青く。蒼く。空は遠く、広く。
高く。崇く。天は清く、遠く。
私の目の前に、澄んだ青空が広がっている。私は翼もなしに、自由に宙を飛び回っていた。進めば進むほど、鮮やかな雲が裂けていく。空を飛ぶのはとても心地がいい。ずっと、こうしていたい。
やがて大きな雲の中に私は滑り込み、景色は一変する。眼下にあるのは、緑いっぱいの草原だった。少し、降りてみようか。そう思うと、私の身体は緩やかに高度を下げる。ぽふん、と草むらに優しく衝突する。朧げに全身を包まれるのが、また心地いい。
でも、これだけじゃ足りない。もっと面白くできる。私が思考を彼女たちに向けると、皆次々に姿を現した。そこで漸く気づいた。
これは、明晰夢だ。
「やあみんな〜、と言ってもこれは夢の中で、皆本物じゃないけど。お集まりいただきありがとうございます」
「そんなこと言わないでくださいセイちゃん!」
「そうですよ〜、夢の中なんだから。なんでもあなたの思うまま、です」
これは夢だと私が気づいても、夢は覚めるどころか一層はっきり、くっきりとしてきた。
「エルたちと一緒に! 現実ではできないようなすごいことをしまショウ!」
「にゃはは〜、そうかそうか〜。すごいことか〜。迷っちゃうな〜」
「そう言いながら、本当は目的があって呼んだのではなくて? 夢というのは、泡沫のように消えゆくもの。理由がなければ、はっきりした形を持たない」
さすがお嬢様。いや、ここにいるのは影法師。ずっと一緒に過ごしてきた同期の姿と声を、私の記憶が真似たもの。でも、上出来だ。よく寝ていた甲斐があったというものだ。
明晰夢。人がごく稀に見ることができる、明瞭で、自由で、何者にも縛られない夢のカタチ。そこでは感覚さえ再現されているかのように錯覚する。私の脳がフル回転して、脳みそ自身を騙しているのだ。
さて。そんな、なんでもできる夢の中で私が望んだものが、これだ。青々とした草原で、同期5人で輪を作る。そしてこの先も、なんとなく読める。いや、それは当然だ。私が見ている夢の内容は、私自身が考えているのだから。
皆はいつのまにか沈黙して。私の言葉を待っている。この先の筋書きは、こうだ。
「あらあら皆さん押し黙っておいでで。ならそんなあなたたちに、私からプレゼント。はい、まずはキング」
いつのまにか大きく大きく、風船のように膨らんだキングヘイローだったものを、私はプスっと穴を開けて破裂させる。……この儀式が、たまらなくやりたかった。
「……道は交わらなくなったけど。だからこそ、私たちはライバルだと思うんだ、なんてね」
だから、彼女は偉大に、偉大に見えて。でもそれを倒すのは、きっと私だ。
「次はエル……って、今度はうずくまってる。それを……こう!」
私はどこからともなく布を取り出し。エルコンドルパサーの姿をしていたものを覆い隠す。……次の瞬間、薄布を引き裂いて鳩の大群が生まれ出で、天へと飛び去った。
「エルとは結局ガチンコ出来なかったな〜ってのが、心残りだったりなんだり。でも、応援してる。だから、私と同じ空を目指して欲しい」
だから、彼女は大翼と大望を掲げて。でも空へ向かうのは、私と一緒だ。
「こんにちは〜、スペシャルウィークさんや。……君は姿が変わらない……。でも、迷いはないよ」
私は剣を抜き、スペシャルウィークの人影をまっ二つに斬る。眩い光が分たれたところから迸り、人影は跡形もなく消えた。
「ダービーを取られて。菊花賞は取り返したね。それでお互い三冠は成らなかった。でもそこに後悔はない、よね?」
だから、彼女は強くて。内には光り輝く夢があって。でも私は、君と並び立つ。
「最後は、グラスだね。覚悟はいい? ……なんちゃって」
彼女の姿は、いつのまにか。私自身のそれへと変わっていた。ぱん、と私は思い切り手を叩く。グラスワンダーから私自身へと変わりゆく途中のどろどろは、一瞬で弾けた。
「……ここだけの話。私はグラスちゃんの中に私自身を見てたのかもね。1番、勝ちたい。1番、負けたくない。その気持ちがあったのは、私たち。私たちは、同じ土俵で競っていた」
だから、彼女は私を写して。彼女を鑑と鏡にして、私は勝利へと手を伸ばした。でも私は、君を超える。
あっという間に儀式は終わった。私が皆をかけがえのない敵であると認める儀式。今更だけど、夢というのはそういうものだ。過ぎ去った過去に今を見て、遠く近くを愛しむ時間。
儀式を終えると、景色は一変し。薄雲と血の色で染まった空と、荒廃した大地が広がった。これが、私の本当の心象風景。今の私の、空の底のネガティヴ。
天皇賞、秋。私の脚は、それ以上走ることを拒んだ。これ以上は、やめておけ。怪我ではなく病気。私の衰え。私の限界。その年の有馬記念には、出られない。そういうことに、なった。
誰も悪くない。誰もが良い人だ。私をお見舞いに来てくれる同期の皆も、誰も悪くない。いつかまた走れると言って、私の代わりに駆けずり回っているトレーナーさんも、悪くない。
でも、でも。この夢は優しく残酷で。私の抱えたままの闘争心を、剥き出しにした。"本当は、みんなと走りたい"。そう思っていたのを暴いた。私は泣くのなんて下手くそだ。だから走れないことを受け入れたふりを一度、してしまった。だけど、だけど。
意味のない仮定は多々あれど、その極みだと思う。"私があそこで走りたいと言ったなら"、なんていうのは。そんな仮定をするならば、脚を悪くしない仮定でも立てたら良いのに。なのに、なのに。
私は毎日、自分はどうして勇気を出せなかったのだろうと。幾度となく思い返している。けれど、言葉にならない。なんでもできる夢の中でさえ、言葉にできない。
脚に感覚が戻ってきた。……即ち、私の脚は不自由な現実へと戻る。自由に走ることが叶わないあの世界に。嫌だと思った。ずっと夢の中にいたいと願った。
「やだ、やだよ。私が思いっきり走れるのは、夢の中だけだなんて。夢なら、醒めないで」
そう願っても、願っても。現実は、私を引きずっていく。最後、開かれていく瞼の裏に私が見たものは。いつか見た現実。トレーナーさんと作戦を練った最初の日。その光景だった。
目は薄く、薄く開かれて。私がいるのは、"いつもの寮の部屋"。そんな気が、した。……病院は? ……先程まで、私が現実と信じていた脚の苦痛は? わからない。夢うつつな感覚は、どちらを現実とも断じてはくれなかった。
震える手で、スマホを取り出す。曖昧な頭で、いつもの電話先をコールする。トレーナーさんが出るまで、現実が確定するまで。私はこの瞬間を必死に噛み締めていよう。
夢なら、醒めないで。