無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
六月も後半に近づき、梅雨真っ只中となった、ある日の事。
小鳥は紗由や楓と共に、隣の市──
授業が終わった後に向かったので、時刻は十七時を少し回ったくらい。夕方にも関わらず人は多かったが、これはこの病院が県内最大級の病院である事に起因している。
目的はお見舞いだった。受付で手続きを済ませ、何度か足を運んだ事がある病室に向かう。
リノリウム張りの床を歩き、白いドアの前にたどり着く。その横にあるプレートには「木野葉月」と書かれていた。
「葉月さん、入るよ」
ドアをノックしながらそう言って、中に入る。個室だったが、部屋の主の他にもうひとり、先客がいた。
「小鳥ちゃん、紗由ちゃん、楓ちゃん……お見舞いに来てくれたんだ」
「あ、夢羽ちゃんも来てたんだ」
ベッドの脇に座っていたのはひとりの女性だった。ボブカットの白髪に蒼い瞳、小柄な体躯が特徴的な女性だが、歳は小鳥たちよりふた周りほど上である。
名を、
以前までは脚に怪我を負い、車椅子で移動していたが、美幸が治してくれたため、普通に歩けるようになっている。といっても喫茶店自体は店員とアルバイトで回していけるらしく、夢羽自身は経営に回っているとの事だった。
夢羽は微笑んで小鳥たちを迎え入れ、それからベッドで眠る少女に視線を移す。
灰色の髪は見る度に伸びており、それが生きている証である事を実感する。心電図の輝線は彼女が正常であると主張するように山と谷を形成しているが、目覚める気配はない。
少女──木野葉月が眠りについてから、一年以上が経過している。その間、夢羽をはじめとする多くの人が葉月を見舞い、閉ざされた意識に届くように祈りながら話をした。
しかし、葉月は眠ったままだ。最も、彼女が遭った出来事を思えばそれも当然ではあるのだが。
今日お見舞いに来たのは、少し前に喫茶店で交わした会話がきっかけだった。その時のメンバーはほぼ揃っているが、唯一、琴音咲だけはここにはいない。しかし、小鳥たちは心のどこかで安堵にも似た気持ちを覚えていた。約束を果たせた事により生まれた感情だろう。
葉月を囲みながら、しばらく他愛もない話をする。“HELLO WORLD”のメンバーはよく喫茶店に行くが、夢羽は葉月の見舞いや買い出しなどで忙しく、最近はあまり話せていなかった。それ故に、話題は尽きない。
そして会話の間が空いた時、小鳥が思いついたように夢羽にきいた。
「そういえば、葉月さんがどういう状況で事件に遭ったのかは、まだ調査中だったよね?」
「うん。犯人は捕まってるし、動機も判明しているけれど、葉月ちゃんがこんな事になっている以上、詳しい状況を調べるのは大変だと思う」
「犯人にきけばいいんじゃないですか?」
紗由が言うと、楓が「それは無理」と首を振った。
「犯人は獄中で自殺してるから、話はきけない」
「そうだったのか……というか、犯人って誰?」
「あ、それはあたしも気になる。夢羽ちゃんは何か知ってる?」
小鳥の問いかけに、夢羽は「それは……」と躊躇う様子を見せた。
「事件があったのは“HELLO WORLD”が結成される前だから、私たちには教えて貰えなかったんだよね」
「うん。だから夢羽ちゃんが何か知ってないかなって……あ、でも、こうすればいいのか」
紗由の言葉に頷いた小鳥は、夢羽の方をじっと見たが、やがて思いついたようにその視線を葉月へと向けた。
「なにかするの?」
「ロストアイで葉月さんの過去を視ればいいんだよ。少しは練習したから、多分できると思う」
「ロストアイ……!? なんで小鳥ちゃんがそれを……」
驚いた様子の夢羽に、小鳥が事情を話す。異能研での検査の際に亮一と覚寺から言われた内容である。
それをきくと、夢羽は苦悩するような表情を浮かべた。言葉が見つからない様子の彼女に、小鳥は「じゃあ、やってみるね」と声をかける。
「……少しでも耐えられないと思ったら、すぐに能力を解除して。真実を知る事がいい事であるとは限らないから」
夢羽は真剣な表情になり、小鳥にそう忠告する。
それに頷いてから、小鳥は精神を集中させた。
まずは、“腕の中で眠る灯”を発動し、それにより出力を上げたうえで、ロストアイを発動する。時間はかかるが、何度も練習したのでだんだん慣れてきた。
目を瞑り、それから開く。赫と蒼の瞳が現れ、それを見た夢羽が息を飲んだ。
小鳥は葉月をじっと見つめる。すると、頭の中に映像が浮かんできた。
灰色だったそれはやがて鮮明になっていき、そして──
・ ・ ・
その日は天気雨が降っていた。
青い空から、透明な雨が降り注ぐ。晴れた日に傘を差しているのを奇妙に思いながら、葉月は喫茶店へと帰るために歩いていた。
外に出たのは買い出しのためだった。夢羽が動けるようになったので、彼女が出る事もあるが、それでもあまり負担はかけたくなかったのでなるべく店員が交代制で出るようにしていた。
喫茶店に勤め始めてから、長い時間が経過した。今ではすっかり業務に慣れ、充実した毎日を送っている。
無銘や夜月、茨羽らの子供もすっかり大きくなった。少し前までは赤ん坊だったのに、今では高校生。時の流れは早いなと思い、そんな思考に至る自分に苦笑する。
そういえば、自分も含めて周りの仲間たちは見た目にそれほど変化がない。もちろん、傷を負ったり髪型が変わったりといった変化はあるが、見た目は二十歳頃からあまり変わっていない。喫茶店に来る客は時間の経過と共に見た目が変化しているので、なおさら実感する。
どうしてだろう、としばらく考えるも、納得がいく答えは出ない。自分を含む仲間たちは表裏を綱渡りする事もあるので、そうやって駆け回っているうちに老化を忘れたのだろう、というよく分からない結論に落ち着いた。
喫茶店まではあともう少し。葉月は夢羽や柘榴と同居しており、今日の夕食担当は柘榴だった。柘榴さんの料理美味しいから楽しみだななどと思いながら、弾む足取りで進んでいた、その時──視界に、見慣れないものが映りこんだ。
路地裏へと続く入口の前に、男性が倒れている。赤茶けたコートを着ていたがボロボロで、生気がない。倒れている場所が場所なので、不良に暴行でもされたのだろう。
葉月が駆け寄ると、男は顔をこちらに向けた。どことなく、既視感を覚えるような顔に葉月は戸惑いつつも助けようとしたが、それよりも早く、男が嗄れた声を出した。
「葉月……か?」
「えっ?」
いきなり名前を呼ばれ、葉月は驚く。
意識にできた一瞬の空白を、男は見逃さなかった。ボロボロの見た目からは想像もつかないほど素早い動きで立ち上がり、葉月の背後に回って口を塞ぐ。
傘と買い物袋が落ちる。抵抗する葉月を物凄い力で抑え込むと、男はそのまま路地裏へと飛び込んだ。
・ ・ ・
路地裏の奥深く、広場のようになっているところまで来ると、男は葉月に馬乗りになって動きを封じた。押しのけようとするが、男の躰は鉄のように重く、抵抗は無駄に終わった。
男が顔を近づけてくる。既視感がますます大きくなる。
自分は、この男を知っている。
だけど、誰なのかは思い出せない。
そんな困惑を見透かしたわけでもないだろうが、男はニヤリと笑い、
「久しぶりだなぁ、葉月……俺の事、覚えてるか?」
その言葉に、記憶の井戸の蓋が軋み、壊れる。
溢れ出した記憶が整頓された時、葉月はその言葉を呟いていた。
「お父……さん……」
男──父親は「覚えていやがったか」と呟き、それから葉月の躰を雑にまさぐる。いやらしい手つきではなく、何かを探しているような手つきだった。
「な、何を……」
「持ってんだろ? 恐怖を実態化させる携帯型。出せよ」
「えっ……」
その言葉で、父親の目的を理解した。
葉月が螺鈿會にいた時に、創設者から渡された携帯型異能を狙っているのだ。
それは今も葉月が持っている。だが、とても危険なものであるため、使用は控えていた。
「あ、あれを使って、何をするつもりなの」
震える声でそうきくと、父親の表情が変わった。
ニヤニヤとした笑顔から、怒気を含んだ顔に……。
「ゴチャゴチャ言わずに早く出せよ! その為にお前みたいなゴミに会いに来たんだからよぉ!」
そう叫んで、一切の躊躇なく殴ってくる。
頬に衝撃が走る。首がちぎれるのではないかと思うほどの勢いだった。それに、金属バットで殴打されたかのように痛い。
意志とは無関係に、じわりと涙が浮かぶ。それでも、葉月は口を結んで抵抗の意思を示した。
父親は自分を捨てたろくでもない人間だ。彼に異能が渡ったら、どんな事が起きるか想像もしたくない。
父親は奇声を上げ、葉月を所構わず殴りつけた。
鈍い音と、骨が折れる音、そして葉月の絶叫が混ざり合う。それは街の喧騒に掻き消され、表の世界に届く事はなかった。
「俺は異能を手に入れた! なのにテメェは未だに異能を持たずにのうのうと生きてやがる! 無能力者に生きてる価値がないって、螺鈿で教わらなかったか!?」
父親の拳が鉄のように重いのは、異能のせいだとその時に理解した。といっても、どうにもならない。
あちこちの骨が折れ、顔は無惨な程に腫れている。眼球が潰されたらしく、視界は閉ざされていた。目が見えない状態で痛みを味わう事が恐怖となり、葉月を包んでいく。
腹に一撃を貰い、嘔吐く。吐き出した胃液は真っ赤に染まっており、父親は臓器を破壊した事を理解したが、葉月自身には分からない事だった。
胸にも拳が振り下ろされる。乳房がいとも簡単に潰され、折れた肋骨が心臓に深々と突き刺さった。その瞬間、葉月は勢いよく吐血し、それが父親の顔にかかった事で火に油を注いだ。
殺される。そう思っても、躰は動かない。それどころか感覚を失っていき、思考だけが鈍く動き続けるだけとなっていた。
誰か、助けて。
そう思った瞬間──怒りに染まった父親の拳が、勢いとパワーを増して葉月の顔面を潰した。
トマトを潰した時に果肉が溢れるように、頭蓋骨で守られていた部分がどろりと溢れる。
それを見てようやく正気を取り戻したのか、父親は荒い息を整えるのもそこそこに、葉月の服に手を伸ばした。
白いワイシャツは真っ赤に染まっている。父親はそれを引きちぎり、巧妙に隠されていた携帯型異能力を取り出した。
「やった……これで俺は……風読の幹部になれる!」
父親は狂ったような笑い声を上げ、葉月を何度も踏みつける。
そして、思う存分に蹂躙した後、何事もなかったかのように立ち去った。
後には、惨劇の跡だけが残された。
・ ・ ・
その後、帰りが遅い事を心配した喫茶店の面々によって、変わり果てた姿の葉月が発見された。
普通の人なら即死してもおかしくないほどの傷だったが、奇跡的に葉月は生きていた。
彼女が持つ異能──永遠に生き続ける異能のおかげで生き延びたのだろうというのが、異能研の見解だった。葉月自身も把握していない異能によって、彼女は救われた事になる。
駆けつけた美幸によって治療が施され、何とか一命を取り留めたが重傷である事には変わりなく、すぐに陽ヶ鳴総合病院に搬送された。
その後、長い時間を掛けて傷は癒えたものの、葉月が受けたショックは計り知れず、外界を拒絶するかのように眠り続けている。
そして、父親は犯行の後に逃走したが、すぐに異能対によって逮捕された。
しかし、その前に携帯型異能を使用してしまっていたため、結果として恐怖を形にした異能がいくつか実体化してしまった。男は黒幕や異能の行方については最後まで口を割らず、今も判然としていない。
* * *
「………り………小鳥!」
声。
どんどん近づいてくる。
それに導かれるように、意識が浮上していく。
「………鳥、大丈夫!? 小鳥!!」
声は大きくなり、そして──
「……あ」
小鳥は目を開けた。
視界に映るのは白い天井と覗き込む顔。どうやら、自分は床に倒れているようだ。
「楓……さよりん……夢羽ちゃん……」
掠れた声で名前を呼ぶと、三人の表情が安堵したものに変わった。
「よかったぁ……いきなり倒れたから心配したよ」
「大丈夫?」
まだ少し心配そうな楓と紗由に「大丈夫だよ」と答えようとして……小鳥は脳裏に展開された記憶に吐き気を覚えた。
「……っ!」
「小鳥ちゃん!?」
立ち上がり、一心不乱に駆け出す。
病室を飛び出し、ここが病院である事を忘れ、トイレに駆け込む。
そして、便器に胃の中のものを全てぶちまけた。
目から涙が零れる。
自分で自分が制御できない。
葉月に起きた事はそれほどまでに残酷で、展開された過去は現実としか言いようがないほど鮮明だった。それこそ、夢羽の忠告を忘れて過去に沈み込んでしまうほどに。
実の父親に暴力を振るわれて殺されかける……その現実に、心が耐えきれなかった。
小鳥は片親ではあるものの、親の愛を受けて育ってきた人間だ。テレビでそういった映像を見る事はあったが、ここまで鮮明に体験したのは初めてだった。
よろめきながら立ち上がり、トイレから出る。鏡に映った自分の顔はとても酷いものだった。
まだ上手く働かない頭を抱え、ふらふらとした足取りで病室に戻ろうとしたその時、背後から「小鳥?」と声がきこえた。
「こんなところでなにやってんだ?」
「顔色悪いけど大丈夫ですか?」
「和樹……叶……」
後ろから歩いてきたのは茨羽和樹と御剣叶だった。
ふたりの姿を見た瞬間、なんとか止めたはずの涙がまた溢れ出す。
「って、おい、なんで泣いてんだ……」
「お腹でも壊したんですか?」
「ちが、っ、あたし、葉月さんの過去を……」
途切れ途切れの言葉に戸惑いながらも、ふたりは小鳥に寄り添い、落ち着くように宥めてくれた。
そこを楓が見つけ、ふたりに事情を話した後、葉月の病室に移動した。
小鳥が落ち着いたのは、それからしばらく後の事だった。
* * *
「ごめん、もう大丈夫……」
ちり紙で鼻をかんだ小鳥はそう言って、深く息を吸い込む。
それからゆっくりと、自分が見た光景を話した。
「……それで、葉月さんはこんな事になった」
「風読か……」
和樹が複雑そうな表情でそう呟く。
「どしたの和樹、なんか変な顔してるけど」
紗由の言葉に、「変な顔で悪かったな」と返してから、和樹はこう言った。
「前の事件の事を親父と母さんに話した時、ふたりとも風読って言葉に過剰に反応してた。特に母さんは凄く苦しそうな顔してたから気になったんだ」
それから夢羽の方を向いて、
「夢羽さんは親父と母さんの事、昔から知ってるんだよな? あのふたりと風読家の間に何があったんだ?」
「それは……多分、本人からきいたほうがいいと思う。あのふたりが話さなかった気持ちも、私は分かるから」
夢羽はそう言ったきり黙り込んでしまった。
和樹は「そうか……じゃあ飯の時にでもきいてみるか」と頷いた。
「飯って?」
「今日は母さんの仕事が早く終わるから、家族で飯でも食いに行こうって話になったんだよ。翔一と帆紫もこの辺りにいるはずだ」
「そうなんだ……そういえば、叶はなんでここにいるの?」
楓がそう尋ねると、叶は肩を竦めて、
「剣道部の部員が練習中に倒れて救急車で運ばれたので、救急車に同乗してきたんですよ。大した事はなかったみたいでよかったんですけどね」
「なるほどね。まあとりあえず、この件は後でみんなにも周知しておこう。前の事件の事もあるし、いちどみんなで大人たちと話す機会を設けた方がいい」
「そうだね」
楓の提案に、高校生たちは頷く。
夢羽はその様子を見ていたが、ふと思い出したようにベッドサイドの机に手を伸ばし、そこにあったものを掴んだ。
「小鳥ちゃん」
「ん?」
「さっきの毒抜き……じゃないけど、ロストアイでこれを視てくれないかな」
「これって……」
夢羽が小鳥の手に握らせたそれは、マグカップだった。まだ新品で、使われた形跡はない。色は薄い青で、側面にはかわいらしくデフォルメされた羊がプリントされている。
「それは、とある人から葉月ちゃんに贈られたものなんだ。その人は今はどこにいるのか分からないけど、葉月ちゃんととても仲がよかった。もしかしたら、探す手がかりになるかもしれないし、悪い記憶じゃないから……」
「でも小鳥、さっきので相当疲れてるんじゃ」
紗由の言葉に、小鳥は「大丈夫」と答える。
「夢羽ちゃんがそう言うなら悪いものじゃないだろうし、それに……葉月さんがこっちに戻ってくるために、できる事をしたいから」
そう言って、小鳥は再び能力を発動した。
脳裏に灰色の映像が浮かぶ。やがて鮮明になっていくそれに引き込まれ、小鳥は再び過去へと落ちていった。
そこで見たものは──