こつん、こつん。午後6時、まだ茜に染まらない空を眺めながら下駄を鳴らす。
身体を包む暑苦しさは消え、汗ばむ鬱陶しさも消えた九月の始まり。私たちをまだ夏に留まらせてくれるのは、永く続く青空だけ。
早く、あなたも来ないかな。いつもはあなたを待たせているのに、今日は早く来すぎてしまった。でも仕方ないと思う。今日は私とあなたのお出かけの日。かつてはなんてことなかった、今は心を昂らせる約束の日。
そして、私とあなたの終わりの日。最後の思い出の日。
「……おお、すまんスカイ。……その、目を疑ったというか……いや、似合ってるよ」
少し息を切らせてやってきたトレーナーさんは私をちらちらと。あなたはいつもよりラフなTシャツと薄手のズボンなのに、お相手がこれじゃ驚くか。
でも、これでいい。今日私が着るのは、この"浴衣"がいい。私にできる精一杯の晴れ着。口元に袖を持っていって、くすりと笑ってみせる。
「あらあらトレーナーさん、緊張してますか?」
本当に緊張しているのは、私の方だけど。久方ぶりに高鳴る心臓は、湧き上がる血液を用済みの全身へ送り込む。
「じゃあ行きましょうか、季節外れの浴衣デートに」
嘘がある。デートと思っているのは私だけ。
嘘がある。まだ季節外れじゃない。夏はまだ。
少し前なら夏祭りをやっていたはずの大きな神社。今はただ神を想う静かな場所に、私とトレーナーさんは一歩ずつ入ってゆく。
まだ立ち並ぶ木々は青々としているけれど、通りを吹き抜ける風はからからとしていて。涼しくて快適な気温が、却って物悲しさを感じさせる。ああ、夏は終わりを告げようとしているのだ。そう思わずにはいられない。
「……静かな神社って新鮮だな」
「そうですねえ、我々一般人はお祭りにしか興味がありませんから」
イベントごとがなければ、神社に立ち寄る人間は数少ない。それでもこの独特の空気は、ここがただの人気のない場所ではないことを私たちに感じさせる。
神様が見守っているのだと、そんな気にすらさせる。今の私は三女神様には見捨てられたと思っていたけれど、ね。
「……ゆっくり歩いてくださいな、トレーナーさん。私、下駄ですよ?」
「……ああ、悪い」
こつん、こつん。おそらくトレーナーさんが速く歩いているのではなく、私がゆっくり歩きすぎているのだけど。私の歩みが遅いのは、下駄を履いて浴衣を着て。おめかししているからなのだろうか。
どうにもならない時間の流れに抗いたくて、あるいは歩みを進める行為そのものを拒絶したくて。じっと二人で立ち止まっていられたら、どんなにか。
それでも確かに、歩んでいく。全ては終わらなければならないから。
「……おっ、大きな門ですねぇ。この先に境内があるのかな」
「確か、そうだな。これが一番大きい門のはずだ」
「流石トレーナーさん。デートの下調べは万全ですね」
「……さすが、か。俺は君のトレーナーだからな」
揶揄うように、喘ぐように。逢引きという言葉をあなたに刻み込めないだろうか。今からでもそうはならないだろうか。もう全てが遅いとしても、最後の一度をそれにできないだろうか。
そんな私の気持ちにはきっと気づかれない。私はおそらく、そういうのを隠すのに慣れすぎたから。
「ねえ、トレーナーさん」
一つ、思い立つ。これは私にとっての儀式で、あなたにとっても少なからずの思い出になるだろう。
「……ここで。写真、撮りませんか?」
だから。その記録を留めたい。
お願いだから。一生のお願いだから。
スマートフォンを取り出し、トレーナーさんに手渡す。貴重品を手渡すという行為に、自分なりの親愛を込めてみる。
「ああ、じゃあ撮るよ」
二つ返事。トレーナーさんは私のスマホのロック画面からカメラを起動し、こちらに向けるけど。
「ダメですよ、トレーナーさん。……私が頼んだのは、
"撮ってください"じゃなくて、"撮りませんか"ですから。
……一緒に写りましょう?」
とん、とん、たん。下駄を弾ませ、ゆるりとあなたの肩に近づいて。あなたの手に、私の手を自然と添えて。
「……ほら、下から下から。門と、私たち。全部が写り込むように」
「……スカイ、近くないか?」
「必要経費ですよ、トレーナーさん」
ぱしゃり。あなたと私が写り込んで、小さな画面に閉じ込められる。本当にそうだったらいいけど、ここにあるのはあくまでただの画像。でも、得難いものだ。
「……ありがとうございます」
「いやいや、こちらこそ」
「写真送っておきますから、いつでもセイちゃんを思い出してくださいな」
「……なんだ、そんな今生の別れみたいに」
あなたは冗談めかしてそんなことを言う。……うん、やっぱりトレーナーさんは冗談を言うのが下手だ。私自身と比べるのが間違いなのかもしれないけど。
本当にあり得ることは、冗談にしてはいけないのだ。
青空は、徐々に秋茜に染まってゆく。
少しずつ、冷えてくる。季節外れの浴衣では少し肌寒いかもしれない。空気が冷え切る前に帰るべきなのだろうが、私の心はそれを拒む。最後が永遠に続けば、終わりは来ないのだと幻視する。
それでも足を進める限り、必ずゴールに辿り着く。ウマ娘として嫌というほど知ったことだ。そう、必ずゴールに辿り着く。
たとえ脚が鉛のように重くなり、かつて走り抜けられた距離が那由他のように感じられるようになっても。でもそれは、地獄だった。
春の天皇賞、復帰戦。一着なんて取れるとは思わなかった。それでも逃げを撃ちペースを作って、善戦とは言わずとも健闘はしたかった。できる、そう自惚れていなかったといえば嘘になる。
結果は残酷だった。私はすぐに先頭を譲り、二周目の途中で早々に失速して。逃げを名乗ることすら烏滸がましかった。一着と12秒の差をつけられての最下位。誰とも競うことのできなかったゴールは、汚泥の味がした。
そうして出走予定を全て回避し、脚を壊して夏合宿にも行けず。セイウンスカイというウマ娘は今ここにいる。
……と、そこで。私たちの"ゴール"が見えてきた。
「……あ、賽銭箱ですね」
「本当だ。願い事をしないとな」
「……今、ですか? 正月でもないのに」
「今だから、だよ。……行くぞ、スカイ」
今の私に、願えることが何かあるだろうか。思いつかない。そこまで思考がたどりつかない。
ちゃりん。ぱん、ぱん。トレーナーさんの隣で、彼の真似をして願う。どうしても思いつかなかったけど、ひとつだけ私にも願う資格のあることがあった。
「トレーナーさんが、幸せになれますように」
そう、心からの願いを込めて。口には出せない想いを、願いという形に変えた。
そして。
「トレーナーさん、願い事はできましたか?」
「ああ。……スカイは?」
「もちろん。秘密です」
「じゃあ俺も、秘密だ」
「……えへへ」
そして、そして。
「ねえ、トレーナーさん」
ひらり。私は揺れながら、あなたに言葉を投げかける。
「今日は、ありがとうございました」
くるり。浴衣を羽根のように。空を飛べない雲が舞う。
「いままで、ありがとうございました」
にこり。心の底まで騙して、笑顔を作り出して。
「────私、引退します」
せめて晴れやかに、終わりを告げる。
「……いつから考えてたんだ」
「優しいですね、否定しないんだ」
「……いいから。頼む。教えてくれ」
「……決定的に壊れちゃったのは、合宿に行けないって決まった時、かな」
私にとって、再起する可能性があるなら。それはいつかの宝塚記念の後のように。あなたが海に入り込んでまで私を助けてくれた、あの夏のように。夏だからこその心の触れ合い。それだけが頼りな気がしていた。
だから、今年の夏が最後のチャンスだと思っていた。だけど。
「……やめといた方がいいってなったじゃないですか。脚を痛めちゃって、しかもそれはトレーニングできないくらいだってなったら仕方ないんですけど」
「……スカイ」
「でもさ、それって……例えばあの有マの時ならなんとかなってた話じゃないかな、なんて。
……つまり、私はもう寿命なんですよね」
そう言って、私は浴衣をひらひらさせる。この浴衣は、今年買ったもの。
「まだ私が走れると思い込んでた頃。天皇賞の前。今年の夏合宿は、今年こそはと思って張り切って浴衣買っちゃったんですよね」
「……それで、今日着たかった。……今年こそは、何があったんだ?」
鋭い。鈍いけど。今日着てやって来た時点で気付いて欲しいものだ。
「……まあそれは置いといて。……でも、この結果。今年の私には、夏すら来なかった。この浴衣だって滑稽なだけ。自分の力量すら測れなくなって、空回りした私の象徴」
「……そんなことないさ。とても素敵だと思う」
「……やっぱりトレーナーさんは、優しいですね」
そう、この人は優しい。だから、私をまだ見捨てていなかった。だから、私は見捨ててもらわなければならない。だから。
「……今日は、そのために来たんです。お別れのために、来たんです。
……お願いです、トレーナーさん。私にレースを辞めさせてください。引退。契約解除。だって、だって」
そこまで耐えて来たはずの涙腺が、突然決壊する。……だめだな。これくらいの芝居すらできなくなってたのか、私。
「……だってトレーナーさんは、トレーナーさんは……。
ひっく……私みたいなウマ娘だって見捨てなかった、優秀なトレーナーさんで……すてきな、ひとで……」
わたしの、はつこいで。
「だから……! えぐっ……わたしを、すてて。しあわ、せに……なってほしいの……」
そこまで言って、私は地面にへたり込んでしまう。浴衣の脚に土がついて、袖には涙と鼻水がついて。ああ、せっかくの晴れ着なのに。感情はそんなことだけを言葉にできて、残りは言葉にならない呻き声を上げさせるばかり。
「……スカイ、ごめん」
そこで、あなたはゆっくりと。考えを巡らせた後、意を決したように声を発する。ごめん。それは拒絶なのだろうか。私はだめなことをしてしまったのだろうか。
私は。でも、言葉は出ず。ただ子供のように泣きじゃくり、あなたを待つだけ。
「それは無理だよ。いくら君の頼みでも。
……君を置いて幸せになるなんて、冗談じゃない!」
……え?
「確かに君の言う通りだろう。君との契約は解除して、新しいウマ娘の担当に集中する。それがキャリアを積むってことだろうな。
でも。……これは理屈じゃないのかもしれない。甘い考えなのかもしれないけど。ウマ娘を不幸にして、何がトレーナーだ。約束する。君を幸せにしてみせる」
「……なんですか、それ……かなり恥ずかしいこと言ってますよ、トレーナーさん……」
浮ついた告白じみてるけど、この人は本気で言ってるんだろうな。ある意味誠実。でもズルいトレーナーさんだ。
「恥ずかしくなんかないよ。さっきの願い事も同じことを願ったばかりだしな。神様に恥ずかしいことなんて言えないさ」
「……ばか」
更なる涙が溢れてくる。でも、わかる。これはきっと、嬉し涙だ。
空はすっかり茜に染まり。夏の終わりを告げるオレンジ色が私たちを照らす。
*
九月ももう半分が過ぎて。夏は残滓すら見えなくなって来た頃。
結局私は引退を決め、トレーナーさんは新しいウマ娘の担当を始めた。なんやかんやと言ったって、それが正しいルートというやつだろう。
少しだけ、正しくないルートに変わったことがあるとすれば。
「……あ、トレーナー。愛しのスカイさんが来ましたよ〜」
「……バ鹿。……おう、スカイ。今日もわざわざ遠くからすまないな」
私がトレーニング中の"元"トレーナーさんと今の担当ウマ娘を見つけると、二人もめざとくこちらを見つけた。……聞こえてますよ。
今の私はトレセン学園の寮を離れ、新しい住まいで一人暮らしを開始中。つまり本来ならもうここの関係者ではないのだけど。
「……いえいえ、ここに来られるのを感謝してるくらいですから。トレーナーさんが直談判してくれたおかげですよ」
そう。トレーナーさんは私のレースでの功績や走りにおける知識を理由にして、なんと引退した私を自分専属のトレーニングサポーターにしてしまったのだ。……結構すごいことを理事長に熱弁してたのは、聞いてるこちらが恥ずかしかった。
新しい担当ウマ娘の子もいい子で、すぐに私たちと打ち解けた。結構積極的に私とトレーナーさんの仲を聞いてきたり、秘密の情報を教えてくれたり。その方面については私より長けているかも。
「……じゃあ今日も頑張りましょうか、"あなた"♪」
「……トレーナーさん、でいいよ。確かにもうスカイのトレーナーじゃないが……流石に変だ。むず痒い」
「トレーナーにむず痒いと言う概念があったとは……」
「お前は茶々を入れない」
「ははは」
ああ、なんだか幸せ。ふとそう思った。そう、幸せ。
あの夏の終わりに誓ったお互いの幸せを、今の私たちは実現できている気がする。
「ねえ、あなた。……私今、とっても幸せですよ」
「……奇遇だな、俺もだ。何故ってやっぱり、スカイが幸せだからかな」
かつての私のように元気良く走る担当ウマ娘を眺めながら、ふと互いに口を開く。
「そうですか、そうですか。私はこれから先、まだまだ幸せになれちゃいますけど。協力してくれます?」
「どんとこいだ。なんでもやるさ」
そうか。なんでもやるのか。言質は取れてしまったな。なら仕方ない。
「じゃあ──」
ちゅっ。
「……スカイ……!?」
「……にゃはは♪」
夏の終わり、茜色の空。私の頬も恋色に染まる。