無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
その事件はとある雨の日に起こった。
或る名家の跡継ぎの娘が誘拐されるという「ありがち」な事件。犯人は当然の如く身代金を要求してきた。その額は十億という何とも頭の悪い数値であった。
名家側は「跡継ぎとしての娘」が損なわれる事を良しとせず、身代金を払う事にした。それと同時にとある人物にこの犯人グループの殲滅を依頼。依頼は受理され、身代金の受け渡しをして娘の安全を確保した後に犯人グループを殲滅するという作戦が立てられた。
そして今、身代金の受け渡しが行われている。
場所は郊外にある廃工場で、犯人グループが拠点として使用している場所だ。
廃工場から出てきたのは痩せた男。彼が犯人グループ側の代表者のようだ。勿論中には仲間が居て、娘を見張っているのだろう。
一切は滞りなく進んでおり、後は娘の安全を確保した後に犯人グループを殲滅するだけとなった。
全てが順調だった。少なくとも表面的には。
だがそれに対して悪い予感を抱いている人物がこの場にいる。
その人物こそ、犯人グループの殲滅を依頼された男…茨羽拓未だった。
茨羽は目を細め、目の前の光景について考えを巡らせる。
(……身代金を渡したくらいで娘を解放するようなヤツらだとは思えないな…寧ろ約束を反故にする未来が見える)
こういう事件を起こす様なヤツらは大体そうなのだ。少なくとも彼はそういうイメージを持っている。
殲滅自体は何とかなるだろう。問題は…。
(娘を護りながら、戦えるか……)
言うまでもなく、一対多数はタイマンよりも精神を削る。
それに護衛もプラスされたら、流石の茨羽も「護りきれる」かどうか自信が無い。
娘自身も異能力者であると聞くが、流石に彼女をこれ以上危険に晒す訳にはいかない。
自然とため息が出る。目を瞑り、数秒間思考を止める。
やがて開かれた目には決意の光が浮かんでいた。
同時に、身代金の受け渡しが無事に終わり、犯人側の代表が工場内に引っ込むと同時に茨羽に秘密の合図が送られた。
身代金を犯人側に受け渡す代表に選ばれたダブルスーツの男が呟く。
「……人生は?」
「……上々だ」
この言葉が茨羽の犯人殲滅の合図だった。
「上々だ」と返したのは用意が整っていることを伝える意図がある。
茨羽は工場内に足を踏み入れた。
薄暗い中には何人かの男がすっかり油断しきった様子でマンガを読んでいた。その奥には手足を縛られ、猿轡を噛まされた一人の少女が居て、驚いた様に此方を見ている。
茨羽は小さく息を吐き出し、男達の方へと向かっていく。
* * *
廃工場内に肉を打つ鈍い音が響き渡る。
鉄パイプが身体を激しく打ち据え、激痛が身体中を駆け巡る。然し彼は今しがた自分をうち据えた相手を確り睨み、その腹部に容赦なく拳をぶち込んだ。
苦悶の声を上げて倒れる相手を一瞥してから背後から襲いくる男の拳を辛うじて躱し、数歩後ろに下がる。男の拳にはメリケンサックが嵌められており、直撃したらそれなりに痛かったであろう。最も、もう何度も攻撃を加えられている身体なので痛みにはある程度の耐性が付いてはいるだろうがそれでも痛いものは痛い。
彼―茨羽巧未はメリケンサックの男の拳を紙一重で躱しつつ、現在の状況を把握しようと頭を働かせていた。
とある名家の跡継ぎ…否、もう隠す必要もないであろう。「風読家」の跡継ぎである風読陽香が誘拐され、その身代金の交渉場所である廃工場で茨羽巧未が犯人グループの殲滅を開始してから約二時間が経過していた。
二時間という長い時間を持ってしても犯人グループは殲滅出来なかった。寧ろその数はどんどん増えていく一方で流石の茨羽も苦戦している。
(次から次へと湧いて出てくるんだもんなコイツら…ゴキブリかよ)
既に廃工場のどこに隠れていたのかと突っ込みたくなるような人数を倒しているのだが、まだまだ増えていきそうだ。幸いな事に相手はおつむが弱いようで人質に危害を加えるという考えは浮かんでいないようだった。然しそれも時間の問題だろう。そうなってしまってからでは遅いのだ。早く終わらせなければ……。
茨羽の顔に焦りが見え始めた。ゴキブリの如く現れる男達を蹴散らしながら少女の方へと近づいていく。と、それを見た男の一人が少女を後ろから羽交い締めにし、喉元にナイフを突きつけた。
「…………ッ!」
「これで手出しは出来ねえだろ!」
勝ち誇ったように男は言う。少女は既に諦めた様な面持ちで茨羽を見ていて、それを見た茨羽は苛立ちを感じて小さく舌打ちをし、闇雲に突進していった。勿論そんな事で人数の差を覆せる訳もなく、あっという間に茨羽は自由を奪われ、嫌という程攻撃を食らった。痛みだけが脳髄を支配し、気が遠くなるのを実感しながら茨羽はこれはもうダメだなと観念していた。
何に観念していた?
殺されるのを受け入れたのか?
このままでいいのか?
いいはずがないのに。
俺はそれを受け入れようとしている…。
頭の中が電気が切れるように真っ暗になっていく。そして茨羽はその意識を闇に落とした。
後編に続く。