シンプルな旅装なんて格好の癖に、茶器を持ち上げて口に運ぶ動作の一つ一つが洗練されている―――というか流浪者とは思えないだけの気品がその所作にあった。実際のところ、今の生活になる前はそれなりに良い所の生まれだったのだろうと思う。
センセイ―――龍殺しと俺は王都内の一角にあるカフェでテーブルを挟んで対峙していた。
俺の横にはプランシーが座っていて、最大限の警戒をセンセイに向けている。それもそうだろう、図書館にある遺物とは違ってこれは現代を生きる本物だ。神代から続いてきた技量と業の全てを継承した完全体とも呼べるだけの強さを持つ本物の龍殺し。
現在の人類最強と呼べる男だ。
こんなの、勝てる相手がいる訳がない。
だからプランシーは自分の命を捨ててでも俺を守ろうとするだろう。そしてこうやってカフェで紅茶を楽しんでいる間も、周辺に気配と姿を隠しながら続々と魔族が集まっているのが解る。俺の感覚に魔族たちの存在が引っかかる。
それをセンセイも確実に察知しているだろう。だがそれで焦る様な事はない。少なくともこの人はその程度で狼狽える様な精神性をしていない。だから緊張と警戒を疲労の中限界まで高めているプランシーを前に、余裕を崩さない。
そんなセンセイを、俺は頬杖をつきながら見ていた。目の前に置いてあるアイスティーのストローを軽く噛んでから口を放し。
「センセイって、普段は何をしてるの? 竜狩りでもしてる?」
「いや、そういう事はもうしていない。お前に刃を向けた日以来他の者に手を出すのは止めている。真竜の動向を監視しつつお前の足跡を追ったり、な」
「日常が退屈そう」
「退屈ではある。だが世を生きるとは大半の時がそういうものだ」
本題とは全く関係のない会話に、プランシーが冷や汗を浮かべている。何故この状況でここまでのほほんとしていられるのだろうか、と表情に疑問が出ている。俺からすれば、まあ、本当に殺すつもりなら初手で終わってるしな……という話でしかない。
少なくとも、龍殺しのセンセイは俺にとって人生の師なのだ。
傲慢を戒め、そして己のあり方を考えさせる存在なのだ。だから俺にとっては恐怖というよりは……もっと、違う感じのある相手だ。
そんなセンセイは俺を見て小さく息を零し。
「良い表情をするようになったな……あの雨の日は迷子にしか見えなかった」
「自分の道を見つけたよセンセイ。あの時は当たって悪かった」
「気にはしない。俺とお前の間にある約束はただ一点に集約している。お前が悪だと判断した時に斬る。それだけだ」
そう言って先生は紅茶を軽く口に含む。余り弁の多い男ではないのは見れば解るだろう。そういう意味では今日は良く喋っている方だろう。
「じゃあ―――俺を斬りに来た?」
話の流れで本題に直球で斬り込んだ。横でプランシーが静かに息を呑んだのが解る。周辺に待機している魔族たちも緊張しているのが空気で伝わる。直球で斬り込んだ話題に先生は直ぐに答える事をせず、紅茶を一度皿の上に戻す。
「お前は、動く事を決めたみたいだな」
頷く。
「自分から動かなきゃ世の中は何も変わらないって気づいたし、俺が動かなきゃそれだけで巻き込まれる人もいるって解った」
「理不尽なのは世の常だ。変えたければ自ら動き出すしかないのは道理だが……お前の存在は世界にとって大きすぎる」
その意味を理解しているか、とセンセイは問うてくる。その言葉に俺は頷いた。
「俺の存在は今の社会にとっては劇物だって解ってるよ。俺が生きているだけで不都合だって思う連中はたくさんいるし。俺がいなきゃ今の世が続かないってのも解る。そして俺にまつわる真実が世に出ればそれだけで崩れる所もあるだろうし」
俺がアルシエルの真実を世に放てば、それだけで困る所は結構ある。真実か否か、それは関係ないのだ。今の世の常識、その屋台骨が揺らぐと乱れるのは社会そのものだ。その混乱の中でどれだけの犠牲が出るのだろうか? 俺に巻き込まれて失われる事になる人の数は?
俺が動けばそれだけ混沌は広まるだろう。
……だからと言ってずっと慎重にやっていかなければならないのか? 我慢し続けなきゃいけないのか? 俺が割を食えばそれでいいのか?
「センセイ」
「……」
「俺、好きな人がいっぱいいるし、大事な人もいるよ。俺が生きているだけできっとその人たちには迷惑がかかるし、一緒にいる事のリスクもあるだろうって解るよ」
だけどさ。
「そう言う人と一緒に生きる事まで悪い事だって言われたくないよ」
もう、不可能だと解っているのだ。静かに、平和に生きて行く事は。ひっそりと誰にも関わらず生きて行く事なんて無理なんだ。例えグランヴィル家の人達と縁を切って生きようとしても、魔族たちが俺を利用するだろう。
そうじゃなくてもセンセイは生まれる前の俺を特定したんだ。同じことが出来る奴が他にもいるかもしれない。存在する、それだけで教会にとって不利益である俺は、どう足掻いても常に狙われる立場に存在するのだ。
そしてそれは俺の周辺にも向けられる。囲った罪、知っていても放置していた罪、ただ関わっただけの罪―――それだけで罪になるだけの認識と歪みが今の社会にはある。
パブリックエネミーというレッテルは決して軽くはない。俺はそこにあるだけで周りを巻き込んでしまうのだ。そしてもう、誰にも関わらず生きていくというのは不可能なんだ。
「センセイはこれ……悪い事だと思う?」
その問いに龍殺しは数瞬目を伏せてからそうだな、と呟く。
「約束を、覚えているか」
頷く。悪い子になったら斬りに来る―――脅迫にも思える言葉だ。だけど俺はその言葉に寧ろ、安心感を覚える。道を間違えた時、誰もがその道を正して貰えるという訳じゃない。だけど俺には、俺よりも強い人がいる。正す事が出来るだけの力がある人がいる。
それはある意味、救いでもある。
「雨の日の問いを、覚えているか」
頷く。マフィアと戦って、リンチを見て、殺して、存在意義に悩んだ日の事だ。あの時、死にたいと思った。どうして世の中はこんなに苦しみで満ちているのかと思った。どうしてここまで苦しまなきゃいけないんだろうと思った。
純粋に世界を呪って、呪いきれなかった。世界を呪うには好きなものが多すぎたし、本気で死ぬには好きな人が多すぎた。自分が中途半端だという自覚もあったが、それでも苦しみと絶望感に怒り、負の感情が抑えきれなかったのをセンセイにぶつけてしまった。
「答えよう」
恐らく初めて明確に、龍殺しが答えてくれた瞬間だった。
「生きる事に意味などない。苦しむ事に意味などない。ない―――そんなものはどこにも存在しない。与えられる訳でもなく、存在する訳でもない。それぞれが勝手に見出し、そして勝手に定義するだけのものだ。求める事そのものが愚かしい」
だが、と龍殺しは言葉を続ける。
「それを認められなかった男がかつて、存在した」
誰の事だろうか、と一瞬だけ考えた。だが直ぐにその口から答えが出た。
「―――父、アルシエルの事だ」
「はぁ!?」
「っ、少しお待ちください……教皇アルシエルが父であった、と!?」
割り込んだプランシーの問いに龍殺しが頷いた。アルシエルが生きていた時代は数百年というレベルではない程遠い過去の出来事だ。だというのに龍殺しはまだ、若い姿を残して生きているのだ、もしかして見た目以上に年を食っているのだろうか?
だがそんな疑問を無視して龍殺しが話を続ける。
「父は愚かな男だった。己の生に絶望し、己の存在に苦しみ、己の存在を憎んだ。常々口にしていた―――何故、何故生きているのだ、と」
「……」
「恐らく、お前もその言葉の意味は理解できるのだろうな」
向けられた言葉の矛先に、俺は頷いて返答した。両手を合わせながら親指をくるくると遊ぶように回す……ちょっとした居心地の悪さと不安が現れている。
「意味などないのだ。神々がそう言った。生きるという事はそれだけで意味がある事で、それ以上の理由等ない。自由であれば良い。奔放であって良い。それが生きる事だと、かつて神々は口にしたのだ……だがあの男はそれを認められなかった」
そして、アルシエルはこう口にした。
「認めない」
「……認めない、ですか?」
プランシーの言葉にそうだ、と龍殺しは口にする。
「認めない。死の先がある事も。生に意味がない事も。幻想が現実である事も。俺の人生はそれで良かったのに、それだけで十分だったのに、何故余計なものを与えた―――認めない、この世などというふざけたものを断じて認めない」
龍殺しの言葉の端からは、アルシエルという男の狂気が見えた。明らかにまともな言動ではないのだろうが、そもそもアルシエルは死を超えた事を自覚している男だったのだ。
恐らく、その際に心が壊れてしまったのだと思う。
「今の世はそんな男の狂言によって狂わされた世界だ。まあ、当の本人が世界を亡ぼす事を前提に動いたのだから当然と言えば当然か」
「聞けば聞くほど歴史的戦犯レベル上がるなぁ……」
「父はもう既に死んで魂も未練なく消え去っている、安心すると良い」
「そりゃあここまで世界をぼろぼろにしたら満足以外の何物でもないでしょ」
正直、良くやったと思うよ。アルシエルは人の身で神に反逆し、絶対上位である龍種を駆逐し、その上で世界の基盤と構造を破壊しつくしたのだ。消えない傷を残し、遅効性の毒を教育に混ぜ込んで、そしてそれが継承されるシステムを構築した。
悪魔だ、まさしく悪魔の所業だ。アルシエルという男が歴史的な大戦犯である事に間違いはないが、それでもたった一つの身で人も龍も神も狂わせて滅びへの道を作ったという事実は、その手腕は畏怖しなければならないものだ。
「思い出すと腹が立つなあいつ。満足して成仏してないで地獄に落ちろ」
「既に過去の事だ」
うーん、あのカス教皇。しかも最後の最後にトラップまで仕込んで真実を隠そうとする徹底ぶりだ、マジでどうしようもない奴だ。ただ、まあ、それは解った。
「結局のところ、センセイは何をしに来たんだ? 俺を殺しに来た訳じゃないんでしょ?」
龍殺しはその言葉に一度頷き、そして問うてくる。
「見極めに来た。あの時逃がした幼龍が、世界と向き合う覚悟を持つに至ったかどうかを」
思い出すのは最初の出会い、そして雨の日の出会い。もしかして、俺が気づかないだけでこの人は最初からずっと監視していたのかもしれない。そんな事を考えて、しかし軽く息を吐いて心を整えた。
「それで……センセイはどう思う?」
「少なくとも、迷いはしていない」
「そっか」
センセイから見て迷っていない様に見えるなら良かった。未だに自分の選択肢が本当に正しかったのかどうかは解らないが、それでもセンセイにこうやって迷ってはいないって言われるならきっと、自分の意志に対して嘘はついていないのだろうと思える。
そう、自分の気持ちに対して嘘をつくのはもうやめた。
「センセイ」
俺の言葉に龍殺しは視線を向けるが、口を開かない。言葉の続きを待つようにじっと視線だけを向けてきている。
「俺、この世界をひっくり返すよ」
「―――そうか」
重い、重い感情の込められた一言だった。俺の想像を超える長い年月を死と戦乱で彩って来た人生を歩んできたのだろう。そんな男が放った一言だ、軽いわけがない。それでも男は理解したように言葉を零し、目を瞑った。
「それがどういう意味なのかは、理解しているのだろうか」
「どうだろう。理解しているつもりで完全に理解できているとは思わないよ。だってほら、俺まだ若いし。たぶん沢山失敗するよ」
「それで失う事は怖くないのか?」
「俺、未熟だから困ったら助けてくれそうな人に泣きつくし」
「だから、頼ると?」
「頼らなきゃどうしようもないからね。センセイはそういうの嫌い?」
俺の言葉に龍殺しは黙った。
無敵、最強、人類の頂点―――そんなイメージを抱き続けて来た相手だ。だがそんな人でさえ悩み、苦しむ。そう、結局はこの人だって自分の行いに確信を持てない人間の一人なのだ。そんな事は今、目の前の人を見れば良く解る。
「……いや、困っているのなら助けあえるのは人の強みだ」
「なら、俺の事助けてくれる?」
「っ……!」
何をしようとしているのかを理解して、プランシーが息を呑んだ。龍と龍殺し、それは不倶戴天の敵だ。龍殺しはこれまで多くの龍を殺して、人類の世に貢献してきた。最後に残ったこの男は、その究極形とも言えるだろう。
それに、助けを求めている。
「俺に、言っているのか」
「うん、貴方に言ってるんだ」
しっかりと、目を見て言う。
「俺に傷をつけた責任、取ってよ」
「―――」
その言葉に龍殺しは一瞬呆気に取られたような表情を浮かべ、直ぐに表情を戻した。
「……お前は何を求める」
その問いに、迷いは必要ない。俺が今、求めているものはただ一つ。
「世界」
堂々と、それを宣言した。
感想評価、ありがとうございます。
恐らく作中で最もエデンに脳破壊をされている人物、龍殺しセンセイ。
その脳破壊っぷりはリアよりも重症とのうわさ。