無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
──気が付くと、あたしは夜の海にいた。
素足に冷たい水が触れ、踏みしめる砂のサラサラした感触が伝わってくる。
前後の記憶はないため、なぜ自分がこんなところにいるのかは分からない。だけど、前にもこんな夢を見たような気がした。
潮風は冷たく、ぶるりと躰が震える。早く戻らなければ、と思いながら何気なく空を見上げると、夜空に満点の星が瞬いているのが見えた。
その中のひとつが眩い光を放ち、あたしの手の中へと落ちてくる。反射的にぎゅっと握った手を開き、落ちてきたものが星の
それを眺めているうちに、なぜ自分がこんなところにいるのかを思い出した。
──じゃあ、一緒に海に行きたいな。
──約束、だよ。
懐かしい声が、記憶の底から浮かび上がってくる。
そうだ、あたしはあの子と海に行く約束をしていた。だからこそ、ここにいるんだ。
でも、夜の海にはあたししかいない。
なら、あの子はどこに行ったんだろう?
その答えだけが、どうしても思い出せない。
(早く戻ろう。今度来る時は、みんなで一緒に……っ!?)
踵を返そうとした瞬間、先程まで穏やかだった波が膨れ上がり、黒い怪物になってあたしの躰を呑み込んだ。
黒い海の中をどこまでも落ちていく。息ができず、意識がどんどん遠ざかっていく。伸ばした手は届かずに、躰は水底へと落ちていく。
みんなと一緒に海に行く──そんなささやかな願いが、否定されたような気がした。
意識を失う直前、
だけどそれはあまりにも遠くて──あたしには、掴めなかった。
もどかしくて、悲しくて、涙を流す。
脳裏にあの子の顔が浮かんで、消えていく。
絶望と諦念を抱えたまま、あたしの躰は、底の見えない深い闇へと落ちていった。
* * *
「……はっ!」
躰ががくんと落ちる感覚で、意識が覚醒する。
赤坂小鳥はすぐに状況を把握し、机の上にあるノートに涎が付着していないかを慌てて確かめた。だらしない寝方をしていたわけではないと知り、ほっとする。
高校の教室。教科は数学。あと五分でチャイムが鳴るという時間帯。黒板を駆け巡る数式の羅列を脳が拒み、意識を失っていたのだった。
どんな夢なのかはよく思い出せないが、嫌な夢を見た気がする。ここが現実だという事に安堵して、思わず小さな声が漏れる。
「はぁ……良かったぁ……」
「なにが良かったんだ?」
「さっきまで見てたのが夢だった事だよ。本当に怖かった〜……って、あれ?」
独り言の筈なのに、会話が成立している。
なぜだろうと思い、自分の左隣を見てみる。そこにはスーツを着こなした男がいて、教科書を片手に持ったままこちらを見ていた。無表情で、彼がなにを考えているのかは分からない。
「あ……大谷先生」
「おはよう赤坂。授業中に爆睡するとはなかなかやるな。もしかして授業が簡単すぎたか?」
「え、いや、決してそんな事は……」
「寝てるくらいなんだから、もちろん課題をたっぷり出されても解けるよな?」
大谷はにっこりと笑うが、目だけは笑っていない。相当怒っている証拠だ。
「え、えーとぉ……」
ダラダラと冷や汗が流れる。隣の席にいた男子生徒に助けを求めてみるも、呆れたようにこちらを見ただけだった。
「あのですね、これは決して寝ていた訳ではなくて……そう! 睡眠学習ですよ! 眠りの中で授業の内容を繰り返す事で定着を図ったりなんかして……っていたぁ!?」
大谷は教科書で小鳥の頭を叩いた。悲しいかな、こんな事は日常茶飯事なのでクラスメイトたちは特に何も言わない。みんな慣れてしまっているのだ。
「それはそれは……じゃあ睡眠学習の効果を試すとしようかな。明後日の授業で小テストを行うから、しっかり勉強しておけよ」
大谷は笑顔でそんな事を言う。
生徒たちから不満の声が上がり、呆れたような視線が小鳥に集中する。
こうなるともうどうしようもないので、小鳥はがっくりと項垂れた。
ちょうどその時、チャイムが鳴ったので大谷は授業を終わらせた。お昼休憩の時間になったという事もあり、生徒たちが思い思いに散っていく。
後には、真っ白に燃え尽きた小鳥が取り残された。
* * *
「うぅぅぅ……大谷先生の鬼ぃ……悪魔ぁ……」
十分後、小鳥は何とか復活し、教室に来た友人たちと昼食を取っていた。
「まったく……もうちょっと要領よく寝ればバレないのに」
神永楓が呆れたように言うと、小鳥の隣に座っていた少女も「そうですよぉ〜」と同意した。
「教師なんて無能の塊なんだから、行動をよく観察すれば寝てもバレないですよぉ〜。まったく、小鳥センパイはバカですねぇ〜、ま、そういうところもワタシ好みですけど」
「うぐぐ……どうせあたしは要領よくないですよーだ。というか……」
そこで小鳥は少女の方を向いて、怪訝そうにこうきいた。
「……あなた、誰?」
少女は驚いたように目を丸くしたあと、オーバーなリアクションで泣き崩れる。
「あぁん、ひどぉい! ワタシの事忘れちゃったんですかぁ〜!? 入戸ですよ、
少女──入戸からすの容姿は、ボサボサの黒髪に汚れのついたメガネ、制服の上に薄汚れた白衣を纏うというもの。こんな知り合い、自分の友達にいただろうかと首をひねり、今まさにハンバーグを口に入れた楓にきいてみる。
(ねぇ、楓……入戸って子、あたしたちの知り合いだっけ?)
(ん〜? どうだったっけ……確か、いたような……?)
ごくんと飲み込んだ楓も首を傾げるが、その疑問はハンバーグの美味しさの前に霧散してしまったらしい。「ま、本人がそう言ってるんだし、いいんじゃない」と話を切り上げ、別の話題を出した。
「そういえば、紗由が武器をミニチュア化して持ち運ぶ技術を開発したらしいよ。今日はその調整で早退したらしいけど」
「へぇ〜……凄い事するなぁ」
「なんでも、二十年前くらいにやってた探偵アニメにハマった結果らしいよ」
「懐かしいですねぇ……当時、食い入るように見てましたよぉ〜」
「懐かしい……?」
まだ高校生だよねと小鳥が言うと、入戸は口を覆って、「おおいけないいけない。忘れてくださいなぁ」と戯けたような口調で言った。
「そんな事より、今日の夜は召集がありますかねぇ? ワタシとしては、家でくつろぎたい気分なのですが」
「ここのところは平和だから、なにもないんじゃないかな。あ、でも……」
そこで楓はふたりを見て、「ここのところ、学校周辺に不審者が出るらしいよ」と声を潜めて言った。
「不審者?」
「まだ噂レベルなんだけど、黒いフードで顔を隠した人影が、校舎の方をじっと見つめているっていうの。なんか怪しくない?」
「うーん……実害とかはあるの?」
「いまのところはないみたいだけど……」
「それなら、放っておいてもいいんじゃないですかぁ〜? それよりほら、午後の授業始まりますよぉ」
入戸に指摘されたふたりは、慌てて昼食を摂り終える。
そうして午後の授業が始まったが、小鳥はどうにも集中できなくて、ぼんやりと授業を聴いていた。
* * *
小鳥の躰は燃費が悪く、放課後になるとお腹が鳴り出す。今日は招集もないようだったので、まっすぐ自宅へと帰った。
自宅には母親がいて、小鳥を見つけると「お帰り、小鳥ちゃん」と笑顔を浮かべる。それにただいまと返してから、手洗いうがいを済ませて鞄を置き、部屋着に着替えた。
「お腹空いたぁ〜」
「もう出来上がるから待っていてね。今日は小鳥ちゃんが好きなハンバーグだよ」
「やったぁ! あたし、お母さんのハンバーグ大好き!」
喜ぶ小鳥を他所に、母は夕食の準備を進めていく。
配膳は小鳥も手伝い、手を合わせてふたりでご飯を食べた。
食事中は小鳥が今日の出来事を一方的に話し、母はそれを黙って聞いているだけ。
そうして食事が進んでいき、小鳥がお代りをしようと立ち上がったその時、卓上に置いてあった携帯端末が振動した。
「あれ、お父さんから?」
小鳥の父親──無銘は、現在長期出張中だ。なので探偵事務所もしばらく休業しているが、生活に問題はない。
久しぶりの電話だったので、小鳥はスピーカーフォンにして母にも通話がきこえるようにしてから、応答ボタンをタップした。
「もしもし、お父さん?」
『蟆城ウ・??シ溘?縺昴%縺ォ縺?k縺ョ縺具シ?シ?』
「うん、あたしは元気だよ。お母さんも変わりない」
『縺昴>縺、縺ッ縺頑ッ阪&繧薙§繧?↑縺?シ√?縺?∪縺吶$縺昴%縺九i髮「繧後m??』
「え? みんな? 変わりないよ? 異能対も、茨羽さんとか夜月さんも元気してる。そういえばこの間、逆浪さんと日向さんが家に来て──」
『繧ッ繧ス繝?シ√?縺薙▲縺。縺ョ螢ー縺瑚◇縺薙∴縺ヲ縺?↑縺??縺具シ溘?縺?∪縺吶$髮「繧後k繧薙□?√?縺昴%縺ッ蜊ア縺ェ縺?シ?』
「お父さんどうしたの? そんな焦って」
「小鳥ちゃん、お父さん忙しいみたいだから、このくらいにしておこうか」
母が言ったので小鳥は頷き、「じゃあお父さん、またね!」と通話終了ボタンをタップする。
『蠕?※?∝ー城ウ・??』
通話終了。
小鳥が「お父さん、元気そうでよかったね!」と言うと、母も頷く。
それから片付けをしてお風呂に入り、明日の準備をしたあと、二十三時にはベッドに入った。
すぐに眠りの衣が小鳥を包み込み、なにも考える必要のない世界へと運んでいった。
* * *
「電話が切れた……クソッ、早くなんとかしないと」
「でも、わたしたちはここでは異物認定されているみたいです。わたしの能力を使った時みたいに、認識が書き換えられている」
「無事なのはオレときみだけかもな……とりあえず、この現象の効果範囲を探ろう。多分、市内だとは思うが……」
「異能対も呑み込まれてしまっているみたいでした。他に誰か、無事な人がいるといいのですが……」
「ここまでの規模の改変に対抗できるとなると、暁月くらいか……最悪の場合は、市外から呼ぶしかないな」
「じゃあわたし、愛夜さんと接触してみます。たしか、彼女も市外にいるはずなので」
「ああ、頼む」
仲間を見送ってから、遠くに浮かぶ月を見つめ、ひとり呟く。
「待ってろよ、小鳥……お父さんが、絶対に助けるから」