アグネスタキオンというウマ娘がいる。高名な一家に生まれた異端児だとか、あるいはトレセン学園で謎の研究を繰り返す問題児だとか。とにかく私というウマ娘は、奇異や恐れの目で見られているというわけだ。
別に他人からの評価を気にするタチではないが、私からすればウマ娘という種族そのもの、いわば『普通のウマ娘』を標榜しているような者達の方がよっぽどおかしいとすら思ってしまう時がある。例えば我々はなぜ走るのか? 走るのが本能だから? ならばなぜ走れなくなった私は自死を選ばずのうのうと生きているのか? そういった疑問はことごとく連鎖し、戯れのはずの思考はあらゆる支障を及ぼす。
つまるところ暇つぶしに考えを巡らせるだけなら、適当なところで止めるのがいい……というわけだ。
さて。師走も中頃のこの日、私が時計台の下で長々と暇つぶししているのは、レースから身を引いて暇を持て余したヒマ娘となってしまったから……というのも多分にあるが、ちゃんとそれなりに真っ当な理由がある。白い息を吐きながら街中の目立つところで突っ立っている理由が。
……やれやれ、『彼女』はまだ来ないのか? 待ち合わせ場所を間違えているのではないか、そう思い見渡して、目を凝らす。
「……あ」
少し離れたところに立っていた、帽子からコートまで黒一色に身を包んだ少女と目が合った。……まったく。
「おいおいカフェ、仮にもデートなんだよこれは。なんでそんなに目立たない格好で来るんだい? そのまま見落としたら今日を丸々棒に振ることになるだろうに」
「"仮にも"デート、ですか。そんなこと一言も聞いていませんが。周りにいるのはカップルばかりですが、我々はそうではないでしょう」
そう、薄い表情を崩さず答える少女。彼女が今日誘った待ち合わせの相手であり、近々我が世代の代表として有馬記念に挑むウマ娘……マンハッタンカフェだ。
「ハッハッ! 相変わらず冗談が通じないねぇ……だが私が君を見初めたのは事実だよ?」
「そうですね。私は貴女の被験体の一人ですから」
「そういうことだとも、親愛なるプランB。……さて、今日もその一環だ。なに、君はきっと息抜きが足りないと思ってね」
そう言うと、マンハッタンカフェは少し首を傾げる。
「トレーナーさんにはそれなりに休息を頂いていますし、たまに一緒に外出もします。貴女にお節介を受ける筋合いは」
「あのねえカフェ、これでも私は君のサポーターだよ? その休息が副業の女優業に費やされていることぐらい知っているよ……。ましてやトレーナーとのお出かけなんてとても君がリラックスできているとは……おっと」
危ない危ない。露骨に目付きが鋭い。せいぜい仲良くしていきたいものだが、カフェからすると私はそうでもないらしいな。
「……わかりました」
しばしの沈黙の後、呆れ顔で眼前のウマ娘は言う。
「私の息抜きも、私のサポートをする貴女の仕事。そういうことなら、来たる有馬記念に向けて万全の状態を整えるためには断れないですね」
「いやあ理解が早くて助かるよ!」
「理解の早いモルモットは好みですか?」
……ふぅン。
「答えたくないなら、構いませんよ」
「……そうだね。じゃあ今は、お言葉に甘えるとしようかな」
誤魔化すように、マンハッタンカフェの手を取る。……感情の機微を弄ぶことについては、彼女に一歩分がある、か。
※
「……で、水族館ですか。本当にデートと勘違いしているのでは?」
「カフェ! 見たまえ! 生命の源泉、それは大地ではなく海なんだよ。つまり地を駆ける我々ウマ娘にとっても海の神秘は切っても切り離せないものであり」
「……はぁ」
いやあ実に興味深い! それなりに時間は持て余しているが行く機会がなかった場所、そういうところは何かに理由をつけられるならその時に行くに限るねぇ……。
「そんなに面白いですか?」
おっと。真横に来るまでついついカフェのことを忘れていた……今日のメインパーソナリティなのに。
「随分つまらなさそうだねえ」
「まあ、ロケでそれなりにこういうところには来ますからね」
「じっくり見るわけではないだろう? 魚の動き、構造、解説……そういうものは見ないだろう」
「水族館での逢瀬というのは、こと雰囲気を楽しむものですよ。水槽に囲まれ、生命の動きを目の端に捉える。それがロマンチックだったりするだけであって、本質は愛し合う二人が並んで歩くことですから」
「ハッハッ! なんだ、私より水族館に詳しいんじゃないかい?」
「メロドラマの定番スポットですからね。流石に最近はあまり見ないかも知れませんが」
まあ、そういうことなら。
「……じゃあ、行こうか」
「……? 何を……っと!?」
私はぐいっ、と彼女の掌を掴み、引っ張って歩き出す。何事も経験。だから、デートの作法があるならばそれに則ろうじゃないか。
こつ、こつ。足早にならないように気をつけているつもりだが、なにぶんウマ娘というものの本能は走ることだ。故に歩を進めるだけで気分は高揚し、ぐいぐいとカフェを引っ張ってしまう。……まあ、彼女も見飽きているらしいしこれくらいは──
「ちょっと」
ぐいっ。
おや? と思ったのも束の間、私の腕は逆方向に引っ張られる。
「……どうしたんだい、カフェ」
引っ張ってきたのはもちろんマンハッタンカフェ。相変わらず意図の読めない端正な顔でこちらを見つめてくる。
「はあ……息抜き、デートと言ったのは貴女でしょう」
「ああ、そういえば」
すっかり忘れていた。このままでは息を抜くまでもなくあっという間に終わらせるところだった。
「ならば。もう少しゆっくり行きますよ、タキオンさん」
そう言ったきり、彼女は繋いだ手を離す。まるで先程まで手綱を握られていたかのようだな、と思った。
それを離したのだから、我々は対等なのかもしれない、とも。
※
そうしてゆっくりと館内を巡ると、それなりに時間は経っていく。……紅茶が飲みたいな。
「ねえカフェ、そろそろ休憩しないかい」
「いいですよ。ちょうど水筒は持ってきてありますから……ほら」
彼女の鞄から、水筒が差し出される。……うーん。
「……時にカフェ」
「はい」
「それの中身は」
「コーヒーですが」
「……彼はもう少し気が利いたものだが……はぁ」
大きくため息をつくと、カフェも小さくため息をついた。
「貴女の嗜好なんて知りませんよ……では我慢してください」
「むぅ……そうだ」
「何か思いついたようですが、碌でもない企みなら協力は」
「ここ、喫茶店があったはずだよ」
「……ほう」
カフェの目の色が変わった。チャンスだ。
「そうだそうだ、これでもリサーチというものをしておいたんだ……出口付近にあるはず」
「では」
「行こうか」
意気投合は完了した。……普段からこれくらいスムーズな会話ができればいいのだけど。
※
「いいですね、ここのコーヒーは」
「それはわからないが、この紅茶は美味しいねぇ」
「それだけ砂糖を入れておいて味を語るのは正気とは思えませんが」
やれやれ、私から見ればブラックコーヒーなどそれこそ狂気の沙汰だが。
「……それにしても、今日はどうして水族館へ?」
お互い半分ほど飲んだ後、向かいテーブルの少女が沈黙を破った。
「ああ、そんなことか……個人的に興味があってね」
「やはり息抜きだなんだは建前で、そういうことですか」
そう言われても否定はできない。否定するようなことでもない。
「前から少し、考えていたんだよ。幸せに整えられた水槽の中で、泳ぎ続ける彼らのことを」
「……なるほど」
「極論を言えば、あの中にいる限り移動する必要はない。何処へ行っても何処にも行けない、それがここの生物達の一生だ。
……なのに、彼らは目まぐるしく泳ぎ続ける。輪を描き、何度も輪廻する……何かに似ていると思わないかい?」
「我々がターフを駆けるように、ですか」
「正解だよ、カフェ」
そう。ウマ娘が走るのは何故か? 本来脚は移動の為に生えており、無意味な周回を繰り返す必要はあるのか? 結論から言えば必要はない。いや、正確に言えば。
我々ウマ娘は、走ることそのものに必要性を感じているのだ。その運命のようなものから、誰しも逃れられない。
「……君と二人きりで話をしたかったのも、嘘じゃない。私の現状は知っているだろう? 走れないウマ娘は、それ以外の数多の娯楽、世界を知ってなお満たされない」
「それは……」
「おっと。同情を求めに来たわけじゃないよ。結局のところ私を突き動かすのは好奇心だ。例えば今まで走ることを選択していなかったウマ娘が、どんな世界を見ていたか。
走ることを選択しないウマ娘の一人として、他のウマ娘がどうやってその世界に価値を見出していたのかを知りたいのさ」
だから、こうやって。かつてのマンハッタンカフェは何を見て生き、今は何を求めているのか。それを知りたい。
静寂の中、互いのカップを啜る音だけがしばらく響く。……思考をまとめたのか、マンハッタンカフェはゆっくりと話し始めた。
「私は……ええ。かつての私は、この命の退屈さを必死に噛み殺していました。己の怠惰を殺し、女優としての研鑽を積む。息をする間を限界まで削り、死を想うことで生を喰む」
「それは、幸せだったかい?」
「幸せ、ですか。側からみれば満ち足りていたと思いますが」
「……なるほどね」
つまり、足りなかった。ならば。
「ならば、今は幸せかい?」
「かつての私とは何もかも違います。他者に迷惑をかけ続け、本性を剥き出しにして」
でも。
「……でも、私は。飢えを間近に感じる今こそ、より近づけた気がしています……幸せには、まだなれませんが」
「……なるほどね」
「走らない幸せの回答を期待していたなら、申し訳ありません」
「言っただろう? 気休めや同情ではなく、好奇心だと」
そこで言葉を切り、また紅茶に口をつける。相対する彼女も、コーヒーを喉へと流し込んだ。
「さて、そろそろ行きましょうか」
「今日はありがとう、カフェ」
「それはこちらの台詞ですよ」
席を立ち、片付けを終えて。店の外はすぐ水族館の出口だ。あっという間の時間だったが、なかなか興味深かった。
……ああ、そうだ。
「そういえば、カフェ」
「……はい?」
「二人でお出かけまでしたのだから、私と君は……そう、『友人』ということでいいのかな?」
たまには歩み寄りというものが必要だろう。柄にもない発言だが、悪い気はしな──
「いいえ」
「……は?」
「私達の関係は、ずっと変わりませんよ。逢瀬の真似事をしようと、それで仲良しこよしになる類の人種でしたか、貴女は」
「ふぅン……いいだろう。なら、君は私達の関係をどう捉えているのかな?」
「仇敵です」
即答だった。
「……フフフ、ハッハッ! そうかそうか、なるほどねぇ……今までもこれからもずっと、我々は仇敵なのか」
「ええ。変わらず、これからもです」
「結構……ああカフェ、先に帰っててくれるかい? 急用が出来た」
「やれやれ、相変わらず無軌道な行動ですね……では」
そう言って去る彼女の口元は。あるいはそれを見送りながら、古い連絡先を辿る私のそれは。
同じように、薄い月を浮かべていた。