無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
九月になり、夏の暑さが少しずつ薄れつつある、そんな日の事。
十七時の異能対策室。職員は泊亮一を除いて出払っており、静寂だけが辺りを支配している。
亮一は自分のデスクで端末を立ち上げ、神永に提出する報告書を作成していた。両手の指がキーボードの上でリズミカルに動き、事務的な文書を作成していく。
しかしその動きは、画面の端に現れたアイコンを見た瞬間に停止した。電話のマークで、発信者は「姐御」となっている。
アイコンをクリックして、端末に挿しっぱなしのイヤホンを装着すると、姐御もとい釜野の元気な声がきこえてきた。
『アポ取ってるって子が来たわよ。東ちゃんと楓ちゃんも一緒にいるわ』
「ありがとうございます。ここまで来るように伝えてください」
事務的なやりとりのあと、電話を切り、文書を保存する。
数分後、ノックの音がしたので、「どうぞ」と声を掛けると、「失礼します」という声とともに三人の少年少女が入ってきた。
まず入ってきたのは神永楓で、その次に東爽介が一礼してから入ってくる。そしてその影に隠れるように入ってきた三人目──神流瑞希は、亮一の前まで来ると、開口一番にこう言った。
「いきなり押しかけてきて申し訳ございません。ただ、泊さんしか思いつかなくて」
「いや、構わないよ。それで今日はどうしたのかな?」
穏やかに応対する亮一に対して、瑞希はなにかを堪えるように俯いていたが、やがて顔を上げると、
「お願いします。わたしを逮捕してください」
はっきりとした口調で、そう言った。
「神流さん!?」
「ちょっと、どういうこと!?」
爽介と楓が驚いたように声を上げる。どうやら、ふたりは事情を知らないようだ。
最も、驚いていたのは亮一も同じだった。瑞希とは変死事件の収束後に顔を合わせた事があるくらいで、そこまで深い付き合いでもない。だから彼女が連絡をとってきた時は驚いたし、その内容も「重要な話があるのでお時間をいただけないでしょうか」といったものであったため、細かい内容までは把握していなかった。
「それはどういう事かな?」
平静を保ちながらそうきくと、瑞希は暗い表情で、
「わたしは罪を犯してきました。良い人が罪を犯すなんてありえない。わたしに親切にしてくれた人が悪いはずがない……そんな思い込みで、悪い人を無罪にして、罪を重ねさせてしまったんです」
瑞希の異能力は、社会の理を捻じ曲げ、対象を無罪にする異能力だ。悪人にとってはうってつけの異能力であるといえる。
そして実際、彼女はその力を使ってはいけない人物──苛内植に対して異能力を使い、一時的ではあるがその罪をなかった事にした。彼女自身がそう言ったわけではないが、苛内の実験室に捕らわれていた事と、今の告白を結びつければ、そう考えるのが妥当だろう。
「でも、神流さんはその人に騙されていたんじゃないですか?」
「それでも、わたしがあの人を野に放った事に変わりはない。いや、あの人だけじゃない! お父さんもわたしのせいで自殺した! きっと今までも、わたしは悪い人に対して力を使っちゃったんだ! だから、だからわたしは──!」
錯乱する瑞希を、爽介と楓が抑え込む。
亮一は屈んで彼女と目線を合わせ、穏やかな視線と声を瑞希に向けた。
「悪いけれど、俺にきみを逮捕する権限はない。きみが無罪にする異能力を持っているのは事実だけれど、それを用いて悪人を世に解き放った事を実証するのは難しいからね」
「それでもわたしは裁かれるべきなんです! いや、裁かれる必要すらない。こんな悪人、一秒でも早くこの世から消さないと……!」
「黙れ」
鋭い視線と低い声に、爽介と楓が目を丸くする。
瑞希も一瞬だけ呼吸が止まり、虚ろな表情で亮一を見た。
「……言葉が汚くなってしまって申し訳なかった。でも俺は、きみが罪を犯したとは思えない」
亮一の目は怒りを孕んでいる。それでもその口調は穏やかなものに戻っていて、瑞希を怖がらせまいとしているようだった。
「例えば……拳銃で人を撃ち殺したとする。だけど拳銃に罪はあると思うかい? 拳銃を作った人にも罪はあると思うかい? それと一緒だと、俺は思うけれどな」
それともきみは、悪人を世に解き放とうとして異能力を使ったのかい?
亮一がそう問うと、瑞希は首を横に振る。
「さっき東くんが言った通り、きみは騙されていただけだ。悪いのは騙そうとしている奴だし、きみに罪はない」
「でも……」
「人助けの先になにがあるかなんて、誰にも分からない。きみはきみの正しさを信じた……それだけだよ」
それに──と亮一は続けて言う。
「死を以て償うなんてもってのほかだ。生きていないと罪は償えない。どうしてもその罪を償いたいというのなら、力の使い方を学んで、人のために役立てるんだ。犯した過ちを糧に歩き出すのが、きみの償いだよ」
過去は変えられない。
現在も変えられない。
だけど、未来なら変えられる。
亮一がずっと大切にしてきた信念だった。
「犯した罪を悔いているというのなら、きっともう変わりつつある。きみが変わりたいというのなら、俺たちはそれを支えるよ」
その言葉をきいて、瑞希は、
「……わたしは、変われるでしょうか」
蚊の鳴くような声と縋るような目で、そうきいた。
「きみが望めば、変われるさ」
亮一は優しく微笑む。目の奥のひかりも、柔和なものに戻っていた。
「もちろん、あたしたちも手伝うよ!」
いつの間にか瑞希を放していた楓が歯を見せて笑う。その横で、爽介も大きく頷いた。
みんなに見守られて、瑞希はよろよろと立ち上がる。
異能力は決して万能な力ではない。
使い方を間違えれば、多くの人を不幸にしてしまう。
だが裏を返せば、使い方を覚えさえすれば多くの人を助ける力となりうる。
自分がしてきた事は、間違いだったかもしれないけれど、
それでも、まだ、希望は残っていた。
「……皆さん、ありがとうございます」
頭を下げる。
自然と目頭が熱くなり、透明な雫が、頬を伝って落ちる。
「わたし、この力の使い方を学びます。そして、その中で自分の“正しさ”を見つけて、この世界をより良いものに変えてみせます」
力ある言葉と共に、
神流瑞希は、新たな一歩を踏み出した。
* * *
「……そういえば、東くんと神永さんはなぜここに?」
人心地ついたあと、客人たちにコーヒーを振舞った亮一がそうきくと、楓が元気な声で「たまたまです!」と答えた。
「学校が休みだったのでなんとなく澪標に行ってみたら、神流さんと会ったんです。それで、泊さんと話があるというので着いてきちゃいました」
爽介が申し訳なさそうに頭を搔く。
「おふたりに着いてきてもらって助かりました。わたしも……ひとりだと、尻込みしていたかもしれないので」
瑞希がコーヒーをひとくち飲んで、そう言うと、場の空気がほぐれた。
「そういえば、ほかの人たちがいないのに泊さんがいるのって珍しいね」
楓がぐるりと部屋を見回してそう言うと、亮一は「そういえばそうだね」と頷いた。
「桜井も覚寺も各々の理由で出払っているし、真中は陽ヶ鳴刑務所にいるはずだ。そろそろ連絡が来ると思うけれど……」
「陽ヶ鳴刑務所? そんなところに、なんの用事が……」
爽介が不思議そうにきいた時、亮一の携帯端末が振動した。
「ちょっとごめんね」と断りを入れてからそれに応答した亮一は、二分も経たずに通話を終えて戻ってきた。
「誰からだったの?」
「真中から。陽ヶ鳴刑務所での仕事の報告だった。赤坂さんも同行していたみたいだよ」
「その仕事って……」
瑞希がきくと、亮一は「ちょうどいいか」と呟いて、真中真生の仕事について話し始めた。
「真中は、風読夜見の護衛──家村天花に話を聞きに行っていたんだ。彼女を、協力者として引き入れるためにね」