必ず帰ってくる、と彼は言った。私はそれを信じている。信じているから、この家で彼を待ち続けている。玄関先から見上げる何度目かの青空は、短く切り揃えられた私の髪を見下ろしている。もうそろそろ、見飽きただろうに。こんな髪の毛にしたのは誰のせいだったか。そうやって、今日も自然に思い出す。
いつも豪胆で、嘘なんか吐いたこともない。正々堂々とか馬鹿正直とか、そういう言葉が服を着て歩いているような男だった。実際そういった性格のおかげで異国でもやっていけたんだろうと思う。隣で歩いていた私には、そんな愛想はなかったし。……強いて欠点を挙げるなら、それこそ女の趣味は悪い。あれだけ周りの評判も良く、肩書きや実績も充分。実際びっくりするほどの有名人と親しげにしていた時もあった。それならわざわざどうして……なんて思ってしまうのは、彼にとっては失礼かもしれない。
「We won」
私たちは勝った。あの時彼がそう言ったように、私たちは二人揃って『私たち』なのだから。
※
いつのまにか、髪の毛は肩まで伸びていた。非常事態において月日の巡りという感覚は薄まっていく。不揃いな髪だけが、私と彼の間に横たわる時間の長さを教えてくれる。あの日から、必ず帰ってくると聞いたあの日からの、残酷で無常な。
今日も、思い出す。忘れないように、途切れてしまわないように。
最近思い返すのは、それなりに昔の出来事ばかり。たとえば昔の私のこと。図体ばっかり大きくて走るのが下手だった私は、見掛け倒しと評判だった。自分で言うのもなんだが性格にも難があったし(それは今でもかもしれない)、本当に彼は趣味が悪い。言伝でかつてのトレーナーから異動を言い渡され、言われるままに向かった先。そこにいた彼が発した言葉はこうだった。
「うん、思った通りだ」
思った通りと言ったように、彼はそもそも私と会ったことがなかった。私と会うどころか写真すら見ず、レース嫌いで大柄で気性難、そう言った評判だけ聞いて私との契約を決めたらしい。一体どこに惹かれる要素があったのだろうと思ったし、なんなら今でも思っている。とはいえその後になされた提案こそ、もっと私を驚かせるものだった。ファーストコンタクトもそこそこに、彼が私に示したもの。
「早速で悪いが、俺はトレーナーじゃない。強いて言うならパートナーだ。どうだ、俺とバ術をやってみないか」
初対面でパートナーと言ってのけるのは、つくづくあの男に許された特権だと思う。おかげで本題のバ術について聞くまでに一悶着あったが……それはさておき。
バ術。それはレースとは違う形で、ウマ娘が魅せる世界。ウマ娘とトレーナーがペアになって踊り、その芸術性を競う競技。確かに理には適っていた。私の脚はレース向きじゃない。それは自分自身でよくわかっていて、それはつまり他の競技なら道があるかもしれないということではある。それを拒むものがあるとすれば、捻くれきった私の根性だった。
端的に言えば自信がなかった。それを覆い隠すために、何もかもに悪態を吐いていた。一番信じられないものは自分だったのに、それを他人のせいにしていた。でも、逆に言えば。
「大丈夫だ。君は俺が信じるよ」
それを一目で見抜かれたというだけで。私にとっては、十分な理由になったのかもしれない。……そこまで回顧したところで。
少し、雨が降ってきた。
※
独り、広い屋敷をあてもなく歩き回る。掃除でもすればいいかと思い立ったのは、大体一時間くらい経ってからだった。箒を手に取って部屋を回っていると、本当にこの屋敷は広い、と感じた。私独りには広すぎる、そう思った。
だからリビングの隅、タンスの中にしまわれたあれを探してしまうのも、仕方のないことだった。かけがえのない思い出。私の方に残された、消えない証。埃まみれになった手でそれを手に取る。「私たちが勝った」ロサンゼルスオリンピックの金メダルを、うっすらと両手で握りしめる。
それでも私の脳裏に浮かぶのは、最後の日のこと。輝かしい栄光ではない。その先にある、私と彼の最後の会話。
「必ず帰ってくる」
戦地に赴くというのに、そう言う彼がいて。私はいつも通り、彼を信じることしかできなくて。そんな私に一つだけできたことがあったとすれば。
「これ、持ってってよ」
髪の毛を切ったのはその時のこと。背中まで伸びていたそれをばっさりやったから、流石の彼も驚いていた。手早く結んで小さくまとめて、御守りの袋に入れて渡してやる。これくらいは、できた。
それが、最後の記憶。そこより先は感極まってしまって、あまり覚えていないけど。必ず帰ってくる、と彼は言った。私はそれを覚えている。覚えている限り、信じ続ける。
※
このところ体調が良くない。玄関先で彼を待つのも、もう何日も出来ていない。彼はもう帰ってこないんじゃないか、なんて。そういった考えが頭に浮かぶたびに必死に拭い去る。彼が私を信じて、私が彼を信じる。だから私たちは生きていられる。たとえ病に臥せろうと、たとえ死地にて闘おうと。そのはずだと、信じていたかった。
単純な思考の組み替えは、どうにもならない結論を導いてしまうこともある。二人が互いを信じていれば生きていられるのなら、互いが同時に命を落としてしまえば辻褄が合うのではないか? 彼の後を追うように亡くなる、そんな悲劇的な『運命』の物語。そう定まっている気がした。してしまった。だから。
「うっ……ひぐっ……うぇぇ……」
決壊した涙腺は、かろうじて保っていた心の檻を粉々にする。もう彼とは会えない。互いを想いながら、同時に召される運命。それは確かに美しいと思ってしまう。それでいいか、そう諦めそうになる。この運命を受け入れることへの障害はもうないだろう。なら、ならば──。
その瞬間。意識と視界が、光に染まった。
「……ここは」
再び鮮明になった視界は、澄み渡る青空と草原でいっぱいだった。死後の世界というものかもしれない、そんな馬鹿げた考えが一番現実的に思えるくらい、非現実的な展開だった。草原の先から、何かが近づいてくる。白く光る何か。輪郭さえわからないそれは私に話しかける。問いかける。
「アナタは、どうしたいですか?」
その問いで直感する。この存在は私を掌の上に乗せている。運命を操っている。……なるほど、そうか。
「あなたが私の運命そのもの。さながら伝説の三女神ってわけだね」
返答はない。もっともここは夢かあの世か、どちらにせよまともな世界じゃない。つまり私がただ返事するだけでは、きっとこいつには何も届かない。ああ、だけどおあいにく様。
「悪いけど、あなたの手を借りるつもりはないよ」
運命より何より、信じるべきものが私にはあるから。私自身すら信じられなくても、ただ一人のことだけはずっと信じていた。たとえ、たとえ運命にすら嘘を吐かせたとしても。
「私は彼を信じてるから、終わるわけにはいかないんだ」
彼の言葉と、彼が信じる私。それを嘘にしてしまうことだけは、許されない。
「さよなら、私の運命。女神様さえ見放したとしても、私は私たちで生きていくよ」
そうして、光は閉じる。
※
目を覚ますと、体調はすっかり良くなっていた。全てが嘘だったみたいに。記憶にはしっかり残っているから、あれはただの夢でも嘘でもなかったのだろうけど。やり方はどうあれ、私はきっと運命から解き放たれた。ひょっとしたら本当に三女神様の仕業かもしれないな、と思った。そうだとしたら私は神から施された手を振り払ってしまったことになる。酷く大それたことをしてしまったが、元はと言えば彼のせいだ。彼を信じるために運命に嘘を吐かせたのだから、責任は取ってもらおう。
その次の日から、また待ち続ける。もう一日だって、迷うことはなかった。
運命に勝つのは私だけじゃない。「私たち」が勝つのだから。
※
それからほんの数ヶ月で戦争は終わった。国中を包んでいた空気は一気に様変わりしたけれど、私がやることは変わらなかった。待って、待って、待ち続けて。三年が経っても、待っていられた。元通りになった髪の毛を指先で弄りながら、独りぼっちの屋敷で彼を待つ。街の復興を手伝う中で、帰ってきた兵隊さんは多く見かけた。もちろん、その逆も。覚悟はしている。現実を突きつけられたら、きっと耐えられないだろうけど。それでも、待てる。だって私は──
「……ただいま」
「約束通り、帰ってきてくれたね」
──私たちは、嘘なんて吐かないから。「必ず帰ってくる」と言ったのなら、それを待つようにできているのだ。
「負けてしまった」
あらあら、意気消沈。せっかくの伊達男が台無しだ。陸軍中佐ともなると、ただ無事に帰ってきて良かったね、とはいかないのだろう。ただ、それでも。
「違うよ、『We won』だとも。国の威信ではなく私たちが勝った、そうあのオリンピックで言ったのは誰だったかな?」
「参ったな。暫く会わないうちに逞しくなったんじゃないか?」
「そうかもね、今のキミよりは。なんならキミの爵位を剥奪して、私がバロネスを叙爵させてもらおうかな」
そう軽口を叩いてやると、彼は緊張が解けたように破顔する。まったく手間のかかる男だ。異性の趣味に対して、私も人のことは言えないかもしれない。ひとしきり大笑いした後、彼は思い出したように提案する。
「そういえば、ウマ娘のレースも再開されたらしい。なんでも今時はレースが終わった後に歌って踊るらしいぞ。レースは君の趣味じゃないかもしれないけど、踊りは結構興味あるんじゃないか? ロサンゼルスオリンピックバ術金メダリストウマ娘、ウラヌスとしては」
「バロン、それはデートの誘いかい? 確かにキミにそう誘われたなら、並みの女の子ならイチコロだろうね……でも」
「でも?」
やれやれ、順序というものを忘れてしまったのだろうか。過酷な戦場にいたのだから無理もないのかもしれないが、これから平々凡々な生活を築くのは骨が折れそうだ。とはいえせっかく帰ってきたのだから、最初に言うべきはこれに決まっている。
「おかえりなさい。私たちの家へ」
「……ただいま」
手を取って、いつかのペアダンスのように。多分オリンピックで見せたそれより、ずっとずっと拙かったけど。
これから二人で手に入れるものは、メダルよりも素晴らしく、得難いものだから。