目を覚ますと、明かり一つのみの天井だった。身体を起こし、そこで気づく。
この部屋は自分の部屋ではないこと。
この部屋には一つも窓がないこと。
この部屋の主は、目の前に立っている俺の担当ウマ娘、サイレンススズカであること。
「おはようございます、トレーナーさん」
何もわからず戸惑っている俺とは反対に、彼女の顔は安心しているように見えた。
幾月ぶりの笑顔だった、とさえ思う。
「見ての通りの地下室です。賞金には手をつけていませんでしたから。地下室自体の場所は……何処、でしょうね?」
そう、目の前の少女は含むような笑いを見せて。本当に、久しぶりに笑っている。
害意は感じない。拘束もされていない。しかし、スズカが俺のことをこの部屋に閉じ込めたのは間違いない。
「気になるものがあったら、自由に見てもらって構いませんよ」
口を動かしながらも彼女は足が落ち着かないようで、ぐるぐると左旋回を始める。サイレンススズカのいつもの癖だ。
けれど、俺はそれを見て感動してしまう。涙さえ流してしまいそうになるのを必死に堪える。
だって、数日前まで彼女はずっと。
※
秋の天皇賞を終えた後のこと。彼女は脚に不調を感じながらもゴール板を駆け抜けた。それはつまり彼女に未来の輝かしいレース生命が約束されたということであり、俺とスズカは確かに次のステージへ行けるということでもあった。
「おはようございます、トレーナーさん」
「おはよう、スズカ。次のレースなんだが」
「次。……ふふふ」
その時、確かにサイレンススズカはサイレンススズカだった。
「嬉しいか?」
「私たちだけの景色。天皇賞に代わる新しい目標。とっても、嬉しいですよ」
その時までは、彼女は誰よりも走ることを愛する少女だった。
「そうか……なら次を早く発表しようか。次はな」
「はい」
厳密に、彼女に異変が起こったのは。
「アメリカ遠征。俺と君で海外に行こう、スズカ」
明確な将来を設定した、その時だった。
ぴくん。彼女の耳が何かを感知した。はっ、と。何かに触れて息を呑む音が聞こえた。あるべき返答はなく、彼女の瞳は何かを捉えたように。
理解できないものを、知覚したかのように。
「……やだ」
「スズカ?」
一歩、前へと脚を進める。明らかな異変。心ここに在らずといった表情。彼女の脚はざわめくように震え、後退りを試みるも。
「あっ……」
「スズカ!」
そのまま彼女はバランスを崩す。体勢を整えるべき腕は、何かを求めるように空を仰ぐ。
「……大丈夫か、スズカ!」
「トレーナー、さん……」
無我夢中で彼女を抱き止めると、漸くその瞳が安定して来る。けれど彼女の意識は朦朧としていて、瞼はまもなく閉じられた。……大変だ。
そうして医務室までサイレンススズカを抱え込む。不穏な空気は無かったはずだった。彼女は刹那の間に何かを切り替えてしまった。
そのことから、目を逸らしながら。
※
地下室へと思考を戻す。
今この異常な空間に於いて、サイレンススズカはその異常から復帰しているように見えた。
「スズカ……治ったのか?」
「……治る?」
「あの日君が倒れた時、正確にはその少し前から。君は何か様子がおかしかった。だから、入院することになって。スペちゃんや、その同期の子。他にもたくさん、見舞いに来てくれた。その甲斐があったのかな」
そう信じたい。身体の不調ではないとのことだったが、サイレンススズカはその日からまともに歩くことすらできなかった。
正面の何かから目を背け、後ろの脅威を錯覚し。ごめんなさい、といつも以上にか細くスズカ。
リハビリの前に、原因を解明しなければいけないということになった。
もちろん、サイレンススズカの元には多くの見舞いが来た。中でも熱心なのは同室のウマ娘、スペシャルウィーク。毎日時間を作っては訪れ、スズカと共に走る夢を語ってくれた。
「みんな、優しかった。いつか、また。そんな事を言ってくれた」
「そうだ。俺だって同じ気持ちだ。君がいつかまた──」
「いつか、また。将来。この先。……無いんですよ」
彼女の眼は理性的だったと思う。自分たちとは違う何かを知っているから、訳の分からない言動をしている。そのことに気づく。
「スペちゃんには、これから先出るレースがある。たくさん、ある。でも」
「君だって、あるさ。治ったじゃないか。二人で一緒に走れるよ」
「治る。トレーナーさんはまだ、これが病気だと思いますか? トレーナーさんは、毎日私のそばにいた。みんながレース本番で来られない日も、絶対に。……だから、分かりますよね」
きっとその言葉は、わかっているだろう、という確認ではなく。
わかってほしい、という懇願で。
「俺は、君と同じ景色を見ないといけないものな。君の視界が恐怖に侵されたなら、それを共有する。それがサイレンススズカのトレーナーだ」
思考と記憶をまとめ、彼女を覆うものを類推する。狂気をもたらす何かに触れた思索など、理解できるわけがないとしても。
「スズカ。君がおかしくなったのは、アメリカのことを告げた時だった。つまり、俺の発言が君の何かを変えてしまったのかもしれない」
けれどそれだけでは、理屈は通らない。
「……アメリカ行きが怖いとして。君がそんな子じゃないのは知っているけど、そうだとして。……それで立ち眩むわけがない」
目の前の少女が、どこまで知っている少女なのかはわからない。けれど彼女はサイレンススズカ。不安を乗り越え、天皇賞を駆け抜けたウマ娘だ。
「……私が怖がるとすれば、なんだと思いますか?」
彼女が恐れるもの。狂気が価値観を変転させてしまったとするなら簡単だが、狂気に順応できないからこそ彼女は苦しんでいる。そう思った。
「……正体はわからない。けれど、君をそこまで追い詰めるものがあるとすれば。……走ることが、出来ない。許されない。永遠に、走れない。……そういうものだと思う」
理解よ、彼女に寄り添え。
「"何か"。誰よりも開けた空間が好きな君を、この地下室に閉じ込めさせた何かがある。……あの奥の扉、何重にもかけられた南京錠。俺を閉じ込めるだけなら、あんなには要らない。……あれは、君自身を閉じ込めるためのものだ。まだ走りたいと願う、君自身を」
理不尽で残酷な結論だとしても、他ならぬスズカにわかってほしいと願われたなら。俺にはそれを理解する必要がある。俺はサイレンススズカのトレーナーだから。
「まるで、自分の足元がいきなり消えたような。まるで、自分の視界が根こそぎ黒で塗り潰されたような」
彼女は答え合わせをするかのように、ぽつぽつと恐怖を言語化する。
「……スズカ」
「なんとなく、わかってしまったんです。あの時、将来について明確なビジョンが見えたはずの時」
「俺のせいだな」
「違います。気づいたのはその時でも、恐らく取り返しがつかなくなったのはもっと前。……天皇賞の時、です」
秋の天皇賞。栄光の日曜日。彼女の念願が叶った日。何を、間違えたというのか。
「間違いは、わかりません。でもあの時から、ずっと不安なんです。外にいて、生きているのが。とてつもなくいけないような気がして。だからここにいると、安心します」
「君を閉じ込めるために、この部屋を作った。……外を自分が生きるのは、許されないように思えたから」
こくり。彼女は頷いた。
「生きるのが、怖い。でも、死ぬのもすごく怖かった。どちらにせよ、自由がない狭い場所に閉じ込められたみたいで。永遠に開かないゲートのような」
永遠に開かないゲート。今の彼女は、そこに閉じ込められている。これから先の走るべきレースはなく、ただ狭く苦しいゲートの中。
「この部屋にいるのも、やっぱり辛いんじゃないのか? 君はあの日から、何かに追い詰められ、追い立てられ。板挟みに合っている。……こんなところに閉じこもるなんて、その実演じゃないか」
「……そうですね。あの日からの私は、独りがとても怖い。生きているのは独りでいるようなもので、死ぬのはまた独りになるようなもので」
「……なら」
俺がいる。死ぬまで一緒だと。それを口にする前に、その結論はとうに彼女がたどり着いた物だと気づいてしまう。
「そうです、トレーナーさん。トレーナーさんとなら、私はここで生きていける。狭い場所でも、貴方は一緒にいてくれる。トレーナーさんは、私と同じ景色を見てくれる」
にこやかに、彼女は精一杯笑って。頬に熱い水滴を滴らせながら、恐怖と狂気を振り払うために。己の本心から、言葉を発するために。
「トレーナーさん、私と死んでください」
これが、彼女の今の気持ちなのだろう。
「この世界で生きてはいけない、独りぼっちで死ぬのは怖い。その感覚が、君をずっと苦しめている。……やっぱり、ここにいても辛いんじゃないか。死にたいくらい、辛いんじゃないか」
いつのまにか、彼女の左旋回は止まっていた。閉じ込めても尚、運命という脅威が彼女に迫っている。
「……スズカ、よく頑張ったな」
近くに寄り添う。そして、泣きじゃくる彼女の頭を撫でる。君は独りじゃない。誰も理解できないとしても、俺は理解するために側にいる。
「トレーナー、さん」
震える声。少しでいい。スズカの抱える何かを知りたい。
「トレーナーさんとなら、怖くない。……そう言いたいのに、やっぱり怖い。そう言うために、閉じ込めたのに」
「俺が力不足だったとしたら、これほど後悔することはないよ」
「でも、やっと。未来が見えたんです。今、やっと。間違いを直す方法が」
「……聞かせてくれ」
それはきっと、他所から見れば残酷なのだろうけど。彼女の出した答えだ。たった一つの。
「この部屋で、二人で手を繋いで。同じように、天井を見上げて。同じように、目をつぶって。夢を見るままに、待ち、死に至る」
天寿を二人で迎えるならば、二人で共に天へ向かえるだろうか。狂気と恐怖に呑まれた彼女を、独りぼっちにしないで済むのなら。
「……あとどれくらいだ?」
「……わかっちゃいますね。もちろんトレーナーさんが嫌なら、扉を開けて空気を交換するつもりだったんです」
そう、この地下室はもう空気が薄い。恐らく密閉されていて、先はそれほど長くない。
「みんなには、怒られちゃうな」
「書いておくよ。俺のせいだって。君は確かに、何かに気づいたのかもしれない。でもそれが悪いことだなんて言わせない。承諾したのは俺だ」
外的恐怖。内的狂気。その狭間で苦しんだ彼女を、せめて誰かが少しでも理解してくれることを願う。
「トレーナーさん」
「……少し息苦しくなってきたな。手、繋いどくか」
「……はい」
不思議と怖くない。彼女もそうであるといい。彼女の細い指を握り、そんなことを願う。
「トレーナーさん」
「……どうした?」
「やっぱりまだ怖いので、もう少し寄ってもいいですか?」
返答を待つまでもなく、スズカはこちらに身体を寄せる。
「トレーナーさん」
「怖くないか?」
「あと、少しだけ怖いです」
少し、沈黙を置いて。
「トレーナーさん」
いつのまにか、耳元に彼女の唇が。
「好き、です」
サイレンススズカの声色は、密やかに明転した。