もう一度、あの頃に戻って 作:シェフ・カリー
素人が美術品を修復して、台無しにする。ヨーロッパでは最近そんな事例が増えているらしい。どれだけ素晴らしい作品でも、才能のない者が手を加えるとダメになってしまうということだ。
まるでどこかの誰かみたいだなと思った。
ふと顔を上げると、待ち人はようやく現れた。
「よぉ、ダ」
「だ?」
「……や、なんでもない」
出しかけた言葉を飲み込み、危なかったと内心で思う。
もしも口に出していれば、サトノダイヤモンドをまた怒らせてしまうところだった。
ようやく家路についたサトノダイヤモンドを校門前で待ち続けた意味がなくなる。あまりにも簡単すぎる授業を放課後まで受け、話し相手のいない休み時間を寝たふりをして過ごしたのだ。目的は必ず果たす。手遅れになる前に蹴りをつけなければならないのだ。
頭の中にある作戦を実行してしまえばサトノダイヤモンドはもちろん友達思いなキタサンブラックからも縁を切られてしまうだろう。
それでも、構わない。
才能がないことはわかっているのだ。過去に戻ったとして、二度目もトレーナーとして生きようとは思わない。担当するウマ娘の笑顔を奪うのは懲り懲りだ。だから、彼女たちから嫌われてしまっても関係がない。同じ道を歩むつもりはもうない。
「ところで、なんでこんなところにいるんですか? だいぶ前に帰ってと思うんですけど……も、もしかして私と一緒に帰りたいとか?」
「違う。用が済んだら一人で帰る」
「ソーデスヨネ……それで、なんの用事ですか?」
急にもじもじしだしたサトノダイヤモンドの言葉を遮って言うと、彼女は口を尖らせた。どうやらまた地雷を踏んでしまったらしい。
相変わらず彼女の機嫌が悪くなった理由はわからなかったが、放って置くと帰ってしまいそうな勢いだったのでさっさと要件を話すことにした。
「お前、キタとたまに走ってるよな。俺に見せてくれないか?」
「えっと……それは……」
珍しく、サトノダイヤモンドは露骨に嫌そうな顔をした。
理由はなんとなくわかっていた。
未来の彼女曰く、キタサンブラックとまともな勝負ができないうちは見せたくなかったとのことだから、まだ見せてもらっていなかったこの時期は、全く歯が立たなかったのだろう。
おっとりとした性格に反して負けず嫌いな彼女は、それで渋っているのだ。
そんな彼女には少し酷かもしれないが、それでもこちらには見せてもらわなければならない。
こっぴどくやられたサトノダイヤモンドの走りにケチをつけ、追い打ちをかける。当然、そんなことを言われた相手から教えを請おうとは思わない。三人でトレセン学園を目指すという約束もなくなる。
問題は、考えがまとまらずにむむむと唸る彼女から、了承を得られるのかどうかという点だろう。
トレーナーとして付き合うことになってから何度も驚かされた負けず嫌いは、このころから変わらないものらしい。
普段はおっとりしているのに、レースのこととなると人が変わったような執念を見せる。ウマ娘という種の本能なのか、負けず嫌いなウマ娘は多いと聞くが、その中でもサトノダイヤモンドは際立っていた。キタサンブラックとの勝負に負けたときには、少しでも目を離すと憑りつかれたように自主練をするので、宥めるのに手を焼いたものだ。
「トレーナーを目指す身として、トゥインクルシリーズに出てくるような鍛えられたウマ娘とは違う、まだ体のできていないお前らみたいなウマ娘の走りを見ておきたいと思ったんだが……無理を言ったか?」
「そんなことはないですしむしろ見て欲しいんですけど、今はまだ早いというか、もう少し勝負になるようになってからにして欲しいというか……」
サトノダイヤモンドの耳がぺたりと倒れ、尻尾が垂れるのを見て罪悪感で心が痛む。
過去に戻ってからはしばらく見ていなかった落ち込んだ顔。こっぴどくやられても、次こそはと腐らずに努力できる彼女だが、やはり負けるのは辛くて苦しいのだ。
この期に及んでまだ迷っている自分が情けなくて、両手で頬を叩く。尻込みしている場合ではない。これからやろうとしていることは、彼女をさらに追い込むことだ。彼女の輝かしい未来を、二度と台無しにしないと決めたのだ。
「頼む、ダイヤ」
「き、きゅうになまえ――」
「――あ」
言われて、慌てて口を押えるが、もう遅い。また怒らせた。慣れとは怖いもので、了承を得ることばかりを考えていて、無意識に口が動いた。
恐る恐るサトノダイヤモンドを見ると、よほど興奮しているのか先ほどとは打って変わって耳はぴこぴこと上下し、尻尾は千切れそうなほど大きく左右に振れている。
「き、キタに言われたんだ。お互い無事トレセン学園に入ることができたら長い付き合いになるんだし、名前で呼んでみたらどうかって」
咄嗟に、キタサンブラックと交わした約束を思い出して言った。
無謀な試みだとは思いつつも、キタサンブラックをだしにすればこの場を乗り切れるかもしれないとも思った。なにしろサトノダイヤモンドはキタサンブラックに甘い。甘々だと言ってもいい。キタサンブラックからの言葉だと知れば「もぉー、キタちゃん!」とかなんとか言って許される可能性はある。
「キタちゃんがそんなことを……と、トレーナーさんはどうしたいんですか?」
どうやっているのか瞳を潤ませたあざとい上目使いのサトノダイヤモンドに見つめられる。無意識にこの表情ができるのだから末恐ろしい。将来はさらに破壊力ましましで恐ろしいことになるに違いない。というか、なる。
だが今は、くらくらさせられている場合ではない。未来で多少はつけた――と思い込んでいるだけかもしれないが――耐性でこらえ、彼女の問いに対するこの場での正しい答えを思案する。
それはすなわち、キタサンブラックに言わされているのかどうかということ。こちらの意思を問うているのだ。
そして、本当は言わされたようなものでも、今取るべき正しい選択は――
「――俺も、そう呼びたいと思ってる」
癖になっちゃってるから、などとは絶対に言ってはいけない。彼女は意志の強いウマ娘で、相手にもそれを求める。
未来でもそうだった。彼女はこうして目を見て話すと、何故だか声が小さくなるが頼みを聞いてくれていた。逆に、不安なままに話したことはすぐに見抜かれて不満げに頬を膨らませてしまう。
今回はキタサンブラックに強く勧められたこともあるが、ふとした場面で口に出してしまうのだから、許可を取っておきたいという気持ちもある。つまり、半分は本音であり、自信のなさを悟られることもない。
実際、効果はてきめんだった。
「トレーナーさんはずるいです……」
サトノダイヤモンドがこちらには聞こえない声で呟く。未来でもよく見た光景だ。彼女は意見を吞んでくれるとき、顔を見せないように下を向く。
なんとかなったと安堵すると同時に、一つ心配なこともできた。それは彼女の顔がトマトのように赤くなってしまっていることだ。
「顔真っ赤だぞ、熱でもあんのか」
サトノダイヤモンドの額に手を近づけると、彼女はシュバッという擬音でもついていそうな速度で後ろへ飛びのいた。
「私のことをダイヤと呼んでもらって構いません。それと、走りも見に来てください。それでは私は帰ります。さようなら!」
早口でまくしたて、流石はウマ娘といった速度であっという間に離れていったサトノダイヤモンドの背を茫然と見送る。
手で熱を測ろうとしたのがまずかったのだろうか、馴れ馴れしすぎたかもしれない。
誤魔化すのに必死で忘れていた主目的も、ついでのように解決してしまった。今度キタサンブラックにはジュースでもおごろうと決め、とりあえず今は、心の中で謝辞を送った。
***
次の日の放課後、二人だけになった教室でキタサンブラックは忙しく動くサトノダイヤモンドの耳を眺めながら訪ねた。
「よかったの? トレーナーさん呼んじゃって」
「ほんとはまだ、断るつもりだったんだけど……トレーナーさんが私のこと名前で呼んでいいか、なんて聞くから……」
「うれしくなって混乱しちゃった?」
「そ、そんなことないよぉー!」
「ふふ、ダイヤちゃんわかりやすい」
「も、もぉー……」
頬を膨らませたサトノダイヤモンドはどことなく元気がない。
「今は納得できないかもしれないけど、ダイヤちゃんは速く走れるようになる。トレーナーさんはきっとそれを見抜いてくれる。あたしが速くなってるのは、うかうかしてたらあっという間にダイヤちゃんに置いて行かれるって思ってるからだもん」
「……ふふ、ありがとう、キタちゃん」
一瞬驚いて、サトノダイヤモンドは笑った。
少しだけ、幼い頃から付き合いのある少年にこの親友を紹介したことを後悔した。この宝石みたいな笑顔を独り占めしておけばよかったと、ほんの少し、そう思った。