無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
その場所は雲ひとつなく、無限の青で満ちていた。
見渡す限り、青色が続く空。綺麗だがつまらないその世界で、少女は今日も漂い続けている。
最後に人を見たのは、いつだったか──それを忘れるほど、ひとりで長い時間を過ごしていた。
以前はこの空に人を引き摺りこむ事ができたのだが、長い時間を経て力が弱まったのか、それができなくなっていた。かといって消滅する事もできず、こうして漂っている。
心が死んだあとも、孤独は少女を蝕んでいく。永遠にも思えるほど緩慢で、どんな方法よりも痛みを与え続ける拷問──それが少女の置かれている状況だった。
これから先も、ずっとこうやって存在していくのだろう。いつしか少女はそう思うようになり、諦念に包み込まれていった。
──だが、ある日を境に、その状況は大きく変化する事となる。
* * *
「ん……」
意識が暗闇から浮上し、世界と再接続を果たす。
そんな感覚と共に、朝倉紗由は目を覚ました。
手探りでメガネを探し当て、装着する。ぼやけていた視界がある程度鮮明になり、周りや自分の状況を把握する事ができた。
沢山の武器が飾られた壁。机の上に散らばる設計図──紗由は、自分の工房で眠っていたのだった。
机につっ伏す形で寝ていたため、普段より躰が重い。寝不足から来る頭痛に顔を顰め、立ち上がって伸びをする。
(そっか……武器の調整をしていて、そのまま寝ちゃってたんだっけ)
ここのところ、深夜まで武器調整を行う事が多かった。楽しんでやっているので苦痛にはならないのだが、気持ちに躰がついていかないのもまた事実だった。
風呂も入っていないため、不快感が凄まじい。おなかも空いていたが、まずはシャワーを浴びようと思い、行動を開始した。
工房から出た紗由は、外の世界の眩しさに目を細める。今は夏だが、この辺りは山という事もあり平地よりは遥かに涼しい。空気も澄んでおり、思い切り吸い込むと不快感がある程度軽減された。
八月四日。今日も暑くなりそうだなと思いながら、紗由は自宅へと足を進めた。
工房は自宅とはやや離れた位置にある。そこまで長い距離ではないし、歩いて五分もかからないくらいなのだが、それでも行き来するとなると煩わしさを感じる。
宿泊設備を整える事を検討しながら、自宅に到着。玄関にある靴がいつもより多いので、来客があったようだ。靴の特徴から、小鳥と叶かなとあたりをつけてみる。
そのままリビングに行ってもよかったのだが、汗臭いままで入るわけにもいかないなと思い、自室で着替えを確保してから洗面所に向かう事にした。
時刻は十時ちょうど。シャワーを使っている者はいないと思っていたので、なんの躊躇いもなく洗面所の扉を開けると──
「え」
「あ」
そこには先客がいた。灰色にひと房だけ白が混ざった髪に、オッドアイの瞳。今まさに服を着ようとしていたその人物は、朝倉零導だった。
「……紗由か、おはよう」
零導は平然とした様子でそう挨拶してくるが、紗由の思考は停止したままだった。
五秒後に再び活動を再開したとき、紗由の言語中枢は乱れに乱れ、悲鳴じみた声が出た。
「に、にににににににぃ!? どどどどうしてここにいるの!?」
パニック状態に陥った紗由とは対照的に、零導は落ち着いた様子で「ランニングしたから汗をかいた」と説明した。
「紗由は……昨日は部屋にいなかったし、工房にいたのか?」
「う、うん。私も汗かいたからシャワー浴びようと思って」
なんとか言語中枢を正常に戻した紗由は、それでもまだ顔を赤くしていた。
零導は「……そうか。じゃあ、向こうに行っている」と言い残し、しっかりと服を着てから洗面所を出ていった。
残された紗由はしばらくぼんやりしてから、慌てて服を脱いでシャワーを浴びる。
浴びているうちに頭痛も治まり、すっきりしたのだが、零導の半裸姿がフラッシュバックし、その度に悶える羽目となった。
(にぃは私の事を妹としか思ってないかもしれないけど、私は……)
思考がぐちゃぐちゃに絡まる。
それにより生まれた憂鬱も、熱いシャワーで洗い流したかった。
* * *
シャワーを浴び終え、髪も乾かした紗由がリビングに向かうと、そこにいた人間が一斉に紗由の方を見た。
「おはよう、紗由」
母親──朝倉亜美がソファに座ったまま微笑む。それ自体はおかしくもなんともないのだが、母親が膝の上に乗せているものを見て、紗由は思わず疑問の声をあげた。
「おはようお母さん……ってそれ、どうしたの?」
亜美の膝の上には父親──朝倉夜月の頭があった。目を薄く開けているので紗由が来た事は認識しているのだろうが、意識はぼんやりしているようだった。まるで貧血で倒れた人のようで、紗由は心配になった。
「ああ、気にしないで。ちょっと倒れてるだけだから」
「……それはちょっとって言わないと思うよ」
紗由の疑問に答えたのは、夜月の反対側に座っている女性──朝倉美幸だった。紗由は呆れた声を返してから、夜月に近づこうとする。しかし、その前に隣接するキッチンから声がかかった。
「あ、さよりんだ! コーヒー飲む?」
声の主は赤坂小鳥だった。その隣には御剣叶もいたので、玄関で靴を見た時の予想は当たっていた。
小鳥はコーヒーポットを持っている。紗由は反射的に「飲む」と答えそうになったが、すんでのところでそれを飲み込み、こうきいた。
「おはよう……そのコーヒー、誰が淹れたの?」
「私と小鳥先輩と美幸さんですよ」
その返答を受けて、飲む気が一気に失せた。
小鳥と叶──料理が致命的にできない組み合わせに加え、料理をすると
そこでひとつ思いつき、ふたりに尋ねてみる。
「もしかして、そのコーヒーお父さんが飲んだりした?」
「うん。美幸さんが勧めたら飲んだけど……どうして?」
やっぱりか、と紗由は夜月を見る。
彼は義姉である美幸に弱い。断りきれずに飲んでしまい、こんな事になったのだろう。
「あー……折角だけど、私は……」
「今回は自信作なんですよ。その名も、“スタミナコーヒー”! 飲めば眠らずに活動できるすごいコーヒーです!」
(絶対ヤバいやつじゃんそれ!)
紗由はたじろいだが、小鳥と叶は期待の眼差しで紗由を見つめてくる。ついでに、背後から美幸の視線も感じる。
三方塞がり。逃げ場はありそうでなく、エスケープに失敗する可能性は限りなく高い。
紗由は溜息をつき、自分を呪いながら「……飲む」と答えた。
「やったぁ!」
小鳥は喜びながらコーヒーカップにコーヒーを入れて持ってくる。それを受け取った紗由は、異常がないかまじまじと見てみる。
色は問題なし。香りが少し独特なので警戒したが、豆によっては香りがかなり異なるときいた事があったので、判断材料としては薄いといえる。
あとは実際に飲んでみないと分からない。そう思い、意を決してコーヒーカップに唇をつける。
「……ええいままよ!」
ぐっ、と呷った液体が喉を通った瞬間──
「苦っ、辛ァッ!?」
とてつもない苦味と辛味が紗由を襲った。
苦いはまだ分かる。だが、辛いのは明らかにおかしい。
それに加えて、独特の味が口に広がる。といってもこれは精一杯オブラートに包んだ表現であり、有り体にいうとものすごく不味い。
確かに目は覚めるし、スタミナがつきそうな感じはある。だが、これは明らかに罰ゲームの域だ。
ごほごほと咳き込みながら、紗由は掠れた声で「これ……なにいれたの……」と尋ねる。
それに対して、作った三人は顔を見合せてから口を揃えて『内緒!』と答えた。
カップに残ったコーヒーが、ぐにゃりと歪んで見える。
紗由にできるのは、自分を呪いながらコーヒーを飲む事だけだった。
* * *
数分後、精魂尽き果てた紗由が床で溶けていると、リビングのドアが開いて零導が姿を見せた。
「あ、リンドウ先輩! コーヒー飲む?」
「……要らない。それより、フレデリカから連絡が来ている」
「フレデリカさんから?」
小鳥はポケットから携帯端末を取り出し、しまったという表情になる。どうやら気づいていなかったようだ。
まだ溶けている紗由も手を伸ばし、そばに転がっていた自分の端末を掴む。
通知欄を見てみると、確かにフレデリカから連絡が入っていた。
ふーちゃん:深夜三時ごろ、テレビに不思議な映像が映し出されていたそうです。情報をお持ちの方は御一報ください。
「テレビの映像……? なんでそんな事きくんだろう」
「フレデリカからという事は、異能絡みだろう」
「深夜かぁ……何時とか分からないのかな?」
そう呟いた小鳥が、リプライを書き込んで送信する。
ことり:深夜って、いつのこと?
すると、“HELLO WORLD”のグループで通話が立ち上がった。通話にはフレデリカが入っていたので、紗由たちも入ってみる。
「フレデリカさん? 連絡してくるなんて珍しいけどどうしたの?」
『いきなり申し訳ございません。連絡した件について、調査してほしいと依頼が入りまして……ちょうどここに依頼主がいるので、替わります』
そんな声の後、新たな声がきこえてきた。
『小鳥? 詩季だけど、いきなりごめんね』
「詩季? いまフレデリカさんと一緒にいるの?」
小鳥が驚いた声をあげると、電話の相手──凪坂詩季は『ちょっと用事があって、教会にいたんだ。そのついでにフレデリカさんに相談した』と言ってから、その経緯について説明を始めた。
* * *
時を僅かに遡る。
教会でお務めをしていたフレデリカは、手を組み、主に祈りを捧げる少女を見ていた。
少女──凪坂詩季がここに来るようになったのはごく最近の事だった。なんとなく気になったので話しかけてみたところ、特に信心深くはない、と笑ったあと、縋るような表情でこう言った。
「……でもね、神さまに祈っていれば、いつか叶う気がするんだ。咲ちゃんと秕さんにあたしができるのは、このくらいだし」
詩季は少し前に起きた事件により、従姉妹である琴音咲を失った。全ては詩季の与り知らぬところで始まり、終わった──その事実を受け、無力なりに助けになりたいと、こうして神に祈っているのだという。
事件に関わり、咲と秕の顛末を見届けたフレデリカには、詩季の気持ちが痛いほど理解できた。だから、詩季に優しく語りかけるように、こう言った。
「我らの主は、信じる者を見捨てません。強い願いには、強い力が宿る……凪坂さんの想いは、きっと届きます」
「フレデリカさん……」
「それに、琴音さんと吹綿さんを救うために、多くの人が日夜研究に励んでいます。途方もなく長い時間が必要かもしれませんが、ふたりは必ず帰ってきます」
「……そうですよね。いつか、帰ってきますよね」
詩季は縋るような笑みを浮かべて、そう呟く。だがその時、詩季の携帯端末が振動したため、フレデリカに断りをいれて教会を出た。
数分後、戻ってきた詩季は浮かない顔をしていた。どうしたのかときいてみると、彼女はフレデリカの方を向いて、
「フレデリカさん、今日の三時頃にテレビって見たりしました?」
そう尋ねた。
「普通に就寝していましたが……どうしました?」
「さっきの電話、友達からだったんですけど……徹夜してアニメ見てたら三時頃に画面が切り替わって、変な映像が流れたらしいんです」
「変な映像?」
「なんか、人の名前が映画のエンドロールみたいに流れて、そのあとに“明日の犠牲者はこの方々です、おやすみなさい”って流れたあとに元の画面に戻ったらしいです」
「明日の犠牲者……」
その単語に不吉なものを感じ取り、フレデリカは顔を顰める。
詩季は「いたずらか何かだと思うんですけど……」と呟きながら携帯端末を操作している。どうやら情報を集めているらしい。
「でも、テレビを乗っ取るなんて、そんな事が可能なのでしょうか」
「あたしも仕組みとかは分かりませんけど……もしかしたら、異能でやったって可能性もあるかも」
「なら、調査してみましょう。教会に来る人から話をきく事はできますし」
「あ、じゃあ小鳥たちにも知らせておいてくれませんか? なにか知ってるかもしれないし」
「分かりました」
詩季からの依頼を受けたフレデリカは“HELLO WORLD”のグループトークに連絡を入れ、現在に繋がるというわけである。
* * *
事情をきいた紗由たちは、互いに顔を見合せた。
「深夜かぁ。あたし二十三時には寝ちゃったから分からないな」
「私も早めに寝たので気づきませんでした」
「私は起きてたけど、工房にいたからテレビ見てなかったし……にぃは起きてた?」
「……その時間は眠っていた」
各々の言葉に、詩季は『そっか……』と少し残念そうに呟いた。
「寝ぼけて夢でも見ていたって線は?」
『エナドリ三本くらいキメてめっちゃ元気だったらしいから、それはないかな』
「じゃあエナドリの過剰摂取による幻覚とかじゃないですか?」
「もしそうだとしたらそっちの方がよっぽどホラーだよ……」
叶のピントのズレた言葉にそうツッコんだ紗由は、「とりあえず情報を集めるしかないんじゃないかな」と意見した。
『まあそうだよね……他の友達にもきいてみるよ。夜更かしするヤツ多いし』
「あたしたちも他のメンバーに聞き込みしてみるよ。なにか分かったらまた連絡してくれる?」
『分かった。ありがとうね』
それで通話は終了したが、今度は夜月の携帯端末が振動した。
幾分か復活した夜月は起き上がり、携帯端末を見て「真中から?」と眉を顰める。
「俺だ。どうした? ……ああ、特に変わりはないけど……え」
驚いたような声をあげたので、全員の視線が夜月に集中する。
夜月は早口でやりとりを終えると、携帯端末を耳から離す。亜美が「どうしたの?」ときくと、感情を押し殺した声でこう言った。
「……覚寺が病院に搬送された」
『……えっ?』
* * *
再び時を遡る。
大きな欠伸をしながら、真中真生は異能研の廊下を歩いていた。
今日は……というか、今日も仕事だ。異能対の夏季休暇は他の職員と日にちがズレているため、まだ休めない。加えて今日は当直業務があるため、長時間拘束される事になっていた。憂鬱ではあるが、労働量以上の給料を貰っている身なので文句は言えない。
とはいえ、ここ数日は割と平和なのでゲームでもしていれば問題なく終わるだろう──そんな事を考えながら、真中は異能対の扉を開けた。
室内は無人で、亮一や桜井はまだ出勤していないようだった。だが、この場所に住み着いているはずの覚寺までいないのはおかしいと思い、真中は荷物を置いてから部屋の奥にある扉に歩み寄った。
「起きろ覚寺〜、朝だぞ〜」
そう呼びかけるが、返答はない。恐らくまだ寝ているのだろうが、覚寺が寝坊するのは珍しい事だった。真中ならゲームで徹夜して寝坊するという事は珍しくないのだが、覚寺は機械のような正確さで早起きをする男だったので、寝坊などするはずがない。
ドアに設けられた細長い窓から室内が覗けたので覗いてみると、ベッドに覚寺が横たわっているのが見えた。一見するとただ眠っているだけなのだが……何故か、そこで違和感を覚えた。異能対の職員として修羅場を潜ってきたからこそ感じ取る事ができた違和感だった。
なんというか、生気が感じられない。ベッドに横たわるその姿は人間というより人形と形容した方がしっくりくるものだった。
どうせ起こすし、音を立てても大丈夫だよな──そう考えた真中はドアを開けようとするが、鍵が掛かっていて開かない。音もかなり立てているはずだが、目覚める気配はない。
嫌な予感が膨れ上がる。次の瞬間、頭で考えるより先に躰が動いた。
履いていたスニーカーに強化を施し、ドアを勢いよく蹴る。蝶番が外れたドアは面白いように吹っ飛んでいき、覚寺を掠めて勢いよく壁にぶつかった。しかし、それでも目を覚ます気配はない。
覚寺に近づき、その躰を揺する。しかし反応はなく、壊れたおもちゃのようにされるがままになっていた。
(まさか……)
呼吸を確かめてみると、息をしていない事が分かった。躰も冷たく、誰がどう見ても生者とは呼べないであろう状態であった。
真中は驚いたが、すぐに冷静になり、救急車を呼んだ。救急隊員が到着する前は蘇生を行ったが、効果はなかった。
救急車が来るとすぐに市内の病院に搬送されたが、来院時心肺停止と判断され、すぐに手術室に連れていかれた。
真中は亮一以下異能対の連中や知り合いに片っ端から連絡を取り、覚寺の容態を伝えた。
そして、その最中にある事実を知る事になる。
──覚寺のような状態に陥った人が、冬天市のあちこちで確認されているという事実を……。
これが、後に“冬天市変死事件の再来”と呼ばれる事件の、幕開けだった。