逃げ。その戦場は他のウマ娘とは違うところに存在する。ただ一人、誰もいない景色が目の前に。争うべきは己のペース。機械のように正確に、影すら踏ませぬ異次元の逃亡。先手必勝、たった一度も前を譲らない。
それが、理想の『逃げ』で。人々はその独壇場に夢を見る。きっとスター性のある逃げとは、鮮やかに引き離し、誰とも競り合わないもので。
私の逃げとは、まるで違う。私の選ぶ逃げは消極的で、いつも本物の逃げの後塵を拝している。集団が後ろで固まって、誰も出てこないのを祈りながら走り続ける。引き離すことなんて叶わない、先行バに捕まれば競り合いすらなくあっという間に引き離される。
それでも、それでも。最初に見れる先頭の景色だけは本物で。私は、ジャラジャラというウマ娘は。それを見るために走っているのだ。
……ああでも、一度くらい。大舞台のセンター、獲ってみたいな──。
トゥインクル・シリーズ。ウマ娘にとって、最初の三年間。私のやる気はデビュー戦からこっち沈む一方だった。メイクデビュー、初戦も初戦で私は才能の差を思い知らされた。1秒間だけしか、私の逃げは成立しなかった。
マルゼンスキー。あまりにも速いその紅は、本物の逃げというものを、私に見せつけた。ぐんぐんと差が開いて、開いて、開き続けて。スターウマ娘への道は、いきなり閉ざされてしまったような気がした。
未勝利戦でなんとか勝ちを拾い、重賞に向けて実績を積み上げた後も。本物の主役と一緒に走る勇気は、まるで湧いてこなかった。
本物。マルゼンスキーと走って最初にわかったことだ。あれが本物で、私のようなウマ娘とは何もかもが違うのだと。努力しても、しなくても。結果は変わらなくて、努力は無意味で。それをうっすら感じ取りながら、私は未だに"逃げ"続けている。
「スプリングステークス、避けちゃったな」
今日はレースの予定だった。だいぶ前、マルゼンスキーが出走するとわかるまでは。トレーナーも了承した。仕方ない、と。そして練習もなく、目的もなく。こうして近くの駅で、電車を眺めている。
幸い私には大した数のファンもいないので、下手に外を出歩いても騒がれることもない。まったく、本当に幸せ者だ。
それでも、やはり他のウマ娘を見ると私自身が反応してしまうもので。びくり、と身体が動く。相手が広告なり喋らないなら問題ないんだけど。
レースから逃げたという事実は、思ったより私にはショックだったのかもしれない。自嘲気味に苦笑する。
さて、次はどこへ行こうか。学園にでも行こうか。何も考えずに来た電車に乗る。気が向いたら降りればいいか、なんて。そんなふうに、本当に頭を空っぽにしていた私は。
「……こんにちは」
車内に入るなり挨拶されて、軽いパニックになった。
「あっひゃっはい! ジャラジャラです!」
聞かれてもないのに答えてしまう。前にいたのは、一人のウマ娘。白い毛が綺麗だった。
「ジャラジャラさん……よろしく」
その子は寡黙な感じだったが、にも拘わらず話しかけてきたということは何かあるのだろうか。
「えっと、何用でしょうか」
「……?」
ピンと来てない。何用って表現変だったかな。
「えーと、何か私にご用件でもありましたでしょうか」
これは流石に慇懃無礼かな。わからなくなった。
「……いえ〜。ただ、ウマ娘同士だな〜と思ったもので」
そうか、何も理由はないのか。失礼かもしれないけど、なんだかその覇気のなさが親しみやすくてありがたかった。
「……お話しませんか?」
「……それなら、次の駅で降りますか」
よくわからない誘いに乗る。捉え所のない人だ。レースで会ったこともない。でも、他人を知れば自分の糧になるかも知れない。……それであの怪物に勝てるようになるかは、別だけど。
しばらくするとドアが開いて、私とその子の二人だけが降りる。何も考えずに降りたら、本当に人気のない駅で降りてしまった。
空を見上げると、少し赤く滲んでいて。なんとなくあのマルゼンスキーのことを思い出した。そしてそのまま、話を振ってしまう。
「えっと、マルゼンスキーさんって、知ってますか」
「……知ってますよ」
「実は今日、マルゼンスキーさんの出るレースがあったんです。……それで、私は出走を回避して」
ぽつり、ぽつり。白い子は黙って話を聞いてくれた。
「デビュー戦で、マルゼンスキーさんと私、レースしたんですけど。私は大きく逃げようとして。その日までは誰にも一度も抜かれず、そんなウマ娘を夢見てたんです。イメージトレーニングはばっちりだった。でも、結果は。
勝てなかった。それだけじゃない、私は逃げたなんて言えなかった。ほんの最初の数歩、枠の差を詰められるまでの一瞬だけ、私は先頭で。そこから先は、マルゼンスキーさんがハナをぶっちぎってって」
「強いですよね、マルゼンスキーさん」
そう、でも。それだけじゃなくて。
「違うんです。私にはないものが、あの人には何もかも備わってたんです。逃げ足なら負けないって、その時まで私は信じてたんです。でも、でも」
ぽたり、ぽたり。いつのまにか、涙がでてきた。
「今はもう、走るのが怖いんです。逃げても、ハナに立っても。あの人の姿が、ずっと視界に入ってる気がして。私は、その影を追いかけることも叶わない。ただ、怯えながらレースをしてるんです」
勝てない。どうやっても、勝てない。そう思ってしまったから。私は勝てなくなっていた。
「……そうですか」
「……貴女は、そういうの。ないんですか?」
走っているうちにわかる才能の差。実感せざるを得ない努力の限界。才あるものが努力をして、初めて栄光はつかみ取れるのだと、思う。そしてその資格は、私には。
「……私は、URAファイナルズに出るつもりです。トレーナーと、いっしょに。……まだ、道は遠いんですけど。トレーナーのこと、もっと知らなきゃいけないけれど」
URAファイナルズ。スターウマ娘だけが出走を許される、全てのウマ娘の頂点を決める大会。……私には、夢のまた夢だ。この人も、私とは違うのだろうか。
「……貴女は、何故もう諦めているのですか」
誰か恐れるウマ娘はいないのか。その質問に答えることなく、質問を返された。
「……私が質問してたんですけど」
「私は、私を選んでくれたトレーナーのために。走ります。絶対、ファイナルズ・チャンピオンになってみせます。……貴女には、何かないのですか。壁ではなく、目標は」
言われて、はっとする。
目標。目指すゴール。もしかすると私は、その前の壁に気を取られていたのか。
「……私は、いつでも。誰が相手でも。ファイト、するだけです」
唐突に。ファイト〜、と彼女は気の抜けた掛け声をあげた。
「ぷっ」
笑ってしまう。彼女は私が何を笑っているのかもわからない様子で、きょとんとしている。それも愛らしくて、また笑う。
でも、その通りだ。私たちウマ娘は、走るために生まれてきたのだから。走りたいのだから。壁があるなら、垂直に走ればいい。そうすればきっと超えられる。ゴールはきっと、その先に存在するのだ。
「よし、じゃあ私も! ファイト! しようかな!」
威勢よく、声をあげる。ぱちぱちと、横の少女から小さな拍手が上がった。
どれだけ大変かは、わからない。辿り着けるかも、わからない。それでも。私たちには必ず、ゴールがあるのだから。
そちらに向けて、走っていこう。
「……大丈夫ですか〜? なやみ、なくなりましたか?」
「うん、なんとか。ありがとね」
電車がちょうど来て。彼女はこの駅でそのまま降りて帰路に着くらしい。短い間だったけど、大事な時間だった。お別れだ。
「おっと、そういえば」
電車に乗る前、一つ忘れていたことを思い出した。
「貴女、名前は」
私はちゃんとジャラジャラと名乗ったのだから、聞いておかないと。
「……ハッピーミークです〜」
最後までふわふわした感じで、ハッピーミークは挨拶し。間もなく扉が閉まって、お別れだった。
連絡先も交換しておけばよかったかな。スマホを取り出して思ったのはそんなこと。トレーナーに次の目標を伝える。新しい目標。マルゼンスキーからハナを奪うこと。彼女の脚より、更に速く。それは途方もない目標だけど、夢を見るのは自由だ。夢を叶えるのも、自由だ。
私も、彼女も。誰もが。等しく一人のウマ娘なのだから。