もう一度、あの頃に戻って 作:シェフ・カリー
灰色の雲が空を覆う。湿気で満ちた玄関を抜けて、朝から憂鬱な気分になる。雨が降っていないだけまだましだが、もうすぐ梅雨だろうか。ニュースはあまり見ないがそんな気がする。
「おはようございます、トレーナーさん」
「おはよう、ダイヤ…………ん、どうした?」
「い、いえ……驚くかなーと思っていたので、逆に私が驚いてしまって」
「ん? ああ……そうだな。まだ寝ぼけてるみたいだ」
玄関の外で、サトノダイヤモンドが待っていてくれてた。場所は違うが、未来ではいつもトレーナー寮を出ると玄関口まで彼女が迎えに来てくれていたことと、単純に、朝なので頭が回っていないことから、彼女にとっては不自然な反応になってしまって、適当に誤魔化す。さすがに、未来ではいつもこうだったよ、とは言えない。
しかし、何の用だろうか。
未来では、彼女は早く練習がしたいからだと言っていた。正直、来ても来なくても練習の時間は変わらないとは思ったが、熱心に練習に取り組む彼女を前にして、そんなことは口が裂けても言えなかった。
だが、今はどうだろうか。ウマ娘と専属トレーナーの関係ではない現状、彼女がわざわざ迎えに来る理由などないはずだ。
「……そんな不審者を見るような目で見ないでください。ちゃんとした理由があって来たんですから」
ジトっとした目で見ながら言われて、苦笑いを浮かべる。溜息を一つ吐いてから、サトノダイヤモンドは続けた。
「今週の土曜日、キタちゃんと並走トレーニングをすることになったので、それを伝えに」
まだ迷いがあるのか、サトノダイヤモンドの眉をひそめる姿には気付かなかったことにした。付き合いが長かったせいか、仕草だとか表情だとかの小さな変化、以前は彼女のコンディションの良し悪しを確かめる指標にしていたが、今となっては必要のないことばかりが目に留まる。
余計な言葉が口をついて出る前に、話を変えることにした。
「うちの場所、知ってたのか?」
「いえ、キタちゃんに教えてもらったんです」
「ああ、キタか……今日はあいつは一緒じゃないのか?」
「キタちゃんは来ていませんよ。用事があるらしいです」
サトノダイヤモンドは表情を変えずにそう答えた。つもりだろうが、耳や尻尾が恐らくは本人の意思に反して動き回っている。なにか裏があるのだろうが、内容まではわからない。
「…………そうか」
理由を少し考えてみて、なにも思いつかなかったので一言だけ返す。悪いようにはならないだろうし、まあいいやと適当に。
それがサトノダイヤモンドの求めた返事ではないと気づくのにそう時間はかからなかった。
「それでは、また学校で」
耳と尻尾を垂らして、名残惜しそうに背を向けたサトノダイヤモンドを見て、はじかれるようにトンと肩を叩く。
「ま、まあ、せっかく来てくれたんだし学校まで話さないか?」
未来でも、こんなことがあった。練習を切り上げて、お互いの寮へと帰るときだ。そのときは、話しているうちに正しい解答ができていたらしく、最終的にサトノダイヤモンドは満足そうに笑っていた。それからは、練習後は彼女を寮の近くまで送ることにしていた。
今回も同じように上手くいくとは限らない。それでも行動したのは、自分でも驚くほど反射的に体が動いてしまったからだ。
彼女も驚いたようで、地面に向けて垂れていた尻尾と髪につきそうだった耳が真逆の方向にピンと伸びた。
「そ、それって私と……い、いえ、どうせ無自覚なので、気にしちゃダメです」
勢いよく振り返ったサトノダイヤモンドは、自分に言い聞かせるように言って、我慢するような無表情で「では、いきましょう」と続けた。
それから、学校までの道のりは、普段の倍以上に短く感じた。
気が合うのだ。この上なく。たわいもない話も、真面目な話も気楽にできる。自惚れかもしれないが、彼女もそう思ってくれていたと思う。だからこそ契約を結んだ。
教室について、彼女と別れて、椅子に座って頭を抱える。
深入りするほど後々辛くなるのはわかっていて、それ以上に彼女に辛い思いをさせることもわかっていた。体が勝手に動いたから、なんてつまらない言い訳では許されない。
「これで最後だ」
これ以上後悔を重ねないために、誰にも聞こえない声で呟いた。
***
窓から差し込む夕日を浴びて目を覚ました。どうやら天気は持ちこたえたらしい。賑やかな子供たちの声が聞こえず、がらりとした教室を見て、一瞬また別の世界にでも飛んだのかとも思ったが、壁にかかった時計を見て気付いた。ホームルームは、とうの昔に終わったようだ。
小学校授業という長い長い無の時間を終えたのに、ようやくたどり着いたホームルームで力尽きて眠りこけるとは情けない話である。
というか、だ。
放課後の貴重な1時間を無駄にしてしまったこともそうだが、起こしてくれる者が誰一人としていないという事実に過去の自分への憐れみの念を感じる。未来でも人間関係に大きな変化はなかったが。
ひっそりと虚しさに襲われながら、逃げるように教室を出た。
それから、どのくらい歩いただろうか。
人のいない、車も通らない川沿いは風景に変化がなくて、時間感覚が狂わされる。
ようやく、視界に家の近所にあるグラウンドが見えてきた。河川敷に設置された、基本的に利用者のいない場所だが、今日は珍しく人がいる。
顔を見なくとも、誰かはわかった。なにせ、心から惚れ込んだ走りだ。艶やかな長い髪をたなびかせながら走るシルエットは、ジャージ姿でもなお綺麗だと思った。
すぐに、そばの木陰に身を隠した。見て見ぬ振りができなかったのは、彼女の専属トレーナーであることへの未練が断ち切れていないからだろう。
彼女の走りは、お世辞にも良いといえるものではなかった。腕の振りも、足の回転も遅い。フォームは素人に毛が生えた程度の、むしろ良くここから卒業までにトレセン学園合格にこぎつけたものだとさえ思えるものだった。
しばらくすると、彼女は立ち止まって両手を膝につき、肩で息をし始めた。距離があるせいで体の状態までは読み取れないが、もし放課後すぐにここへ来て走り続けているのであれば、身体を追い込みすぎで、休憩を取らなければ怪我の危険がある。そして、彼女の性格ならほぼ間違いなく休みを取らずに走っているはずだ。
そもそも、彼女は名家のご令嬢で、わざわざ練習場所にこんなところを選ぶ必要などない。より整備されて、設備も充実した練習場が彼女の家にはあるのだから。つまり、彼女がここにいる時点で彼女自身でもわかるくらいにオーバーワークで、それでも他人に邪魔されないようにここを選んだのだ。
まったく、あれがお嬢様とは聞いてあきれる。ただの負けず嫌いを極めたウマ娘の中のウマ娘ではないか。誰かが歯止めをかけてやらないと、簡単に壊れてしまう。
(止めないと……って、あれ?)
考えると同時に飛び出していきそうになる足が、直前で鎖にでも繋がれたように動かなくなる。
――その役目は、お前ごときには見合わない。
頭に冷たい声が響く。それで、思い出した。
彼女の夢を叶える手助けができなかったこと。それからずっと、彼女の辛そうな顔を変えてやれなかったこと。
身の程を知ったはずだ。相応しくないと思い知ったはずだ。自分では彼女の才能を腐らせるだけだと理解したはずだ。
もう二度と同じ過ちを繰り返すつもりはない。
「深入りしないって、 決めたっけ……」
痛いくらいに握っていた手に気付かない振りをして、逃げるように立ち去った。