無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
出会った日から、秕は咲と一緒にいる事が増えた。
クラスは異なっていたので学校で会えるのは部活の時くらいだったが、一緒に帰ったり、その途中にある駄菓子屋で(本来なら禁止されているのだが)買い食いをしたり、試験期間になると一緒に勉強したりもした。
長期休暇がやってくると、秕が琴音家に泊まる事もあった。咲は両親と母方の祖父母と五人で暮らしており、ごく普通の家庭で育っていた。
しかし、その普通は秕にないものだった為、とても新鮮だった。それと同時に、どうやっても掴めない星を目にした時のような寂しさを覚えたが、それは何とか悟られずに済んだ。
咲の家族は秕を暖かく迎え入れてくれた。最初の頃は、秕に関する噂をきいていたらしい母親がいい顔をしなかった事もあったが、それも次第に消えていった。
自分でも驚く事に、秕は咲の家族の前で礼儀正しく振る舞う事ができていた。といっても、我を出さずに事を荒立てないという意味の礼儀正しさではあったが、自分を完全にコントロールできていたのである。
これには秕も、そして咲も驚いた。しかし咲はそれを秕の成長と捉えてくれたようだし、秕もそう思う事にしていた。
醜い生き物ではなく、普通の人間に回帰しつつある……その事が、とても嬉しかった。
夜になるとひとつしかないベッドを譲り合ったが、どちらも自分の意見を通そうとしたので、妥協案として床に布団を敷いてふたりで寝る事にした。
普段よりも近い距離に、普段は見られない表情がある。それを眺めながら、秕は心中で呟いた。
(……全部、あんたのおかげだよ。咲のおかげで、あたしは変われたんだ)
ありがとう、と呟いて、深く眠る咲の頬にそっと触れる。
求めていた温もりが、そこにあった。
そんな事を繰り返しているうちに、季節は変わり、時間は過ぎていった。といっても、ふたりの関係はほとんど変化していなかった。
次に大きな変化があったのは、中学二年生の夏休みだった。全国吹奏楽コンクールで起きた事件をきっかけとして、ふたりの運命は大きく変わっていく事になったのである。
・ ・ ・
様々な偶然が手伝い、出場が叶った全国吹奏楽コンクール。
その本番で、咲がとあるミスをした。
ティンパニの配置を間違えてしまったのだ。
ティンパニには四つのサイズがあり、それぞれで出す事ができる音が異なっている。楽器を搬送し、ステージに配置する際にその順番を間違え、結果的に音が狂ってしまったのだ。
演奏はティンパニのロールから始まる。普段ならば、深海から浮上する潜水艦のような低い音で始まるのだが、その時に限っては数オクターブ高い音から始まった。
その時点で、全員が異常に気付いていた。しかし、緊張と混乱に包まれた咲にはそれを修正する余裕がなく、曲の前半は秩序立った音をティンパニの音が破壊するという結果になってしまった。
幸いだったのは、後半でティンパニを演奏する役割が秕に変わった事だった。前半の演奏をきいてティンパニの位置関係を正確に把握した秕は正しい順番でティンパニを叩き、前半部分のリカバリーを試みたのである。
そしてその結果は──銀賞。
講評には、「全体的な演奏は良かったが、前半のティンパニの音がおかしかった」と書かれていて、それをきいた咲は会場のロビーで倒れてしまった。
担架で運ばれていく親友に、秕は何も言葉を掛けられなかった。様々な要因が重なったミスで、よくある事とはいえないが想定できたミスではある。部員数の都合上、ティンパニの管理は咲だけに押し付けられていたし、彼女を責めるのは場違いだという事は分かっていた。
だからといって何を呪えばいいのかは分からなかったし、自分が怒りをぶつけるのも場違いな気がした。
しかし、他の部員たちは金賞を獲れなかった怒りを咲にぶつけると決めたようだった。
そして……その日から、咲にとっての地獄が始まった。
・ ・ ・
三年生が引退したあと、咲は部活での居場所を失った。
シカトから始まり、教師の目の届かないところでの肉体的・精神的な暴力……挙げきれないほど様々ないじめが咲ひとりに対して行われた。
結果として、咲は部活を退部せざるを得ない状況に追い込まれたが、部員たちの怒りは収まる事を知らず、吹奏楽部の団結力をフル活用して学校ぐるみでのいじめを行った。
それは中学を卒業してからも終わらなかった。SNSで拡散されていたあらぬ噂や悪評はどこへ行っても咲を苛み、それによるいじめも派生した。
それでも咲はそれを自分への罰として受け入れていた。秕は詳しく知らないが、家族には「何もない」と説明して元気に振る舞い、心配を掛けさせないようにしていたという。
だが、その結果として咲は呼吸をするだけの肉の塊と成り果てた。ありとあらゆる理不尽に苛まれ、とうとう心を病んでしまったのだ。
今の咲は自分がいじめを受けていた事は把握しているようだが、その詳細は大まかにしか覚えていなかった。あまりにも酷い出来事を躰が拒絶し、記憶に蓋をしたのだろう。
秕はそんな咲を懸命に支えた。できる限り、彼女への悪意を防ごうとしたし、いじめをしておいてのうのうと生きている部員たちの殺害を計画した事もある。
そんな秕に対しても、咲は辛そうな笑顔で「大丈夫」「巻き込んでごめんね」と言うだけだった。死の淵まで追い込まれても尚、他人を気遣おうとしたのだ。
しかし、そんな咲に対して、運命はあまりにも残酷だった。
咲が大学に入学してからも続いたいじめ。それが超えてはならない一線を超えた時、咲は完全に壊れてしまったのである。
・ ・ ・
高校卒業後、秕は冬天市内のアパートでひとり暮らしをしつつ、バイトを掛け持ちして生計を立てていた。
ある日の深夜、バイトから帰る途中に空が妙に明るい事に気付いた。火事である事は容易に判断がつき、火元が咲の家の方向である事に気付いて胸騒ぎを覚える。
自然と足が動いていた。咲の家までは走って十分ほど。途中、何台もの救急車やパトカーが秕を追い越していった。
息を切らし、咲の家へと到着する。深夜だというのに集まっている野次馬を見て、最悪の想像が現実になってしまった事を悟った。
野次馬を掻き分け、前へと進む。
そして最前列で目にした光景は──あまりにも残酷なものだった。
規制線の結界。
その向こうには、燃えて崩れた建物の残滓。
夢であってほしいと思った。
しかし、もう気づいている。
奇跡的に残った黒い物体。
それは見覚えのあるダイニングテーブルだった。
それ以外にも、既視感。
黒く焦げた机や棚、ピアノが散乱していて。
それら全てに、見覚えがあった。
野次馬がひそひそと話をしている。
救急隊員や警察の怒号が飛び交う。
そんな中、無造作に置かれた青い包みに気付く。
数は四つ。
人の亡骸。
その中身は容易に想像がついた。
包みの前で呆然と立ち尽くす、ひとりの少女。
その絶望に満ちた表情が、全てを語っていた。
声を掛ける事ができなかった。
自分も目の前の惨状に自失していたからだ。
自分を快く迎え入れてくれた、幸せに満ちた世界を思い出す。
目の前の惨状は、その成れの果て。
全て、灰燼に帰した。
後には何も残らなかった。
なにも。
それからの事はよく覚えていない。
気付くと、自分の
思考が停止し、上手くものを考える事ができない。
だが、余計な事を考える必要はない。
今考えるべきなのはひとつだけ。
咲を、どうやって深淵から連れ戻すかという事だけだった。
・ ・ ・
結局、この事件は不幸な事故として処理された。
しかし、秕は事件の裏に何かしらの悪意があると思っていた。野次馬の中にかつての部員たちがいた事に気付いていたからこその仮説だった。
といっても、どうする事もできない。それよりも、今は咲が心配だった。
彼女は事件の後、近所に住んでいた老夫婦の家に居候していた。躰よりも心の傷の方が酷く、しばらくは誰も会えなかった。
ようやく落ち着いたのは一週間後の事で、秕はすぐさま咲の元へと向かった。
咲が住んでいる家に向かって歩いている途中、前から見た事がある女性が歩いてきた。かつての部員のひとりで、咲を特に目の敵にしていた人物だった。
彼女は秕に気付いていないようで、そのまますれ違う。呼び止めようと思ったが、彼女が口元に薄らと浮かべていた笑みを見て、すぐさま家の中へと駆け込んだ。鍵はかかっておらず、家の中に老夫婦の姿はなかった。
一分ほどで殆どの部屋を調べ終え、残りは二階の奥にある部屋だけ。意を決してドアを開け──目の前の惨状に絶句した。
床は赤く染まっており、その中に咲が倒れていた。そばに落ちていたのは折りたたみ式のナイフ。先程の女が持ち込んだものである事は察しがついた。
秕は携帯端末で救急車を呼び、咲の傍に跪く。
なにか声を掛けなければいけないと思った。希望を呼び起こす言葉を言わなければいけないと。
しかし、口から出たのはこんな言葉だった。
「どうせ死ぬならあたしも連れていけよ」
自分で自分がコントロールできない。
表層の意志とは無関係に、根底の意志が言葉となっていく。
こんな事を言っても、意味なんてないのに……。
だが、その言葉は咲に届いたようだった。意識が朦朧としているなか、僅かではあるが首を横に振り、微かな声で何かを呟いたのだ。
いやだ。
あなたには生きていてほしい。
それは、確かに咲の意志だった。
その言葉をきいた秕は、再び奥底にある意思を伝える。
「なら、あんたも生きろ。それで生きてみて、死にたくなったら言え。その時はあたしも一緒に死ぬからさ」
咲は微かに頷くと、意識を失った。
遠くから、サイレンの音がきこえてきた。
結果として、咲は一命を取り留めた。
重傷ではあったが、すぐに救急車を呼んだ事が幸いしたらしい。
事件の方は、ろくな捜査も行われないまま自殺という事で処理された。また何かしらの力が働いたのだろうと推測する事はできたが、その証拠はどこにもなかった。
秕は毎日お見舞いに行き、面会時間が終わるまで咲の傍にいた。何か言葉を掛けようと思ったが、上手い慰めの言葉は見つからない。ただ傍にいるだけだった。
そして傷が癒え、咲が退院するという段階になって、秕はひとつの提案をした。
「行くあてがないんだろ?あたしのアパートで良ければ住んでもいいけど」
事件の後、老夫婦は咲を重荷に感じているようだった。それは秕も感づいていたので、このような提案をしたという訳だった。
「いいの……?」
「放っておく訳にもいかないだろ。家賃を折半すればあたしも楽になるし、それに……あんたはあたしの友達だからな」
その言葉をきいて、咲は信じられないというような表情を浮かべた。世界の全てが自分を拒絶していると、そう思い込んでいたのだろう。
だが、秕からしてみれば当然ともいえる事だった。自分は咲に救われている。これはその恩返しだし、何があっても咲を見捨てないつもりだった。
安心させるように頷くと、そのうちに咲の表情が変わった。
弱々しく縋り付いてきて、静かに泣く咲を抱きしめる。
しばらく、そうしていた。
・ ・ ・
その後、諸々の手続きを終え、ふたりは一緒に暮らし始めた。
咲は大学を休学し、家に閉じこもっていた。そうなる事は分かっていたので、秕はバイトを少しだけ減らし、咲といる時間を作った。金銭面には余裕があったし、そうした方がいいと思ったからだった。
そんな暮らしをしてしばらく経った時、とある事件が起きた。咲が、秕を
深夜で、寒い冬の日だった。いつも通り、咲に寄り添って寝ていると、隣で寝ていた咲が無言でこちらを見ているのに気付いた。
「咲? どうし──」
言葉は途切れ、地面に落ちる。
視界いっぱいに、咲の顔があった。
唇に柔らかいものが触れている。
それが咲の唇だと気付くのに、かなりの時間を要した。
熱が躰を駆け巡り、脳が蕩けるほどの快楽が全てを蹂躙していく。
数秒で唇が離れた。
思考が停止する。
咲は潤んだ瞳でこちらを見つめて、呟いた。
秕ちゃん。
ごめんね。
でも、もう抑えられない。
わたし、秕ちゃんとずっと一緒にいたくて。
それで、止められなくなって……。
言葉は途中から涙を纏う。
場違いにも、美しいと思った。
咲を静かに抱きしめる。
自分の口から出たのは、偽りのない正直な気持ち。
人として当然の行為だろう。
あたしは気にしていないから、全部ぶつけるといい。
それだけを絞り出す。
言葉とは裏腹に、自分も咲を求めていた。
それでもまだ、咲は戸惑っているようだった。
今度は、こちらから唇を合わせる。
密着。
吐息を感じる。
その熱さを知る。
感情の箍が外れていくのが分かる。
唇が離れる。
それでも収まらなくて、今度は咲の首や耳に唇をつける。
咲の躰が跳ね、声の欠片が漏れる。
見た事のない表情がそこにはあった。
それを見た瞬間、理性の糸が切れた。
自分で自分をコントロールできない。
コントロールしようとしている事すら、罪深い事に思えた。
そのまま抱き合って、お互いを求め合う。
打算。
欲望。
憐憫。
慈愛。
全てが混ざり溶け合う。
世界から孤立したような部屋の中。
ふたりで、全てのエゴをぶつけ合う。
これが正しいのかどうかは分からない。
歪で壊れかけた関係かもしれない。
それでも、止められなかった。
ふたりはずっとそうしていた。
ずっと。
・ ・ ・
その後、咲は復学し、バイトをして生計の足しにするようになった。
ふたりでの生活は大変な事もあったが、楽しかった。いつしか秕は、ずっとこんな生活が続いていけばいいと思うようになっていた。
しかし、ささやかだが楽しい生活は、ほんの些細なきっかけで終わりを迎える事になる。
・ ・ ・
ある日の夜、秕と咲は些細な事が原因で言い争いになってしまった。
今までの生活でこのような事がなかった訳ではない。しかし、そんな時はすぐに仲直りしていたし、お互いがお互いの地雷を知っていたので言い争いになる事自体が少なかった。
しかし、その日はバイトが過酷で疲れていた事もあり、無意識に咲の地雷を踏み抜いてしまった。友人が起こしたトラブルに咲が巻き込まれているという話の途中で、秕がその友人の事を悪く言ってしまったのだ。
咲が求めていたのは助言であり、悪口ではなかった。加えて、咲は友人への悪口を絶対に許さない人間だった。
秕は自分の失言に気付き、すぐに謝った。普段ならそれで怒りが収まるのだが、その日に限っては咲の怒りが収まらなかった。違和感を覚えるほどに怒りをぶつけてきたのである。
それで秕も腹が立ち、家を飛び出してしまった。その日はふたりにとって
しばらく頭を冷やそうと思い、夜の街を彷徨う。外に人はおらず、街灯の明かりだけが秕を冷たく照らしていた。
一時間くらい経ったら戻ろう──そう思った時、背後から声がきこえた。
「上手くいったみたいだねぇ」
誰だと思い、振り返ろうとする。
その前に後頭部を殴られ、意識が黒くなっていった。
最後に見たのは、街灯の明かりに照らされてニヤリと笑う人影だった。
・ ・ ・
目を覚ますと、見知らぬ場所にいた。
壁も床も全てが灰色で、様々な拷問器具が置かれている。自分は寝台に拘束されていて、それをひとりの男が見下ろしていた。長髪と薄汚れた白衣が目につく男だった。
「キミが逆浪秕ちゃんか〜。確かに、光くんに似ているね」
「……誰だ」
男が呼んだ苗字が気にかかったが、それよりも状況把握の方が先だと判断した。
秕が低い声で問うと、男はニヤニヤと笑い、思いもよらぬ事を口にした。
「キミの想い人を絶望に陥れた張本人、とでも言おうかな?」
「……どういう事だ」
「言葉通りだよ。火災や自殺未遂……キミたちのケンカまで、全部僕たちが仕組んだ事なのさ。ケンカに関しては
まあ仕組んだといっても、僕たちは頼まれて後始末をしただけなんだけどねと言って、男はひひっと笑った。
「後始末……? 事件が公にならなかったのはアンタたちのせいか」
「そういう事。キミが
それをきいて、秕の中に怒りが生まれる。
「そんな事のために、咲は家族を失ったのか……!」
「そうなるねぇ。ま、僕は満足できたからどうでもいいんだけどね」
それより、早く始めようよぉ〜──そう言って、男は秕に覆い被さり肢体を蹂躙しはじめる。
秕はその顔に唾を吐きかけ、「触るなゴミカス」と低い声で制する。それをきいた男は不愉快そうに顔を歪めたあとに笑い、秕から離れた。
「……キミは本当に嬲りがいがないんだね。美雪とは大違いだ……流石はあのクソガキと同じ一族なだけあるよ」
じゃあ、とっとと実験しちゃおうかと呟き、男は白衣から注射器を取り出す。
それを秕の右腕にあてがい、注射器で腕を破壊しようとするかのように強く突き刺し、中の薬液を注入する。
その痛みに思わず呻いたが、数秒後にはそれすらも忘れるほどの快楽が躰を駆け巡った。
それでも、秕は声ひとつあげなかった。舌を噛み、その痛みで快楽を打ち消そうとしたのだ。
しかし、躰が耐えきれずに意識が落ちていく。本能的に、ここで気を失ったらもう目覚める事はできないと悟った。
(……咲)
咲はまだ怒っているだろうか。
自分がいなくなったと知ったら悲しんでくれるだろうか。
……いや、きっと悲しまないだろう。仕組まれたものとはいえ、自分は咲と言い争いになってしまった。あんなに怒る咲は初めて見たし、自分を許すつもりはないだろう事は分かっていた。
……どうして、こうなってしまったのだろう。
ただ、咲と一緒に生きていきたいだけなのに……。
諦念に支配されながら、意識が消えていく。
世界が、再び色を失っていく。
最後に、一筋だけ涙を流して。
吹綿秕は、暗い闇の中に落ちていった。