────ジリリリリリリリリ。
クロックワーク・カウントスタート。
────きゅるるるららららら。
奇怪に鳴るマクガフィン。
────かちっ。
あなたのためのオーバーカウント。
少女と少女。その話。
あつい。熱い……暑い。身体が燃え上がっているような感覚。身体が湿り切っているような錯覚。
「うーん……」
矛盾した二つに挟まれ、すり潰されるような幻覚でわたしは目を覚ました。
「ああ、目を覚ましたのかい」
「おはよう、◼️◼️ちゃん」
「……おはよー……、おじーちゃん、おばーちゃん……」
そうだ、わたしは確か……夏休みの最中。おじいちゃんとおばあちゃんの家にひとり旅に来て、泊まっている。いつまでもいれるわけじゃない。夏休みの終わりまで、わたしはこの田舎に軽い引っ越しをしているのだ。
「今日は……えーっと」
何日だっけ。少しギラギラした陽の光だけに照らされた部屋を見渡し、一寸の後真新しい日めくりカレンダーを見つける。目を凝らすとそこには日付が。そうそう、そうだった。簡単なことなのだ。昨日が8月の31日なのだから。
今日は、8月32日。そうに決まっているじゃないか。
顔に水を叩きつけ、眠気を覚ます。早く遊びに出かけよう。お気に入りのワンピースに身を包み、とっときのポーチを肩から提げる。今日もきっと、幼馴染のあの子が待っている。
「いつかちゅーできたら……なんて」
えへへ。目の前でそんなこと、口には絶対できないけど。夏休みに会った、気になる男の子。当然夏休みが終わったらさよならだ。
でも、まだ大丈夫。まだ時間はある。
まだ、夏休みは終わらない。
走る、駆ける。わたしは走るのが好きだ。自分の脚で何かを進めている感覚。とっても未来に近い感じがする。
「気をつけるんだよ〜」
「うん、いってきまーす!」
突き抜ける青さの空。青々とした草むら。車も滅多に通らない砂利道。しゃわしゃわと鳴くセミの声を風切って、私は走る。
どれをとっても最高な日が、今日も始まる。
痛い。苦しい。なら、走れない。でも、走りたい。
ボクは◼️◼️が大好きなのだから。
少し行ったところにある公園と、その中心の大きな樹。それがわたしと◼️◼️のいつもの遊び場で、わたしはこの待ち合わせに密かにデートを重ねている。
いた、いた。いつも光り輝くような笑顔。彼がいた。
「おはよう!」
「おはよー! 待たせちゃったかな……ごめんね」
あなたに会えて、心のときめきが少し膨らむ。
「ああ、それなら心配なかったよ。他の人と一緒に遊んでたんだ。……そうだ、三人一緒に遊ぼう」
……なんだって?
わたしとあなたの二人きりのじかんは? むっとして、もう一人の人影を探す。……いや、探すまでもなかった。人間とは違う耳。尻尾。そして瑞々しい顔立ち。あまりにも、目立つ。
「……こんにちは! ボクの名前はトウカイテイオー! 今までこの子と一緒に遊んでたんだー!
よろしくね!」
わたしにとって初めての、恋敵が現れた瞬間だった。
「それでねー、ボクは……」
「へえ、さすが……」
むー。先程から一緒に遊んではいるものの、三人というのは一人があぶれるようにできている。それはわたしのことで、お似合いの男の子と女の子が仲良く語らっているのをじっと睨むことしかできない。
わたしの◼️◼️なのに。
「◼️◼️はさー、はちみつすき?」
「うん、好きだな」
言葉尻を聞いてドキッとしてしまう。すき。すき。このままじゃ、このままじゃ。……我慢、できない。
「……ねえ、テイオー」
「……どうしたの、◼️◼️」
「……勝負して。わたしが勝ったら、二度とわたしたちの前に現れないで」
その提案は、苛烈なものだったと思う。けれど。
「……うん、いいよ」
「……よし、じゃあ俺が審判をやろう」
反対する者はいなかった。だからそうなる。もちろん負けるつもりはない。もう、気づいているから。
「……ほんとにかけっこでボクに勝つつもり?」
「かけっこじゃないよ、マラソン。ずーっと、あそこからあそこまでぐるりと回ってここに戻ってくるの」
「ウマ娘相手に脚勝負とは、さすが◼️◼️だな!」
「……えへへ。そうでしょ」
褒められた。わたしは勇敢ということかもしれない。嬉しい。無謀に見えるこの勝負にも、勝ち目はある。
「じゃあ、言った通りルール無用だから。それだけよろしく」
「……ボクは負けないよ。負けられない理由があるからね」
彼女も真剣だ。やはり彼女は◼️◼️を奪ってしまうのか。負けられない。
「位置について」
「よーい、ドン!」
彼の掛け声とともに、二人で並んで駆け出した。
走る、疾る。普通に走っている限り、あっという間に差は開いていくだろう。しかしそうではない。そうならない。その確信がある。
「……やっぱり、脚が悪いみたいだね」
「……よく気づいたね」
ずっとあった違和感の正体。彼女の重心は脚を守るような姿勢だった。無論歩けるくらいではあるのだろうが、全力疾走は不可能。それに持久走ならば、さらにその歪みは大きくなるだろう。
「だから、この場所で出来るだけ長い遠回りのコースにした。絶対に、負けたくないから」
「……◼️◼️が好きだから?」
「……!」
「悪いけど、ボクも負けられないんだ。好きな人のために」
「……! それって……!」
十中八九、彼のことじゃないか。それなら尚更負けられない。この勝負は、恋の勝負。想いの強い方が、勝つ!
「……はあ、はぁっ……」
「……はーっ、まだ、ボクが……」
決めたコースは思ったよりもずっと長く、7割を過ぎたあたりで二人ともバテてしまっていた。彼女には脚のハンデがあるはずなのに、食らいつかれている。これがウマ娘と人間の基礎スペックの差か。いや、それなら五分五分。あとは気持ちの問題だ。
「……負けないよ、ボクは」
「……テイオー」
「ここでは止まれない。まだ、先がある。だから……!」
何故か彼女の言葉を聞いて、猛烈な反感が芽生える。
「……だめだ、だめなんだよ。諦めて、なんで諦めないの」
だって、だって。
トウカイテイオーは、三冠ウマ娘の夢を断たれたばかりじゃないか────。
え?
自分の中に沸きたった思考に戸惑う。
あれ?
何故わたしは走っているのだっけ。
たしか、たしか。
コイガタキ、ダッタヨウナ──────?
その瞬間。遠くで見守る◼️◼️の姿が弾け、世界がモノクロのモザイクで包まれた。
──諦めない。
──ボクは夢を諦めない。
──諦めて。
──私に幻滅してもいい、だから諦めて。
「ねえ、◼️◼️」
最後の言葉がモザイクに包まれていたことに、今になって漸く気がつく。
「……トレーナー」
モザイクが剥がれる。
そう、私はずっとそう呼ばれていた。おじいちゃんおばあちゃんの影も、幼馴染の姿も。みんな、私をトレーナーと呼んでいた。この空間における呼称には、およそ似つかわしくないというのに。
「……ここは多分、私への罰なんだよ。テイオー」
恐らく。なんの法則も持たないであろう空間で推理するのは無駄かもしれない。でも8月32日に居たあれらの人々は、私自身が記憶から作り出した影法師。それは間違いない。だからあれらは、すべて私だ。私は私だけの空間で、永遠に夏を過ごしていた。唯一の例外一人を除いて。
「……テイオーにさ、菊花賞。走らない方が良いって言っちゃったじゃん」
「……そうだね」
「怪我した脚で走るなんてあり得ないし、よしんば治ったとしても病み上がりで勝てるわけないって。そう言っちゃったじゃん」
「……うん」
「……でさあ、そんなこと言った後に後悔しちゃった。あなたと喧嘩して、菊花賞なんてずっと来なきゃいいって願っちゃった。とんでもない大悪党だよ」
トウカイテイオーはきっとまだ走りたいのに。それを絶った。あまつさえそれを永遠にしようとした。治った先のことすら願わなかった。一瞬さえそう思ったのだから、私はトレーナー失格だ。
「……トレーナー、ありがとう」
「なんで、感謝されるのさ」
「ボクに走るなって言えるのは、トレーナーだけだから。一人だったら絶対無理して、もう二度と走れなくなってもいいって思いながら菊花賞に出て、それで」
「買い被りだよ」
「違うよ、ボクにはトレーナーがいなきゃダメなんだ。だから、こうして逢いにきた。たとえ脚が軋んでも、走った。……トレーナーのためだから、大好きなトレーナーのためなら」
いつも快活なその顔が、うるうると涙を溜め込んで。
「だから。お願い、トレーナー。
ボクともう一度、走ってください」
伸ばされた手を自然と取る。もう言葉は要らない。視界もいらない。耳もいらない。何もいらない。二人だけいればいい。二人ならどんな苦難も乗り越えられる。
感覚はゼロに変わる。閉じて、閉じて。
────ジリリリリリリリリ。
クロックワーク・オーバーカウント。
終わりを告げるマクガフィン。
目覚ましが鳴って、私は目を覚ます。夏合宿でのリハビリを終えたが、トウカイテイオーはやはり菊花賞には出られない。このままだと、そうなる。
でも。
「……頑張ろっか」
なんとなく、変わった気がする。私は何かいい夢でも見たのだろうか。生憎覚えていなくて、いくら考えても思い出せない。でも、間違いなく前を向いていける。今度こそ、未来へ進める。
「……おっと」
出かける直前、合宿中放置していた日めくりカレンダーを一気に千切る。日付は……そう。昨日が8月の31日だったから。
今日は、9月1日。そうに決まっているじゃないか。