走ることは罪だと誰かが決めたのだろうか。生きることは等価ではないと誰かが定めたのだろうか。私は唯、貴顕の使命を果たすべく。前だけを見ていた。
先の天皇賞、秋。私は一つ、拭い去れない過ちを犯した。レース中の進路妨害による降着。勝利を求め過ぎたが故の失態。メジロの名に恥じることのないよう生きてきたはずの私は、全ての砦を自ずから失った。
天皇賞春秋連覇を目の前に、託された多くの想いと代々伝わる悲願を胸に私は走った。それは私が生きる理由。そうして私は、知らずのうちに自らの眼を曇らせていた。
わかっている。これは言い訳で、それこそメジロ家以前に一人のウマ娘としてあってはならない気持ちだ。もし、降着でなかったら、なんて。どこまで厚かましいのだろう。
だから終わりにしなければならない。
これ以上を走るのは、生きるのは、罪だ。
まず矛盾が立ちはだかる。生きることは罪であり、然して己の命を絶つこともまた、罪である。今の私は、針の筵で板挟みになっている。誰にも迷惑をかけたくない。そう願うには、あまりにも多くのものを背負い過ぎた。誰もが私の生に注目するし、誰もが私の死に注目するだろう。でも、でも。
耐えられない。消えてしまいたい。そう思ってしまうのもまた、罪なのだろうか。既に嫌というほどニュースを見た。嫌というほどウワサを聞いた。もう、嫌だ。
そんなふうに、全てのものから耳と目を塞いで。寮の皆には泊まり込みのトレーニングだと書き置きをした。そうして、そして。
私は今、崖の上に一人。佇んでいた。
「……ようやく、着きましたわ」
そう、誰に言うでもなくつぶやいて、息を吐く。やっと、一人になれた。あれだけ心強かった仲間の存在が、むしろ今は辛くて仕方がない。期待が重い。配慮が苦しい。飛べなくなった天使の翼は、背負い縛る十字架になっていた。
ふらり。崖に向かって歩を進める。このまま落ちれたらどんなに楽だろうと、思う。でも、きっと駄目なのだ。私は加害者であり、泣く権利すら持ち合わせていない。悲嘆に暮れることなどあってはならない。
たん。また一歩、地獄へ向かって歩む。それでも、背負った咎を下ろす方法は分からなかった。だって誰も、表立って責めてはくれないのだから。
ぐらり。片脚を上げて、宙へ放り出してみる。まだまだ安全圏に私の命はある。どうやったら、死なずに生きるのをやめられるのだろう。きっとこれから先、私が走るのは全て罪なのに。ずっとこれから先、私の生きるのは遍く無価値なのに。
そっと、脚を下ろす。今までの私は、使命感で己を律してきた。ならば、想う。使命感が己を殺すのならば、私はどうすればいいのだろう。
もしかすると、死にたくないと言う恐怖心が己の心を歪ませているのかもしれない。いや、恥ずべき行為を償う理由が見つからないから、死に逃げているのかもしれない。導を失くした私は、何処へ、何のために。なにも、わからない。
ぐぅ〜。お腹が鳴った。思わず顔を赤らめる。……そして、それが無意味なことを思い出す。もう自分は、何の価値も無くなった存在で。取り繕う意味も、理由もない。
「このまま、終われたら良いのに」
空腹を誤魔化すように、口を遊ばせる。生きることも死ぬことも許されないなら、私は木になりたいとさえ思った。どうしても許されないことに、歪みだけが募っていく。だからもう、赦されなくてもいい。ただ、ただ。
貴方の隣に居たかった。
私のトレーナーが消息を絶ったのは今朝のこと。貴方はいつも強くて、優しくて。だから、誰にも迷惑をかけたくなかったのだろう。今の私と、同じだ。消息不明ということにはなっているが。そうしてくれと、書いてあったが。遺されていたのは、遺書だ。
『ごめん、マックイーン』
そう、端的に本音を書いた後は、この降着騒ぎを穏便に済ませるための言葉ばかりが並べられていた。"責められるべきはトレーナー"なんて。冗談じゃない。
何度も何度も考えた。責められるべきがあるとしたら、私だと。もっと傲慢な考えをすれば、私たちは一心同体、連帯責任を持っているはずだと。だからこうして、一人。今の私は人気のない場所を巡り、貴方を探し当てようとしている。
間に合うかは分からない。でも。彼からしたら迷惑かもしれない。それでも。何もかもが間違っているかもしれない。だとしても。
最良の結果は、何事もなく貴方が帰ってくることだから。そう、私と一緒に気分転換にでも出かけたのだ。そういうことにしてしまおう。
でなければ、でなくては。私も、潰れてしまう。
貴方がいなくなってから、数時間しか経っていないけれど。貴方がいないことの痛みは、幾億年にも感じられた。思い詰めて、思い詰めて。
貴方の思考を辿るように、自分の思考を破滅へと導いて。そして漸く、貴方が消えたくなった理由がわかった。
でも、本当は違うのだ。私は同時に、結論の過ちにも気づいた。
「さて、お腹も空きましたが。貴方を見つけるまでは我慢、ですわ」
私たちは一人じゃない。同じ罪を二人で分かち合える。責めるでもなく、慰めるでもなく。唯一無二の共犯者がいる。
「……まったく、トレーナーさん。見つかったら、たくさん奢って頂くんですから」
そして貴方もそれに気づいていて。だから、最後の引き金は引いていないだろうと、信じる。貴方が居るから、私は踏みとどまれた。ならば。貴方もきっと、まだ。
「……全く! 次に行きますが。これで帰ったらいつも通り居ました、なんてことにでもなったら、許しませんわよ!」
そう、誰も聞いていない軽口を叩く。己を鼓舞するため? そうではない。
信じているから。
貴方とまた、笑い合えることを。
ヒトは生まれながらに罪を背負う。だから、貴方はそれを全て背負おうとした。ウマ娘は、走るために生まれてきた。だから、私は今も走っている。
少し遠くへ行ってしまった貴方に、追いつくため。いや、それは違う。貴方と私は一心同体。たとえどれだけ離れても、遠くになんか行きやしない。
「ここにもいませんわね……」
探す。探している。大した事ではない。私のトレーナーは、強くて、優しくて。だからきっと、この捜索だって徒労に終わる。そうして夜に差し掛かった頃、私が帰路についたら。何事もなく彼は私を出迎えて、そうしたら。
そうだ。とびっきりのスイーツを奢ってもらおう。体重の事なんて気にしない。食べたい時に食べたって、たまにはいい。我慢して、役割に徹しなくてもいい。そう貴方に教えたいから。
なんて、理由をつけて。お腹いっぱい食べたいだけだけれど。少し、気持ちがほぐれる。そう、この心持ちがあるべき姿なのだ。ほんのちょっと物騒な書き置きをして、ほんのちょっと遠出をしただけ。私のトレーナーが行ったのは、きっとそれだけ。
走る。走る。ウマ娘の脚で届かない範囲には、ヒトの貴方は行ってしまっていないはずだ。願う。願う。貴方にもう一度会えることを。
終わってほしくない。ゴールに辿り着きたくない。そう思いながら走ったのは、初めてだった。
駅を回り、思い出の場所を巡った。貴方との思い出を噛み締めながら。彼はどんな時も、私を見守っていた。それは彼にとって負担だったのだろうか。私は彼に重荷を背負わせていたのだろうか。
私は一人になって、初めて冷たい眼差しを意識した。これは、貴方がずっと抱えていたものなのだろうか。私は、貴方の力になれていなかったのだろうか。
もどかしく、もどかしく。一つ当てが外れるたびに、動悸は激しくなっていく。まるであの天皇賞のようだ、と思う。あの時の私は、きっとひどく緊張していて。進路妨害に気づかないほど、何もかもが見えていなかった。でも今は違う。
貴方のことが見えるようになったからこそ、胸が張り裂けそうなのだ。
あり得る可能性から順に潰していって、すぐ見つかると無理矢理軽んじて。結局貴方は、見つからないまま。夜が、来た。
「ほんとうに。何処に行ったのでしょう!」
どうしても、大ごとにはしたくない。これが私の我儘。一人で探すのなんて非効率。でも、絶望的な結果を早く見てしまいたくなかったから。
苛立つように。いつものことだ、というふうに。そういうことにしたかった。日常の一コマであって欲しかった。
「……本当、に」
涙が溢れ落ち。もう、止まらなくなった。
「……こんな。……そん、なっ……」
認めたくない現実が、地面に散らばっていく。それはとても残酷で、シンプル。
最後の最後、僻地の僻地まで探し終えても。何処にも彼はいなかった。
どうしたらよかったのだろう。もっと大々的に探してもらうべきだったのだろうか。そうすれば見つかっただろうか。見つかることは、彼にとって幸福なのだろうか。
今、私のトレーナーに課せられた咎は一つ。メジロマックイーンの降着の責任の一端。でも、それは。私に非があることで。そうでないとしても、彼1人が背負う責任ではない。
それを彼に伝えたい。それだけでいい。彼がこれ以上私のトレーナーを務められないと申し出るなら、それも仕方ない。貴方のことを思えば、貴方の意思を最優先したい。
強いて言うなら。貴方に、一つだけ我儘を言うなら。
絶対に、死なないで欲しい。
帰路に着いてしまう。1日が終わってしまう。私はこれから、彼の秘密を何処まで隠し通せるだろう。でもこれが、私と彼が最後に共有する秘密なのだから。ぜったいに守り抜く。
そう、誓う。
「さて、大丈夫ですか? メジロマックイーンさん」
「ご心配には及びませんわ。有馬記念、成し遂げてみせます。抜かりはありませんわ」
あれから、あっという間に年末が来て。私は彼の遺書に沿って平穏なストーリーを組み立てた。トレーナーは実家の身内のために休暇を取って、知り合いのトレーナーに一時担当を預けると。彼は人は良いのだが……
「……その他人行儀な口調、なんとかなりませんの……?」
「マックイーンさんは私の担当ではなく、あくまで代理ですから」
そう言って憚らない。正直、そのことは罪の意識を膨らませる。
彼は結局戻ってこなかった。まさかほんとうに、なんて。信じないけれど。私を見捨てて何処かへ行ったのだ。そういうことにしておこう。
彼の姿を再び見たくないと言えば嘘になる。けれど、叶わぬ願いを掲げ続けることは耐え難い苦痛を生む。……こうして考えてしまう時点で、永遠に自分のこの思考を否定はできないのだけど。
「行ってきますわ。メジロの名を復活させるために!」
そして、貴方の夢を叶えるために。
コースへ向かうと、歓声が大きく、大きく聞こえてきた。ねえ、トレーナーさん。私たち、まだ走っても良いのかもしれませんわよ? なんて。降着騒ぎがあっても走らせてくれるのだから、ファンというのはありがたい存在で。でも、思ってしまう。ファンの思うメジロマックイーンは、貴方がいたから創り上げられたのだと。
ゲートに入る。さあ、踏み出そう。最初の一歩を。
どん。走る。走る。少し身体が強張るのは否めない。でも。私と貴方で描いた未来。何処までだって行けそうだったあの頃。皆の期待を背負って、私はそれを翼に変えて羽ばたいた。
走り続ける。私は諦めない。諦めたって、もう一度。貴方のために、貴方がいたことを証明するために、ただ。今の私の新しい目標は。
貴方のことを忘れないために、走ることだけだ。
声援が強く聞こえる。もうすぐ最終直線だ。ここから、ここから。そう思う私の頬を、涙が横切った。それが己のものとわかるまで、戸惑ってしまう。少しペースを崩す。その隙に、狙うべきトップと差を開けられてしまった。
でもまだ、もう、諦めない。そうして再びスパートをかける。でも、差は縮まらない。もう駄目か。そう思った時だった。
「マックイーン! 走れ!」
トレーナーさんのこえが、きこえた。
幻聴かもしれない。現実逃避のしすぎで病んでしまったのかもしれない。そんな考えを振り払う。今わかるのは、たとえそれが幻だとしても。私の隣にまた彼がいる。そのことだけ。
差を詰める。詰める。最強をかけて、走る。そして、結果は──。
「2着か。惜しかったですね。よく頑張りました」
「……最後にギリギリまで伸びたのは。あれは私の力ではなくて、私は……」
そう、新任のトレーナーに言葉を繋ごうとした。彼は急に任された私のトレーナーを、よくやってくれた。この有馬記念の結果が彼にとって満足いくものであれば良いな、と思う。
「ところでマックイーンさん。ご紹介したい人が」
そう、彼が切り出して。何も、私は身構えていなくて。その人影を見た途端。私の視界は眩く滲み、顔も判別できないその人に。
思いっきり、抱きついた。
「……ごめん、マックイーン」
「あの"手紙"と同じことを繰り返すのですね。さて、何から聞きましょうか?」
「とりあえず、彼にお礼を。彼はね、俺のことをトレーナーの連絡網を使って……」
「それはそれは。私が歩き回った甲斐もないというものですわね」
「あと……マックイーン。離してくれないかな」
「……嫌です。このまま話します。私の耳なら貴方の口元にあるでしょう?」
「ううん……それと……2着おめでとう。立派な結果だ」
「私は1着が欲しいですわ。どんな舞台でも」
「……さすが、マックイーンだな。変わらない」
「……発言の意図が汲み取れていないのではなくて?」
「? ……ってちょっとマックイーン……!? うんっ……!」
「……ふぅ。これで、貴方の1着。ファースト。頂きましたわ」
どこまでも広がっていく始まりを。一緒にいこう。