私に思いつくことというのは当然あなたにも思いつくことであって、つまり私たちが発想できる範囲というのは皆大して変わらないのだ。ならばどうやって策士は意表を突くのか? そこには必ず油断と錯覚が必要になる。即ちあなたの視野を狭めたり、歪めたり。正しくこちらを見ているうちは、どんな作戦も意味を成さない。だから、手作りのチョコレートというのも。やはりそういう関係性ではない私が意表を突くための一つの策であり、逆説的に私とあなたの間にそういった関係は存在しないことになるのだ。
けれど、それでよかった。それでいいと思っていた。それ以上なんて思いもしなかった。思えばそれは私が私に張った予防線であり、策士が策に溺れないための一つの手段だった。理解しようとしないことで、理解できないものから逃げようとしていた。手を伸ばせば届くふりをしていた。
あなたの心は、もう。
URAファイナルズ。大きなレースに向けて、私とトレーナーさんは残り少ない時間を共に過ごしていた。残り少ない。あなたは自然とその事実を述べた。私もいつものようにのらりくらりと返事をしたはずだ。本当はなんと言ったかさえ覚えていないけれど。
「よし、スカイ。いいタイムだ。これなら胸を張って送り出せるよ」
「ありがと〜トレーナーさん。……あの。……ううん、なんでもない」
トレーナーさんは、私を送り出す。それはつまり、あなたと私の契約は終わるということ。新人トレーナーである自分には手が余ると判断したのだろうか。それとも彼の活躍が評価されて、より上のランクのチームを担当することになったのだろうか。どちらにせよ、私はお払い箱なのだ。体のいい厄介払いを、私はどうして受け入れたのだろう。私の心はどうして受け入れていないのだろう。スタンスを決めてロールを演じる。そんな風に過ごしてきたのに、そのスタンスが最後になって定まらない。いや、正確には定めようとしていない。まるで揺れ動く心を殺してしまうのを恐れるかのように、最近の私はぎこちなかった。
心当たりがないわけではない。最近の異変について、トレーナーさんは多くを語らないけれど。トレーナーさんが同期の桐生院さんと近頃よく会っているのを見かけている。……今までは先に帰っていたから、気づかなかっただけかもしれない。私がトレーナーさんのことをこんな風に考えるようになったのは、本当に今更のことだから。有マ記念を走り切って、あなたから契約の終わりの話を持ち出された時だったから。
わからなかった。自分がわからなかった。今になって目の前にいた人が離れようとしているのを知り、都合の良い独占欲を浮き上がらせているだけではないのか。そんな悍ましい自分に嫌気がさし、直後に自分は元から高尚な存在ではなかったということを思い出す。側からみれば私の存在は、身の回りに降って湧いた新たな関係性を無造作に警戒する野良猫のようだ。それはたとえば人間からは関係ないもので、同じようにトレーナーさんは私の感情を慮る必要はない。
私に思いつかなくてあなたに思いつくことがあるとすれば、それはきっと個人的な情感の差。あなたが深く感じ入るものに、私はピンと来ることができない。そうであったら悲しいけれど、そうならば仕方ないはずなのだ。だから、つまり。
あなたが素敵な人と恋に落ちたとして、私はそれに驚き、祝福する。そうでなくてはならない。
結局のところ、私はなぜトレーナーさんがもうすぐ契約を終えて消えてしまうのかだとか、なぜトレーナーさんと桐生院さんが会っていたのかだとかについて、全くわからないし聞こうともしないまま決勝まで進んだ。明日がその日で、それを終えればあなたとの関係は終わり。その先が気になるのに、なぜか聞き出せなかった。最後の日も一人、何事もないかのように昼寝をして過ごす。
目を覚ますたびに、一時間時が進んでいた。何度も目覚めてしまうのは、あなたのことを考えていたから。けど、何事もないのだ。きっとそれはありきたりな理由で、あるいは彼にとっていいことで。そこに言えない理由があるのだとしても、それは喜ばしいことに違いない。
だって、私の信頼するトレーナーさんが。幸せでいられないなんて、あり得ないのだから。
「あなたは、セイウンスカイさん……?」
ピクリと耳が動く。聞き馴染みのない声で自分の名を呼ばれた。誰だろうと振り返り、軽い驚きと納得をする。桐生院さんだった。
「こんにちは、いつもトレーナーさんがお世話になっております」
「いえ! お世話なんて、こちらこそ大変お世話に」
彼女の顔が紅くなる。ははあ、わかりやすい。
「おやおや〜、もしかしてトレーナーさんにときめいたりしちゃってますか〜?」
「……! いや、その……!」
「ご安心ください、セイちゃんは口が固いですから」
図星のようだ。……大したショックを受けることもなかった自分に、何故か安心する。
「いえ、ほんとに。あなたのトレーナーさんは、あなたを大事に思ってますから。だから、色々相談も受けました」
私を大事に思っているからなんだというのだろう。惚気を聞かされているようで、少し苛々する。けれど。
「手術。成功するといいですね」
その言葉に、耳を疑った。
「……大変難しい手術だと聞きました。もうトレーナーは引退するつもりだとも言っていました。……でも、私も信じています。あなたのことを話す時が、一番楽しそうだったんです。だから、あなたたちは二人三脚で」
「……どうしてよ」
声が震える。心が弾ける。この場にいないあなたに問う。
「……どうして言わなかったの、トレーナーさん……!」
「……! すみません、まさか……」
「いや、いいんですよ。桐生院さんは悪くありません。トレーナーさんも悪くありません。私のことを思って言わなかったのはわかります、だから」
「よく、ないです」
今度は、桐生院さんの声が震える。
「セイウンスカイさん。私、あなたのトレーナーから教わりました。トレーナーとは、担当ウマ娘と全てを話しあい、分け合うのだと。それなのに、そう言った当人が大事なことを言わないのは、違います。
きっと、大切に思うからこそ言えないこともあります。私たちがそうでした。……でも。
真に信頼し合うなら、きっと言うべきです!」
強く、鋼のように。その言葉には重みがあった。
「……ありがとう、ございます」
思考は止まり、また激しく流れる。自分の考えていることはまだわからないけれど、やるべきことはようやくわかった。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
激励を背に。あなたの家へとひた走る。
「……私の、負けかな」
そう、後ろで最後に小さく呟く声は。向い風の音でかき消された。
「トレーナーさん。今から本気でしか喋らないよ。開けて」
「……どうした、スカイ」
「開けて」
急速に自分の心が解き明かされていくようだった。それは春の雪解けで、夏の陽炎で、秋の落葉で、冬の極光で。あっという間に生まれ落ち、あっという間に消えてゆく。だから、今まで怖かったのかもしれない。
がちゃり。扉が開いて、あなたは姿を現す。途切れさせない。途切れさせてたまるか。ドアノブを掴む彼の手を取って、強く強く握りしめる。
「……ありがとう」
そう言うと、彼は全てを察したようで。
「バレちゃったか」
「私のトレーナーさんは、あなただから。全部お見通し。人は誰かに思いつく以上のことはできないんだよ、トレーナーさん。……なんて、桐生院さんから聞いちゃった。責めないであげてよ、素敵な人なんだから」
「……ありがとう」
それはこちらのセリフだったのに。
何故、私はあなたのことしか考えられなくなっているのだろう。そんな問いに自分で答えを返す。
「トレーナーさん、あなたのことが」
ようやくだ。
「好きです」
ようやく、私の気持ちは私にわかる。
「ずっと、不安だった。あなたがどこかへ行くのが怖かった。あなたが誰かと仲良くするのが嫌だった。あなたの一番になりたかった。それは子供みたいな癇癪かとも思ったけれど、違う。
本当に苛ついてたのは、一歩を踏み出せない私に対して。今までの関係から先に進めるのかが怖くて、それでいて気持ちだけがうわずって」
「いいのか、俺は」
先がわからない。その言葉を聞く前に、涙と共に気持ちが溢れ出す。
「いいに決まってる。あなたじゃなきゃ嫌。あなたと離れるのが嫌なのは、あなたが好きだから。あなたと誰かが仲良くして欲しくなかったのは、あなたが好きだから。私の気持ちは、やっと説明できる。わかったの。あなたのことを想うから、私もこの心を暴き立てれなかった。でも私の信頼の証として、あなたに私の気持ちを見てほしい。受け取らなくて、いいから」
泣いた。涙はどこまでも流れるようで、心はどこまでも澄み渡るようで。
「……スカイ」
「……どうです、トレーナーさん。これが、私の"本気"です」
握った手を離す。伝わらなくても、いい。信頼する人に全てを打ち明けるのは、当然のことだから。私たちの関係に策はもう要らない。その結果よりも、そこに濁りがないという過程が大事なのだ。
「……じゃあ」
これで、十分だ。踵を返し、去ろうとした。
「待ってくれ」
私の歩みは、後ろから抱きしめられる形で止まった。
「トレーナーさん、さっきの聞いてた? 本気で勘違いしちゃいますよ?」
「勘違いなんかじゃない。俺もやっと、わかった。君を大事に想うのに、君に何も伝えなかった矛盾の正体に。
……俺は、君のことを。担当ウマ娘として以上に見ているんだろう」
それは、まるで。
「大事な担当ウマ娘のためだと言い聞かせて言葉を閉じ込めた。けれどそれは、君に拒絶されるのが怖かったから。君に、恋していたから。だから離れるのが怖くて、その真実を言えなかった」
それは、愛を語るに等しく。
「トレーナーさん、ウマ娘を力で止めようなんて無茶ですよ。今私がなんで足を止めてるか、分かってます?」
ぐるり。首を振る間も与えず、あなたの身体に寄りかかり、背に手を伸ばす。強く強く、もう離さない。
「トレーナーさん、待ってますから。二人でデート、色んなところに行きましょうね」
きっとあなたは帰ってくると。信頼する二人の絆が、それを担保する。
「まだ、心臓が心配だって言ってますね。……止まるまで、離しませんから」
そうして、あなたを見つめて。あなたの目に映るものは、涙で顔をぐしゃぐしゃにしていたけれど。
紛れもない晴天。きっと、明日からもずっと。