もう一度、あの頃に戻って 作:シェフ・カリー
『サトノダイヤモンド、一番人気に応えられずまたも掲示板外』
ネットニュースの一番上、大きく表示されたその文字を思わずクリックしてしまう。
画面に映し出されたのは6着に敗れた宝塚記念のレース動画と敗因が綴られた記事。
反論したい部分はいくつかあれど、GⅠレースともなればそれなりに見る目のある記者が記事を書いているのか、パッと見た内容に担当トレーナーである自身の見解との差異は少ない。
歯がゆくはあるが、自分とは異なる視点からレースを見た記者の意見だ。少しでも次に活かせることがあればという気持ちで読み進める。
『夢だった凱旋門への挑戦、環境の変化に適応できず惨敗。聡明なウマ娘であるだけにそれを引きずり、悪循環に陥ってしまっているのかもしれない……』
思い当たる節はあった。あの日以来、サトノダイヤモンドは下を向くことが増えた。
嫌な考えを払うように首を振り、画面を閉じようとマウスを動かしたところで、記事に付けられたコメントが目に留まった。
――彼女は早熟だった。これ以上経歴を汚さないためにも、彼女はもう引退するべきなのかもしれない。
頭に血が上った。
書き込んだのはレース外のサトノダイヤモンドのことを知りもしないような人間だ。次のレースこそは期待に応えようと必死に練習に取り組む彼女の姿を見たことがない人間だ。そんなやつらに、彼女はもう終わったと決めつけられる筋合いなどない。
こんなコメントが一番多くの共感を得ていることが信じられなくて、叩き付けるようにノートパソコンを閉じた。
厳しい世界だと、分かってはいた。
トゥインクル・シリーズで、ファンの歓声を一身に浴びることができるウマ娘はたった一人。
表面上は輝かしく映るその舞台裏で多くのウマ娘が苦杯を嘗め、ターフを去る。結果が出ないことが続けば、引退するウマ娘だっている。
それが空想の話でないことは理解していた。実際、同期のトレーナーの担当ウマ娘の中にも勝てないことや怪我を理由に引退した者はいた。
だが、自分と彼女には関係のない話だと思っていた。
メイク・デビュー以来無敗とまではいかないものの、日本では常に一着もしくは馬場状態やレース展開が違えば一着もあり得たような二、三着でゴールできていた。
海外ではどうしても馬場に適応できずに思うような結果を残すことができなかったが、日本に戻れば彼女はまたかつての輝きを取り戻すと思い込んでいた。
現実は、そう上手くはいかなかった。日本に帰ってからの二度のGⅠレース、得られた結果は期待していたものとはかけ離れていた。完璧なレースをして、勝つことに期待していたわけではない。もちろん、それが最善ではあるが、全力を尽くしてそれでも勝てないのであれば悔しいが次に活かせばいい。
だが、そうではない。問題は彼女が、彼女らしい走りを見せられなかったことにある。サトノダイヤモンドは、自分を見失ってしまっているように見えた。
それは彼女に限った話ではない。
彼女の夢を叶えてやれなかったあの日から、頭にモヤがかかったように感じる。今までどんな風に彼女を指導してきたかさえわからなくなることがある。
一つ、大きなため息を吐いて、頭を冷やそうとトレーナー室の窓を開けた。
寮の門限はとうに過ぎて、誰もいないはずの真っ暗なグラウンドに長い髪と緑の髪飾りが揺れていて、もう一度、深い息を吐いた。
***
「よぉ、ダイヤ。今日も遅くまで自主練頑張ってんな」
「……トレーナーさん? いつからそこに?」
よほど集中していたのか、グラウンドを一定のペースで周回していたサトノダイヤモンドは目を丸くして答えた。
「30分前ってとこか? クールダウン中かと思って待ってたんだが……なかなか終わらないもんだからつい声をかけちまった」
「そんなに前から来ていたんですか? すみません、全然気づかなくて」
「ああ、いいんだ。俺も夜風に当たってたかったからな」
「トレーナーさんもですか」
そう言って、彼女は儚げに笑った。目を離せば消えてしまうのではないかと思った。
「眠れないのか?」
「流石、トレーナーさんは何でもお見通しなんですね」
彼女は驚いた様子だった。だが、当たり前だと思った。
「ダイヤのトレーナーになって長いからな、わかるさ」
「ふふ……確かに、トレーナーさんがトレーナーさんになる前から、ですからね」
そうだな、と小さく言った。
彼女との付き合いは長い。それこそ、腐れ縁と言ってもいいほどに。
トウカイテイオーが有マ記念で奇跡の復活を果たしたあの日から、復帰は絶望とまで言われたメジロマックイーンが再びターフを駆け抜けたあの日から、サトノダイヤモンドとキタサンブラックと三人で、必ずトレセン学園で偉大なウマ娘とトレーナーになろうと誓った。
それから飛ぶように月日は過ぎた。
彼女たち以外との人付き合いを捨てて入学のための勉強に費やした。
入学してからはそれまで以上に睡眠を削って、ウマ娘の身体やレースに勝つための走り方の研究に時間をかけた。
キタサンブラックとは学園に入学してから少し付き合いが減ったが、逆に専属トレーナー契約を結んだサトノダイヤモンドとの繋がりは更に強くなった。
彼女たちは文字通り日本で名を知らぬ者はいないほど強いウマ娘になった。きっと才能に恵まれていて、それ以上に努力し自分を磨いた結果だろう。
だが、だからこそ考えてしまう。もしも自分以外のトレーナーがサトノダイヤモンドの指導をしていたらどうなっていたのだろうかと。
彼女は夢を叶え、輝くような笑顔が影を潜めることもなかったかもしれない。
「ダイヤもキタのトレーナーに指導してもらった方が良かったのかもな」
口をついて出た言葉に、後悔した。
本心ではあるが、心優しい彼女は困ってしまうだろう。ただでさえ悩みを抱えているであろう彼女の心労をこれ以上増やしたくはない。
すぐになんでもないと笑ってごまかした。
「……私、そろそろ帰りますね」
少し黙って、彼女は呟くような声で言った。
「あ、ああ……」
有無を言わせぬという表現がしっくりくるような圧を感じて、見送りの言葉を掛けられなかった。
暗がりで表情こそ見逃したが、声のトーンが普段より一段低かったような気がする。
つまらないことを言うものだと思われただろうか、それとも――。
彼女を復調させるためのアイデアは何一つ思いつかないくせに、ネガティブな思考だけは次々と浮かんでくる自分に嫌気がして、何度目かわからない溜息を吐く。幸せにはもう逃げられつくしたかもしれない。
なんにせよ、彼女を寮に帰らせるという目標は果たせた。元々練習熱心な彼女だが、最近はその度合いに拍車が掛かっている。言うまでもなくオーバーワークだ。
尤も、彼女をそこまで追い込んでしまっている原因はトレーナーである自分の力不足にあり、なんとも不甲斐ない話ではあるが。
「さて……戻るか」
立ち上がって、背中についた砂を払う。同時に、視界が揺れる。
貧血からか睡眠不足からか、どうにも身体の調子が悪い。
だが、弱音は吐けない。自身の力不足でサトノダイヤモンドに辛い思いをさせてしまっているのが我慢ならない。
考えたくはないが、努力が足りていなかったのは結果を見れば明白で、一刻も早く後れを取り戻す必要がある。
「あれ……?」
ぐらり、と今度は大きく視界が揺れた。身体が宙に浮く感覚と、それから後頭部に衝撃があって、目の前が真っ暗になった。
意識が溶けて、消えていく。
遠くから足音がしたかと思えば、ものすごい速さで近づいてきて、すぐそばで吐息の音に変わった。
「トレーナーさんッ! トレーナーさんッ!」
泣きそうな声は、確かにサトノダイヤモンドのものだった。
そのことに何故だか心底安堵して、今度は完全に意識を手放した。