雨が降っている。暑い。眠れない。そんな時は私にとっての大ピンチ。夜中だからみんな寝静まっていて、当然トレーナーさんも寝静まっている。なのになんとなく電話をかけているのは、まあちょっとした悪戯だ。寝ぼけ眼のトレーナーさんに、天使の声を聞かせてあげよう。なんて。
「……おー、おはよーう」
……様子がおかしい。声が少し高いような気がする。何より調子が変な感じがする。……もしや。
「……酔ってます? トレーナーさん」
「……あー、少しな」
当たりだ。トレーナーさんはどうやらひどく酔っ払っている。何かむしゃくしゃすることでもあったのだろうか? まあ聞いてみればいいか。
「なんでこんなに酔っぱらっちゃってるんですか、トレーナーさん。悩み事があるならセイちゃん聞いてあげますよ?」
「そうかー。いやー大したことではないんだが、なんだかなあ」
電話口の相手は知っている声だけど、知らない人のようだった。ひょっとして私が電話していることにすら気づいていないんじゃないだろうか。
「なー、キミは恋愛したことあるかい」
いよいよ口調が怪しくなってきた。それにしても、恋愛。恋愛かあ。
例えばの話。私が誰かのことを好きになる、つまり恋愛感情を持ったとして、その対象がトレーナーさんであることは常識的にありえない。トレーナーさんは私のことを見守る大人であり、そんな存在に邪な感情を持つのはいわば信頼関係を壊す行為である。倫理的に問題のある行為である。だから、それはありえない。
だからまあ、私はトレーナーさんのことを好きではない。けれど他に仲の良い男の人はじいちゃんくらいで。フラワーは……かわいいお友達だしなあ。私が男だったらほっておかないかもしれないけれど。それはそれ、これはこれ。
「うーん。なかなか縁がありませんねえ、おかげさまで」
そう返す。トレーナーさんがいるうちは、私はまだまだ幼年期。信頼する大人のそばで、蝶よ花よと愛でられて。真実の愛とやらはまだ触れる権利すら与えられていないのだ。そういう暗黙のルールだし、私もそれに従っている。
「そうかあ、スカイはいいお嫁さんになるぞお」
苦笑する。それは親か何かの台詞だろうに。寝ぼけているのか酔っ払っているのか、その両方か。トレーナーさんは未だよくわからない距離感だった。
「トレーナーさんは、そういう人。いないんですか?」
聞いてみる。単なる好奇心で、たとえば教師の交友関係を生徒が探るが如し。
「俺かあ。俺はなあ、今で十分幸せだよお」
なんだか泣きが入っているように聞こえた。そんなつもりはなかったのだが、トレーナーさんは何かに感動しているらしい。
「世界一のウマ娘に出会えたからな。それ以外は要らないよ」
ちょっと真面目そうな口ぶりで、そんな馬鹿げた台詞を吐いてくる。なんだか今日のトレーナーさんはじいちゃんみたいだ。
「へーえ、どの辺が世界一なんですか?」
「そうだな、まず頭がいい。一見不真面目そうでいて、その実いつでもひたむきだ。真剣勝負との折り合いの付け方が上手いんだ。あいつなら、俺がいなくてもやっていけるだろうな」
少し沈黙してしまう。褒められているのに、そんなこと言わないで欲しかったと思ってしまう。最後が、引っかかる。雨はまだ降っていて、湿気た空気は熱を閉じ込めていた。
「トレーナーさん、何度も助けてくれたのに。そんなこと言わないでくださいよ」
「あいつは俺の憧れだ。まあトレーナーってのは、みんなウマ娘の輝きに魅せられた存在ではあるけどな。俺たちはトレーナーであるために、トレーナーだから。彼女たちの1番のファンであり続けるんだ」
熱に浮かされたようなその声は、初めて聞くあなたの憧れの話。
「俺にとってのそれはセイウンスカイ。だから俺は彼女のそばにいたい。けれどこれは俺のわがままで、スターってのは一人でも輝けるからスターなんだろうが」
「……」
とても嬉しそうに語るあなたが、ひどく寂しい。何も言えない。聞こえていようがいまいが、その言葉は誰の答えを求めるものでもなかっただろうから。
私たちウマ娘は、走るために生まれてきた。勝つために生まれてきた。そしてそれは当然のように、ウマ娘でない者たちの憧れになる。けれどその憧れは身体的種族的差から決して届かない溝に阻まれ、憧れは憧れのまま終わる。
「でももしずっといてくれって頼まれたら、いてしまうんだろうなあ。枷にしかならないものに信頼を寄せられていること。少し罪悪感がないわけじゃないよ」
そんなことを思っていたのだろうか。ずっと焦がれて焼かれそうな痛みを背負っていたのだろうか。酒の席の冗談だと言ってくれないだろうか。そんなふうに考えた後に自分を恥じる。吐き出したい苦しみが誰にでもあって然るべきだ。それを封じ込めたいなどと望んではいけない。今の私は、図らずも彼を癒してあげられているのだから。
「……トレーナーさん」
私が抱いていた感覚。あなたと私はトレーナーと担当ウマ娘の関係。だから私はあなたを信頼する。その図式は少し違っていた。私はあなたの憧れとして、ずっとあなたを引っ張ってきた。それに応える形で、あなたは私に道を示す。示された道を私は走り、あなたはそれを特等席で見届ける。互いに互いを想っていて、互いに互いを浮かび上がらせる。だから。
「私は、トレーナーさんじゃなきゃいやです」
私は、あなたと一緒がいい。
「トレーナーさんだから、ここまで来れました。……今だから、こっそり本音を言います。これでおあいこです。……あなたはすぐに忘れてしまうだろうけど。
……私、もしかしたら。
トレーナーさんが好きなのかも」
そんなことはありえない。私を見守る大人に対して、そんな感情を持つことはあってはならない。そう考えていたから、そう考えなかったけど。
「なんかこう、なんですかねえ。そんなすごい意味じゃなくて、純粋に。ほんとはまだわからないのかもしれません。私はなんやかんやで子供ですから」
恋には満たない。愛には足りない。でも、あなたのことが好きだから。きっとその感情は名付けられなくて、名付ける意味のないものだ。
「トレーナーさんは大人だけど弱いところもあって、私はそれを当たり前と思いたい。あなたの全てが知りたい……というとやっぱり大袈裟かもしれません。でも、だいたいそういうことかな」
名付けられない感情なら、余すところなく語り尽くせばいい。
「……今だけの、秘密ですよ? ……だから、自分に代わりがいると思っても、それを否定できなくても。私のそばにいてくださいな、トレーナーさん」
「……ありがとう」
もしかすると、喋っているうちにトレーナーさんの酔いが覚めてしまったかもしれない。雰囲気に酔っているのは私の方かもしれない。けれど、この気持ちは嘘じゃない。誇張でもない。今初めて気付いた本当の気持ち。胸に初めて秘めたもの。
「いいなあ、トレーナーって仕事は」
唐突に、あなたが口を開く。
「こんなに近くに、夢と希望を見ていられるんだから」
夢と希望。それを叶えるのがウマ娘で、それを支えるのがトレーナーだ。私たちは二人三脚、決して脚は欠けてはならない。
「それはどうも。でも、少しだけ違います。もう一度、言いますね?」
心が弾むような感覚。大人と子供の関係は終わり、幼年期のその先へ至る。
「私は、あなたが。あなたのことが好きなんです。そこにもう、立場やらなんやらは関係ありませんったら」
顔が熱くなる。勢い任せで言ってしまったが、とてつもなく恥ずかしいことを口走っているのかも。でも、本心とはそういうものだ。お互いに本心を曝け出す、駆け引きのない場所。そうでなくてはこんなこと言えない。本心というものは信じてるとか、触れたいとか、そばにいたいとか。色んな感情がごちゃ混ぜになって、複雑怪奇な形を取る。優雅で可憐でも、歪で不器用でも。その本質は変わらない。取り出すのは難しくて、取り出してしまえばしまうのも難しい。
「……」
「……おーい、聞こえてますかー? 聞こえてないなら、それはそれで好都合だけど……」
「そういうことなら。俺もスカイが好きだよ。ずっとずっと、デビュー前からの一目惚れだ」
「……もう」
恋や愛には届かない感情。けれど、恋や愛では語り尽くせない感情。その架け橋が二人の間に繋がっている。互いの方から近づいていけば、きっとすぐに手を繋げるだろう。今日がその日だ。
雨はいつの間にか止んでいて、黒い青空が星を包んでいた。
「おはようございます、トレーナーさん。……おやおや、頭を押さえてどうしたんですか」
「昨日は飲みすぎたみたいでな……記憶すら曖昧だ。……おっとこれは秘密だ。誰にも言わないでくれ」
「昼寝一回で手を打ちましょう」
「……仕方ないな」
朝、いつものようにトレーナーさんと挨拶を交わす。あなたは案の定何も覚えてないみたいで、本気で頭が痛そうなその姿を問い詰める気にもならなかった。やれやれ、当分は私の方から近づいていくしかなさそうだ。
「……じゃあほら、はい」
「……どういうことだ」
「一緒に寝ましょう? 寝れてなさそうですし」
自分から誘いに乗っていくなんて、ガラじゃないのだけど。
「……ありがとう」
あなたの弱さも知ったから、仕方ない。今日は私がリードする番だ。
「……スカイはいいお嫁さんになるなあ」
まだ酔っ払っているのだろうか。そう思って顔を覗くと、既に寝言に入っていたようだ。目をつぶって、少し口が空いていて。だから私が悪戯をしたくなるのも自然の摂理のようなものだ。
「……んっ……はあ。初めてってやつですねえ……。責任とってもらわなきゃなあ、トレーナーさん?」
これはご褒美。あなたへの、あるいは私への。