飯でも作ってもらおう。
別に微塵も、これっぽっちもそんな感情は抱いていないがうまく操って通い妻にでもしてやる。
いやメイドだな。メイドでいい。
「まあ広い家だけど上がってけよ」
「いや謙遜しろし」
――北上は料理が得意だという前提で、晩飯はカレーがいいと伝えると、意外にも「おっけー」と二つ返事で台所へと向かった。
え、いいの? 「なんでアタシが」とか「お前が作れ」とか言われると思ってたんだけど、あっさりしすぎて逆に不安。
俺も別に料理が得意なわけではないが、いつでも止めに入れるよう手伝おうかと申し出た。
ふっ、と揶揄うように笑って、心配しなくていーから先にお風呂でも入ってなよって言われたから、もう素直に従うしかなかった。
湯船に浸かることも忘れて、多分十五分ぐらいで上がってパンツ一枚に肩からバスタオルをぶら下げて、台所に様子を見に行ったが当然まだできていなかった。
「うわ、流石に引くわー。ていうか信用無さすぎでしょ」
俺の裸を見ても乙女的な反応は示さず、どころか「うざいなー、あっち行ってて」と、追い払うように片手をひらひら動かしている。
季節は十二月。流石にこのままの格好では風邪をひいてしまいかねないので、言われた通り大人しくリビングへ向かい、着替えてソファに寝転がりテレビをつけた。
微かに聞こえてくる小気味よい包丁の音と、次第に香ってくる美味そうな匂いでテレビには集中できなかったし、きっと理由はそれだけじゃない。
どこか浮かれた感情が片隅に存在していて、それを必死に振り払っていた。
……勝手にエプロン使ってんじゃねーよ。
「ほい、北上さま特性カレーだよー」
「おお、とりあえず見た目はまともなんだな」
軽く嫌味ったらしいことを言ってみたが北上は気にする風もなく、黙って俺の真正面に腰を下ろした。
なんか調子狂うなあと、表情を窺っていると目が合い、冷めるから早く食べろと急かされた。
悔しいが普通に美味かったし、おかわりまでしてしまった。納得がいかない。
「……なんだよ」
食器を下げるため立ち上がろうとした俺を、じーっと見つめていた北上は不意に立ち上がり距離を詰めてくる。
キスでもするんじゃないかってくらい顔を近づけてきたかと思えば、そのまま俺の左頬をぺろりと舐めた。
「────ッ!」
膝で思い切り机を蹴った。ガタンと、大きな音を立てて揺れた机が、上に乗せていた皿とスプーンを動かし、カランと、小さな音を立ててスプーンが床を叩いた。
「は? え、なに……あんた……なにして…」
「大袈裟だなー」
「いや、え……? マジで、意味わからん……」
「ごはん粒ついてたからさー、取ってあげただけじゃん」
やっぱり変人だ。なに考えてんのかわかんねえ。
普通しない。そんなこと彼氏彼女でもしない。よっぽどのバカップルか、漫画やアニメに影響受けた奴ならするかもしれないが。
いや百歩譲ってそういう関係なら別になにをしようがそいつらの勝手だけど、俺とあんたは違うだろ……。
「なんだそれ……。誘ってんのかよ……?」
「そんな度胸あんの?」
「……なめんなよ」
「いーよ。抱いてよ、アタシのこと」
普段の北上がそう言ったなら、迷わずその誘いに乗っていたかもしれない。なんだかんだ言いながら俺は北上を女性として意識している。
でも時折見せるそのひどく冷たい表情は、とてもそんな気にはさせてくれなかった。
ずっと踏み込むつもりなんて無かったのに、ほんの一瞬だけ見せたあんたのあまりに苦しそうな口元が、余計なことを言わせるんだ。
「提督に、なにかされたんだろ」
本当は薄々気づいていた。今日だけじゃない。ずっと耐え続けてきたのだろう。
でもあんたは自分からはなにも言わないから、俺もそれでいいやって、避け続けてきたんだ。あんたは強いから大丈夫だろうって……そんなわけないのに。
「全部教えてくれたら、抱いてやる。折れるくらい強く……離せって言われても、力いっぱい抱きしめてやる」
北上は一瞬呆気に取られたような表情を見せたかと思えば、揶揄うようにふわりと笑った。「そんな度胸あんの?」と。
――少し間を置いて、北上はぽつりとこぼすように話し出した。
もう随分前から提督には暴力を振るわれていたと。もとから部下に対して手をあげるような人間ではあったが、最初はそこまでひどくはなかったらしい。大規模な作戦で失態をさらし、小さなミスを重ねた結果こんな片田舎に左遷され、たったひとり残った北上に執拗に暴力を振るうようになったのだ。
別に大して痛くはなかったけどさ、初めて犯された日にはちょっとだけ泣いちゃったりもしたなー、なんて言って自嘲した。
今までずっと耐えてきたものは、聞くにたえないものばかりだった。
人は、どうしてこうも簡単に踏み躙れるのだろうか。誰しもが持っているものなのに、どうして玩具のように扱うのだろうか。
艦娘にだってあるに決まってるじゃないか。俺にはわかる。わかったつもりでいるだけかもしれないけれど、そうやって笑って見せても、嘯いたって……あんたの心はずっと泣いていたんじゃないか。
「……どしたの、急に」
約束通り、力いっぱい抱きしめた。
離してしまえば、雪のように溶けて消えていってしまいそうだったから。
「我慢しなくていい……。あんたは、艦娘は……戦うためだけに生まれてきたわけじゃない。もっと自分を大切にしなきゃだめなんだ……」
震える声で言った俺を見て、北上は揶揄うように「なに泣いてんのさ」と笑ってそっと背中に手をまわしてきた。
星の見えない夜にちらちらと降り出した雪が、辺りを少しだけ彩っていた。
いつもなら今頃北上に捕まって、中身の無い会話を飽きもせず繰り返しているのだろう。
ピクリとも動かなくなった目の前の男と、どろりとした生温かい液体がひどく気持ち悪い。
どうしてこんなことをしてしまったのだろう。他にやりようは幾らでもあったはずなのに、抑えられなかった。
時折見せるひとつの感情も無いあの顔で、黙って殴られている姿を、黙って犯されている姿を想像すると――これ以外に方法は思いつかなかった。
「なに……やってんのさ……」
昨日の今日だ。いつもの時間になっても帰って来ない俺に、無駄に鋭い北上は気付いたのだろう。
珍しく息を切らし、瞳孔を開いてこちらを見つめていた。
「俺……」
そんな北上を見て、ようやく現状を理解できた。
その瞬間、手も足も、身体さえも震えて、どこにも力は入らなかった。手にしていた血塗れの包丁が、床に叩きつけられ、カランと乾いた音を響かせる。
この先どうなってしまうのかよりも、今この瞬間がなにより恐ろしくて、血と共に染み付いた、人を刺した感触が……消えない。
「どうすれば……俺……」
ガタガタと情けなく震えている俺を見て、北上はなにも言わず黙ってこちらへと近づいてくる。
もう怖くて、北上がどんな表情をしているのかさえ見れなかった。
そんな俺を、意外にもふわりと優しく抱きしめ、まるで小さな子供をあやすように頭を撫でた。
「ごめんね」
きっと、謝らなければいけないのは俺の方なのに、面倒くさがりの彼女は何度も謝った。
おどけた様子も、気怠げな声もなく、血だらけになって汚れた俺の身体をただ抱きしめて。
「どこか……遠くに行こっか」
昨夜から降り出した雪は、朝には止んでいたがもう足首の高さまで降り積もっていた。運び出した死体は海の底に沈めて、あてもなく歩き出す。
きっとすぐに見つかる。そしたら俺はどうなるのだろう。殺した相手が相手だ。考えるまでもないか。
今こうして北上がしてくれているように、その手を引いてどこか遠くへ連れ出せていたら、幸せな未来もあったかもしれない。
「うひー、もう結構歩いたってのに、ホテルのひとつも見当たらないじゃん……」
「まだ二十キロかそこらだろ」
「もーやだー。疲れた、おんぶして」
「あんたいい性格してるよ、マジで」
ぶーぶーと文句を垂れる北上を見ていると、ほんの少しだけ気分が和らいでいく。
今更悔やんだってなにひとつ消せやしないけど、つくづく思う。厄介な奴と知り合ってしまったと。
「おい」
「……なに」
「おぶってやるよ。感謝しろ」
「アタシの方が強いのに?」
「あんた力は強いけど体力は無いからな。その胸と一緒で、まったく無い、なんて。ハハ……ハ……」
「あ?」
「いえ、すいません……」
多分、今まで見た中で一番冷たい目をしていた。
――おぶってみると、やっぱり北上は軽かった。見た目通りの体重で、本当に艦娘というのはわからないことばかりだ。
いい匂いはするけど背中に当たる感触は薄っぺらいし。
なんて失礼なことを考えながら歩いていると、また雪が降り出してきた。
「うわ、最悪じゃん」
おぶられているだけの北上は、寒いとか冷たいとか、後ろでずっと騒いでいた。
あまりにうるさいからもう気にしないように、帰り道にいつも口ずさんでいた大好きな曲を、小さく口ずさんだ。
僕らをそっと包み込んでゆくよ――優しく
いつの間にか北上は静かになっていて、眠ってしまったのかと思っていると、耳元でそっと問いかけてきた。
「……なんて曲?」
「雪の足跡」
「ふーん。へたくそ」
「ほっとけ」
そこから更に十キロほど歩いたときにはもう俺の体力は完全に尽きていて、女の子におぶわれている情けない男の姿があった。
そしてようやくホテルを見つけ、そこで一泊することにした。ビジネスホテルではなくラブホテルだったけど、屋根のある部屋で眠れるならなんだっていい。
なにより先に風呂に入りたい。
「俺先に入っていい?」
「どーぞ」
AからDまでランク付けされていた、一番下のDの部屋を借りた。料金が安い分、内装は普通のビジネスホテルとさほど変わりは無い。
ひとつ変わったところをあげるとすれば、シャワールームがガラス張りになっていて、ベッドルームと繋がっているところ。モザイクガラスなので中はハッキリとは見えないが、少々気恥ずかしい。
「覗くなよ」
「はよ入れ」
北上は片手をぶらぶらと動かし、ため息をついていた。
なんだそのむかつく反応は。
言われた通りシャワールームへ向かい、服を脱ぎ散らかして風呂に入った。
頭と身体をものの数分で洗い終え、湯船にダイブする。この瞬間が至高。生き返る。
三十分ほどシャワールームを独占し、バスローブに着替えてベッドルームに戻ると、意外にも大好きな曲が流れていた。
北上はベッドの上で寝転がりながら、うろ覚えではあるがしっかりと音程を合わせて口ずさんでいる。なんかむかつく。
「どしたのそれ」
「ふふん。ダウロードした」
携帯片手に、得意げに笑った顔がまたむかついた。現代っ子め。まあなんだ、気に入ったというならCDを貸してやらんこともない。そのアーティストの曲はシングル、アルバム全て揃えているからな。
おら、貸してくださいと懇願しろ。
「風呂空いたけど」
「おぉ〜、じゃ、アタシも入りますかねー」
言ってダラダラとシャワールームへ向かったのを見て、北上の携帯を手に取った。
今のうちに俺の好きな曲全部ダウンロードしてやる。
そうしてポチポチと携帯をいじっている間に北上が風呂から上がり、バカなのか、バスタオル一枚身体に巻いただけの状態で出てきやがった。
「なにしてんの」
「いやそれは俺のセリフ」
自分の携帯をいじられているのだからそりゃそう言いたくもなるだろうが、俺も言いたい。バスローブ置いてあっただろ。
「すぐにヤレるよーにって気を利かせてあげたんだけど」
「ばっ……か……なに言ってんのあんた……」
「全部教えたら抱いてくれるって約束したじゃん」
「いやしたけど……。そういう意味じゃないだろ」
北上はベッドに腰掛けていた俺の隣に座り、右手で俺の頬に触れた。
「目閉じなよ。キスしたことないの?」
「は? あるわ、百回ぐらい」
「もっとマシな嘘つきなよ……」
はあっとため息をついてから、ゆるりと唇を近づけてくる。俺と同じシャンプーの匂いと、微かに聞こえる息づかいに緊張してしまって、目を閉じるどころではなかった。
初めてのキスが艦娘とってのも貴重な経験ではあるな、なんて考えていると、若干歯が当たった。
「え?」
「……いやあ、これは、なんですかねえ……」
珍しく頬を染めて目を逸らした北上がめちゃくちゃ可愛く見えてしまったのは、多分言うまでもないだろう。
「え、なに? キスしたことないの? ん? んんー?」
「うるさいなあ、クソガキ……」
「うひー、こりゃ失敬」
当然煽り散らかした。そりゃもう鬼の首でも取ったかのように。
だって本当に嬉しかったんだ。仕方ないだろ。
俺たちは大切なものばっか奪われてきたけど、なんだ……まだまだ残ってるものもあったんじゃないか。
――もっと早く教えとけよ。そんな顔できんならさ。
「あんた、今まで見てきた誰より可愛くて綺麗だ」
ふっ、と揶揄うように笑って、その場に押し倒した。
……好きだ。
きっと……いや絶対、もうこれ以上誰かを好きになることなんてない。一生涯俺はこのひとを愛していくのだろう。
気怠げな声も、時折見せたひどく冷たい瞳も、薄っぺらい胸も、初めて見せてくれた恥ずかしそうなその
「電気くらい……消しなよ……」
一度だけじゃ飽き足らず、二度三度と身体を重ねた。
その温もりを全て欲しがったから、死ぬほど疲れていたのに止まらなかった。
もう無いのだと知っていたから、今夜だけは離せなかった。
× × ×
ホテルを出る頃には雪は止んでいて、海沿いをふたりで歩いた。
十数メートル下で、波が叩きつけられる音が響いている。隣で、それにかき消されてしまいそうなほど小さな息づかいが聞こえる。
風が止んで、俺たち以外誰もいなくなったように感じられる世界の片隅で、彼女はそっと俺の左手を握った。
「最後にさあ、なんかしたいことある?」
覗き込むように首を傾け、ふにゃりと笑って見せた。重なった彼女の手のひらから、手の甲に伝わってくる熱が、確かな終わりを告げている。
「なんでも叶えてくれるのか?」
「アタシにできる範囲でならいーよ」
「じゃあ、握り返してもいいか?」
「あー、それは無理」
それは無理ったって、彼女の方からこの重ねられた手を離してしまえば、もう二度と触れられないことはわかっている。
今感じている熱だけが、唯一彼女と俺を繋ぐものだった。
「じゃあ、抱いてもいいか? エッチがしたい」
「んー、それも無理」
なんだ今さら。もう既に何度も身体を重ねているのに、どうして断るんだ。まあ、言っておいてなんだが別に俺もそんな気分ではない。
他になんか無いの? って、半開きのじとりとした瞳が問いかけてくるが、これといって思い浮かぶことは無かった。
「ずっと一緒にいたいだとか、あんたと出会ったあの日に戻りたいだとか、そんな叶わないことしか浮かんでこないんだ」
「……もっとあるでしょーよ。ほら、キスがしたいとか」
「あー、それは無理。したら多分、止まらなくなる」
「うへぇ、若いなあ」
「ほっとけ」
しばらく歩くと、彼女は握っていた手を離し、「またね」と小さく呟いた。
降り注ぐ陽の光に溶かされ始めた路面の雪に、歩幅の異なるふたりの足跡が並んでいる。
ここまではふたりだった。
ここからは――
やっぱり、どうしたって納得できないと、いつまでも縋るように立ち尽くしていた俺の頭を優しく撫でて、ゆるりと微笑んだ。
……どうか、行かないでほしい。叶わないことも、許されないこともわかっているけれど……どうか、いつまでも隣にいてほしかった。
「もう行くけどさ、ちゃんと前向いて歩きなよ」
そう言って、彼女は俺の迷走神経を打った。
× × ×
目を覚ますとそこは見慣れた自室のベッドの上で、隣には誰もいなかった。
なにもかもが終わったのだ。最後の願いも決められず、戻らない時の中で、クシャリと前髪をかきあげた。
ああ、そういや――叶えてほしいことが、叶うことがひとつだけあったんだ。
何度も重ねたその唇で、気怠げな声で、一度でいいから……俺の名前を呼んでほしかった。
……もう、叶わない。
嘲笑うかのように、綺麗な光でもって空を照らす星降る夜に、きっとこの人生で最後になるだろう涙を流しながら苦笑した。
これから先誰と出逢っても、どんな出逢い方をしても、あんたが消えない。
若いんだから引きずるなって、アタシのことなんて忘れて良い恋しなよって……なに言ってんだ。誰のせいでこんなに好きになったと思ってる。誰のせいでこんなに苦しいと思ってる。
どうして――
「あんたが大事すぎる……」
「さいってーの作戦ね。脳みそ入ってないんじゃないですか?」
「あー、うるさいうるさい。なんも聞こえねー」
あの日から毎日手紙を書いている。
送り先の住所はただ遠く、不明瞭だから何処へにも行けないが、中身だけは届いているはずだと信じて書き続けてきた。
『いきなりですが今日も大井がうざいです。作戦は成功したし、誰ひとり轟沈はしていないのだから褒めてくれてもいいと思うんですがどうですか?
帰投するなり第一声が罵声だと流石にきつい。あなたのようにもっと力を抜いて、あなたほど適当になられても困りますが、もう少しくらい不真面目でもいいんじゃないかなって。
まあ、見ての通り今日も今日とていびられながらも気合い入れて頑張ってますよ。
あなたがくれた人生だから、捨てずに生きようと、柄にもなく精一杯。
書ききれないほど愚痴と鬱憤は溜まっていくばかりだから、いつかまた出逢えたら、面倒くさいと嫌がらず、聞いてもらえますか?』
「チッ。バカな上官だと本当に苦労するわね」
「よしお前表出ろ。今日こそわからせてやる」
「は? きもっ」
近年、パワハラという言葉をよく聞くようになった。言動ひとつ取ってもそうだが、気を付けなければいけないことがあまりに多すぎる。
ところで大井の俺に対する口の悪さはパワハラに該当すると思う。
まあ秘書艦だし? その上旗艦まで務めてもらっておいていうのもなんだが、こいつそろそろ左遷しようかな。
「お前さあ、もっとこう……無いわけ? 俺に対してのリスペクトとかさ」
「は?」
ああ、怖いから。その目つきやめて。
「そんなものあるわけないじゃないですかぁ」
「ですよねぇ。俺もお前のこと大嫌いだし」
にっこにこの、満面の笑みで言った大井に対し、俺も超笑顔で返してやった。
――北上が解体されたあの日から今日までずっと、球磨型軽巡三番艦、北上は生まれていないらしい。
大本営、延いては国家に牙を剝いたとされている彼女は、危険因子として扱われている。
本当に死ぬべきは俺だったはずなのに、その全てを背負ってくれた彼女を止められなかったことを、未だに悔やみ続けている。
でもそしたら彼女はきっと、笑ってこう言うのだろう。
「ちゃんと前向いて歩きなよ」って。
わかってるよ。長い人生だけど、もう少しだけあんたのいない世界でやっていくよ。
「……うわ、きもっ。なにひとりで笑ってるんですか? きもっ」
「よし決めた。お前は左遷する」
ギャーギャーとうるさいこの秘書艦と、もう少しだけ。
そっと寄り添うみたいにもう少しゆっくり
一緒に帰ろう