「まだ」
「まだだめですよ、トレーナーさん」
俺をトレーナーと呼ぶ見知らぬ少女は、そう告げて。
「ここはあなたの幸せ空間。私にとってのナイトメア。でも、トレーナーさんのためなら。終わらなくたっていいと思う」
言っている意味がわからない。確かに周りは遥かに伸びる壁と細く長い一つの道だけで、悪夢だというのなら筋が通った光景だが。
「君は……誰だ?」
「……誰、でしょうね?」
芦毛のウマ娘。それは当たり前のようにわかるけど、それ以上は何もわからない。
「……じゃあ、始めましょう。まだ、まだなのですが。まだ夜は、少ししか溶けていないのですが」
彼女は指を交差させ、口元で妖しくバツを作る。
「いけない夜の、はじまりはじまり」
二人きりのナイトメア。二人だけの幸せ。
「ルールはひとつです。あなたが私を捕まえられたら私の負け。そしてその逆。トレーナーさんなら、簡単ですよね」
「……とても簡単には思えないけど……」
常識的に考えてウマ娘と追いかけっこをして勝てるわけがない。ずっと続く一本道を進むたび、どうしようもないと理解するだろう。
「……そんなことないですよ」
そう、彼女は顔色ひとつ変えずに。
「これがただの悪夢なら、ずっと届かないと思いますけど。トレーナーさんはいつだって、私の予想も期待も超えてくれるから」
まるで試すような言動。彼女の目的はなんなんだろう。
「なあ、君は一体何のために」
ここにいるのか。それを聞こうとする前に、口は彼女の人差し指で塞がれて。
「まだ」
「まだだめですよ、トレーナーさん」
「朝はきっと来るけれど。それまでは終わらないのが、ナイトメアですから」
相変わらず、要領を得ない。
虚数に沈む空無き空間。悪夢を名乗る少女のカタチ。まるでわけがわからないけれど。
「……選択肢はそれしかないのなら。よし、乗った」
「……さすが、かっこいいや」
彼女は小さく呟いた。そこに込められた何かの感情には気づかないふりをする。
彼女はくるりと背を向けて、遅れた尻尾がふわふわと浮かぶ。
「じゃあ行きますよ、トレーナーさん」
「……ああ、絶対に捕まえてみせる」
「……嬉しいなあ。とはいえ、私も逃げには自信があります」
じゃ、と短く言って。彼女はゆっくりと走り出す。突然のことでぼーっとしてしまっていると、はにかむような笑顔がこちらを向いた。
「はやく来てくださいよー」
「……おっと、ああ!」
自分も脚を動かす。驚くほどに身体は軽く、これなら本当に追いつけるかもしれない。
……そう思えたのは最初だけ。全くペースを崩さず軽い調子で走り続ける少女と、それにだいぶ距離を置かれながら食らいつくのが自分。
これではいつになっても追いつかなくて、悪夢は本当に終わらないのかもしれない。そう思った自分を見かねてか、あるいはただ暇を持て余してか。前を行く少女が話しかけてきた。
「トレーナーさんって、どんなウマ娘を担当したいとかありますか?」
トレーナー。自分はつい先日新しくトレーナーになったばかりで、誰とも契約を結んだことはない。けれどずっと話していると、彼女との会話はしっくり来る。……若い勘など当てにならないが。
「……うーん、そうだな。きっと色んな子がいるからなあ。誰でもいい、って言ったら失礼だけど」
「サボり魔で才能もない、口ばっかり達者な子とかでもいいですかー?」
おちゃらけた口調が前から聞こえる。確かにそれは難儀そうだが。
「そんな子がいるなら、むしろほっとけないかもな」
「……へーえ、その心は」
「きっとその子も勝ちたいからだよ。素直じゃないから担当しない、なんてのはトレーナーとしてはだめだ……なんてのは新人だから言えることなんだろうが」
「勝ちたい、勝ちたい……一番でいたい。逃したくない」
代わる代わるの言葉を述べて、前の動きが止まる。……今のうちか? ……いや。
「……ボーナスタイムのつもりだったんですけどねえ。トレーナーさんは女の子には触れないタイプですかー?」
「考えごとをしてる時に捕まえるのはフェアじゃないよ」
「フェア。ふーん……じゃあ次の質問です」
また彼女は駆け出して、しばらくして言葉が飛んでくる。
「あなたの担当ウマ娘が、回りくどいことしかできない卑怯者だったらどうしますか?」
なるほど。
「例えば考えごとをしていたら容赦なくそれを捕まえて、得意げに突き出します。悪びれることなんて万に一つもなくて、いつも小細工ばかりを使おうとします。……どうです?」
「……うーん、案外相性は悪くないと思うけど」
「……その心は」
「俺がいっつもこうなのは不器用だからだしな。そりゃいつも小細工ばかりなら、その子も不器用かもしれないけど。お互いの苦手を補えるなら、不器用同士だって悪くない。むしろいいコンビになれるだろうさ」
「……さすが、なーんて」
少しだけ、二人の走る距離が縮まる。
「では次の質問。もし人生をやり直せるとしたら、またトレーナーになりますか?」
これは正直、自信がない。
「……なる……と言いたいところだが。実は俺、そんなに頭の出来がいいわけでもなくてさ。なんとか資格を取れたような程度だから、またなる! というかなれる! と言うには少し自信がないな」
「……なるほど。たまたま、というような」
「……まあ、な」
「……それなら、あなたのパートナーになるウマ娘は幸せですね」
「……どうしてだ?」
意図が分からず、聞き返す。
「だって、100回やって1回あるかの運命の出会い、みたいなもんじゃないですか」
100回中1回というほど試験合格できないわけではないと思う……多分。そんな俺の心中を見抜いたのか。
「……ああ、お相手のウマ娘が真面目にやる気を出したなら、と言うもう一つの前提がありますから」
先程から例に上がっているサボり魔のウマ娘は、暫定俺の初めての担当ウマ娘らしい。
「なるほど。滅多なことではどうにもならない同士が巡り会えたなら、それは確かに運命かもな」
「ですねえ」
そんな出会いができるなら、確かに素晴らしいと思った。
だんだんと、近づいていく。
「更なる質問です。好きな食べ物は」
「またまた質問。小さい頃の将来の夢」
「もっと質問。担当ウマ娘にされて嬉しいこと」
次々と大小の問題が投げかけられ、それに答えるたびに走る間隔が狭くなってゆく。気がつけばお互い僅かに息を切らしながら、手を伸ばせば届く距離。
「……それでは、最後の質問です」
「ああ、最後まで付き合うよ」
「やさしいですね、トレーナーさん……。では」
「あなたは、目を覚ましたいですか?」
「そう来たか」
「私と、お別れしたいですか? 現実に戻り、素敵なウマ娘に出逢いに行きますか?」
これは、きっと。悪夢を名乗る彼女が決めた、悪夢の取り払い方、あるいは。
「もちろん望むのなら、ずーっと寝ててもいいんですよ」
文字通りの、悪魔の誘い。それはひどく魅力的に思えた。彼女とならば、ずっとずっと退屈しない気がした。
「二人きりのナイトメア。数億人の現実世界。私一人と、世界のすべて。どちらを選んでくれますか?」
二者択一。だが、でも。
答えはそれだけじゃない。
「俺は」
選ぶのは。
「目覚めるよ。……現実の君に会うために」
か細くてもいい道。それしかあり得ないから。
「……何を言ってるんですか。私が現実にいて、あなたがそれに会って。それでもって意気投合。……どんな低確率だと」
「運命なら、それもあり得る。いや」
「それしか、あり得ない」
彼女の語った運命の出会い。それが俺たちを結ぶのならば、何があっても会うことができる。
「……参ったなあ……」
「……嬉しくないならやめておく」
「さっすが、トレーナーさん。今のはずるいですね」
完全に彼女は足を止める。振り向いて、俺の目と鼻の先に立つ。
「ありがとうございます。また会いたいって、言ってくれて。これで心置きなく、私は役目を終えられます」
「……役目?」
「悪夢の中だから言っちゃえるんですけど。ほんとうは、お別れのために来たんです。遠く遠くから、あなたをちゃんと幸せにするために。二度と、私と会わなくて済むように」
「……それは」
「だからさっさと幻滅してもらって、私に追いつくのも諦めてから夢を出て欲しかったんですけど。……やってみたらめちゃくちゃで、失敗しちゃいました」
「……失敗なんてしてないよ。君のおかげで、これから俺は君に会える。君が何故会わないほうがいいなんて言ったのかは分からない。でも、そんなことないのはもう分かる。君と俺とは、きっと運命なんだ」
「……にゃはは。本当に、敵わないなあ」
彼女の瞳はいつのまにか、光り輝いて見えた。
上を見ればいつのまにか、青空が光っていた。
「……じゃあ。またね、ですかね」
「きっと、また」
「私ももう少し頑張ってみます。あなたのために」
そうすれば、きっと幸せが掴めるはず。
「俺も、まずは君に会わないとだな」
「……どちらにせよ、悪夢はこれっきり」
「今の君とは、もう会えない」
それだけは少し寂しい。
「もう、じゃないですよ」
そう言って、彼女はまた口元に両人差し指を添えて。
「まだだめなだけ、ですから」
刻が進めば、また会える。
朝が来る。夜を食んで、朝が来る。
おはよう。
長い夢を見ていた気がする。その感覚とは裏腹に思考は冴えていて、よく眠れたような気がする。少なくとも悪夢にうなされていたわけではないらしい。
「今日こそ、担当ウマ娘を見つけるか」
まだお眼鏡に適うウマ娘には出会えていない。お眼鏡というのは相手側からの話だ。新人の自分にはまだまだ選ばれる側が似合っていると実感する。
荷物を軽くまとめて、今日もトレセン学園へ向かう。空は雲が僅かに浮かんだ青空で、朝からいい気持ちだと思った。
時間が過ぎるのはあっという間で、すぐに昼の12時を回った。トレーナー室で作業に追われ、結局誰かに声を掛けたりはできなかった。仕方なくキーボードを打ち、未だ片付ききらない書類を一枚一枚処理していく。
「……ふぅ」
「……おつかれみたいですねえ」
……え? 誰もいないと思って吐いたため息に、反応があった。驚いて前を向くと、そこにいたのは一人のウマ娘。眠そうに欠伸をしている。
そして。
「君は……」
なぜかはわからない。
「なあ、君」
一千年を超えて逢えたような錯覚があって。
「……なんですかー?」
夜から覚めても、心に残った影があって。
「……俺の担当ウマ娘になってくれないか。……せめて、名前だけでも」
誰かの想いを、確かに果たせた感触があって。
「私? 奇特な人ですねえ、まあ契約は置いといて名前を、とりあえず」
「私の名前はセイウンスカイ。これからも末永く……なんちゃって。ま、よろしくです」
だから、この出会いは運命だ。