無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
次に我に返った時、亜美は見慣れた喫茶店の前に立っていた。
ここは…冬天市にある夢羽の喫茶店だ。
戻ってきた…いや、戻ってきてしまったのか。
「…お兄ちゃん」
亜美は震える声を絞り出す。
私の所為だ。
私の所為で、お兄ちゃんが…!
「…ッ!」
無意識に唇を強く噛み締めていた。一筋の血が流れ、それと同時に鋭い痛みを知覚する。
こんなものじゃ、まだ足りない。
私の所為でお兄ちゃんは死んだかもしれないのだ。
私が、代わりに死ぬべきだったのに…!
叫びたいという衝動を辛うじて堪える。不思議と涙は出なくて、その代わり自分への怒りが渦巻いていた。
なんでもいい。何かで自分を傷付けたい。
…そうだ、喫茶店の中は酷い有様だったはず。だとすれば、割れたガラスくらい落ちているだろう。
それを自分の躰に突き立てて、そして…!
「…………」
衝動に突き動かされ、亜美は喫茶店のドアを開ける。鍵は掛かっておらず、すんなりと開いた。まだ夜明け前なので室内は暗い。
だが…電気をつけてみると室内は亜美の予想に反して綺麗に片付けられていた。誰かが…それこそ夢羽あたりが戻ってきて、片付けたのかもしれない。
それならそれで構わない。カウンターの中には包丁くらいあるだろうし、それで傷付ければいい。
そう思い、亜美がカウンターを乗り越えようとした瞬間―誰かに腕を掴まれた。
亜美は振り返り、自分の行動を阻害した人物を見る。
そして、いつもとは違う静かな調子で言った。
「…離して下さい、夜月さん」
亜美の腕を掴んだのは夜月だった。彼は何も言わぬまま、亜美の腕を掴んでいる。そこからは強い意志が感じられた。
引っ張ってもビクともしない。それに苛立ち、亜美は先程より強い調子で言った。
「なんで止めるんですか。いいから早く離してください」
「駄目だ」
そこで、夜月が口を開いた。
「自分を傷付けようとしていただろう。それを見過ごす訳にはいかないんだ」
「…夜月さんは、私を恨んでいないんですか?」
亜美は悲しそうな口調で言う。
「私の所為でお兄ちゃんが傷付いているのに…」
「恨む理由が無いな。そもそも、この事態は本当にお前だけの所為だと言えるのか?」
夜月は冷静な態度を崩さず、続ける。
「…流石は兄妹だ、無銘とよく似ているよ。アイツも病院で目覚めた時に、オレの所為で…って嘆いていた」
だから、あの時と同じ事を言おう―そう言って、夜月は亜美の目を
「…
夜月は視線を外し、窓の外を見る。空には分厚い雲が掛かっていて、星はひとつも見えなかった。
「何もお前だけの責任じゃないだろ。俺にも、茨羽にも、無銘にも裏の世界の連中にも…皆に等しく責任がある筈だ」
「それは…」
亜美は反論出来ずに黙り込む。夜月はそこで腕を離し、真剣な目をして言った。
「それに、アイツがそう簡単にくたばる訳がないだろ…兄貴を信じてやれ」
夜月の声は普段よりも優しいものだった。亜美をいたわるように、慣れないながらも感情をコントロールしているのだろう。
不器用ながらも、夜月は亜美を励ますように言った。
「…俺はお前に助けられた。感謝はしても責める事はない。だから、後は任せろ」
夜月はそこで微笑んだ。
「俺が…俺たちが、無銘をお前の元に連れ戻す。約束だ」
「…………」
夜月がこんな笑顔を見せるのは初めての事だ。
恐らく、自分を不安にさせないようにしてくれているのだろう。
ドロシィの力は圧倒的で、夜月と茨羽ふたりがかりでも適わなかった。それが分かっていて、それでも自分を元気づけようとしてくれている。
そうだ…。
私のお兄ちゃんは、無敵なのだ。
一回死んだのに蘇り、再び自分の元へと現れてくれたじゃないか。
なら、また姿を現してくれる筈。
それに…夜月と茨羽は、危険を冒して亜美を連れ帰ってくれた。赤の他人と拒絶してもいい筈なのに、研究所に乗り込んでくれた。
そんな人の言葉を、信じない訳がない。
亜美は小さく、だけど確りと頷いた。
それで、夜月は安心した様に息をついた。
* * *
「…そういえば、茨羽さんは…?」
ひと息ついたところで亜美は気になっていた事をきいた。
「それが、俺と茨羽は別々の場所に飛ばされたんだ。俺は茨羽の事務所前に飛ばされたからまだ良かったんだが、茨羽から連絡がないからな…」
夜月はあまり不安に思っていない様子だった。
「まあ、もう少しすれば連絡が来るだろ…っと、噂をすればなんとやらだな」
夜月の携帯端末が振動し、ポケットから取り出したそれを見て夜月は微かに口元を緩めた。
「…ん、俺だ。ああ、一緒にいるけど…茨羽今どこにいるんだ…って、は?」
電話をしていた夜月の声色が変わり、雰囲気が鋭いものになる。先程よりも少し早い口調で、彼は通話を続けた。
「病院が…そうか、一応全員無事なんだよな?…え?つばめちゃんが?…分かった、ただ俺たちは今冬天市にいるし、電車がまだ動いてないだろ…バイク?んなものないって…あ、あるのか?なら分かったよ、無免許運転見逃してくれるならだけど…ああ、んじゃ向かう」
夜月は通話を終え、亜美の方を見た。
「逆浪たちが入院してた病院が襲撃されたらしい。幸い、入院患者は全員無事らしいが…どうやら、つばめちゃんを狙ってきたみたいだ」
その言葉をきいて、亜美はゾッとする。
口振りからしてやったのは恐らく螺鈿會だろう。まさか、自分を捕らえていた裏でそんな事をしていたとは…。
「…俺は今から病院に行くが、一緒に来るか?それともうちに帰るか?」
「一緒に行きます。確か、陽ヶ鳴市でしたよね?」
亜美は即答し、同時に自分の中にいる悪魔に強い口調で命じた。
(…陽ヶ鳴に連れて行って。嫌とは言わせないよ)
(やれやれ、うちのご主人様は相当おかんむりの様だな。仕方ない、連れて行ってやろう)
悪魔はやけに素直に従った。コイツの事だから、何か意図があるのだろう。それともただの気まぐれか…いずれにせよ、行けるならどうでもいい。
「私の能力で陽ヶ鳴まで飛べます。場所を教えてください」
「…分かった。陽ヶ鳴総合病院だ」
夜月が目的地を伝え、亜美がその手を握る。
そして…ふたりは陽ヶ鳴総合病院へと向かった。
* * *
病院は一見するといつもと変わらないように思えた。
だが警察が来ており、院内も慌ただしい様子だった。夜月と亜美が事情を伝えると、三階にある病室へと案内された。
病室には茨羽と逆浪、六場に加え、意識を失っていた筈の美雪と夢羽の姿があった。全員が押し黙り、夢羽は静かに泣いている。
夜月たちが入ってきた事に気付いた茨羽が顔を上げ、「早かったな…」と言った。
「ラプラスの悪魔の能力で飛んで来た。それより何があった?」
夜月が聞くと、逆浪が覇気のない声で言った。
「突然、窓から神知が入ってきて…つばめを攫っていった」
六場がその後を継いで続ける。
「…アイツ、去り際にこう言ったんです」
―コイツとは、もう二度と会えないだろうよ。
夢羽の鳴き声が大きくなる。
美雪は俯き、きつく唇を噛み締めていた。
それを見て、夜月はいくつかの光景を思い出す。
姉が行方不明になった日のこと。
自分と一緒に居た少女を、喪った日のこと。
研究所を脱出する時に、無銘から託されたもの。
そして―亜美と交わした約束も。
これ以上、失ってたまるか。
重い雰囲気とは裏腹に、夜月の中には確かな闘志が芽生える。
それが自分を焼き尽くさないように制御しながら、夜月は言った。
「…まずは、事情をきかせてくれ」
とても静かで、重みのある声。
病室にいた全員が顔を上げ、夜月の方を見る。
「研究所で何があったのか、そっちで何があったのか…全て話して、情報交換をするんだ。そして、それが済んだら…」
奪われたものを、全て取り返しにいくぞ。
夜月は静かに―そう告げた。
亜美編はこれでおしまいです。
この章を執筆している時に作品の構想を大幅に変えたこともあり、初期構想とはだいぶ異なるお話になりました。