無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
──放課後、冬桜山
ふたつの影が木々の間を駆け抜ける。
時折ぶつかり、また離れ、また衝突する。
それを数度繰り返したあと、影は人の形を取り戻した。
異能力を解除すると同時に、東爽介はその場に倒れ込み、酸素を貪る。
それと対照的に軽い足取りで近づいてきた鮮真翔一は、「お疲れ」とどこからともなく取り出したペットボトルを爽介に手渡した。
「ありがとうございます……」
蓋を開け、水をラッパ飲みする爽介を見ながら、翔一は「成長したな」と微かに唇の端を吊り上げた。
「異能力の持続時間が伸びているし、コントロールも上手くなった。あとは自分の戦い方を見つければ、かなり強くなれるはずだ」
「ありがとうございます……でも、まだまだです」
息を整えた爽介は立ち上がると、木々の向こうに視線を向ける。そこには神永楓と朝倉亜美がいて、楓の異能力の応用について試していた。
「楓さんも頑張ってる。僕も、もっと強くならなきゃ」
御剣叶が去って以降、子供たちは強くなるために特訓に励むようになった。赤坂小鳥は無銘の下で彼の技術について学んでいるし、朝倉紗由も朝倉夜月に“とある技術”を叩き込まれている。茨羽姉弟もそれぞれの異能力を伸ばすべく、毎日特訓しているようだった。
翔一は異能力が完成しきっているため、異能力の系統が比較的似ている爽介の指導についているが、その中で学ぶ事も多い。
零導の捜索の傍らで特訓をしているので、全員が毎日のようにへとへとになっているのだが、それでも誰も音を上げようとはしなかった。
「なら、少し休んだらもう一度やってみるか?」
「お願いします!」
勢いよく頭を下げ、やる気満々の爽介に、翔一は「もう少し休んでからだ。クールタイムを挟まないと躰が壊れるぞ」と釘を刺す。
しかしその口元は綻び、目には暖かいひかりが宿っていた。
* * *
──喫茶はるかぜ、終業後
日が沈み、月と星が空を彩ってからしばらく経った頃、“喫茶はるかぜ”はその日の営業を終了した。
レジを締め、掃除を済ませ、居住スペースに移動すると、越月夢羽はほっと息を吐き出した。疲労が気持ちよく肩にのしかかるのを感じながら、なにか飲もうと思い立ち上がる。
すると店舗から物音が聞こえたので、なんだろうと首を傾げつつ向かってみる。物音の正体は幹ヶ谷柘榴で、店の外には無銘と覚寺我路の姿もあった。
「すみません店長、忘れ物をしてしまって」
柘榴は夢羽に気づくと頭を下げた。夢羽は大丈夫だよと手を振ってから、
「でも、柘榴さんが忘れ物するなんて珍しいね」
「あまり気を張る必要がなくなってきたからだと思います」
「そっか。いい傾向……かどうかは分からないけれど、馴染んできたならよかった」
夢羽が微笑むと、柘榴はドアの外を一瞥してから、「これから六場さんたちの店に行くのですが、よければご一緒しませんか」と夢羽に言った。
柘榴にしては珍しい提案だったので、夢羽は目を丸くする。
「いいけど……いいの?」
「たまにはゆっくりと食事をしたいなと思いまして……」
柘榴はそう言って、少しばかり照れたように微笑む。これもまた、珍しい表情である。
断る理由はない。夢羽は頷いてから、「あ……でも、暁音ちゃんは?」と懸念を口にする。
柘榴の義妹──幹ヶ谷暁音は爆破テロが収束したあともこの街に留まり、この喫茶店でアルバイトをしていた。学校はどうするのかと聞いてみたところ、「リモートで授業が受けられるから大丈夫」と返事が帰ってきて、「凄い時代になったなぁ」と感心した覚えがある。
ちなみに、彼女の父親である幹ヶ谷万象は消息不明になっている。暁音がこの街に留まっているのは、父が去り際に言い残した「この街の行く末をしっかり見ておけ」という言葉に従ったというのもある。
現在、暁音は柘榴と暮らしているので、ひとりにさせてしまうのはまずいのではないか──そう思っていると、
「暁音さんは朝倉家でご飯を食べているので大丈夫です」
と柘榴が答えたので、ひとまず安堵した。
「そうなんだ……朝倉家でご飯なんて珍しいね」
「“HELLO WORLD”の方々が集まる予定になっていて、そこに誘われたみたいです。折角の機会ですし、ゆっくりしてきてくださいと伝えてあります」
柘榴はそう言ってから腕時計を一瞥し、「外で待っています」と店を出ていく。
夢羽は慌てて身支度を整え、施錠をして柘榴たちと合流し、“料理屋 霧風”へと向かった。
* * *
週の真ん中であるにもかかわらず、店は混んでいた。
しかし、夢羽が入店した瞬間、店が一瞬だけ静まり返り、ややあって店員たちの『お疲れ様です! 店長!!!』という声が響き渡った。
「お久しぶりです。私、もうみんなの店長じゃないんですけど……」
「店長はいつまでもオレたちの店長ですよ! むめさんたちもよく来たな! 空いてる席に座ってくれ!」
ひとりの店員──五火に促され、夢羽たちは四人がけの席に座る。
五分ほどかけて食べたいものを決め、注文を聞きに来た店員が去っていくと、柘榴が無銘と覚寺にこうきいた。
「そういえば、おふたりは先程どんな話をしていたんですか?」
先程というのは、柘榴と夢羽が喫茶店で話していた時の事である。
「ああ、その事か……実は、うちの事務員──美桜ちゃんが“しばらく町から離れます”ってメモを残していなくなってしまってな。その事で覚寺と話をしていたんだ」
「そうですか。背月さんが……」
「でも、無理もないですよね……最近は特に物騒ですし」
夢羽がそう言うと、三人は頷く。
「有給も溜まっているし、休むのは構わないんだが……そういう時はしっかり連絡をくれる人だから、少し心配でな」
全員が無言になり、僅かな沈黙が生まれる。
それを打破しようと思ったのか、無銘は柘榴の方を向いて、「そういえば幹ヶ谷さん、記憶の方はどうなっているんだ?」ときいた。
「相変わらず……なにも思い出せません。ただ、ひとつだけ、分かった事があります」
「分かった事?」
「赤坂さん……私はおそらく、どこかで貴方と会った事があると思います」
夢羽と覚寺が無銘の方を見る。
名前を出された本人は驚いて、「オレが、幹ヶ谷さんと?」と素っ頓狂な声を上げた。
「ええ。些細な事なので、今まで誰にも言わなかったのですが……実は、赤坂さんと初めて会って握手をした時に、とある記憶が浮かんできたんです」
「それは、どんな?」
「炎に包まれた……研究室のような場所に、赤坂さんがいて、大きな容器に入った赤子に手を伸ばしていました」
その言葉をきいて、無銘が「え……」と声を上げる。
「心当たりがあるんですか?」
覚寺がきくと、無銘はゆっくりと頷き、
「洞ノ院の地下で……春風郭公が死んだ時の光景だ。オレが、小鳥と出会った時の……」
「春風郭公って事は……まさか、柘榴さんは──」
夢羽はそこまで言ってから柘榴の顔を見て、言葉を喉元で飲み込む。
しかし、彼女が言わんとした事を、全員が察していた。
「……春風郭公は、なにか資料を残していましたか?」
「残っていたとしても、洞ノ院の火災で全て燃えているはずだ。あと考えられるのは苛内くらいだが……」
無銘が覚寺に視線を向けると、彼は首を横に振って、
「風読家の跡地は警察と協力して捜索していますが、なにか有益なものが見つかったという報告はありません。苛内がなにか知っている可能性はありますが、当人が行方不明なのでなんとも言えませんね」
「そうですか……」
柘榴はコップに入っているお冷に視線を落とす。
ゆらゆらと揺らめく水面に映る自分は、本当に“幹ヶ谷柘榴”なのか、それとも──誰かの模造品なのか。
失った記憶の底に、その答えは沈んでいる。
それを知りたいと思う気持ちも、たしかにある。
だけど、それを積極的に追い求めない自分もいた。
きっと自分は、今の生活が好きなのだ。
「でも、私はこのままでもいいと思っています。過去を取り戻せなくても、今のまま暮らして行けたら、それは幸せな事だろうと思っています」
「柘榴さん……」
「だから、私は大丈夫です」
柘榴は微笑む。
それを見て、無銘や覚寺も柔らかい表情になった。
その時、五火と六場が注文の品を運んできた。無銘は麻婆豆腐、夢羽は味噌ラーメン、覚寺はカレー、柘榴は塩ラーメンを注文しており、見事にバラバラではあったが、どれをとっても絶品である事は共通している。
運び終え、ふたりが「ごゆっくりどうぞ」と言ってから厨房に戻る──寸前で、無銘が五火に声を掛けた。
「なぁ、五火」
「むめさん? どうしたんすか?」
「お前、いつからここにいるんだ?」
「は? 店ができた時からいましたけど……」
五火は怪訝な表情になる。それは夢羽たちや六場も同じで、無銘に視線が集中する。
それに対して、無銘は真剣な表情でこう言った。
「気を悪くしたならすまない。だけどオレの記憶と今の状況に齟齬があるのを、唐突に思い出してな」
「それはどういう……」
「……昔、亜美がL・D研究所に囚われていた事を覚えているか?」
その質問に、五火は「覚えてるも何も、オレたちで助けに行ったじゃないですか」と苦笑の混ざった声で返す。
「亜美ちゃん取り返してハッピーエンドだったじゃないすか。むめさん、ボケてきてます?」
「……そうか。おまえの記憶だとそうなってるんだな」
「……赤坂さん?」
柘榴が怪訝そうに声を上げる。
無銘は鋭い目で五火を見て、静かな声で言った。
「おまえがあの事件の結末を知っているはずがないんだよ」
「なにを言ってるんですかむめさん、本当にボケたんすか?」
「
「五火! 店長! なにやってんだ!」
無銘の言葉を遮ったのは他の店員だった。
五火は無銘を一瞥してから、「そういうわけなんで、すんません」と頭を下げ、厨房へと戻っていった。
六場もそれに続き、あとには沈黙だけが残された。
「無銘さん……」
「……悪い、なんでもない。冷めないうちに食べよう」
無銘はそう言うと麻婆豆腐に手をつけたが、店を出て別れるまでの間、ずっと無言だった。
* * *
無銘たちと別れ、喫茶店まで歩いていると、思いもがけない人物と出会った。
寝癖を直していないらしく、所々が跳ねた髪に眠そうな眼、服装はボロボロのジャージで、一見すると草臥れた中年にしか見えない。不審者と勘違いされてもおかしくないような風貌をしている男だった。
しかし、彼は夢羽の知り合いだった。
「逆浪さん……こんなところでどうしたんですか?」
「ん……ああ、夢羽か。おまえこそこんな時間にうろついているなんて珍しいな」
男──逆浪光はぼさぼさの髪を掻いて、「オレはただ散歩してただけだよ」と草臥れた口調で言った。
彼は定職に就かず、バイトで生計を立てながら気ままに生きているので、夜間でもお構いなしに出没する。いい歳をした大人なのに未だに独り身で、それを苦とも思っていないようだった。かくいう夢羽も独り身ではあるが、彼女の場合、東京にパートナーがいるので、万年独り身の逆浪とは少し事情が違っていたりする。
「で、なにしてたんだ? 女の子が夜に独り歩きするのは危険だろ」
「もう女の子なんて歳ではないですよ……。無銘さんと柘榴さんと覚寺さんとご飯を食べていたんです」
「柘榴と覚寺……ああ、そういや今はそんな奴らもいるのか」
逆浪はブツブツと呟く。
その様子を見て、夢羽は先程無銘が言っていた事について話してみようと思い立った。特に理由はないが、逆浪は(一応)無銘の弟子である。無銘の話とあれば真剣に聞くだろうと思っての事だった。
「そういえば、ご飯を食べていた時に、無銘さんが少し……妙な事を言っていました」
「妙な事?」
「店員……五火さんの方を見て、“いつからここにいるんだ”って……」
「……あ?」
逆浪の表情が変化し、怖い顔になる。
ぼやぼやしていた口調もハッキリしたものに変わり、「いま、五火って言ったか?」と夢羽に詰め寄る。
「は、はい。言いましたけど……」
「それは確かにおかしい。だってそいつは確か……いや、そいつだけじゃない。オレも……」
逆浪は後ずさり、頭を抱える。
「逆浪さん……? 大丈夫ですか?」
「ああクソ、なんてこった。こんな事……」
逆浪はそう呟いたあと、顔を上げて夢羽の方を見る。
そして、真剣な口調でこう言った。
「気をつけろ」
「えっ?」
「
「それって、どういう──」
夢羽がそう言いかけた時、強い風が吹き、思わず顔を手で庇う。
そして次に顔を上げた時、逆浪の姿は消えていた。
「逆浪さん……?」
夢羽はあちこちを向いて彼を探したが、見つからない。
もしかしたら、夢だったのかもしれない。
そう思うまで、些かの時間を要した。
とりあえず、いまは帰ろう──そう思って、夢羽は再び歩を進め、自宅へと向かっていった。
その後、越月夢羽は逆浪の忠告に従わなかった事を後悔する。
ただ、それはもう少し後の話だ。