「トレーナーさんが悪い。悪い。……なーんて、どう言い繕っても悪いのはセイちゃんの方ですよねえ……はあ」
窓の閉じたトレーナー室、暗がりには俺と担当ウマ娘であるセイウンスカイの二人きり。唯一の脱出口であるドアノブはひどくひしゃげていた。
……つい先ほど、他ならぬセイウンスカイの手によって。
「なあスカイ……手、大丈夫か?」
「……来ないでください」
「……すまん」
何故彼女はいきなりあんなことをしたのか。先ほど無言で部屋に入ってきたスカイは、今までに見たことがないほど追い詰められたような表情をしていた。そして思い切り、ドアノブに拳を叩きつけた。
「トレーナーさんが悪いんです」
そう、一言を付け足して。
けれど今の彼女は、ついさっきの激情からは考えられないほどしおれてしまっていて。彼女に閉じ込められているという状況であっても、彼女を心配せずにはいられない。
俺が悪いのなら、俺がなんとかするべきであるだろうし。
「ねえトレーナーさん、雲ってあれで重いんです」
「ふわふわ浮かべるのは、一生懸命に身体を広げて。薄くうすーく心を分散させて。そのおかげで。それを一点に閉じ込めたら、あの爽やかな空にはいられなくなっちゃうんです」
「だから、もう私は動けない。心はもうガチガチに縛られて、虜になって」
ぽつり、ぽつり。少し涙混じりの声が聞こえてくる。
「……でも」
彼女は血濡れた掌を眺めて、いつものそれに似て非なる笑みを浮かべて言う。
「この傷は、私が悪くて。私が勝手に傷ついてることの象徴なんですよね」
「……スカイ」
「……聞きましたよ。教えてくれないなんて水臭いじゃないですか」
「結婚する、だなんて」
そう呟いたのち、彼女はゆっくりと立ち上がる。
赤く、黒く。青空は暗く彩られていく。
「……まだお見合いの話が出ただけだよ。俺なんかが結婚できるかわからないし、その……。いや、ごめん」
「……トレーナーさんが結婚できないわけないですよ。幸せになれないわけ、ないですよ」
「私みたいな、あなたに一度だって触れたことのない人が何か言うなんてお門違いかもしれませんが」
「……いや、スカイは俺をよく見てくれてるよ。だから、きっと正しいよ」
答えはなく、ため息が返ってくる。
しばしの沈黙。彼女の手から滴る赤は、小さく水溜りを作っていた。
「……包帯、出すよ」
「……いいですよ」
「いいから」
彼女の痛みをわかってやれないとしても、彼女の痛みを癒してやらなければ。
「……ほら、手を出してくれ」
「……トレーナーさん」
思えば俺は本当に馬鹿だった。
「策士の間合いに丸腰で近づくのは、厳禁ですよ──?」
そこまで行っても、気づいてやれなかったのだから。
「ちょっ……スカイ……!」
「痛い、痛い……。トレーナーさんに触れると、傷口が擦れて痛い……」
私はトレーナーさんのことをずっと見ていた。
「でも、痛みで漸くわかります。漸く私は、逃げてないんだって」
私はトレーナーさんのことをずっと見ているだけだった。
「……だから、トレーナーさんも逃げないでください……?」
気付いてくれないのが嫌だった。
「……もう……絶対……はむっ……ちゅっ……」
そのことに甘える自分が憎かった。
「ぷはっ……ぇぉっ……ちゅぱっ……」
いつもは愚かに回る私の舌は、今はただあなたを貪る。
「……ぜっ、たい……」
逃がさない。逃げない。離さない。離れない。
いまの私なら、涙で万里を埋め尽くせる。欲望で浄土を穢し尽くせる。でも、でも。
「ふぅ……はーっ……。もう遅い、ですか?」
「今から、今更。愛してるって言ったら、卑怯ですか?」
本当に、私は馬鹿だった。全てが終わった後の暴走は、取り返しのつかない死を招くだけなのに。
「……スカイ」
「やめて、ください。何も言わないでください。もう少しだけ、私を生かしていてください」
身体が跳ねるほどに待ち遠しかったあなたの声が、処刑を告げる無慈悲なものに感じられる。ドアは壊れている。窓は閉じている。部屋は暗く、青空すら私達を見てはいない。
ここを二人のエデンとして、死ぬまであなたを求められるなら。
あゝ、どんなにか幸せなのだろう。
「……にゃはは、トレーナーさん。やっぱりなんだかんだで、コーフンしてきましたか……?」
あなたの生体反応。心を得られないからって、そこにあなたを求めるのは醜い行為だ。でも、私はもう穢れきっているのだから。
「……拒否権なんて、ないんですから」
「どんな方法でもいい。もう策なんてないんですから」
あなたのズボンに手をかけた、その時。
「……ダメだ!」
ああ、ダメだ。
私はやっぱり、あなたには逆らえないや。
「俺が悪い。その通りだったよ、スカイ」
言葉は選ばなければならない。
「こっちこそ、今更だ。それで許してもらえるなんて思わない」
だけど、言葉を繕うわけにはいかない。
これはスカイの、愛しい人の心に迫る行為なのだから。
「……好きだよ、スカイ」
愚かでもいい。口下手でもいい。汚くてもいい。君のためなら、どんな悪党にだってなろう。
「君の真面目さが好きだ。君の強い心が好きだ。君の誠実さが好きだ」
「……どれも私には合わないと思いますけど」
「そんなことない。俺には分かる。君のことが好きだから。君が自分を嫌いになっても、俺は君を好きでいる。もう自分の心を誤魔化さない。……今更、だけど」
のしかかっていた重さが、徐々に離れていく。
「今更同士、ですね」
「なら、タイミングはバッチリだな」
「……そうかもしれませんねえ」
自分が悪い、あなたは悪くない。互いにそう想うのならば、互いに互いを愛するが如く。
そう、誰も悪くない。
私の愛はどこから違えていたのだろう。私の生来の気性がよくなかったのかもしれない。その結果手は血塗れ、顔はべちゃべちゃ、心は歪んでくしゃくしゃだ。でも、でも。
あなたになら、どんな私を見せたって構わない。あなたを想う気持ちだけは、間違いだなんて言わせない。
「やっぱり、もうちょっと」
ぎゅっ。扉を開けてしまうのは、もう少し後にしよう。
「トレーナーさん」
「愛して、ます」
誰が見たって正しくなくても、私たちから見れば正しいのだから。
今だけは、私たちだけの空間で。願わくば、これからもずっと私たちは一緒で。青空の全てがブラックホールに呑まれ、大地の全てが粉々に崩壊したとしても。
あなただけ、いればいい。
それはまるで、この部屋のように。
「なあ、スカイ」
「……ふふふ、なーんでーすかー?」
「お見合いのこと、悪かったな」
「……許してますよ、とっくに。今、トレーナーさんが私を愛してくれるので」
今、そうならば。私は死ぬまであなたを愛おしむとも。
「……決めたよ。いや、当たり前だけど。お見合いの件は親に突き返す。俺には愛する人がいるんだって言ってくる」
「……それはそれは」
なかなか茨の道だろうなぁ。中等部の担当ウマ娘にそんな情熱を向けるなんて、とんでもないやつだ。
「悪い人ですね、トレーナーさんは」
「スカイの方が悪いよ。スカイが可愛すぎるのが一番悪い」
そう言って、あなたは。
「……んぅ!? はー、にゃっ……。んぷっ……れろっ……」
ついに自分から手を出した。まったく本当にとんでもないやつだ。まったく、まったく。
ああ、まったく。
……だいすき。