無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
……深い眠りから目覚めた。
視界に映るのは白い天井。無機質なそれをぼんやりと見つめているうちに、自分がどうなったのかをうっすらと思い出した。
がばり、と身を起こそうとして、全身に走る痛みに動きを止める。仕方がないのできょろきょろと周りを見回してみると、自分がいる場所が病院の個室である事が分かった。
(オレは確か……洞ノ院から脱出して、それで……夜月と亜美に赤ちゃんを託して……)
記憶に違和感はない。薄れゆく意識の中、夜月と亜美に赤子を託した事も覚えていた。
みんながどうなったのかは分からない。躰を動かせない自分にもどかしさを感じていると、病室の扉がスライドして、夜月と茨羽が姿を現した。
「目が覚めたのか」
「俺たちの事、分かるか?」
「夜月……茨羽……」
無銘が呟くと、ふたりはホッとしたような表情を浮かべた。
「お前は三日間眠っていたんだ。自分がどうしてここにいるのかは分かるか?」
「ああ、覚えてる……それよりも、亜美や木野は?」
「ふたりとも無事だ。木野も骨折程度で済んでる……あと、赤ん坊もな」
「そうか……よかった」
今度は無銘が安堵する番だった。
自分は、護り切れたのだ。
「ただ、春風郭公は死んだ。お前が目覚めたと知れば、事情をきくために警察がやってくるはずだ。自殺である事は判明しているが……それでも、かなり厳しい取り調べになると思う」
夜月が疲弊したように言った。その様子から、彼も厳しい取り調べを受けたのだろう。
「……ああ、分かってる」
春風郭公は無銘の目の前で自殺した。
その現実は、しっかりと受け入れなければならないだろう。
「ま、今は休め。ここ最近はまともに休息も取ってなかったんだろ?」
「そうするよ……久しぶりに、肩の荷が降りた気分だしな」
無銘はそう言って、躰の力を抜く。
自分を縛っていた鎖が解けたような、そんな気持ちだった。
夜月と茨羽は亜美と葉月の様子を手短に伝えると、「退院したらゆっくり話そう」と言って帰った。無銘に気を遣ったのかもしれない。
無銘はふたりを見送ると、また眠りについた。
今は余計な事を考えず、ただ休みたかった。
* * *
──同時刻、洞ノ院跡
火災により崩壊した洞ノ院。
その跡地に、ひとりの男性が立っていた。規制線が張られ、警察が出入りしている場所だったが、男が見咎められる事はなかった。それどころか、誰も男の存在に気付いていないようだ。
汚れた白衣と手入れされていない長髪が、風になびく。男はしばらくぼんやりしていたが、やがて瓦礫の中から地下へと続く扉を見つけ、地下へと降りていった。
火災の元が地下だった事もあり、かつて春風郭公がいた部屋は見るも無惨な状態だった。焦げ臭い匂いが充満する部屋をぐるりと見渡して、男は「酷い有様だねぇ」と呟いた。
「模造品の資料は廃棄されちゃったかぁ……ま、仕方ないよね。データはこっちにも送ってもらってたから、別になくてもいいし」
ぶつぶつと呟きながら、男は黒焦げになった机の引き出しを開け、中身を確かめる。その机はかつて春風が使っていたものだったが、中身は全て抜き取られている。だが、男はそんな事は分かっていると言わんばかりに引き出しを調べ、少ししてから徐に手を奥へと突っ込んだ。
指先に微かな手応え。引き出しに仕込まれていた仕掛けが作動し、隠されていたスペースが姿を現した。
男が手を引っ込めた時、そこには古ぼけた紙片が握られていた。一見すると色褪せた紙片にしか見えないが、男はそれをまじまじと見て、ニヤリと笑みを浮かべた。
「ロストアイの研究だけだと思っていたけれど、ちゃんと創っていたんだね……ま、こっちも模造品だし効力があるのかどうかは分からないけど」
でも、ロストアイがないと意味がないなぁ──そう呟いて、男は手の中の紙片を残念そうに見つめる。
それから思いついたように携帯端末を取り出し、とあるデータを表示した。
「赤坂蜥蜴が引き取ったのはこの子か……これはもしかするともしかするかもしれないねぇ」
男は甲高い声でヒヒッと笑う。
「ひとまず、これは僕が持っておこうか。17年後か、そのくらいになったらあの子も高校生だろうし……僕のモノにするのもいいかもねぇ〜」
待つ事は慣れてるからねと付け加えて、男は上機嫌に地下を後にした。
「さてと、可愛い可愛い美雪が待ってるし、そろそろ帰ろうかなぁ」
男は舌なめずりをしながら、洞ノ院を後にする。
「17年後……ここにある無題奇譚の紙片とあの子を引き合わせたらどうなるのか、今から楽しみだよぉ〜」
男──苛内植はけたけたと笑いながら、何処かへと去っていった。
彼が密かに回収した悪意の種が芽吹くのは、まだ先の話である。
* * *
目覚めた後、無銘は驚異的な速度で回復していき、一週間も経たないうちに退院した。
これまでの疲労も取れたので躰は絶好調なのだが、火傷の痕が躰に残ってしまった。
無銘の異能……「
この傷が、証明だったからだ。
つばめの英雄になるという、決意の証。
だから、無銘は痕をそのままにしていた。おかげで一般人には少し怖がられるようになってしまったが、それは仕方がない。
退院した無銘は、すぐに探偵業を再開した。入院していた時に溜まった依頼を片っ端から処理していく日々。だけど、悪くはなかった。
以前とは異なり、晴れ晴れとした気持ちで毎日を過ごす事ができていたからだ。
無銘だけではない。今回の事件に関わった者たちも、それぞれの日常に戻っていった。
ただ、ひとつだけ宙に浮かんだ問題があった。
とても難しい問題だ。選択によっては、今後の人生を大きく変える事になる。
そして、その問題に対して……無銘はある決意を固めていた。
* * *
「……本当に、よろしいのですか」
目の前に座った医師は、静かな口調でそうきいてきた。
「はい。あの子はオレが引き取ります」
それに対して、無銘ははっきりとした口調で返した。
入院していた時から決めていた事だ。その決意に、揺らぎはない。
「……本来、子どもというものは両親の愛を受けて育つものです。片親だと負担もかかりますし、子どもとのコミュニケーションが上手く取れない事だってある。私も、そういった親を何人も見てきました」
医師はマスクを付けており、表情は読み取れない。しかしその目は深い憂慮の念を湛えているように、無銘には思えた。
ここは陽ヶ鳴総合病院の小児科だ。無銘は洞ノ院にいた赤子を引き取ろうと考え、担当していた医師──
「あの子がどんな事情でひとりになったのか……それはききました。ですが赤坂さん、あなたがあの子をひとりぼっちにさせてしまったからといって、その責任をあなたが負う必要はないのですよ」
伏島医師は静かな目で無銘を見る。髪には白いものが混ざり始めているが、まだまだ現役の医師だった。
穏やかで、だけど力強い視線……それを真っ直ぐに受け止め、無銘もまた、静かな口調で言った。
「だけど、あの子をひとりぼっちにはさせたくないんです。児童養護施設に入れば、家族はできるかもしれない。だけど、それはあの子をひとりぼっちにさせる事と同義なんです」
決して、祝福された子ではなかった。
仮に、児童養護施設に入れられて、そこであの子の過去が露呈したとしたら……その先は、想像もしたくない。
罪を持って生まれてしまった子なのだ。だからこそ、つばめと約束したという理由以上に……護りたいと、強く思った。
「絶対に幸せにします、だから……!」
「──赤坂さん」
伏島医師は無銘の目をじっと見つめていたが、やがてふっと力を抜き、幾分かリラックスした状態で無銘の言葉を遮った。
「……それならば、ひとまず申請してみましょう。決意は固いようですし、何よりあなたには社会的信用がある。きっと大丈夫でしょう」
伏島医師はそう言って微笑んだ。
その言葉に、無銘の表情が明るくなる。
「あ……ありがとうございます!」
「困った事があったらいつでも相談してください。育児は、ひとりで抱え込む事ではないですから」
伏島はそう言った後、そういえば、と無銘の顔を見る。
「ところで、あの子の名前はどうしますか?このまま名無しという訳にはいかないと思いますが……」
「……それはもう決めています」
あれこれ悩んで、名付けたものだった。
それは、つばめにとってのもうひとりの英雄と同じ響きを持つ名前だった。
無銘は一拍置いてから、その名前を口にした。
「……あの子の名前は──」