ざざーん、ざざん。夜の海は静かだ。聞こえてくるのは波の音だけ。耀くのは白い月だけ。鏤められた星と照り返す海面の光はその他大勢のようなもので、まったくもって煩くない。私と同じだ。文句も言わず、すーっと朝には消えてゆく。私たちの朝は、もう少しで訪れる。
つまらない。わからない。宝塚記念を終えて、私の中に浮かんだ二つの言の葉。何もかもがつまらなく見えて、何もかもの行方がわからない。わからないことはつまらないし、つまらないこともまたわからない。だから私は考え抜いて策を弄し全てを理解の範疇に置こうとするのであって、その策が届かない域まで来た時点で、もう。
「はぁ、なんだかな」
虚空に苛立ちを吐き出す。私が苛立つ相手がいるとしたら、誰だろう。少し考えようとして、やめた。無意味な犯人探しは思考を名乗るに値しない。セイウンスカイというウマ娘が得意とするのは依然としてその思考のみであって、それを無為にすることは許されていないはずだ。まだ私が勝ちたいと願っているなら、の話だが。
月が真上に来ても、一向に眠気は来ない。私にしては珍しいのかもしれない。あるいは私はもう別人になってしまっているのかもしれない。見た目が同じだけの空っぽの器。それが周りの人たちを惑わせている。例えばトレーナーさん。今日も変わらず私のための合宿特製トレーニングを考えてくれていた。
「……私にやる気なんて、残ってないのにね」
無駄なのに。私の気持ちはどこにあるのか、もうわからない。わからないからつまらない。つまらないことをやる意味なんて、ない。私がいつものように"フリ"をしているだけだと思っているのだろうか。仮定を積み重ね、どこかへ消えた本気の私をまだ幻視しているのだろうか。
もしも、もしも。私がまだ私だとしたら。みんな幸せなのだろうか。そうだとしたら、今の私は存在するだけで皆を不幸にしている。
がさごそ。思考が暗がりへと向かっていた時、不意に一匹の猫が現れた。野良猫だろうか。此方に寄って来るその子を撫でてやる。この子は皆に愛されているのだろうか。野良猫は得てして人里の邪魔をしかねないものだ。当人はのんびりと暮らしているだけで、あまり気にしていないだろうが。
「……っと、それは私も同じ、だったんだけどな」
マイペースに、揺るがず進む。私はそうしてきたから、そうするのが私だ。今、誰かの顔色を窺っている私とは違う。私は結局、トレーナーさんにいい顔がしたくてこの状況に陥った。ギリギリまで失望されないように、いつも通りのフリをする。もう走れなくなった私にできるのは、走る前の準備運動を勿体つけてやることだけなのだ。
もしも、もしも。また頭にもしもが浮かぶ。何かが違えば、この結末は来なかったのだろうか。どこかで違えば、何かが変わったのだろうか。それこそわからないことだったけど、不思議とつまらなくはなかった。今私に唯一考えられることだった。
何もかもが、もしも。もしも、違うなら。全ての事象を選択肢として頭に浮かべ、その矢印を切り替える。かち、かち、かちり。片手で猫の喉を掻きながら、もう片方で宙に図を書いていく。
もしも、もしも。私がまだ、いつもの私だったら。そのシミュレートを始めようとしたところで。
「にゃあ」
と、鳴き声がして。視界は歪み、感覚は宙吊りになった。
「おはよう、スカイ」
「おはよう、トレーナーさん。今日も暑いですけど、頑張りましょっか!」
私の名前はセイウンスカイ。クラシックで波に乗ったまま、シニア級でも最強世代の先陣を切っている。だからやる気に満ち溢れているし、私は文字通り追われる立場だ。油断もできない。
「今度の秋天も、きっとスカイが一番人気だな」
「やめてくださいよトレーナーさん、私は人気薄の時に掻っ攫う方が得意なんですから」
そう、それがいつもの私だ。考え尽くした策には確かな自信を持っている。怠惰の裏に活力の牙を研ぎ澄ませている。何も問題はない。これが正解のはずだ。
「よぉし、そこまで。あんまり脚に負担をかけすぎないようにな」
「心配しなくても、無理なんてしませんよ。ちょーっと、頑張っちゃうだけですったら」
爽やかな受け答え。私たちに相応しいのはこれだ。
「……はあ、お前のことはよくわからないな、スカイ」
そういえば、昔のトレーナーさんはしきりにそんなことを言っていたな。最近は言われていない。それを思い出した。
「なんですか? セイちゃんはいつでもわかりやすいお誘いをしてるじゃないですか、昼寝とか」
「いつかはわかると思ったんだけどな」
「……? トレーナー、さん?」
「君には底知れない強さがある。だけど俺は、君の弱さも知れたらいいと思っていた。でもそんなもの、なかったのかもな。サボりはただのサボりで、悪戯はただの悪戯」
「……やだなあ」
強い私はそれでも飄々としている。誰の指図も受けないし、誰にも依らない存在であるはずだ。
「というわけで、お別れだ」
だから。
「さよなら、スカイ」
そう言って、あなたの姿が消えても。
「……あらら」
それ以上は、なにも言わない。
心に襲う感情が、後悔であることにすら気づかず。強さと愚かさを履き違えた道化は、誰も見てくれない手品を続ける。
視界は再び歪み、星空が戻って来る。けれど砂浜は不可思議な感覚のままで、今見たものがなんなのか答えはまだ出せない。でも、わかることは。
これは、求めたものではない。"いつもの私"だけが私に存在していたら、誰もがその手の内の少なさに飽き果ててしまう。トレーナーさんが、いなくなってしまう。
そこまで考えて、一つの道筋を見つける。或いは私はもっと貧弱であればいい。どうしようもないくらい、あなたがいなければだめな存在になればいい。また矢印を次々に切り替えて、レールを敷く。
「にゃあ」
猫の鳴き声と共に、再び。私の意識は世界を超えた。
「……おはよう、スカイ」
「……おはよう、トレーナーさん。いつも悪いですね」
私の名前はセイウンスカイ。クラシックで取り返しのつかない故障をしたあと、私は病院での療養を続けている。シニア級に行ったみんなのことが羨ましい時もあるけれど、仕方ない。
「……走りたいと、思うことはないか」
「……私は、弱いですから」
どうせ、無意味だっただろう。引退までに積み上げられる功績は大したものではなく、私はこれっぽっちも勝てずに終わる。それならば、その前にこうなっても大した差ではない。だからこれでいい。
「俺は、お前のそばにいるよ。お前が復帰できるまで、ずっと」
先程とは違う。あなたはもうずっと、私のそばにいてくれるらしい。
「……嬉しいです」
私も強がらずに、本心だけを述べる。嬉しい。幸せでなくても、嬉しい。
「……まだ、スカイは走れるさ」
「……いいんです」
嬉しい。そのはずなのに。
「そんなことない」
「……いいんですったら!」
私のどこかが逆撫でされて、何故か私はあなたに攻撃する。
「私は、もう嫌なんです。走って負けるのが、怖いんです。復帰したって勝てるわけありません。それでも勝ちたいと願うなら、それはトレーナーさんのエゴです」
酷い言葉を次から次へと撃ち出す。弱音の形をしたナイフが、避ける気のないトレーナーさんの心臓を抉り取る。
「私は! トレーナーさんがいなかったら走ることもなかった! 勝利の幻想なんて持たなかったし、届かない夢を見ることもなかった!」
「……そうだな」
それは確かに正しい。
「あなたがいなければ」
あなたがいなければ。
「私は、こんな目に遭わずに済んだ」
私は、どんな夢にも逢えなかった。
……わかった。これも違う。漸くわかった。なにが正しいか。間もなく全てが消えて、全てが現れる。
「にゃあ」
また、猫が鳴いた。
全ての景色が現実へと戻る。星空が、砂浜が。海が、私が。ざらついた感覚はまさしく潮風のそれだ。
私は夢を見ていたのだろうか。あれは可能性の話で、夢というには私に近かったかも知れない。けれどわかること。正しい道筋は思ったより近くにある。全ての矢印を元通りに直し、私は立ち上がる。行先は一つだ。
既に空は明け始め、小鳥が囀る。
「おはようございます、トレーナーさん」
「……おお、おはよう、スカイ」
「トレーナーさんは、私のこと。どう思ってますか?」
「……何かあったのか」
何となく察するあたり、やはりトレーナーさんは私のことをよくわかっている。私は強さと弱さをどちらも知られている。全てを握られている。だから、だからだ。
「私は面倒な女なので、欲張りです。トレーナーさんを振り回したいけど、振り回されたい。一進一退、ずっと変わらない距離感でありたい。……なんてね」
遠すぎて、離れてしまうのも。近すぎて、汚してしまうのも。どちらも嫌だ。
「……いつも振り回されてばかりな気がするが」
「ご冗談を」
「実は突拍子もないことをして、スカイの本心を暴き出そうと思ってたところではあるな」
「ほら、やっぱり」
そうだ。手を伸ばせば繋げる程度の距離。手を伸ばさなければずっと隣に浮かぶ程度の距離。地球と月、その程度の距離。どちらがどちらかはわからないけど。
たとえば気持ちは色々なものが重なっていて、それを言葉にするまではどういった感情かはわからない。私が思ういつも通りの皮を被った私も、私の中にある弱く毒々しい私も。常に重なっていて、どちらも私だ。その感情同士に矛盾があろうが構わない。あの猫が見せてくれた二つの可能性は、どちらかだけでは私が成立しないことをよく示してくれている。
「にゃあ」
「おっと、どうしたんだその猫。新しい友達か?」
「……えへへ、そうですね。どっちかといえば恩人……いや恩猫……?」
「なんだそりゃ」
「秘密です、秘密」
夏の夜に見た世界が二つ。それが重なり合って、本当の私がある。だからあれはどちらも正しい。それぞれ50%くらいずつ正しい。合わせて100%、文句なし。
「さて、トレーナーさん」
手を差し出す。手を繋げば、私たちも重なり合えるから。
重なれば、それは決して混ざらない事象でも。一つになるのだから。