無題奇譚〜Untitled tale〜   作:惰眠

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今回から幕間となります。


#31「新しい仲間」

 冬桜山で起きた騒動から三日が経過し、松ヶ崎高校は夏休みに突入した。

 生徒たちは学業から解放され、夏休みを満喫している。部活や補習のために学校に通っている者も多かったが、それらの予定で夏休みが埋まる事はない。大半の生徒は各々の方法で思い出作りに励んでいた。

 だが、夏休みにのみ現れる敵というものもまた存在する。

 七月も終わりに差し掛かり、生徒たちは次第にその存在を意識しはじめていた。

 

   *   *   *

 

 青空と白い雲。蝉の合唱と眩しい陽差し、アスファルトに揺らめく陽炎が夏の暑さをより引き立てている。

 この日は猛暑日で、あちこちで観測史上最高気温を記録していた。それに比例するかのように熱中症や熱射病で人が倒れ、お昼のニュースで大きく取り上げられていた。

 そんな暑さとは無縁な部屋で、夏休みの宿題に取り組んでいる少女たちがいた。

 

 

 クーラーにより快適さが保たれた部屋の中で、赤坂小鳥は数学の教科書とにらめっこをしていた。

 ノートには数式が書かれていたが、解はまだ導き出せていない。そもそも解き方が分からないので、必死に探している状況だった。

 苦戦しているのは小鳥だけではない。神永楓と御剣叶もまた、数学の教科書を凝視していた。

 

「はい、お茶。……みんな大丈夫?」

 

 皐月日夜宵が人数分の麦茶をテーブルに並べながらきく。それに対して、小鳥は座布団の上で胡座(あぐら)をかきながら「う〜……」と唸った。誰がどう見ても大丈夫ではない事が分かる反応だった。

 

「あーもう! 数学ってなんでこんなに難しいの!」

 

 ついに楓がブチ切れ、麦茶をひと息で飲み干した。本当ならテーブルをひっくり返したいのだろうが、他人の家なので我慢したのだろう。

 

「こんなの社会に出ても使わないじゃん! 四則演算ができればそれでいいじゃん! なんでこんな事しなくちゃいけないの!」

 

 楓の嘆きは最もだったが、残念ながらこの世は四則演算だけで渡っていけるほど甘くはない。夜宵は苦笑しながら楓を宥めた。

 

「……たいです」

 

 不意に、先程から一言も話していない叶が呟いたので、全員の視線がそちらに吸い寄せられる。

 叶はどこからともなく刀を取り出し、「もう勉強はいやです! 刀を振りたいです!」と叫んでがばりと立ち上がった。

 

「お、落ち着いて叶ちゃん!」

 

 夜宵は慌てて叶を止める。こんな狭いところで刀を振り回されたらたまったものではない。

 とはいえこのふたりを止めるのはプロレスラーでも難しい。猛獣のように唸る叶とブチ切れている楓を止めることに限界を感じた夜宵は小鳥の方を見たが、彼女は考えるフリをしながら寝入っていた。

 事態を収集させる事が不可能だと悟った夜宵にできる事は、人知れず溜息をつく事だけだった。

 

 

 やっとの事で三人が落ち着いたのは十分後の事だった。とはいえそれで勉強を再開したのかというとそうではなく、一度休憩する事になった。

 提案したのは夜宵だった。このまま進めてもその歩みは亀のように遅いだろうと思っての事だったが、妥当な判断であるといえる。

 

(やっぱり他に誰か呼んだ方がいいよね……)

 

 休憩に入り、リラックスする三人を横目に見ながら、夜宵はそう思う。

 といっても、誰を呼ぶのかという問題が浮上してくる。翔一と和樹は勉強より戦闘方面での修行に忙しそうだし、フレデリカはお務めがある。紗由や爽介はバイト(紗由の場合は依頼を受けての武器制作)があるし、帆紫と零導は受験生である。大人たちは仕事があるし、こんな事で異能対や瑞希の手を煩わせるわけにもいかない。

 旅行は予定を合わせ、八月の後半に行く事になっているので、それまでには夏休みの宿題を片付けておきたい。他のメンバーは大丈夫だろうが、この三人に関してはそれが難しそうだった。だからこそ夜宵が勉強を見ているのだが、ご覧の有様なのでどうにもならない。

 どうしようかと悩んでいた時、部屋の外で物音がした。物が倒れるような音だったが、ドスンという重々しい音ではない。トサリと書くと割と近いのだが、やっぱりどこか違う。

 物音をきいた一同は顔を見合わせ、それから首を傾げる。

 

「なんの音?」

「荷物じゃない? 宅急便とか」

「それにしては車の音がしませんでしたよ」

「それに、そんな軽いものを注文した覚えはないんだけど……他の部屋かな」

 

 なんとなく気になったらしく、小鳥が窓から外を覗く。すると部屋の前に、何かもこもこしたものがあるのを見つけた。

 

「なんだ、あれ……」

 

 外に出てみると、その正体が分かった。

 もこもこした茶色の毛玉で、てっぺんの毛はアホ毛のように跳ねている。

 さらに、その毛玉には口があり、目があり、耳があり、足があり、しっぽがあった。

 ……どう見ても、それは犬にしか見えなかった。暑さにやられたのか、口を半開きにして舌を出し、目は薄く閉じられている。

 

「わっ! なにこの子! 大丈夫!?」

 

 びっくりして、小鳥は咄嗟に犬を抱えあげ、部屋の中に入れた。

 

 

「どうしたの小鳥……ってそれ、犬?」

「この子が倒れる音だったんですね」

「うん……ってごめんよいちゃん、ここ、ペット禁止だったよね」

「今は緊急事態だし、大丈夫。それよりも、どうしよう……熱中症かな」

「犬にも熱中症ってあるんですか?」

「あるでしょ……とりあえず水飲ませて、あとはタオル濡らして躰拭くとかしかできないかな……」

「みんなペットは飼ってないんだっけ?」

 

 小鳥の質問に、全員が頷く。

 

「うーん、じゃあとりあえず水分補給だね。ここ、近くに動物病院ってあったっけ?」

「調べてみます」

「お願い。あ、よいちゃん、このお皿使ってもいい? 多分こういう平べったいものに水入れた方がいいと思うんだけど……」

「うん、大丈夫」

 

 小鳥は皿に水を入れ、犬の前に置く。

 すると犬はそれを飲み始めた。飲んでいるうちに意識がはっきりしてきたのか一心不乱に飲み続け、そしてそれが終わると──

 

『わぁっ!?』

 

 小鳥たちは驚いて声を上げた。

 犬が起き上がり、鳴きながら勢いよく跳ね回り始めたからだ。

 

「えっ!? もう復活したの!?」

「ただ喉乾いてただけだったんですね……」

「というか勢いがすごい! めちゃくちゃうるさいよ! 近所迷惑一直線だよこれ!」

「お、落ち着いて……」

 

 みんなで宥めるが、犬はきく耳を持たない。しっぽをちぎれんばかりに振りながら飛び跳ねている。

 そしてそのうちにテーブルに頭をぶつけ、気絶した。

 小鳥たちは急展開の連続で呆気にとられていたが、数秒後に状況を把握し、慌てて犬を抱き起こす。どうやら本当に気絶しただけと知り、ひとまず安堵する。

 

「……この子、どうしよう」

 

 犬を撫でながら、小鳥が誰にともなく呟く。

 

「首輪をつけてないし、飼い犬かも分かりませんね」

「でも、野生の犬ってこの辺りにいるっけ? 猫ならよく見かけるけど」

「それに、野生にしては人間慣れしている気がする」

 

 夜宵の指摘に、一同はどうしたものかと考え込む。

 そのまま四十秒ほど経過したあと、楓がひとまずの方針を口にした。

 

「今日って午後からはろわるの会議があったよね? とりあえずそこに連れて行って、みんなの意見をきいてみようよ」

「でも、教会だよ? この子を連れて行って大丈夫なのかなぁ」

「教会だからこそだよ。あそこは異能力者が集まる場所だし、なにか情報が得られるかもしれない」

「まぁ、このまま保健所に引き渡すのもかわいそうだしね。ふたりはそれでいい?」

「私は大丈夫ですよ」

「わたしも大丈夫」

 

 叶と夜宵が同意した事で今後の方針が決まり、ひとまず宿題を進める事にした。

 完全に寝入っていたらしく、出かけるまで犬が目を覚ます事はなかった。

 

   *   *   *

 

「……で、ソイツがその犬だと」

 

 午後になり、ますます暑くなった。

 しかし、“HELLO WORLD”のメンバーがいる教会の中は空調が効き、快適な空間が保たれている。

 そんな中で怪訝な声をあげたのは茨羽和樹だった。彼の言葉は小鳥たちに向けられたものだったが、視線は別のものを見ていた。といってもそれは和樹だけではなく、その場にいた全員がひとつのものに目を向けていた。

 みんなの視線の先にいたのはひとりの少女だった。ぼさぼさの茶髪に、犬耳が生えた小柄な少女。服装はTシャツとハーフパンツだったが、サイズがあっておらずぶかぶかだった。

 少女は眠そうに目を擦ってぼんやりとしている。みんなの視線を集めていることなど気にしていない様子である。

「でも、俄には信じ難いよ。確かに犬耳みたいなものはついてるけど……」

 茨羽帆紫が和樹と同じくらい怪訝そうな表情で呟いた。それに対して、小鳥が「でも、事実だし……」と呟く。

 実際、この少女があの犬である事は事実だった。教会に向かう途中で突然この姿に変化したのだ。その時に服を着ていなかったので、慌てて無題荘に戻って夜宵の服を着せた。このままだとまずいという思いと、フェイクニュースによって落ちた“HELLO WORLD”の信頼を更に下げる訳にはいかないという思いが混ざりあっての行動だった。

 小鳥と夜宵、叶と楓の顔を順繰りに見て、嘘をついている様子がない事を見て取った和樹は「まあ嘘にしてはくだらねぇし、そういう事があっても不思議じゃないか」と呟いた。

 

「でも、その子どうするの? 名前も分からないんでしょ?」

「異能を持っているのは確実だし、異能研に引き取ってもらうという手もあるけど……飼い主がいるなら見つけたいよな」

 

 朝倉紗由と鮮真翔一の言葉に、一同は難しい表情になる。

 

「私の教会で預かるという手もありますが……飼い主が見つかるかどうかは分かりませんね」

 

 フレデリカ・リンドヴルムの言葉に、朝倉零導が「そもそも、飼い犬かどうか調べるのが先だろう」と指摘する。

 

「うーん……でも、飼い犬だと思うけどなぁ。すごく人間慣れしてるもん」

「それに、あのおバカさ加減だと野生で生きるのは難しいと思う」

 

 楓の指摘に、「そうかもしれないけど……」と夜宵が苦笑する。

 

「とりあえず、仮の名前決めませんか? このままだと呼ぶのにも困りますし」

 

 叶の提案に、一同はやや迷ったあと頷いた。このまま考えていてもいい方法は浮かばないと思ったからだった。

 

「名前かぁ……ポチとか?」

「ありきたりすぎないか?」

「そっか……かずはどんな名前がいいと思う?」

「小鳥二号」

「……確かに似てるかもしれないけど、それだと犬か鳥か分からなくなっちゃうよ」

「じゃあ二号」

「なんの二号なんですか?」

「……じゃあ御剣はなにか思いついたのか?」

「毛玉とかどうでしょう?」

「さすがにかわいそうだよ……」

「じゃあ夜宵さんは何かいい案があるんですか?」

「えっ? えっと、もふりんなんてどうかな」

「……夜宵って、意外とかわいらしい名前つけるんだね」

 

 楓の言葉に、夜宵は顔を真っ赤にする。

 

「そ、そういう楓ちゃんは何かいい名前思いついたの?」

「あたし? そうだなぁ、ドーナツなんてどうかな?」

 

 ドーナツという単語をきいて、少女の犬耳がぴくりと動いた。それを見た楓が嬉しそうに言う。

 

「ほら、反応してる!」

「名前というよりは、ドーナツって単語に反応しているだけだと思うよ……」

 

 今まで黙っていた東爽介のツッコミに、楓は「そっかぁ……」と肩を落とす。

 と、目を瞑っていた小鳥が「……思いついた」と言ったので、全員がそちらを向いた。

 

「なんかいい案でもあるのか?」

「うん。きっと気にいると思う」

 

 小鳥はそう言うと、その名前を口にした。

 

「揚げ餅なんてどうかな」

 

 瞬間、ポンという音を立てて少女が犬の姿に戻った。しっぽをちぎれんばかりに振って跳ね回る。

 

「本当に犬になった! ってあれ、喜んでるって事は……」

「うん、これで決定みたいだね!」

『えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ…………』

 

 小鳥と犬を除く全員が肩を落とした。普段はそんなリアクションに関わらない零導やフレデリカでさえ、それはどうなんだという目で小鳥を見ている。

 

「いや、さすがにそれは……」

「絶対揚げ餅食いたいだけだと思うぞ。というか犬に揚げ餅与えていいのかよ」

「いや、だって色味が似てるし……」

「ならまだドーナツのほうが理解できるわ!」

 

 神聖な場所であるはずの教会で和樹が高らかにツッコミを入れる。といっても“HELLO WORLD”の面々とフレデリカ以外には人はいなかったのでさしたる問題ではなかった。犬を連れ込めたのも、人がいないからである。

 揚げ餅(仮称)は人間たちのやりとりを意に介さず、辺りの匂いを嗅ぎ回っている。なかでも小鳥がお気に入りらしく、小鳥のそばにいる回数が多かった。アホ同士、相通じてしまったのだろうと一同は思ったが、口にせず。なんとか名前を変えようと奮闘していた。

 その時、教会の扉が開き、ひとりの少女が入ってきた。気づいたフレデリカが声を掛けようとしたが、それより早く、少女は揚げ餅(仮称)に近づくと、抱きかかえてこう言った。

 

「ここにいたんだ、菫。まったく世話が焼けるわんこだよお前は」

「菫……って、え? この子の飼い主?」

 

 小鳥が驚いた声を出すと、少女は「もしかして、コイツを拾ってくれたの?」ときいた。

 

「あ、えっと……」

「無題荘ってアパートの前で倒れていたんです。それで、どうしようか迷ったんですけど、ここで用事があったのでとりあえず連れてきて、どうしようか話し合ってる途中だったんです」

 

 爽介が澱みなく答えると、少女は「なるほどね」と頷き、にっこりと笑顔を浮かべた。

 

「菫を助けてくれてありがとう! コイツ、僕のところの犬なんだけど、三日前に脱走して行方不明になってね。どこかで野垂れ死にしてるんじゃないかって心配していたんだ〜。いやはや、こんな優しい人たちに拾われて、ラッキーわんこだなお前は」

 

 少女の体躯は小柄で、ショートボブの金髪と蒼い左目、そしてアホ毛が特徴的だった。右目は黒い眼帯に覆われており、どこか底知れない雰囲気を醸し出している。

 揚げ餅(仮称)の方を見ながら、紗由が尋ねた。

 

「じゃあ、その子は菫って名前なんだ」

「そうだよ〜。首輪も名札も付けてないから戸惑ったよね」

「まあな。コイツ、この犬に揚げ餅って名前付けてたし」

「揚げ餅!? あははっ! センスあるねきみ! そういうの嫌いじゃないよ〜!」

 

 少女は和樹の言葉をきいて笑い転げる。小鳥は顔を赤くして「だって揚げ餅みたいな色してたし……」と弁解した。

 しばらくして笑いが治まった少女は涙を拭いながら、「いやぁ笑った笑った」と息をついた。

 そして揚げ餅もとい菫の目を見る。菫も少女の目を見て、見つめ合う形になる。

 少女が菫に小声で話しかけ、菫はワンと鳴いてそれに応える。そんなやりとりを繰り返したあと、少女は「よし!」と頷いた。

 

「決めた! きみたち、しばらく菫を預かってくれないかな?」

『えっ!?』

 

 全員が驚く。その驚きようを楽しそうに眺めつつ、少女は続けて言った。

 

「実は、仕事の関係で海外に行く事になってしまっていてね。危険地帯だから菫を連れていく訳にもいかなくて迷っていたんだ。菫はきみたちのことを気に入っているみたいだし、よければどうかな?」

 

 それから小鳥の方を見て、「菫がいちばん懐いているのはきみみたいだし、できれば、きみに預かってほしいんだけど……」と付け加える。

 

「え、あたし?」

「うん。多分、自分と似てると思ってるんだろうね」

 

 やっぱりアホ同士相通じていたのかと一同は思ったが口にせず。小鳥に視線を向けていた。

 小鳥はうーんと唸って腕を組む。彼女の家はペットが禁止されていないが、それは無銘を説得できればの話だ。

 

「んー、ちょっとお父さんにきいてみるよ。もしかしたら許可もらえるかもしれないし」

 

 言って、小鳥は教会の外に出た。電話をかけに行ったのだろう。

 

「そういえば、菫ちゃんって異能を持っているの?」

 

 帆紫がきくと、少女は「持ってるけど……もしかして、使ったの?」と驚きの表情を浮かべた。

 

「うん。犬から人間に変化した」

 

 その言葉に、少女は「ああ……そっち(・・・)か」と呟き、胸を撫で下ろした。少々オーバーな動作であり、フレデリカと零導が訝しげに少女を見たが、単にリアクションが大きいだけだろうと判断して追及する事はなかった。

 その時、小鳥が戻ってきた。「どうだった?」と尋ねる少女に対して、満面の笑みで答える。

 

「許可もらえたよ! ただ、飼い主と連絡を取り合うようにしろって」

 

 無銘なりに、小鳥と一緒にいられない事への負い目を感じて許可を出したのだが、小鳥がそれを知る由はない。

 少女は小鳥の答えをきいて笑みを浮かべると、携帯端末を取り出して少し操作した。それが終わると小鳥の方へと差し出してくる。

 

「はい、僕のQRコード。忙しくて返信が遅れる事もあるけど、そこは許してほしいな」

 

 小鳥はメッセージアプリでQRコードを読み取り、追加を済ませる。少女のアカウント名は「Sakura」となっていた。

 

「この“ことり”っていうのがきみのアカウントかな?」

「うん。あ、まだ名乗ってなかったよね。赤坂小鳥っていいます」

 

 小鳥が名乗ったのを見て、全員が自己紹介をしていく。

 少女は「じゃあ、きみたちがあの“HELLO WORLD”かぁ!」と少々大袈裟に驚いてみせた。

 

「いやはや、そんな有名人に預かってもらえるなんて、ほんとにツイてるなぁ」

 

 それから「あ、名乗ってなかったね」と咳払いをし、少女はこう名乗った。

 

「僕の名前は小桜みなも。以後よろしくね」

 

 その名前をきいて、夜宵が少し表情を歪める。だがその反応は微かなものだったため、気づく者は誰もいなかった。

 少女は「っと、そろそろ行かないと」と呟き、くるりと後ろを向いた。

 

「じゃあ、僕はこれで。お金が必要になったら電子マネーで送るから、その都度連絡してね。あ、菫、いい子にしてるんだぞ!」

 

 その言葉に、菫が応えるように鳴く。

 少女は一度も振り返ることなく、教会から出ていった。

 小鳥は菫を抱きかかえ、「これからよろしくね!」と笑顔を向ける。

 みんなも嬉しそうに、その様子を見守っていた。

 全員の視線を一身に受け、菫はしっぽを振り、「ワン!」と鳴いた。

 “HELLO WORLD”に、新たな仲間が加わった瞬間だった。

 

   *   *   *

 

 帰宅後、菫は小鳥の部屋のあちこちを嗅ぎまわり、安心できる場所を見つけるとそこで寝てしまった。

 今日は探偵事務所が忙しく、無銘に加えて美桜も出払っている。ふたりが帰ってきたら菫の餌や生活用品を買いに行こうと思った。

 仲間が増えた事を嬉しく思ってにこにこしていると、やりかけで放置していた宿題が視界に入り、げんなりする。

 まあ、菫を見て癒されながら頑張るか──そう思って、小鳥も菫の横で目を閉じた。

 

 

 ……その後、ふたりが帰宅した際に菫が無銘を警戒して威嚇し、無銘が少し落ち込んだりもしたのだが、それはまた別の話。

 

   *   *   *

 

 日が傾きはじめ、暑さが少しばかり和らいだ頃の事。

 ひとりの少女が(ねぐら)に向かって歩いていた。“HELLO WORLD”に菫を託した、小桜みなもと名乗る少女である。

 少女はビルとビルの隙間に構成された細い路地に入り、奥深くに向かっていく。進むにつれ周りの景色は日常性を失っていき、暗く殺風景な、しかしどこか異様な雰囲気を纏うものへと変化していく。

 そしてその中を行く少女の躰もまた、変化を始めていた。

 金色の髪が銀色に変化していき、アホ毛が引っ込む。蒼い瞳は紅く染まり、背も少しばかり縮んでいく。

 塒に辿り着く頃には、少女の面影は完全に失われていた。

 

「……これはこれで、面白そう」

 

 そう呟き、銀髪の少女──意志アリナはドアを開けて中に入る。

 別に、スパイとして菫を放ったつもりはない。ただ、菫と“HELLO WORLD”が接触したらどうなるのか興味があっての行動だった。

 この選択が、どのような影響を及ぼすのかは分からない。

 だが、少なくとも退屈はしないだろう。いずれ、菫が新たなきっかけを作る事になるのだから。

 その時が来るのを心待ちにするかのように薄く笑みを浮かべ、アリナは持ち込まれた依頼に目を通しはじめたのだった。

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