無題奇譚〜Untitled tale〜 作:惰眠
#1「さいかい」
波の音が意識を覚醒させてゆく。
気が付くと、あたしは夜の海にいた。素足に冷たい水が触れ、それと同時に止まっていた思考が動き出す。
なぜ自分がこんなところにいるのかは分からない。だが、その事を考えると酷く切ない気持ちを覚えた。
なぜだろうと思ったとき、記憶の底からひとつの声が蘇り、その答えを導き出した。
──じゃあ、一緒に海に行きたいな。
──約束、だよ。
きき覚えのある、懐かしい声だった。
そうだ、あたしは誰かと海に行く約束をしていたのだった。
だけど、誰と約束をしたのかが思い出せない。思い出そうとすると、急に思考が真っ白になる。
もどかしさを抱えつつ、空を見上げる。黒一色の夜空に、無数の星が瞬いていた。
ぼんやりと眺めていると、ひとつの星が煌めきを放ちながら海に落下した。
流れ星だ、と思う間もなく、他の星も次々と落下してきた。それはとても幻想的な光景だったのだけれど、同時に儚さも感じさせるものだった。
そのうちのひとつが、あたしの手の中に落下する。反射的にぎゅっと握った手を恐る恐る開くと、丸くて綺麗なものが光を放っていた。星の
それを眺めているうちに、自分の中で何かが解き放たれていくような、そんな感覚を覚えた。それと同時に、今まで思い出せなかった事を思い出し……あたしは短く声をあげた。
(そうだ、あたしは戻らなくちゃいけないんだ。
あたしは元いた場所に戻るために、踵を返そうとした。だが、その前に黒い波が急激に膨れ上がり……瞬く間にあたしを水底へと引きずり込んだ。
黒い海の中をどこまでも落ちていく。息ができず、意識がどんどん遠ざかっていく。
(だめだ……ここで諦めるわけにはいかない……!)
頭に過ぎるのは、全てを喪った絶望的な光景。
その中で託された一筋の希望を、あたしは掴まないといけないのに……!
……やがて、意識が完全に消失する。
最後に見たのは、絶望的なほどに遠い
* * *
「……はっ!?」
躰ががくんと落ちる感覚と共に、
すぐに意識が鮮明となり、自分が置かれている状況を把握する。机の上にはノートと教科書。視線を動かすとブレザータイプの制服に包まれた躰が見えた。ここは……高校の教室だ。
先程までの光景は、どうやら夢だったようだ。
「はぁ……良かったぁ……」
「何が良かったんだ?」
「そりゃ、さっきまでの光景だよ……本当に怖かった〜……って、あれ?」
独り言の筈なのに、会話が成立している。
なぜだろうと思い、自分の左隣を見てみる。そこにはスーツを着こなした男がいて、教科書を片手に持ったままこちらを呆れたように見ていた。
「あ……
「おはよう赤坂。授業中に爆睡するとはなかなかやるな。もしかして授業が簡単すぎたか?」
「え、いや、決してそんな事は……」
「寝てるくらいなんだから、もちろんこの問題は解けるんだよな?」
そう言って教師──大谷が示した先には、何やら複雑な数式が書かれた黒板が。
「え、えーとぉ……」
「どうした?公式はさっき教えたはずだぞ?」
ダラダラと冷や汗が流れる。隣の席にいた男子生徒に助けを求めてみるも、呆れたようにこちらを見ただけだった。
「あー、ちょっと睡眠学習に没頭しすぎたみたいですね〜……っていたぁ!?」
大谷は教科書で小鳥の頭を叩いた。悲しいかな、こんな事は日常茶飯事なのでクラスメイトたちは特に何も言わない。みんな慣れてしまっているのだ。
「それはそれは。じゃあ睡眠学習の効果を試すために課題をたくさん出しておくからな」
大谷は笑顔でそんな事を言う。
こうなるともうどうしようもないので、小鳥はがっくりと項垂れた。
ちょうどその時、チャイムが鳴ったので大谷は授業を終わらせた。お昼休憩の時間になったという事もあり、生徒たちが思い思いに散っていく。
後には、真っ白に燃え尽きた小鳥が取り残された。
* * *
「うぅぅぅ……大谷先生の鬼ぃ……悪魔ぁ……」
十分後、小鳥は何とか復活し、教室に来た友人たちと昼食を取っていた。
「わかりますよその気持ち……私も古典の時間に寝てたら現代語訳の課題出されましたもん」
小鳥の対面でうんうんと頷くのは
「まったく……小鳥も叶もだらしないんだから」
叶の隣に座り、呆れたような表情を浮かべるのは
「そういう楓はどうなんですか?」
「あたしは要領いいから。バレないように寝てるもん」
叶の言葉に、楓はさらりと答える。
何を隠そう、この少女もかなりのバカだった。
「ぐぬぬ……今度その方法教えて」
「先輩としてのプライドとかないの?」
「ないよ!だいたい先輩後輩って間柄でもないし」
叶と楓は小鳥のひとつ下にあたるが、その会話からは上下関係は読み取れない。ふたりが小鳥の教室に平然と入ってこれているのもそれを手伝っている。
購買で買ってきたパンを水で流し込んでから、ふと思い出したように小鳥がきいた。
「それよりさっきから気になってたんだけど、さよりんはどうしたの?」
「
「相変わらず武器オタクですね……」
楓の言葉に、叶が呆れたようにため息をつく。
先程から話題に上がっている人物……
この場にいる三馬鹿とは異なり優等生ではあったが、趣味兼副業の武器制作に熱中すると引きこもりがちになる悪癖があった。今回はそれが更にエスカレートしたのだろう。
ちなみに、叶は紗由の事を武器オタクと評していたが、紗由は武器以外にも造詣が深い。根っからのオタク気質なのだ。
かくいう叶も刀剣オタクなので、人の事は言えないのだが、この場にそれを指摘する人間はいなかった。
「そっかぁ……今日の夜は来るのかな?」
「そもそも、招集がかかるかも分かりませんよ。いくら異能力者が増えたからといっても、ここ一週間くらいは何事もありませんでしたし」
「いや、現れるだろうね……ここ一週間は異能対の人たちが対処してくれてたからあたしたちに招集が掛からなかっただけだし」
楓の言葉をきいて、小鳥が思い出したように声をあげた。
「あ、そっか。楓のお父さんって……」
「うん、異能研の所長」
「
「まあ、お父さんも異能力者だしね」
この世界には、異能力という人智を超えた力が存在している。異能を扱う事ができる者は異能力者と呼ばれており、その数は増加傾向にあった。
小鳥たちが住んでいる冬天市は特に異能力者が多く、「異能力者の町」として知られている。実際、ここにいる三人も異能力者だったりする。
政府は冬天市の状況を踏まえ、異能研究所(異能研)という組織を設立。楓の父親はその所長であり、楓が異能研の動向を知っているのはそのためだった。
ちなみに、ここにいる三人が異能研の動向を気にしている理由は他にもあるのだが、それは後述する。
* * *
昼休みが終わる五分前に、叶と楓はそれぞれの教室に戻った。
小鳥は戻ってきたクラスメイトと適当に駄弁りながら昼休みを終え、午後の授業を受けた。
先程までの授業で睡眠を取っていたからか眠くなる事もなく、無事に授業を終える事ができた。
放課後になると小鳥は教室を出て、まっすぐ自宅へと帰った。部活には入っていないし、今日は用事があったからだ。
小鳥の自宅は「探偵事務所 鴉の爪」という探偵事務所である。物心ついた時から母親はおらず、父親とふたり暮らしではあったが、不満は何ひとつなかった。探偵という職業は安定性に欠けているが、普通に暮らせていたし、学校に行けば友達もいる。今のままで十分幸せだった。
もちろん、母親がいない事を寂しく思ってはいる。だが、仕方がない事だと割り切っていた。両親の離婚などといった理由ならまた違う考えを持っていただろうが、父は母を深く愛しているようだった。子供心にも望まぬ離別だという事は分かったし、何より、父に迷惑を掛けたくはなかった。
帰宅し、一息つく。父はまだ仕事中らしく姿が見えなかった。
しばらく休憩してからシャワーを浴びて着替えを済ませ、小鳥は再び家を出た。
日は暮れ、夜が迫ってくる時間帯。散歩にはちょうどいい時間帯だといえるだろう。
しばらく歩き、学校の前を通過。部活に励む生徒たちの声をききながら尚も歩くと、行く先に目的の建物が見えてきた。
「無題荘」という名のアパートだ。かつてはボロボロだったらしいが、今は立て直されている。
一階の真ん中の部屋が目的地だった。ドアの横に着いている呼び鈴を押すと、ややあって「どうぞー」という声がきこえた。
ドアを開け、靴を脱いでから短い廊下を進み、突き当たりの部屋へと入る。四畳半ほどの部屋にはベッドと簡単なデスク、そして本棚しかなかった。
デスクの上にはパソコンが設置されており、その前にはひとりの少女が座っていた。小鳥を見るとその顔が嬉しそうなものになり、
「こっちゃん……来てくれたんだ」
と表情と同じくらい嬉しそうな声で言った。
「ここのところ来れなくてごめんね。ちょっと課題に追われていてさ……」
「お疲れ様。ここ一週間くらいは特に何事もなかったし、わたしも何事もなかったよ」
少女はそう言うが、小鳥はその言葉に同意できなかった。
廊下を通った時に流し台に置かれていたモノが、少女の生活を物語っていたからだ。
「何事もなかったんだ……なら、流し台にあったカップラーメンの山は何だったのかな?」
笑顔で言うと、少女はしまったという表情になった。
「えっと……それは……その……」
「レトルトでもいいからちゃんと食べるように言ったはずなんだけどなぁ。なんでカップラーメンばかり食べてたのかなぁ……」
「め、めんどくさがってたわけじゃないよ!ただ、仕事が忙しくて……」
「本当に?」
「ほ、本当だよ……」
「…………」
「……あぅ……」
小鳥はジト目で少女を見つめる。
無言の攻撃に絶えられなくなったのか、少女は赤くなって俯き、小さな声で白状した。
「……すいません、ちょっとめんどくさいとか思ってました……」
「ほらやっぱり。ちゃんと食べないと栄養バランス偏っちゃうよ?それにあたしたちが招集かかってなかったんだから、よいちゃんの仕事も少なかったと思うし」
「で、でも、勉強とか忙しかったし……」
「まぁ、それは仕方ないか……でも、カップラーメンだけ食べるのは躰に悪いよ!今度、何か作って持ってくるよ」
「わ、わかった。ありがとう……」
少女はまだ赤くなりながらお礼を言った。
この少女は生命維持活動に無頓着なので小鳥が来ないとこうなる事が多い。なのでなるべく訪れるようにはしているのだが……少し間を開けるとこんな事になってしまう。
少女の名は
本来なら学校に行くべき年齢だったが、とある理由があって行けていなかった。今は自宅で学習をしつつ、無題荘の管理人を務めている。まともな食事を取ってないのも頷けるほどの忙しさだが、それにしてもカップラーメンだけというのはどうかと思う。
そこでとある事を思いつき、小鳥は夜宵にきいた。
「……まさか、お風呂も入ってないとかないよね?」
「そ、それはさすがにないよ。ちゃんと入ってるよ」
本当かなぁと思いつつ、夜宵に接近してすんすんと匂いを嗅いでみる。シャンプーの匂いが鼻腔に届いたので、とりあえず安堵した。
一方の夜宵は小鳥の顔が近すぎてあたふたしていた。自分のものとはまた違うシャンプーの香りに、ますます顔が赤くなる。
「よしよし、ちゃんと清潔にしてるみたいだね。ってどうしたの?顔赤いけど……」
「こ、こっちゃん……顔、近い……」
人との関わりを最低限に済ませているからか、夜宵はこういった事に慣れていないようだった。小鳥にしてみれば普通の事なのだが。
と、その時、部屋中に単調な電子音が響いた。発信源はデスクに置かれたパソコンで、その音をきいた夜宵と小鳥の表情が一瞬にして真剣なものへと変わる。
「はい、皐月日です」
夜宵は放り出してあったヘッドセットを装着し、通話を開始する。小鳥は真剣な面持ちでその様子を見守っていた。
「……教会付近ですね、分かりました。少々お待ちください」
夜宵は小鳥の方を向くと、「緊急招集。教会付近に携帯型異能の反応あり。一週間前の残党だと思う」と簡素に伝えた。
小鳥は携帯端末のメッセージアプリを立ち上げ、その言葉をそのままグループトークへと打ち込む。
すぐに何件かのリプライが返ってきた。それを見ながら、夜宵に言う。
「OK。だいたいのメンバーは集まれると思う。こっちで対処するよ」
「分かった……もしもし、こちらで対処します。回収班の派遣をよろしくお願いします」
夜宵は一度通話を終えると、少し不安そうに小鳥を見た。
「多分、相手は犯罪者だと思う。絶対に無茶はしないでね」
「おーきーどーきー!よいちゃんもサポートよろしくね」
「うん!」
夜宵と拳を軽くぶつけ合い、小鳥は外に出る。
目的地は郊外の教会。小鳥は地面を蹴り、夜の帳が落ちつつある町を疾走した。
──これこそが、小鳥たちが異能研の動向を気にしているもうひとつの理由だった。
異能研の一部署である異能対策室。その補助組織のひとつに、
この町の新たな希望となる、その組織の名は──
小鳥を見送った夜宵はヘッドセットを着用し直すと、その名を叫んだ。
「──“HELLO WORLD”、出撃します!」