新宿を、車が走っている。
宮本武蔵と闘ったばかりの花山薫を乗せた、救急車だ。
予定では、十分も経たずに、鎬紅葉の待機する病院へと到着するはずだった。
(楽しかったな……)
車内のベッドに横たわる花山が思い出しているのは、高校に通っていた頃のことだ。
何故いまこの時、学生時代の記憶を蘇らせるのか。
それは、宮本武蔵との闘いが、絶望的に困難なものだったからだった。
高校も、同じだった。
都立倉鷲高等学校で、花山は一介の学生として過ごした。
あの三年間の記憶は、花山にとって楽しく懐かしいものであったのだが、しかし同時に彼の無意識は、それを非常な困難の記憶――宮本武蔵と対峙するのと等しいレベルの――と位置付けていたのだった。
だから宮本武蔵と闘った直後のこの時、思い出していたのだ。
(みんなに、世話になっちまったなあ……)
算数の九九すらおぼつかぬ花山にとって、進級も卒業も、絶望的なまでに高いハードルだった。
それをなんとか卒業までこぎつけさせたのは、同級生たちの協力だ。
井森洸一や竹林巌、一緒に「やぐら」に行った小柄な彼といった面々を中心に、同級生たちが本人以上に必死になって、花山に勉強を教えたのである。
(そういえば、刃牙はどうだろう……)
次に思い出したのは、親友の顔だ。
(あいつも頭は良いんだろうが……勉強は出来なさそうだ。いや、しかしあいつはアメリカの刑務所に入っていた。てことは、英語が話せる……てことは…………勉強が出来る!?)
範馬刃牙は、勉強が出来る。
その可能性に、花山は戦慄した。
その時だった。
突然、背中の感触が無くなった。
ベッドの底が抜けたように背中を支えるものが無くなり。
瞼越しに見てた、救急車内の灯りも失せ。
代わって、どろりとした温い粘体に全身を包まれる。
そして、落ち始めた。
花山が通った後には、泡とも砕けたゼリーみたいな断片ともつかない煌めきが跡となり、それらのひとつひとつに、花山の人生に起こったあれやこれやが映し出されていた。
目を細め、それを見ながら。
ゆっくりと。
花山は、暗くきらきらとした粘体の中を落ちていく。
(死んだか……)
三途の川みたいな処に、自分はいるのだ。
そう認識しはしても、花山に焦る気持ちはなかった。
恐れも、生に執着する気持ちも花山には無かった。
それよりもだ。
(……母さん?)
気付くと、少し離れた場所に母がいた。
病死した花山の母が、まだ健康だった頃の姿で佇んでいたのである。
それに驚くこともなく、花山は訊いた。
「母さん……俺は、立派にやれたかい?」
それに対する母の返事は。
「はぁああああああ~~~~~?」
だった。
母は言った。
呆れと怒りの混じったような顔で。
「何いってんだい!? 立派も何も、まだこれからだろ?」
「?」
「大仕事だよ――がんばんな。薫」
言って笑って、母は消えた。
同時に、落下も終わった。
目に映る、景色も変わる。
青空だった。
「……ん」
背中の感触、それと匂いから察すると、どうやら下は土らしい。
成人の儀で籠もった山を思い出しながら身を起こし、尻もちをついたような姿勢から、花山は立ち上がった。
身体は、いつの間に着てたのかコートに包まれている。
宮本武蔵との闘いに向かう際、着ていたコートだ。
ポケットから煙草とライターを取り出し、火を着けた。
一気に三分の二くらいまで灰にして。
「……空気がいい……」
呟く花山。
その左側から――
「な」
「何者!」
「き、貴様、何者だ!?」
――震える声で、怒鳴る男たちがいた。
男たちは五人で、みな動きやすそうな鎧を着けている。
鎧のデザインは五人とも同じで、構えている剣も同じだ。
兵士――官憲に通じる匂いを感じ、花山はそう判断する。
そして右側からは――
「ぶしゅるるるるるるる……」
――獣の唸り声。
大きい。
身長一九〇センチを超える花山を、なお見下ろす。
全身を強い毛に包んだ、獣人が一体。
そして――
(来ちまったか……異世界)
現代世界ではまずありえない状況から、花山はそう判断したのだった。