'31/6/14
xx.6
"Reflexion"
23時50分。
「ババンババンバンバン♪ ババンババンバンバン♪ ……」
ノートPCを小脇に抱え、陽気に歌う白衣姿の真希波・マリ・イラストリアス大佐は、ヴィレ本部最下層に居た。天井に配置されている弱いランプの光と、足元の頼りない誘導灯のみが灯るその薄暗い廊下を、彼女は慣れた様子でさっさと歩く。
この廊下、そしてこの廊下に面している全ての部屋は、特殊なID管理が施されており、入退室できる職員が細かく設定されている。そのうちの一つのドアにたどり着いたマリが、ドアについているレンズを覗き込むと、その奥がチカチカと光った。
「Authentication started.」
音声が流れると、そのドアの隣の小さな窓が上がる。中にはプラスチック製の漏斗のついた試験管が入っている。マリは試験管をさっと取り出すと、漏斗に口を押し当て、彼女の長い舌を差し込み、唾液をたっぷりと容器に垂らした。十分に自分の唾液を採集し終えたマリが取出口にあるホルダーにその試験管を差し込むと、その小さな窓は自動的にカチャンと音を立てて閉じた。
「Complete!」
再度音声が流れ、ドアの上に点灯するランプの色が赤から緑に変化する。上下に開いたそのドアは、マリが通るとすぐさまに閉まった。
室内はうって変わって昼光色に照らされている。あまり広くはないその空間に、黒いドアと、白いドアと、小さなベンチが用意されている。その小さなベンチに、バイザーを装着したロングヘアーの女性が、一人座っていた。
「どーも、司令どの♡」
マリはそう話しかけ、彼女の隣に座った。彼女はバイザーを外し、その暖かい眼差しをマリに向ける。
「おつかれさま、マリ。遅い時間にすまないわね」
「ミサトさんこそ、お疲れちゃん。あと一人は?」
「……さっき電話あった、もうすぐ着くって」
「そうですか……相変わらず暴れてますねぇ」
マリのその言葉に、ミサトは遠い目でドアを見つめた。
「連絡があるだけ、マシってもんよ」
「ふふ、アツアツですなぁ」
「すまないわね、あなたを駆り出しちゃって」
「いーんですよ。今日対応したの私なんで」
「……」
「……わんこ君、迷惑っすね」
「……いいわよ、こんくらい」
「……親バカっすね」
マリがそう言って間もなく、プシュという空気音と共に、再度その扉は上下に開いた。
ミサトはすぐさまバイザーを付け直す。
「おお、悪い悪い、少し遅れたな」
その扉の向こうから、髪をヘアゴムでまとめた男性が現れる。かつての副司令服によく似た隊服に身をまとっている。トレードマークの顎髭も顕在だった。
「お、加持さん。お疲れさまです」
「おう、マリ。この認証システム初めてやったけど、面倒くさいな」
「まあまあ、そう言わずに。技術部も色々試験段階みたいですよ?」
「……生体認証を幾ら強化しても、身体がありゃあ通っちまうさ」
「……まーねん」
マリのそっけない返答に、加持はニヤリと笑った。彼はベンチまでゆっくりと歩き、ミサトの隣に腰をかけ、足を組んだ。
「おつかれ、葛城」
「……」
「……ちょっと肌が荒れてるぜ?」
「……もう歳だ」
「……あんまり無理すんなよ」
「お前はもう動くな」
ミサトは加持を一瞥もせず、冷たく言い放つ。加持はそれを聞いて、にこりと笑った。
「葛城」
彼はミサトの頬に優しく左手をかけ、彼女の顔を自分に向けさせる。そして右手でゆっくりとバイザーを取り外し、彼女の怒りの表情と、彼を鋭く睨めつける、少しだけ潤んだ瞳を見つめ、囁いた。
「無理はしてない。渚司令に釘を刺されてる」
「……相変わらずしらばっくれるつもり?」
「はぁ、まーまー、二人共……」
マリはため息をつきながら、このヴィレ創設史上最も噛み合わない司令と副司令をすぐになだめた。この二人が司令、副司令の関係になって日が浅いということもあるが、それ以前の問題だ。顔を合わせるとすぐに夫婦喧嘩が始まってしまい、全く仕事にならない。二人とも単体での業務遂行能力は非常に高い。それだけに、この二人は別行動したほうが、かえって仕事は円滑に進むことを、マリは知っていた。
だが今から始まる緊急会議は、司令も副司令も呼び出しを食らっている。さらに輪をかけて最悪なことに、その内容は、例のあの男が関わっているであろう事件についての報告だ。
マリがこの会議に参加する理由は、今回の騒動に主に対応した人間であるというだけでなく、まず間違いなく衝突するであろう、この夫妻のサポートにもなるだろうと予想したからだ。
本来ならば、赤木リツコの役割だった。
「どうせ話すこともないし、チャッチャと終わらせちまいましょーや。せっかくの土曜日ですしね?」
「……マリの言うとおりだな。とっとと終わらせるか」
「……ええ、早速、内務省のお説教を受けましょう」
ミサトがそう言うと、加持はバイザーをミサトにかけた。
「……では、葛城司令」
「……ああ」
ミサトは黒いドアのノブに手をかけ、その扉を開いた。
◎
その部屋は、黒い大きな板が数枚あるだけの部屋だった。
「……お待たせした」
ミサトのその言葉と共に3人が入室すると、そのうちの3枚に電源が入り、SOUND ONLYという文字が大袈裟に電光表示される。
要するに、電話だ。
電話先は、内務省の警保局長、調査局長、内務大臣の3名だった。
「……それは誰だ」
「真希波・マリ・イラストリアス大佐だ」
「はじめまして、よろしく」
「……前回は夫婦で来たと思ったら、今度は子連れか?」
警保局長の嫌味たらしい挨拶に、加持はニヤリと笑って返答する。
「あなたより年上ですよ」
「……またびっくり人間か。ヴィレは見世物小屋か何かか?」
「ハハ、まあそんなもんです」
「……元エヴァパイロットだそうだな。信用に足るのか?」
「私は現在副司令ですが、まあ、ハリボテのようなものです。実質的な副司令は真希波と言って良いでしょう。ヴィレの全てを知る女性です」
「……そうなのかね? 葛城司令殿」
「私と加持は本件について詳細を知らない。そこで本件を主に対応した真希波大佐に来てもらっている」
はぁ、とマリはため息を付いた。早速若干食い違っている。痴話喧嘩の前に、まずは打ち合わせの準備をすべきだったようだ。この面倒な会議を最短で終わらせたい彼女は、一言だけ添えることにした。
「……守秘義務は守ります。協力しますよ、お偉方」
「……まあいい、本題に入ろう」
警保局長は、早速今日の事件について切り出した。
「……残り一つのゴミ袋が見つかったな」
「ええ、これで9人全員が見つかりましたな」
「……全員死んだな」
「ええ、大変残念です」
「……何故一つだけ、ゴミ袋が病院のゴミ捨て場にあったんだ」
「いやぁ、それは存じません」
だぁん、と机を全力で叩く音が、パネルから伝わる。
しかしそのパネルは警保局長ではなく、調査局長のパネルだった。
「とぼけるなよ、加持」
「……」
「ゴミ捨て場の現場検証の結果、9人目の変死体の血も残っていた。なぜアイツだけが別に処理されているんだ」
「ですから、存じませんよ。我々は警察ではないのですから」
加持は飄々と、古巣の上司と対話する。
「それにしても、なぜ調査局長もいらっしゃるのですか?」
「被害者らの身元を追っている」
「おや? うちの職員を付け回していたグループと聞いていましたが、そうではないのですか?」
「チッ」
あからさまな舌打ちを暗い部屋に反響させてから、調査局長は現在の状況を述べる。
「……全てが破壊されている。あれでは只の肉塊だ。誰なのかがわからず困っている」
「遺留品は?」
「……それも行き詰まった。袋に同梱されていた拳銃、ナイフ、防弾チョッキ、全てが盗難物だ。衣類も酷く損傷していて使えん」
「……いやはや、それは困りましたなぁ」
その加持の他人事のような反応に、ついに内務大臣が重い口を開いた。
「だから我々は君たちに助けを求めているのだ。DNA照合でヴィレIDを追跡しろ、そう命じたはずだ」
「マリ、状況を」
「はいはーい」
呑気な返事を返すと、マリは床にペタリと座り込む。持参したノートPCを地面に設置されているアダプタと接続すると、現在のID追跡状況を表す進捗管理画面が3Dディスプレイに表示された。
「こちらが頂いたDNAサンプルです。現在パターン分析、ヴィレID検索をヴィレ技術部が総力をあげて実行している最中ですが、中々マッチするIDが見つかりません」
「なぜだ」
「おそらく、この9人がDNAサンプル未提供だったのでしょう。他の生体データ、指紋、静脈、眼球なども、損傷が激しく、突合不可です」
「親兄弟など、近いDNAパターンを持っている人物は?」
「残念ですが、それも見つかっていません。未だに身元は不明です」
その報告を聞いた調査局長が、冷たく言い放つ。
「……本当にヴィレIDシステムは機能しているのか?」
「ええ、本日再認証システムの箇所に軽微な障害が発生しましたが、この突合作業とは無関係な箇所ですし、現在は復旧済みです」
「そうではない。我々はヴィレの技術部そのものを疑っているのだ。赤木が関わったシステムというだけで、我々は既に信用していない」
「ハハ、すでに辞めた職員の話を持ち出されても困りますな」
ミサトの尋常ならざる殺気。
それを瞬時に感じとった加持は、マリに先んじて、すぐさま笑いながらそれに返答した。
「……お友達をかばうのか、加持?」
「……そもそも、死人が出たとは言え、たかがチンピラ同士の喧嘩に騒ぎすぎです。ヴィレは無関係だ。そちらでご対応を頼みます」
だぁん、と机を全力で叩く音が、パネルから伝わる。
今度こそ、そのパネルは警保局長のパネルだった。
「いい加減、惣流と渚をどうにかしろ!」
ミサト、加持、マリは、表情をまったく変えなかった。
加持は淡々と返答を続ける。
「僭越ながら、彼らも無関係ですよ」
「渚の車がゴミ捨て場付近を移動しているのを監視カメラで確認している。移動させたのはアイツだろう!」
「へえ、それは存じ上げませんでした。それではその車を捜査してみては?」
「……惣流につけた鈴はいつ鳴るんだ!」
「鈴はついていませんよ、チョーカーはついているようですが」
「……単刀直入に言うぞ、加持。DSSチョーカーの移動履歴を寄越せ」
「調査局も落ちたものですな。欲しいものは工作して手に入れて下さい、局長」
「……いいんだな、加持」
「もちろんですよ。ただ……」
マリだけでなく、加持もまた、この会議に無意味さを感じていた。
「それをしたところで、どうにもならない、とは言っておきます」
「……連中をどうにかしなければ、世界に平和は訪れん」
「……なぜ9人がDNA登録されていなかったか、大臣は良くご存知でしょう?」
加持はニヤリと笑いながら、彼の仕入れた調査結果を述べた。
「先の対テロ戦争では、時に〝仕入れ〟に大変苦心されていたそうですな。戦争が終わった今、彼らの消滅はむしろグッドニュースでしょう」
「……この馬鹿が」
「ああ、失礼。だからこそ、身元を確認したいのでしたね」
「……貴様らが言えた義理ではない。たかが有人型JA2基ごときで図に乗るなよ」
「……無人機体を量産したところで、やはりどうにもなりま──」
その加持の口を、ミサトは右手でぱっと塞いだ。
ミサトは、この会議の本質的な無意味さを感じとった。惣流と渚。その名前が出た時点で、これ以上のやり取りは何の意味も為さない。
「加持が失礼をした」
「……」
「渚カヲルはヴィレの職員ではないが、惣流シンジは職員だ。仮に変死体が惣流シンジによるものならば、ヴィレ最高司令官であるこの私が全て責任を持つ。引き続き捜査を続けてくれ」
「……」
「以上だ、他に言うことは」
「……ない」
そして、黒いパネルの電源は切れ、10分にも満たない緊急会議は終了した。
◎
「葛城、済まなかったな」
マリ、ミサト、加持の3人は、ヴィレ本部1階のエントランスホールに立っていた。
このエントランスホールは、一面をガラスに覆われた開放感のある造りとなっている。その高い天井にはシャンデリアが位置しており、いつもであればホール全体を煌々と照らすが、土日の夜には電源が落とされる。それでも、ガラスから差し込む月光の自然な仄明るさが、明かりのないエントランスホールを美しく彩った。
エントランス前の道路には、一台の車が停まっている。これが駐車場に停まっていないということは、会議の直前まで加持は動いていたことを意味していた。
その青いSUVを、ミサトは眺める。
「……らしくないわね」
「ああ、あの二人の名前が出ると、ついカッとなっちまう。俺も歳をとったぜ」
「……まだまだ加持君は青二才よ」
そう言うと、ミサトはバイザーを外し、加持を見つめた。
「あんな風に調査局をけしかけて、ホントに来たらどうするのよ」
「……調査局も警保局も、ずっと前から動いてるさ」
加持はいきなりミサトを強く抱きしめ、彼女の耳元に口を寄せる。
消え入るような小声で、何かを一言囁いた。
それを聞いたミサトは、加持をゆっくりと抱きかえす。
マリは、その囁いた言葉の内容を想像する。
そしてそのミサトの反応を見る限り、おそらく今の緊急会議は、本当に無意味なものだったと悟った。
「……アンタって、ホントバカね」
「ふっ、あの二人には負けるさ」
「……無人型JA量産計画。あれが実現したら、どうすればいいのかしら」
「大丈夫。シンジ君は葛城を守る。俺も葛城を守る。男同士の約束だ。それに……」
エントランスホールの真ん中で、月光を照らされながら身を寄せ合う二人は、全く同時に夜空を見上げた。
ガラス越しのその空は、時折、虹色に輝いている。
「マリとリッちゃんが作ってくれた盾が、俺たちを守ってくれてる」
この街、第3新東京市は、シャボンのような薄膜に覆われている。
発生するその虹色の輝きは、夜の街明かりがその薄膜に反射し、干渉を起こすことが原因だった。
彼を抱くミサトの腕に、ぐっ、と力が入る。
加持がこの薄膜を嫌っていることを、彼女はとっくに知っている。
「……いやぁ、お熱いですなあ、二人とも。まるで新婚ホヤホヤね」
マリは、固く抱き合って夜空を眺める、ヴィレ創設史上最も仲睦まじい司令と副司令を冷やかした。ミサトはマリの存在を思い出すと、反射的に顔を赤らめ、左手を加持の体からパッと離す。
「そ、そんなことないわよ! ね?」
「いや、まさにその通りさ」
しかし加持はまったく彼女を離そうとしない。両腕をミサトの体に絡みつけたまま、彼はマリを見つめて微笑んだ。
「……マリも、いい人が見つかるといいな」
「へっ、偉そーに。青二才には言われたくないにゃ」
「はは。こいつは失礼しました」
加持は笑いながら、その年下であり年上の女性に謝ると、右手をミサトの体からすっと離した。
しかし、お互いの残った片方の腕は、お互いの肉体から離れることなく残り続ける。
「さあて、帰ろうぜ。ミサト」
「……ええ」
「マリ、送ってくよ。車に乗ってくれ」
「いんや、私はまだ残ります」
身を寄せ合い続ける二人を見て、マリはやれやれと両手を頭の後ろに組んで、自分の冷やかしもまさに焼け石に水、全く効果がないことを確認し、ニコッと笑った。
加持の胸に収まるミサトは、母としての穏やかな視線を、マリに送る。
「マリ、無理しちゃだめよ。たまには休まないと」
「いや、今日はもう休みますよ? これからお風呂に行くんです」
「……ヴィレのシャワーじゃなくて、家の湯船に浸かりなさい。風呂は心の洗濯よ?」
マリはその笑顔を保ったまま、後頭部に組んだ両手を外し、二人に近づいた。そしてわざとらしく右手の甲を口の横にそばだて、ミサトにこっそりと内情を説明した。
「ふふ、実は地下最深部に温泉がありまして……」
「……は、はぁ!?」
「いやあ、地下工事中にちょいと出ましてね? それをちょろっと拝借して、私専用の風呂に拵えたんですよ」
「……そ、それは知らなかったわ、加持君は」
「い、いや、知らなかった。というか、最高司令官も知らんなら、誰も知らないんじゃないか……?」
「ま、私はヴィレの全てを知る女性ですからね! ヴィレ本部まるごと、私の家みたいなもんです!」
そう言って、彼女はどーんと、その大きな胸を張った。
「それじゃ、お二人、今日はお疲れ様っ!」
「ええ、マリも本当にお疲れ様」
「……うちに帰っても、羽目は外しすぎないよ―に?」
「……あはは! いやーねぇ、マリったら! 私たちもうそんな若くないわよ!」
「葛城、恋愛に歳の差は関係ないさ」
加持の抱き寄せる腕に力が入る。開いていた左手はいつの間にか、ミサトの桃色に染まった右頬に添えられていた。
「バ、バカじゃないの! 私いま幾つだと思ってんのよ! 大体ねぇ、家には──」
「車の中でなら、二人っきりさ」
「おだまり!」
だが、ミサトも顔を赤らめてばかりではない。
44歳。彼女は既に母の強さを備えていた。加持との色恋沙汰など、もはや二の次三の次だ。
それどころではないのだ。彼女の家庭は、深刻な問題を抱えている。
「そんなんだからアタシ達はリョウジに軽蔑されんのよ、このバカちんが!」
「うっ。す、すまん」
「あぁ! 本っっっっっ当にアスカが羨ましいわ! アナタも相田君みたいにもっとちゃんとしなさいよ! この青二才!」
「わ、わわ、悪かった、悪かったよ、ミサト。ははは……はぁ」
この若き夫は、まるで弟のような彼の息子リョウジのこと、そしてリョウジが慕うある男を引き合いに出されると、途端に参ってしまう。
その男は相田ケンスケという。加持の記憶にある限りでは、ビデオカメラを持って海洋生態系保存研究機構を元気に走り回る少年だった。
がしかし、加持の目が覚めると、その少年は余りにも大人びた男になっていた。ケンスケは現在29歳だが、所帯を持った彼はまるで40代中盤の風格だ。
そんなケンスケの家に息子が入り浸っていて、中々家に帰ってこない。
これが、加持家が慢性的に抱えている家庭問題である。
「大体ねぇ、アナタがしっかりしないから、またリョウジが家に帰って来なくなっちゃったんじゃないの!」
「み、ミサト、そりゃないぜ。大体お前が──」
「五月蝿いわね! 何よ先に勝手に死んで家庭なんて全部放棄したくせに偉そうな口聞かないで! もっぺん死ね!」
「おいおい。今は俺が家事やってんだぜ? 掃除だって飯だって」
「口答えしないで! リョウジが悪党になったらどうすんのよ!」
「あ、悪党って……」
45歳。加持は自らをそう認識するも、残念ながら、誰がどう見たって等身大の31歳だ。
その14年のギャップに、加持はやはり苦しんでいた。
リツコ、高雄、日向、青葉、伊吹、かつての部下、かつての上司、かつての同志たち。
慕ってくれてはいる。それは嬉しいのだが、全員明らかに自分より人生経験が分厚い。それだけに加持は居場所がなく、いたたまれないのだ。
今の加持が気を許せる男は、この街にたった2人しかいない。
30歳のカトリック教会で働く司祭と、26歳のヴィレの食堂で働くコック。
悲しいかな、両者ともに、テロリスト級に悪質な札付きの悪党。
前科がないだけだ。加持が根回ししていた。
「良いこと! シンジ君とカヲル君は危ないからもうリョウジには二度と近づけないで!」
「おいおい、そりゃ言い過ぎだぜ」
「何いってんの!? 危ないに決まってんでしょこの大馬鹿! あんなん成ったら人生お終いよ! 馬鹿馬鹿馬鹿! 絶対近づけちゃダメ!」
「わ、わかった、わかった。ミサト、悪かった。ゴメンな。ゴメン……はぁ」
加持は、またしてもため息を付いた。
仮にもヴィレの創設メンバー、NHGを奪取し、サードインパクトを食い止めたヒーローである。
仮にも元司令、命を呈して、ニアサーとフォースインパクトを食い止めたヒーローである。
仮にも元初号機パイロット、この世界を救い出したヒーローである。
俺たち三人、何が悲しくて、こんな状況になってしまったのか。
こりゃ死んでたほうがマシだ。
「うひゃひゃひゃひゃ! あーっひゃっひゃっひゃっ! 笑い死ぬ! うひゃー! うひゃひゃー!」
マリはゲラゲラ笑いながら、その二人の夫婦漫才を眺めた。
その内心は、ざまあみろ! である。
「はー、面白! へへ! 仲良さそうでなによりだよ!」
「マリ、それじゃあ、また本部でね」
「うん、リョウジくんにもよろ! Happy Sunday!」
「Same to you! またな、マリ!」
「チョーシのんない!」
「う……す、すまん……」
二人はエントランスホールを後にし、車に乗り込んでいった。
結局、最後まで、肩を寄せ合ったままだった。
「うーんまさに、結婚とは人生の墓場かにゃ」
マリはそう呟いた。まるで空白の14年を埋めるかのように、二人は常に一緒だ。おそらく今度は墓場まで一緒だろう。あれでは仕事になるまいて。リョウジ君も色々大変だ。
しかし世の中が平和になるにつれ、以前のようなヴィレ本来の仕事が、段々と減っていることもまた事実だ。かつての副司令である赤木リツコも、その事実を見抜いていた。それもまた、彼女がヴィレから去った理由だ。
ヴィレの役割は変わりつつある。これからは、アスカが主導する復興計画がメインの仕事になっていくだろう。
しかし、変わらないものもある。
マリは空を見上げる。
虹色に輝く薄い膜は、この街を幻想的に包み込む。
今日の天気は深夜から崩れていった。月はとうとう雲にすっかり隠れてしまって、非常ドアを指示する頼りない緑が、エントランスホールに寂しく光っている。
「さぁて、ひとっ風呂浴びてくっかぁ」
真っ暗なエントランスホールに取り残されたマリは、一人来た道を、歌いながら戻る。
「ババンババンバンバン♪ ババンババンバンバン♪ ……」
彼女は、今一度、ヴィレの最深部へと降下した。
◎
レイは、外に出ていった。
家でニュースを見ていた私は、行かなかった。
私にはもう、彼のことがよくわからない。
彼は、以前のような、おどおどとした少年ではない。
彼は、いつも自分のことしか考えられない、気弱な少年でもない。
彼は、自分の胸をはだけさせ、無断で自慰行為をする、不潔極まりない痴漢でもない。
彼は、必死の思いで会いに来た、自分の首を締め上げる、最低の男でもない。
ともすれば、それ以下かもしれない。
彼は、暴力に狂った殺人者だ。
私に危害を加えるものを、脅して、殴って、蹴って、潰した。
それでも済まない場合は、殺して、殺して、殺して、殺しまくった。
最初は、とても嬉しかった。
今は、ただ辛いだけだ。
この街にきて、私達をとりまく環境は、少しずつ変わっていった。
だから、もう違うと思っていた。
だから、彼は、家事のことしかわからないバカに、私が大好きなあのときのバカシンジに、また戻ってくれた。そう思っていた。
でも、そうじゃなかった。環境は変わっても、彼は変わらない。環境は私やレイの問題で、彼の問題ではない。
彼は、バカシンジではない。
彼が暴力を使う理由を考える。
警察は最悪だ。彼らに頼ったって、何の解決にもならない。
でも、ミサトや加持さんに、頼ったって良かったはずだ。
ヨワムシもいる。真希波もいる。リツコもいる。日向さんもマヤも青葉さんも、ヒカリも鈴原も相田もいる。あの最低最悪のホモ野郎もいる。
レイがいる。
彼には、頼れる仲間がいる。
きっと昔の彼なら、一目散に誰かに相談して、助けを求めたのだろう。
でも、今の彼は、一切誰にも相談せず、私を探していた人たちを殺した。
彼は、私を傷つけようとする連中が、許せないのだろうか。
今更、良い迷惑だ。
なぜ私も、誰にも助けを求めなかったのか。
汚らしい繁華街で頻発する、くだらない出来事として、このことを軽視したからだろうか。
しかしそれ以前に、私は、誰も信用していない。
だって、みんな、嘘だから。
シンジだけが、本当だから。
そして彼も、私と同じに、誰も信用していないのだろう。
彼にとっての本当は、誰なんだろう。
私だったら嬉しいけれど、きっと、そうじゃない。
結局、私の仲間だって彼がそう言ってくれた人たちは、彼がそう思い込んでいるだけだ。
そして、私が彼の仲間だと思っている人たちは、私がそう思い込んでいるだけだ。
私達は、やっぱり孤独なのかもしれない。
本当は、それでもいいのに。
これからは、助けを求めるようにする。
そう言ってはみたものの、きっと出来ないだろうし、したところで、同じことの繰り返しが起こるだけかもしれない。
そもそも私は、何故ここまで傷ついているんだろうか。
彼も私も、降りかかる火の粉を払っただけじゃないか。
ならば、私は死が怖いのだろう。
私は死んだが、やはり死にたくない。
私は殺したが、やはり殺したくない。
あるいは、そんな高尚な話でもないのかも知れない。
私は死が怖くてたまらないし、知らない人に肩を抱かれるのだって、知らない人にお尻を触られるのだって、本当は怖くてたまらない。
何が彼をこんなに変えてしまったのか。きっとそれは私の所為だろう。
彼は、私の知っている彼ではない。
彼は、あのとき将来の全てを誓いあった、最愛の人でもない。
優しい彼は、バカな彼は、愛しい彼は、もう居ない。
彼は、私が奪ってしまった。
彼は、私が殺した。
なら、彼は誰だろう?
ミサトも死んだ。加持さんも死んだ。みんな死んだ。
みんな、真っ赤な海に溶けて、死んだ。
そして、わたしは死んだ。
シンジも死んだのだろう。
死んだ人間は、蘇らない。
今は、みんな生きている。
なら、みんなは誰だろう?
私は、惣流・アスカ・ラングレーだ。
みんなは、みんなだ。
彼は、エヴァンゲリオン初号機パイロット、碇シンジではない。
彼は、惣流シンジと名乗った。
しかし、惣流シンジだなんて、そんな人はこの世には居ない。
彼は、私のことを愛してなんかない。
彼は、その代償を払っているだけだ。
「……ただいま、アスカ」
それでも。
私は。
◎
23時30分。
レイは、カヲルを乗せたその青いSUVが見えなくなるまで、彼を見送った。
その後レイは、マンションのすぐ近くのコンビニに寄った。この区画はヴィレ本部のお膝元であり、夜中でも女性が独り歩きできるだけの十分な治安が保持されていた。
レイは店内にあるゲートをくぐりぬけ、誰もいない店内を歩く。目当ての品物を探し出し、さっとカゴに入れる。そのゲートを再度逆側からくぐると、カゴの中に入っている商品は自動的にスキャンされ、ゲートのすぐ横のパネルが商品の値段を表示した。レイは、携帯のアプリで電子的に料金を支払い、持ってきた布製のバッグに品物を詰め、店の外に出る。
第三新東京市のコンビニは全て電子決済だ。一時期レジ強盗が多発したことが原因だった。
雨がパラパラと降ってきたが、この街では、傘を差す必要はない。
レイはマンションの出入り口に戻り、オートロックを指紋認証で開ける。自動ドアがさっと開くと、自動的に1階まで降りてきたエレベーターに乗り込み、ボタンを押す。約10秒間、そのエレベーターは淡々と上昇し、目的地まで駆け上がっていく。そのドアが開くと、彼女はゆっくりとエレベーターから降り、右へと曲がる。幾つかのドアを通り過ぎた後、あるドアのノブに手を掛けると、その鍵は閉まっていなかった。レイは静かにドアを開け、中に入る。そして静かにそのドアを閉め、鍵をかけた。簡単な外出に使う女性向けのサンダルを脱ぎ、台所へ向かい、コンビニで買ったものを冷蔵庫に入れる。
その家は、針一本落としても聞こえるほど、静まり返っていた。
リビングでは、アスカが倒れ込むようにして、シンジの胸のなかに収まっている。それは今日の夕方とは明らかに様子が異なっていた。アスカは、目を瞑り、顔を真っ白にして、彼の胸の中で、ただ深く呼吸をしている。シンジは時々ゆっくりと彼女の背中をさするばかりで、決して彼女を抱きしめようとはしない。レイの視点からでは、俯いた彼の表情は全くわからなかった。
レイは、この様子を簡単に想像できていた。10分程度の外出だったが、恐らくずっとこうしていたことだろう。
アスカには、シンジをビンタすることは不可能だ。
レイが思うに、自分のシンジに対する想いは単純だ。
一緒に居たい。それだけだ。
だがレイが思うに、アスカのシンジに対する想いは、もっと単純だ。
アスカはもう、シンジを失っては生きていけない。
その責任は全てシンジにある。彼の愛は、アスカの全てを溶かし尽くしてしまった。
レイの結論は単純だ。
ならばシンジはその責任をとって、誰よりもアスカを愛するべきである。
そうでないと、アスカが終わってしまう。
だが、彼の結論はそうではない。彼は、アスカを必死に形づくろうとしている。だからこの街に来たのだ。
しかし、彼の方法は、お世辞にも良いものとは言えないし、少なくともその再構成に効果的ではなかった。
そもそも、彼の持ち物は、卓越した家事の能力と、壮絶な経験と、矛盾した理屈と、途方も無い愛と、神に等しい力だけだ。
それだけでは、アスカの形を整えることは難しい。
レイは、少しだけ考える。
何故、私はここに居るのだろうか。
「……レイ、おかえりなさい」
アスカが帰宅したレイに気がつくと、その一言の挨拶をし、シンジからゆっくりと離れた。
「顔色、悪いわ」
「……いい、大丈夫」
「……もう少し、ゆっくりしていなさい」
レイは、優しくアスカの手を引いた。アスカは少しよろけるが、レイはすぐさまその肩を支え、そしてゆっくりとソファーに導いた。パジャマ姿のアスカは、ソファーの真ん中にぐったりと座った。
「シンジ、そばにいてあげて」
「……レイ、レイは」
アスカは消え入りそうな声でレイの名前を呼び、彼女のパーカーの袖を弱々しく引いた。
レイはシンジを鋭く睨む。
「シンジ、まずは座りなさい」
「……」
シンジは黙って、アスカの左隣に腰を落とした。シンジが座ると、アスカはシンジにもたれかかる。彼女の具合はだいぶ悪そうで、やはり深く息をしていた。
レイはアスカの隣には座らず、その二人の前にペタンと座りこむ。
「レイ……レイは、シンジのそばにいてあげて」
「大丈夫、そばにいるわ。それよりも、話があるの」
「……うん」
何故、私はここに居るのだろうか。
レイは、既にその答えを知っている。
理由なんてものは無い。
切っ掛けのみがそこにはある。
「アスカ、今日みたいなことは、よくあるの?」
「……うん」
「そう……シンジは?」
「……」
「……そう」
アスカはレイを見つめていた。シンジは黙っているが、彼の瞳はなんとかレイを見据えている。
レイはアスカの目を眺める。透き通った青い瞳は、誰よりも愛らしい。
「アスカ」
「……うん」
「怖い目にあったら、まず、助けを求めるのよ」
「……うん」
「必ず、約束して」
「……うん」
レイはシンジの目を見た。濁った藍色の瞳は、誰よりも愛おしい。
「シンジ」
「……」
「もう、暴力を振るっては、駄目」
「……」
「必ず、約束して」
「……」
「……シンジ」
黙り込んだシンジを見て、アスカも彼の名前を小さい声で呼んだ。
その声に、ようやくシンジは、閉ざしていた口をゆっくりと開いた。
「黙ってて、ごめん。僕は家に帰ってから、どうすれば良かったのか、ずっとそれを考えてたんだ」
「……」
「でも、どうすれば良かったのかは、今でもわからない」
「……」
「僕は、カヲル君に、アスカに、レイに、気付かされたよ。僕は、本当にみんなに助けられてる。でも僕は、助けられてばっかりで、誰も助けることなんかできてない」
「……」
「僕は、力でしか、人をろくに助けたことがないんだね。それに気付かされた。だから僕は、この古臭い力に、未だに頼ってしまう。だから、どうすれば良いのかわかってないんだ」
シンジはようやく、自分の今の持ち物では、何の物事も解決できはしないということを、確認できた。
彼の創生したエヴァのない世界において、彼の神に等しい力は、あまりにも虚しかった。
レイは言う。
「……何だって、すぐにできるようにはならない」
「……」
「ゆっくり、歩んでいくしかないのよ」
「……」
「あなたのそれは、決して、力ではない」
厳然たる力だ。
彼は人ではない。
それでもレイは毅然として諦めなかった。
「アスカ」
「……うん」
「シンジを、支えてあげて」
「……レイでなきゃ無理よ」
「いいえ、そうではないわ」
「……」
「私は、あなた達二人のことを、支えることができる。でも、シンジを支えることができるのは、あなただけ」
その一言を聞いて、アスカは、小さく首を横に降った。
「ううん、やっぱりそうじゃないと思う」
「……何故?」
「……きっとアタシも、シンジとレイの二人のことなら、支えていけるから」
彼女は、仕方なさそうに笑った。しかしその顔色は、ほんの少しだけ血色を取り戻している。そのままアスカは、シンジを覗くように見つめた。
「シンジ、アンタのしたこと、決して許されるべきことじゃない。アンタは人殺しよ」
「……うん」
「……それでも、アタシとレイは、アンタを支える」
「……二人に罪はない」
「違うわ、アタシたちも背負う」
「……」
「勝手に家族にしておいて、今更仲間外れは無しよ」
「……」
「アンタは、アタシのことを守ってくれようとしてる。それはもう、よく解ってるよ。これだけ長い間、一緒にいるんだもの」
「……」
「……でも、この方法は絶対間違ってる。だから、アンタもよく考えて。アタシもレイも、よく考えるから」
シンジは少しだけ頷いた。あまりに頼りないが、少なくとも、彼なりに前に進もうとはしている。
「……僕は、本当に、バカシンジだね」
「ええ、そうね」
「……ホント、バカシンジは、バカシンジそのものね」
レイは、アスカのその一言に、ふふっと笑った。そして時計を見る。そろそろ土曜日も終わりそうだ。
「……あら、こんな時間」
レイはにこやかに笑いながら、先程買ってきた品物を布製のバッグからさっと取り出した。
アスカとシンジの目が、皿のように丸くなる。
「あ、アンタ、それ……」
「ポップコーン」
「……レイ、ポップコーン買ってたの?」
「そろそろ、映画の時間だから」
「え、いつも録画で見てるやつ?」
「ええ。折角夜ふかししているから、たまには、放送時間に見てみようと思う」
通常なら、この時間にはすでに3人とも寝ている。シンジは食堂の仕込みで朝が早いし、アスカも高校生だ。その二人に合わせて、レイも規則正しい生活を送っていた。そのため、この時間までリビングに3人でいることは非常に珍しい。
レイは、ポップコーンの薄い袋の背を開封し、ソファーの前のテーブルに置いた。
「……ワクワクする。一緒に見ましょう」
彼女は本当に不謹慎だ。
彼女は完全に共犯者だ。
彼女だって、持ち物は少ない。無いに等しい。
今に始まったことではない。
どんな状況でも、いつだって、彼女はベストを尽くしている。
シンジは、胸からこみ上げてくる熱いものをかき消すように、立ち上がる。
「……僕、飲み物注いでくる」
「冷蔵庫に、コーラとビール、あるから」
「は!? コーラとビールも買ったの?」
「ええ、さっきコンビニで買った」
「あ、アンタ、アタシと一緒にあのニュース見てたわよね?」
「ええ」
「あ、アンタ、不良になったわねぇ……」
「うん」
レイはニヤリと笑う。彼女だって、可愛い妹を傷つける奴は許さないのだ。
その悪戯な笑顔を見て口をぽかんと開けるアスカを尻目に、シンジは冷蔵庫に向かった。冷蔵庫のドアを開けると、流石に彼も笑ってしまった。コーラはしっかり2L、ビールはロング缶6本入りの1パックが丸ごと置いてある。レイらしい。
「……アスカ、何が良い?」
「……じゃ、コーラ」
「わかった……僕、ビールにしようかな、久々に。レイは?」
「私、ビール」
「……やっぱ、アタシもビール」
「ダ、ダメだよ。アスカは未成年じゃないか」
「ドイツじゃ14からオーケーなのよ。アタシも貰う」
「む、無茶言うなよ。ここは日本なんだから」
「……子供扱いもいい加減にしてよね」
「そんなこといったって……」
「ふふっ。シンジ、あなた、法律なんて気にするの?」
「……わかったよ。じゃあ3人でビールにしようか? ったく……」
少し不満そうに頬を膨らませたシンジは、冷えたビールを2本、コーラのペットボトル、そしてグラスを4つお盆の上に乗せた。本来なら、この気分に合わせてつまみも作りたいところだが、ポップコーンが既に開いている。
彼は、お盆をソファーの前のテーブルに置き、3つのグラスにビールを注いだ。開いた1つのグラスにコーラを注ぎ終えると、眉をつりあげてアスカを睨んだ。
「アスカ、ホントはダメなんだからね!」
シンジはお盆を大事そうに抱えながら、アスカを怒った。
彼はいつの間にかエプロン姿だ。
それを見たアスカは、腹を抱えて笑ってしまった。
「ぷっ……あはははは!」
「何だよ」
「あはは! はーおっかし! ダメって、アンタが言える立場じゃないでしょ! ホント、バカ過ぎ!」
「そりゃそうさ。立場なんて考えたら、僕なんて何もいえなくなっちゃうだろ?」
「……ふふっ、それもそーね!」
「ふふ。開き直っても、アスカはあなたのこと、許してはくれないわ」
「フン、わかってるよ」
そう言って、シンジはアスカの隣に、不機嫌そうにどすっと腰を落とす。
芝居だ。
腹の底から沸き立つ気持ちが表現できない。言葉がないとはこのことだった。
「……それじゃ、シンジ、アスカ、乾杯」
「「乾杯」」
3人はソファーに座りながら、ビールの入ったグラスを手に持って、軽くぶつけあい、音を出す。
そのチンという音を聞いて、真ん中に居るアスカは思った。
ろくでなしのバカ。不謹慎なアホ。そんな連中に囲まれて、私は不憫だ。
しかし、それでも幸せなんだろう。
だって、私も全然いい子じゃない。
私は笑ってる。
◎
レイが毎週欠かさず見ている、土曜日の24:30から放送されるこの映画番組は、ある週はメジャーなハリウッド冒険映画を流したと思えば、次の週に100年以上前の白黒の日本映画を放送したりする。かと思えば、発作的にコメディのシリーズものを断片的に放送するなど、そのプログラムには全く一貫性が見られない。
この、まるでアトランダムに作品を選んでいるとしか思えない、やけくそな映画番組を、レイは気に入っていた。
「副音声にしていいかしら」
洋画は吹替版でなくそのままの言語で聞く。これがレイのこだわりだ。少し顔を赤くしたアスカが、ヘラヘラと笑いながら話す。
「えぇー? まあそりゃアタシやレイは英語できるからいいけどねぇ。シンちゃんはどーかしらぁ?」
「ば、馬鹿にしないでよ、僕だって聞き取れるさ」
「……ふーん、そ」
「……なら、副音声にするから」
レイはリモコンのボタンで、音声を切り替える。そして台所のすぐ近くにあるスイッチパネルに向かってトテトテと歩き出し、リビングの明かりを常夜灯に切り替えた。準備は万端だ。
「……そろそろ、始まるわ」
レイがソファーに座ると同時にCMが開け、その番組は始まった。じゃんじゃかじゃーん、という、身も蓋もない音楽とともに、ポップ体で今日の映画のタイトルがデカデカと表示される。最新SF冒険活劇だろうが古ぼけたラブロマンスだろうが低予算カンフーアクションだろうが、この映画番組のオープニングはいつもこうだ。
CMよりも短いオープニングがあっさり終ると、映画がすぐに始まる。この潔さも、レイの好きなところだった。
暗いリビングで、3人は映画を見る。
コーラやビールをちびちびと飲み、ポップコーンをポリポリと食べるアスカは、シンジに小声で話しかけた。
「……ねぇ、この人、ちょっぴりアンタに似てない? アンタと同い年だし」
「え、そうかな」
「うん、ヴィレの食堂で働き出した時、ちょっとこんな感じだった」
「……そうだっけ」
シンジは開いたグラスにビールを注ぐ。彼女に久々にあった時のことを少し思い出して、彼はすぐに映画の世界に戻った。
3人は映画を見続ける。
始まって40分程度経った頃、アスカはふっと目を覚ました。彼女は今日の心労の疲れが出たのだろうか、うつらうつらとしていて、あまり映画に集中できていなかった。
その眠気をかき消すように、アスカはビールを少し口に含み、それをこくっと飲み込むと、また小さな声で、彼に話しかける。
「……アンタってさ」
「ん?」
「ヨワムシ、まだ好き?」
「……」
「……」
「……」
「……もしデートに誘うんなら、この人みたいにヘマしちゃだめよ」
「……はは」
シンジは、ほんの少し笑った。
当然好きに決まっているし、当然デートには誘わない。
もう彼の出る幕はない。
映画は続いている。
レイとシンジは、ポップコーンをビールで流し込みつつ、その映画を鑑賞していた。
『──Oh yeah? Huh? Okay.』
「……ぅん」
座っていたアスカの頭が左に完全に倒れきり、シンジの右肩に預けられた。アスカは顔を真っ赤にして、完全に寝てしまった。
アスカは酒が弱かった。
コーラのグラスは空だったが、ビールのグラスは半分程度しか減っていなかった。
『──You're dead.』
番組がフェードアウトし、CMに入る。
この映画番組のCMは非常に長い。平気で15分以上CMをやることもある。番組が終わったのかと思うほどだ。しかしこの映画番組ではCMはこの一回しか入らない。CMというよりは、インターミッションのような感覚に近いだろう。
たとえ録画をしても、レイはこのCMを飛ばさずに流していた。この一見無軌道な映画番組の、できるだけ映画を連続的に楽しませる工夫を、レイは気に入っていたのだ。
シンジはCMに入ったのを確認し、自分に倒れ込むアスカを見て、レイに話しかける。
「……僕、アスカを運んでくる」
「わかった。布団、敷いてあるから」
シンジはコーラが入っていた空のグラスを持ち、そろりと立ち上がった。途中で寝室に向かうドアを開けておいてから、台所に向かう。その開いたグラスを軽くゆすぎ、ミネラルウォーターを注いで、アスカの元へと戻っていく。その水をソファーの前のテーブルに置くと、彼はアスカの頬をペチペチと叩いた。
「アスカ」
「……ん?」
「水飲みな」
「……ん」
「……ほら、グラスで」
アスカが唇を突き出したのを見て、シンジは目を細める。それはもうできないよ、その台詞は、彼の喉から外には出ていかなかった。
グラスを彼女の手元にもっていく。彼女はグラスを両手で持ち、柔らかな唇を縁にぷにっと押し当て、水をコクコクと飲んだ。
「……ふぅ」
「ほら、布団で寝ないと、風邪引くよ」
「……んー」
アスカはシンジを迎え入れるように、両腕を大きく開いた。どちらも、大昔に二人っきりで生活していた時の、いつもの合図だった。
シンジがアスカを抱き寄せると、アスカはシンジの首に両腕を絡める。そして昔と今が混濁している酔っ払ったアスカを、シンジは今日の夕方したように、両腕で優しく抱きかかえ、そのまま持ち上げた。アスカは目を閉じたまま、シンジの首をきゅっと抱き締め、頭を何度も擦り付ける。
シンジは実感する。彼女は当時よりも大きく成長した。それは彼にとって本当に嬉しい出来事だ。それでいて、成長した彼女の重みは、当時よりも軽やかに感じられる。それは彼が彼女以上に大きく成長してしまったからだ。
いつもの言葉を、昔の言葉を、投げかける。
「歯磨きは?」
「……んーん」
「……ん」
アスカを両腕に抱きかかえたシンジは、リビングを出て、和室に向かった。和室のふすまを足で器用に開け、彼女の布団の前に到着する。
シンジは布団の側に膝立ちになり、かつてしていたように彼女を寝かせる。右腕で上体を抱いたまま、まずは彼女の腰から優しく布団の上に降ろした。腰が布団に着地したのを確認した彼は、肩を抱いた右腕と上半身をコントロールし、彼女の上体を少しずつ寝かせる。何度も繰り返した動作は体が覚えている。
アスカはとろんとした目で、シンジを見つめていた。その両腕はシンジに巻き付いたままだ。彼女の背中が柔らかな布団に接し、彼はその右腕を肩から離そうとした瞬間、アスカは、巻き付いた腕にくっと力を入れた。
シンジの頭が、一気にアスカの目の前に移動する。
アスカの香水の残り香が、アスカのシャンプーの香りが、そしてアスカ自身の香りが、とうとうシンジを包み込んでいく。
見つめ合ったまま、彼女は両腕で、彼の背中と頭を柔らかくさすり、その名前を弱く呼んだ。
「シンジ……」
「ん?」
「んぅ……」
彼女は、その鼻にかかった声をあげると、ゆっくりと瞼を閉じ、唇を軽く突き出す。そのあまりに悩ましい表情は、シンジのほんの数センチの眼前にあって、彼女の上下の口唇の隙間から出る甘ったるい吐息が、シンジの唇にかかっていく。
よく眠れるおまじないの、そのかつての合図。
シンジは、瞳を閉じたアスカの長い睫毛を見つめ、微笑んだ。
アスカが、史上最も美しい。アスカが、どんな誰よりも愛おしい。
その事実は、遠い過去から、今現在を通じ、やがて完全な滅びの将来に至るまでの、彼にとっての不変の真理だ。
だが今やもう、その続きはない。
彼女は夢の中にいるのだろう。
仮に夢の中でないのなら。
それはその合図の意味が変化したことを示している。
アスカは、誰よりも、優しい。
シンジは、彼女の無上の慈しみに、大いに甘えることにした。
彼はアスカを右腕に抱えたまま、その頬を一度だけそっと撫で、ぷにぷにと突つく。
その柔らかい感触に、彼女は閉じていた目を薄く開いた。
「……ぅん?」
「アスカ。いつもありがとう。今日は、本当に綺麗だったよ」
「…………キモ」
「大好きだよ。アスカ。愛してる」
「…………クサ」
そう言って、アスカはこてんと寝てしまった。
シンジはようやく、彼の右腕を彼女の肩からゆっくりと離し、枕の上に彼女の頭を乗せた。すると彼は立ち上がって、押し入れから羽毛の掛けふとんを出し、その引き戸を音もなく閉める。そして、一度布団をふわりとあおってから、風邪を決して引かないように、首元までしっかりと、そして夢の中にいる彼女を決して起こさないよう、できるだけ慎重に、アスカに布団を掛けた。頬を真っ赤にしたアスカは、その掛けられた布団に、無意識のうちにくるまっていく。
シンジは、安らかに眠りこけるそんなアスカを眺め、思った。
飲ませて襲う輩が居るかもしれない。
シンジは、カヲルから様々なことを教わった。そして家に帰り、呆然とするアスカの背中を優しくさすりながら、カヲルのように新しい方法で彼女を支えたいと、彼はそう願った。
『痴漢被害』
卓上のメモにあったその4文字を見た瞬間、全身の血が一瞬で沸騰し、全てが蒸発して消え失せた。
その感覚を、思い出したからだった。
「おやすみ、アスカ……」
布団を大事そうに握り、すやすやと可愛らしく、どこまでも平和に眠る、まさに天使のようなアスカを眺めて、シンジは、和室のふすまを、そっと、静かに、閉めた。
指2本で済ませるわけねえだろうが。20本でも全く足りん。
どいつもこいつも、ふざけるなよ、クソども。黙っていりゃあ付け上がりやがって、この堕落したド畜生が。
アスカが酒を無理矢理飲まされてレイプでもされてみろ。何が街を出るだ。そんなものは止めだ。クソったれ。
下衆が。俺を舐めるなよ。砂利くせえ人類補完計画なんぞ却下だ。新たな世界の創生なんぞもう二度と望まねえよ。お望みなら全員何遍でもしばき倒してブッ殺してやる。クソ野郎が。
この世界はどこまでも馬鹿げた連中で溢れかえっている。クズ、変態、ケダモノ、ゴミ、クソ。
俺の結論を教えてやる。よく聞けよこのクソ以下のカス共が。
ここはアスカとアスカとレイとレイが健やかに成長していくための世界だ。リョウジ、ケンスケ、カヲル、シンジ、最高のパートナー付きだ。わかったか?
わからねえやつは前に出ろ。文句があるやつは手を挙げろ。そんなくだらねえ手足は俺が全て引きちぎる。首を縦に振れねえバカの頭をぶっ飛ばす。懸命に頑張ってきた彼女らの幸せを邪魔をするゴミクソは俺が全員まとめてブチ殺す。考える必要はゼロだ。
俺は立ち上がる。俺は愛する人のためなら幾らでもキチガイになれる。俺のATフィールドはクソ専門の屠殺場だ。エヴァでもJAでもなんでもかかってきやがれ。てめえら全員地獄に落ちろ。
俺はもう立ち上がった。もう二度と止まらない。永遠にだ。立ち上がりっぱなしだ。
どうした。かかってこい。かかってこいよ。このオナニー狂いのキチガイ野郎が。