無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
無銘が子供を引き取ってから、数日が経過した。
育児はまだまだ慣れず、覚える事もたくさんあって大変だった。だが、その疲労感は心地よいものだったし、周りのサポートもあったため、なんとかやっていけていた。
そんな充実した毎日を送っていた無銘の元に夜月がやってきたのは、月が綺麗な夜の事だった。
* * *
無銘は卓上に置いてあった麦茶をひとくち飲むと、対面にいる夜月の顔をじっと見た。
夜月の前にも麦茶が入ったグラスが置かれている。だが、夜月はそれに手を付ける事はなく、緊張した表情を浮かべてじっと黙っていた。
「今日、時間あるか?」というメッセージが無銘の端末に届いたのは、この日の昼の事だった。
今日は探偵事務所は休みだったので、「夜でいいなら」と返信した。すると夜になって緊張した面持ちの夜月が現れた、という訳だった。
事件後、夜月はまた山に篭っていた。暫く降りてこないだろうなと思っていただけに、夜月がこちらに戻ってきた事は少し驚いたが……色々あるのだろうと、そう思っていた。
実際、夜月は先程から何かを言おうとしてその言葉を飲み込んでいる。普段は緊張した姿など見せないので、無銘は少しばかり心配になった。
暫くの無言に耐え兼ねた無銘が「どうしたんだよ」ときこうとした、その時──今まで黙っていた夜月が静かに口を開いた。
「……赤坂」
「ん?」
「亜美を、俺にくれないか」
静かな言葉だったが、それゆえに重みの籠るものだった。
半ば予想していた言葉ではあった。亜美は度々夜月の元を訪れていたし、ふたりには自分も知らない何かがある事は、薄々感づいていた。
無銘は少し考えた後、夜月にこう言った。
「亜美は、なんて言ってるんだ?」
無銘の問いに、夜月はゆっくりと答え始めた。
かつて、亜美が螺鈿會に捕らわれた時に彼女と交わした言葉や、異能夜行の後に荒れていた夜月を救ってくれた事……そういった事を、無銘に包み隠さず話したのだ。
「……この感情がなんなのか、よく分かっていない。だけど、俺は亜美とずっと一緒にいたいと思ってるし、その気持ちに嘘偽りはない」
まるで、恋慕を打ち明けるように。
夜月の真摯な視線の中に、狂おしい程の渇望があるのを無銘は見た。
「だから……頼む、亜美と一緒にいさせてくれ」
夜月が頭を下げる。
普段の彼からは想像もつかない言葉と態度だった。
無銘はじっと夜月を見つめていたが、ややあって「顔を上げてくれ」と言った。
「……血は繋がってないとはいえ、亜美はオレの妹だ。大切な存在だし、誰かに渡したくないって気持ちもある」
だけど──と無銘は続けた。
「亜美がお前と一緒にいる事を選ぶなら、オレには止められないよ。それに……お前なら、亜美を任せられる」
お前はオレの相棒だからなと無銘は言って、信頼の篭った視線を夜月に向けた。
「赤坂……」
「その代わり……幸せになってくれ。今まで多くのものを失った分、幸せを掴んでくれ」
夜月は無銘の言葉を噛み締めるように黙っていたが、そのうちに一言だけ、「お前もな」と呟いた。
無銘は「ああ……」と答えて、また麦茶に口をつける。
と、夜月がまた話しかけてきた。その表情は先程とは異なり、どこかいたずらっぽいものだった。
「それでな相棒」
「ん?まだ何かあるのか?結婚式には出るつもりだけど……」
「はえぇよ……そうじゃなくて、亜美と一緒になった場合、お前をおにいちゃんって呼ぶけどいいか?」
「やめろ、首が痒くなってきた」
げんなりした表情を浮かべる無銘に対し、夜月は楽しそうな表情を浮かべていた。
「まあそう言うなよ……なあ、蜥蜴おにいちゃん?」
「ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
無銘は絶叫してバリバリと首を掻きむしった。
ちなみに、「蜥蜴おにいちゃん」の箇所は完璧な女声だった。明らかに技術の無駄遣いである。
悶絶する無銘を見て夜月は爆笑していたが、息も絶え絶えになりながら無銘が言った台詞でその笑いが止まった。
「じ、じゃあ……オレもお前の事を
「やめろ、首が痒くなってきた」
今度は夜月が青ざめ、げんなりした表情を浮かべた。
無銘は仕返しとばかりにニヤリと笑い、更に夜月を追い詰めていく。
「まあそう言うなよ……なぁ、我が義弟?」
「ぬあああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
夜月は絶叫しながらバリバリと首を掻きむしる。
「こ、この野郎……おにいちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
「義弟ォォォォォォォォォォォォォォっ!」
首を掻きむしりながら叫ぶ姿は滑稽ですらあった。
その後、たまたま訪ねてきた茨羽に「何やってんだお前ら……」と哀れみの籠もった目を向けられ、今まで通り「相棒」で妥協する事にしたのはまた別の話である。
* * *
翌日、夜月は亜美の元を訪れた。その日は土曜日で、亜美は休みだったため、適当な公園で話す事にした。
「いきなりすまなかったな。折角の休日だったのに」
「いえ、構いませんよ。それで……どうしたんですか?」
柔らかい笑みを浮かべる亜美に対し、夜月は少し躊躇する。
だが、気取った言い回しなど思いつかず、どうしたらいいのか分からなかったので、率直に思いを伝える事にした。
「亜美が俺を訪ねてきてくれた時に言った事、覚えてるか?」
「……俺が強くなって、何も失わない力を手に入れたら、その時は一緒になってくれ……ですよね?」
亜美はさらりと答えた。
夜月は驚いたように亜美を見たが、すぐに元の表情に戻り、頷いた。
「……強くなれたのかは、まだ分からない。だけど……俺は……」
しどろもどろになり、言葉が出ない。
しかし、亜美は全てを分かっているといった様子でこう言った。
「私の答えは、あの時と変わりません。夜月さんがそれでいいなら……私は夜月さんと一緒になりたいです」
亜美は綺麗に微笑んだ。
「亜美……」
「お兄ちゃんも、夜月さんにも……幸せになってほしいんです。そのためのお手伝いを、私にさせてください」
「……それが重い荷物を背負わせる事になってもか?」
「一緒に背負えば、重さは半分になります。だから、私は心配してません」
だから、一緒に背負いましょう。
亜美ははっきりとそう言った。
その言葉が夜月に染み渡っていき……気づいたら、自然と言葉が出ていた。
「その代わり、亜美が背負ってるものも俺に背負わせてくれ。幸せにできるって保証はないけど、そばにいる事はできるから……」
「はい。……よろしくお願いします、夜月さん」
亜美は夜月をそっと抱きしめる。
慈しみを秘めた天使のようにも、甘えるようにも思えるその行動を夜月は受け入れ──ぎこちないながらも、その躰を抱きしめた。
温もりが伝わる。そしてそれと共に、亜美が耳元で囁く声がきこえた。
──みんなが幸せでありますように……。
ちいさな言葉、ちいさな願い。
だけどそれは、今まで掴めなかった願いだった。
これからは、その願いを叶えていこう。
夜月は素直に、そう思った。
こうして、無銘のみならず、夜月も新しい生活へと踏み出した。
そして、時は緩やかに過ぎていく……。
次回、第1.5部最終話です。