剣を肩に担ぎながら洞窟に踏み込む―――感じるのは血と獣の匂いだ。
縄張りとしての主張か、或いはここに住んでいるか。臭気がだいぶ籠っているようにさえ感じられた。強烈な臭いというのはそれだけで精神と脳を疲弊させるものだ。あまり長居したくはない場所だと思いながらも暗闇に支配されていない滝裏の洞窟に踏み入る。
光を放つ苔らしきものが洞窟の壁面や足元には生えており、それが光源としてほのかに洞窟を照らしていた。少なくとも完全な闇が支配しているという事はなさそうだ。こつこつこつ、響く足音が俺の到来を奥へと告げ、その反響音洞窟がどのくらいの深さかを知らせてくれる。
洞窟自体はそう大きくないようだ。入口から入ると道が続き、その先が広間へと繋がっている。
そこで待ち受けるように赤いワータイガーの姿があった。もはや逃げ場はない。広間の奥へと続く通路の前に陣取るように立つワータイガーは異様な気炎を纏っていた。或いは不退転の覚悟、そうとも呼べる覚悟と気力の全てを今、ここで自分の体から引き出している。その理由は考える必要もないだろう。この先にあるものを守る為、ワータイガーは全力を超える力を出そうとしていた。それに対して俺がやる事は何も変わらず、広間の反対側で左手をポケットに突っ込んだまま、右手で刃を肩に担いだまま相手を見る。
「よお、年貢の納め時だぜ……まあ、そんな言葉こっちの世界にはないけどな」
「ぐるるるるぅ……!」
此方の言葉に反応するようにワータイガーは低く唸る。その姿勢は此方を狙う為にやや前傾に体を倒し、全力でスプリントする為に膝を折って左半身を前に出している。それは、まるで武人が構えを取る様な姿勢を見せていた。恐らくはここまで重ねて来た戦闘、それに対して自分の動きを最適化してきているのだろう。やはりこいつは異様に賢い。放置していればそれだけ被害が増えるだろう。だから絶対に、ここで殺さなきゃならない。
対するワータイガーも、俺が異常とも言えるレベルの強さを持ち、同時に凄まじく次元違いの存在である事を把握しているのだろう。その表情にはどことない苦悶が見て取れた。だが同時にその目は一切ブレることなく勝利へと向けて俺を睨んでいた。迷いはない様子で、逃げようとする気配もない。こいつはこれから命の全てを燃やし尽くして俺を殺しに来るだろう。
或いは、それでこそ漸く俺の鱗を裂くだけの力が出るのかもしれない。
俺も油断はしない。慢心もしない。俺の方が強いのは単純な純然たる事実だ。だがそれを理解した上で持てる力を発揮し、完全に殺す事だけを意識して動く。相手が全力を超えてくるのであればそれを踏みつぶす。そう、こいつにも守るものはあるんだろう。だが俺の目の前で人間を、人を襲ったのだ。衛兵を、俺を純粋に心配して止めようとしてくれた善き人を、だ。それだけで俺が戦うには十分すぎる。
「虎如きが……お前は逆鱗に触れたんだよ。触れちゃならない逆鱗に。虎如きが龍に勝てる道理があると思うか? ……祈れ。祈る間があるうちにな」
言い回しが少々詩的だったかもしれない。だが言葉は通じた。挑発交じりの宣告に対してワータイガーが命を燃やすように魔力を引き出した。凄まじいまでの魔力の圧縮を一気に血管へと流し込み、心臓が止まる様な魔力の負荷をワータイガーは無理矢理抑え込んだ。疑似的に龍と同じだけの身体構造を再現し、全身が破裂しそうな姿が見えた。
それにひるむはずもなく踏み出した。洞窟の地を蹴って一気に前へと飛び出す。同時に飛び出すワータイガーと正面からマッチする。振るう突きとワータイガーの爪の刺突、その先端がかみ合うように衝突し、ワータイガーの腕が大きく弾かれた。
その機を逃さず、素早く大剣を踏み込みと合わせて突き込む―――黒い残像に混じる白い軌跡が龍の顎を模す。一直線に食い殺しにかかる顎が刺突に弾かれたワータイガーへと向けられ、その肉体へと届く前に後ろへと下がら―――ない。
逆だ、ワータイガーが踏み込んだ。受ければダメージは必至。そうだと解っていながらも後ろへと絶対に進ませない。その意思だけで正面から刺突をワータイガーは受けた。そのまま脇腹からごっそりと肉が消し飛ぶように抉れ、内臓と肋骨が露出する。だがそれに構う事無くワータイガーの逆の手が此方の首へと向けて振るわれる。肉を切って骨を断つ、自分の命そのものと引き換えにした戦術。それが一撃だけワータイガーの一撃が首へと届く事を許そうとしていた。
が、俺も馬鹿じゃない。体が頑丈だから、と受けてやる義理はどこにもない。
突き出した剣をそのまま戻さず、斜め上へと斬り上げるように振るい、ワータイガーの攻撃が届く前に体の間に刃を残された腕に合わせて滑り込ませ、胴体を裂きながら腕を切り飛ばす。ワータイガーの渾身の一撃が不発に終わり、よろめく姿に追撃を入れる。
横薙ぎの打撃を叩き入れれば腹から腸を零しながらワータイガーが吹き飛び、洞窟の壁へと叩きつけられる。腹から腸を、脇から肺を、片腕を欠損したワータイガーはそれでも体を震わせながら立ち上がろうとする。状況が状況なら感動的なお話として楽しめたかもしれないのだが、
こいつは、
害獣だ。
大剣を掲げた。
「避ける必要はねぇよ、どこにいても当たるからな」
ゆっくり振り下ろす動作に合わせてワータイガーが気力を振り絞って横に跳躍して逃げた。だが刃の振り下ろしと共に
当然、ワータイガーは既に回避動作を成功させていた。横にズレ、斬撃の射線から外れている。それでも振り下ろされた刃は、空を切っているようで黒い線が―――蝕みの結晶が斬撃として刻まれるようにワータイガーの頭に突き刺さっていた。
それは腕を振り下ろす動作に合わせてワータイガーを頭上から両断するように生えて行き、
「もう会う事もないだろうよ」
振り抜いた。
「―――」
言葉も、その死を認知する事もなく真っ二つになってワータイガーが絶命した。真っ二つに割れたワータイガーの体はその断面が結晶化しているだけで、心臓も脳も潰れている。何をどう足掻いても死亡している。その体はもう、二度と動く事もないだろう。奥へと進む前にワータイガーの死体へと近づき、脈と生命反応を一応チェックを入れて、完全な死亡を確認した。
「良し、これで討滅完了だな」
漸く初めてのバウンティーハントが完了して、力を抜く為に深く息を吐き出した。しかし結果からすれば詰みまで4手、合計20秒に満たない時間だ。楽勝だったと言えば楽勝だったが、ワータイガーの気配はそれこそ一瞬の隙があればそこから逆転するだけの勢いはあった。とはいえ、結果は結果だ、これは絶対に変わらない事実でもある。ワータイガーは俺に一矢報いる事さえできない。それが全てだ。そしてこの戦いはそれで終わりだ。
「これで良し、と」
ワータイガーの死体もディメンションバッグに収納できた。これで討伐の証拠は十分だろう。
これで残されたタスクは、
「アレかぁ」
頭を掻きながら洞窟の奥、ワータイガーが必死に守っていた場所の奥を見た。僅かに狭まる入口からは奥の空間へと通じている。ワータイガーが自分の命さえも捨てて守ろうとしたものがそこにあるのだろう。戦闘の処理を終わらせた所で、大剣を肩に担ぎ直してそのまま奥へと向かって進んだ。もはや邪魔するものは何もない。
何の障害もなく、奥の空間までやって来れた。
そこは、一目見て解る巣だった。大量に落ち葉と草、そして枝を使って柔らかく整えられた巣を中心とした空間であり、そこに小さな虎の子達が眠っていた。誰もが親の様に赤い毛皮をしており、静かに寝息を立てていた。今、自分の親が直ぐ外で死んだことすら知らずに。それだけを見れば平和な空間だっただろうが、
その周囲には何個も人の死体が置いてあり、洞窟の床を赤く染めていた事が気持ち悪かった。臭いさえも血に酔いそうになる程濃い。そして人の死体も限界までまるで離乳食の様に限界までミンチにされ、潰され、ペースト状にされたものばかりだ。あまりにもグロテスクな光景に今までにないショックを受ける。覚えそうな吐き気をなんとか堪えつつ、周囲を見渡す。
「なんだ……なんだこれ」
無造作に積み上げられた死体と虎の子達の離乳食、だがその大半は手が付けられていない。虎の子達も良く見れば体ががりがりで弱っているように見える。これまで人の死を食わされてきた子供達のようには見えない。あのワータイガーがあんな行動を取っていた事には恐らく理由があるのだろう。
その原因を解明する必要がある。
臭いと景色に顔を顰めながら巣に踏み込み、見渡す。見えるものは死体ばかりで何か特別に見えるものは―――あった。
死体だ。
だが人の死体ではない。半分ミイラ化しているワータイガーの死体が、巣の一角に草と花のクッションに大事そうに座らされていた。ミイラの虎に近づき、膝を折って軽く見分する。触れてみれば水分が体から抜けきっていて、死んでからそれなりの時間が経っている事を証明する。雄か雌かを判断するのは少し難しいが、恐らくは雌。
「アイツの番か」
子供がいるのなら当然母親もいる。単一生殖型の生物じゃないのだから当然だろう。だがここで母親が死んでいるという事はつまり、離乳食以前にちゃんとした乳を与えられていないという事だろうか? いや、ワータイガーの子育てがそういう風なのかどうかは解らないが、
「番が何らかの理由で死んだから、乳の代わりに人の血を飲ませてたのか、こいつ……?」
悍ましい想像に頭を抱える。だけど現状、他の理由が見つからない。死んだ母親の代わりにあのワータイガーは必死に子供達を育てようとしてあんなに暴れ、殺し、喰らい、そして無理をし続けていた。その結果、些細なミスで俺という地雷に触れてしまったという形だろうか。こいつ、恐らく死ぬのは遅かれ早かれ確定していたんじゃないだろうか。
ただそれだけじゃ何故森のモンスター達に襲われず、指示を出せていたのかが解らない。
「とはいえ、そこまでは流石に俺の頭じゃ無理か」
ふぅ、溜息をついた。
疲れた。
肉体的にではなく、精神的に。
とはいえ、やる事はまだ残っている。
視線を巣の方へと向ければ、微睡から起きた子虎たちが可愛らしい声で鳴きながら何かを求めるように前足を振るっている。どうやらその目は何も見えていないらしく、虚空に向かって助けを求めるように前足を振るっているようだった。ただ言葉は解らなくても、その意味は良く解る。
お腹空いた。
助けて。
お父さん。
そう言っているようにしか、今の俺には感じられなかった。
「……」
可哀そうだと言えば可哀そうだろう。だけどこいつらは人の血を啜って育てられた。見た所、放置していても勝手に死ぬだろう。だが場合によってはあのワータイガーみたいな変異を見せて生き延びるかもしれない。そのかもしれない、でまた人が犠牲になる可能性がある。そうなってしまった場合、とてもじゃないが俺にはその死の責任を背負う事は出来ない。
だからどれだけ可哀そうでも、この子供たちはここで殺さなきゃならない。
だから巣を踏みつぶすように刃を手に近づく。足音に父親の帰還かと、そう思った子供達の鳴き声が響く。口を大きく開けて食べ物を、何か飲めるものを求めるようにぱくぱくと開いては閉じてを繰り返す姿を見つめ、思った。この向き合い方、そしてシチュエーション。それはどうしても、自分の始まりを想起させる。
―――今の俺と、ドラゴンハンターたちと一体何の違いがあるんだ?
足元、カリカリとブーツを掻いて噛みつく虎の子達は口に入るのであればなんでも口にするだろう。甘噛みにしか感じられないそれは今は力がないからそうでしかない。大きくなれば人の脚を食い千切って美味しそうに食べるだろう。これはそういう風に育てられ、そういう性根を備えているからだ。
だが龍だって、亜竜だって、そういう風に認識されている。だからドラゴンハンターたちは必死になって殺そうとしてくる。俺が今やっている事はまさにそれだろう。金、名誉、それはエゴイズムの象徴でしかない。生きる為に狩りに来たのではなく、富が欲しくて殺しに来たのだから俺はある意味では彼ら以下なのかもしれない。
「みぃ……みぃ……」
鳴いてくる虎を見て、大剣を振り上げた。
「それでも処理しなきゃ行けないのは……俺がワータイガーを狩った責任だな」
振り下ろした。
殺した。
次も殺した。
その次も殺して。
最後も殺す。
全部殺して動かなくなった。
「……」
動く生き物が消え去った洞窟の中で、勝った筈なのに感じる虚しさと苦しみに、溜息を吐き出した。
「あー……軽く遺品でも回収してギルドに持ち帰って……あぁ、親子の死骸も持ち帰るべきなのか? もうちょっとちゃんと話を聞いてから来れば……いや、そうしたらあの人は死んでたしこれで良いのか。……良いのか?」
解らん。ただ殺すのは凄い簡単だという事だけは解った。だから溜息を吐き、認めた。
「俺、冒険者に向いてないな」
悪夢に、また住人が増えそうだ。
感想評価、ありがとうございます。
ワータイガーを真っ二つにした必殺技、大斬撃・黒は結晶投影斬撃という技。相手に付与した結晶や、空間にエデンの魔力が多めに満ちている場合に発動可能。自分の攻撃による斬撃をそのまま相手の肉体へと結晶として投影する。性質上必中攻撃なので避けても無駄。
白と黒はどっちも見せ札。白は防御不可、黒は回避不可。接近すれば黒を防げるけど白を受ける。遠距離に持ち込めば白は見れるけど黒が避けられない。
知らぬ相手には初見殺しの塊。知っている相手からは距離のマッチコントロールが地獄なのにフィジカル最強で突撃してくる嫌すぎる相手。グランヴィル夫妻が立派に育てた。