現実の出来事は唐突だ。それでいて物語より劇的だから始末に負えない。私がトレーナーさんから余命について告げられた時、最初にそう思ったのを覚えている。
一年。前後するかもしれないがな、などと課題の提出期限をごまかすかのようにあなたは言った。私がなんと返したかは覚えていない。現代医学ではどうにもならない難病。私たちが全霊を賭けて得た栄光を注ぎ込んでも、存在しない治療法にお金を払うことはできない。二人なら無敵だとさえ思っていた私の幻想は、無慈悲で不条理な現実に叩き潰されたのだ。
それから数日。大切に噛み締めるべき、或いは何かしらいつものように策を練るべき時間を既に無為にしてしまった。これから何日間私はその事実を引きずり、そのために逃してはならないものを逃すのだろう。
まだ、最初の恋すら言の葉にできていないのに。かつて私に優しい熱をくれたそれは、今は冷たく心臓を締め付ける。これがあるから苦しいのかもしれないとさえ、思う。それでも、どうしても手放せなかった。それが私のエゴイズム。たとえ、他者を想うものだとしても。
今日もベッドで蹲り、後悔を重ねる。何故今まで、何故あの時。踏み込めなかったのか、あるいは離れられなかったのか。永遠だと根拠なく信じていた。だから、ずっとこのままの関係でも幸せだった。そうして、時間を止めていた。あなたの時間はそんなこと関係なく、終わりへと動き続けていたのに。時の進みが交換できればどんなに良かったか。あなたの代わりに、私が。未来を恐れる私に未来は要らない。ならば、せめて。そんなことすら考えてしまうのに、現実にはそんなアイテムはない。そして、あったとしてもきっとあなたは笑顔で断るのだ。だって、あなたはあの日もそうだったから。
さりげなく、あっさりと。どうしても心配をかけてしまうとしても、できるだけかけないように。無駄に頭の回る私は、余命についてすらすら口にするあなたの態度から、そんな気配りばかり勘づいてしまった。私たちはもう気の置けない仲だと思っていた。私の心にすら気付かれているのではないかとびくびくしていたものだ。それなのに、それなのに。私は、まるであなたを知らなかった。曝け出すほどの信用がなかったとしても、大切だから配慮されていたとしても。そして私もきっと、あなたに伝えられないまま。そのまま全ては終わる。そういうことに、なってしまう。このまま、止まっていたら。
「……やだよ」
そんなのは、嫌だ。私は漸く起き上がって机に向かい、一つ真っ新なノートを取り出す。表紙をめくり、白い砂漠に願いを並べる。何度もシャーペンの芯を折りながら、それでも心が折れないように。あなたと行きたい場所。あなたとしたいこと。あなたに伝えたいこと。あなたに、あなたのために。
あなたが死ぬまでにやりたいこと。
これが、私の最後の作戦だ。
*
朝は早く起きる。一つ目に書いてある、これからの鉄則だ。もうすっかり筆跡と涙でぐしゃぐしゃになったノートを机から手に取り、鞄へ詰め込む。荷物はこれだけ。それも決めたこと。とびっきり速く走ってあなたに会いに行く。それもやっぱり、あなたのために決意したこと。
「おお、スカイ。今日は早いな」
久しぶりのトレーニング。こともなげにあなたは言う。
「おはようございます、トレーナーさん。これからは毎日早いですよ」
覚悟を込めて私は言う。今日。毎日。どちらも、絶対無駄には出来ないから。
「さあ、行きましょう」
会話もなく唐突に、けれどしっかり手を取って。少し強めに、離すまいと引っ張って。未だ現世にいるあなたを握りしめて。
「今日から、私たちは恋人です」
さらり。いつか言ってみたかった言葉だ。こんな形でなんて、なりたくなかったけど。でもそれも昨日までの話。今日からは、これも心からやりたいこと。
「……恋人?」
「トレーナーさん、いるんですか?」
「いないな」
「じゃあいいじゃないですか」
ああ、こんなに簡単に聞けてしまうんだ。これだけのことが、今まであんなに遠くて。それを詰めるために、数年すら覚悟していた。でも、そんなゆったりとした語らいはもう叶わない。
「スカイが言うことなら。ありがたく気持ちを受け取るよ」
「……それでよろしい」
本当の関係にはもう二度となれないかもしれない。強引で、情緒のない。「やりたいことリスト」の通りに、私は事を進めていく。ぎこちないそれは、まるで契約したての私たち。それでも。
「これから、毎日幸せにします。ずーっと、死ぬまで」
「……死ぬまで、か」
それでも。恋愛のいろはもわからない私。あなたの苦しみに気づいていなかった私。何もかもが、遅すぎた私。そんな私程度の存在でも、あなたの最期を彩るくらいはできると信じたい。
「さあ行きますよ! まずは遊園地! 恋人と行く鉄板スポットでーす♪」
繋いだあなたの手を引いて、晴れやかに青空の下へ飛び出す。
あなたのいのちのために。私のいのちを燃やし尽くそう。
*
「お客様、何名様ですか?」
「幸せカップル! 二人です!」
「まあ、それはそれは。楽しんでいってくださいね」
「……スカイ」
「……老い先短いんですから、これくらいどハッピーにいかなきゃダメですよ、トレーナーさん?」
入場チケットを購入し、煌めく遊園地へ二人で足を踏み入れる。私のこれはもちろん空元気。その裏には今にも泣き出しそうな素顔が潜んでいる。でも、仮面を被るのには慣れている。それにたとえ慣れていなくても、あなたといられるなら幸せだ。あなたが理由で泣いたって、それもきっと幸せだと。そう、そうしたいと決めたのだから。
「何から行きます? ジェットコースター? 狭いから嫌ですね。観覧車? ガラス張りならいいですよ。コーヒーカップ? ラブラブカップルの定番ですよね、あとは」
「……スカイ、無理してないか」
「……二度とそんなこと言わないでくださいよ」
そんなことを言うなんて、信じられない。ダメだ。それだけは、言わせたくない。
「……ああ、悪い」
ずっと無理していたのはあなたの方なのに。無理させていたのは、鈍感を極めた私の方なのに。あなたはこれから先、一つだって背負うべきじゃないんだから。それは私の仕事だ。あなたの終わりに、一緒にいること。それだって、「やりたいこと」。
「……はい、じゃあ全部行きましょうか! 本当は苦手なのもありますけど、でも」
うん、それは本当。我ながら好き嫌いが激しい。
「トレーナーさんとなら、幸せですよ」
けれど。あなたが一番好きだから。好きな人となら、なんだって。
「……はぁ、はぁ……洞窟を通るなんて聞いてない、あんなにガチガチに固定するなんて聞いてない……」
「ずっと悲鳴あげてたな、スカイ」
「そりゃ、それがジェットコースターの正しい楽しみ方でしょう。トレーナーさんは楽しまなさすぎですよ」
「そんなことないよ。スカイの可愛い声が聞けて楽しかった」
「……本当ですか?」
「本当、本当」
「なら許しましょう」
楽しい。
「思ったよりは狭くないですけど……見つめ合うのってドキドキしますね」
「これから20分はこの中で二人きりだな」
「……うーん、狭いところを嘆くべきか、恋人との密着を楽しむべきか……」
「密着ってほど密着してないと思うが」
「……これから、密着するんですよ……おりゃ」
「うわっ!?」
「どきどきしますねえ……」
「びっくりしたよ……」
楽しい。
「さあさあウマ娘の本領発揮! 誰にも負けない速度で回しますよ〜!」
「おいおい! ちょっと速すぎる……!」
「……あー、目が回ってきました。まだ回しますけど」
「ちょっ、スカイ!?」
「……冗談でーす♪ それ、ぐるぐる〜」
「俺の方が目が回りそうだ……」
「ありゃ、大丈夫ですかトレーナーさん」
「……冗談だよ」
「だと思った。トレーナーさん、まだまだ修行が足りませんなぁ」
本当に、楽しい。
時間の進みはやはり残酷で、あっという間に日は暮れる。また1日、大切なあなたが消えてゆく。
「……お疲れ様でした」
「楽しかったな」
「でしょう? トレーナーさんにも死ぬ前に恋人ができて良かったですね」
「……まったく、本当だな」
出来るだけあなたの死を軽く受け止めたいのに、そんな想いを込めた言葉は上滑りして虚空に消える。あなたはせめて、少し重荷を下ろせただろうか。
「また明日からも、たくさんデートしましょうね」
「トレーニングはいいのか?」
「サボり魔だからいいんです。本当に、まだまだやりたいことはいっぱいあるんですから」
明日からも。あなたの人生は幸せだった、そう今からでも思えたなら。私のトレーニングに付き合ったのが最後だなんて、そんなのは私が私を許せない。「やりたいこと」はいくらでもある。もしかしたら、全部は出来ないかもしれないけど。
「……ねえ、トレーナーさん」
「……なんだ」
「こんなにいい雰囲気なんだから、やらなきゃまずいことがあるんじゃないですか?」
黒い空。光る星。周りにはネオンや電飾が光り、私たちを夢の世界に誘ってくれている。ここならば、本当の永遠を約束できる。そんな気がした。現実より、夢に近い気がした。今だけは、そう思いたかった。
立ち止まって、あなたの瞳を見つめて。そっと、顔を近づける。
「……トレーナーさん」
これで、きっと。幸せな夢を見られる。あなたはせめて、そうであってほしい。そう思ったのに。
「……いいや。やっぱりダメだ」
なんで。近づいたはずの二人が、離れてゆく。
「怒られるかもしれないけど、君に無理をしてほしくない。俺に情けをかけてくれるのは嬉しいけど、それは君を傷つける行為だ。どれだけ君のそれが真摯な想いでも」
なんで。私はあなたの眼を、見ていられなくなる。
「だから、恋人ごっこは今日きりにしてくれ。……すまない、こんなキツい言い方するつもりは……」
「なんで。なんで、そんなこと言うんですか!」
そして。初めて、あなたに怒りをぶつける。ノートがびりびりに破けるような、そんな音が心の奥から聞こえた気がした。
「私はあなたのことが好きです。好きだから恋人になりたかったんです。それの何がおかしいんですか。情け? 馬鹿にするのもいい加減にしてくださいよ。ごっこ? 気持ちをぞんざいに扱うのも大概にしてくださいよ。あなたの私への信頼とかって、そんなものだったんですか? 私の抱えてた気持ちって、その程度だったんですか?」
「……スカイ、ごめん」
「……謝らなくていいですよ。謝ったって、なんにもならない。私はそれがわかってるから、こんな話したくなかったのに」
もう、駄目だ。あなたの言う通りの薄っぺらな恋人ごっこは、粉々に砕けて剥がれ落ちる。わかっていた。きっとずっとわかっていた。指摘されるまで見ないふりをしていた。そういう意味で、私の覚悟はニセモノだった。
「ごめんなさい。今まであなたとの時間を無駄にしてきてごめんなさい。相手の気持ちも考えられなくてごめんなさい。ごめんなさい。あなたの貴重な人生を私なんかに費やさせてごめんなさい」
今の自分の顔がわからない。気持ちはぐしゃぐしゃ。どれが私の表に来ているのか。批難、激昂、悲哀、恋慕。どれにしたってみっともなくて、私は無価値だということはわかる。
「恋人になりたいなんて言って、ごめんなさい」
くるり。踵を返す。踏み込んで、駆け出す、逃げ出す。あなたが追いかけたって間に合わないくらい、速く。もう二度と、会えないように。カバンに入れたままのやりたいことリストが、空しくその中を動き回る音がした。どこにも行けない、私と同じだった。
「スカイ!」
何度も呼ぶ声もあなたの追いかける足音も聞こえないふりをして、一人で寮へ帰った。独りにならなきゃいけなかった。
*
「うっ……うぇぇん……ぐすっ……もう、なんで……」
寮にある暗い個室で、どうしようもなく泣き叫ぶ。あなたの幸せ。そのためだけに生きるつもりだったのに、私はひとしきりあなたを罵って消えていった。救いようがない。十分泣けば後悔が涙を後押しし、二十分泣けば罪の意識が鼻を刺激した。
おそらくあなたは、これからこのことを後悔して生きてしまう。最期まで、私なんかに心を占有されたまま生きてしまう。私の方もあなたを一生忘れなければ釣り合いが取れるだろうか。いや、取れるわけがない。私なんかが百人いたって、あなたの価値には敵わない。これから送るべきあなたの幸せを刈り取った大罪人。あなたがいなくなった後、あなたのことを想う権利すらない。むしろ必死に忘れなければ、生きる資格だってない。むしろそうして代わりに命を捨てれるなら、全てが解決してくれるのに。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
もう届かない謝罪をひたすらに続ける。
「……スカイ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
あなたの声が聞こえてきた。そんなはずないのに。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
もう全てが手遅れなのに。
「……スカイ!」
……え? トレーナーさんの、声だった。二度と会えないようにしたはずの、声。扉の外から、その声は続ける。
「スカイ、聞こえるか? 寮長のヒシアマゾンに頼んで入れてもらった。許可はあるってことだ。開けてくれ」
「開けたらどうするんですか」
「どうもしない。話がしたい」
「……そうですか」
もう一度だけ、あなたに会えるのかな。もう一度あれば、せめて本当にお別れできるかな。そう思って、扉を開ける。開けた瞬間。
あなたは部屋に飛び込んで、私の全身を思い切り抱きしめた。
※
「……なっ……なんで?」
「スカイのことが好きだからだよ」
わけがわからない。離さまいと抱きしめられるわけが。
「あんなに、酷いことしたのに? 酷いこと、言ったのに?」
「俺の方が酷い。君を置いて先に逝ってしまう。……本当は怖い。死ぬのは怖い。文字通り死ぬまでもがき苦しむ。だから、それを和らげようとしてくれた君には感謝しなきゃいけなかったのに」
わけがわからない。愛を込めて抱きしめられるわけが。
「本当に、俺は弱い。最後まで一人になろうとした。君の言う通りだ。信頼を軽んじ、気持ちを踏み躙り。全部の手を振り払って、地獄へ堕ちようとしていた」
「やめて、そんなこと」
「……そうだ。だから止めるよ。もう君を裏切ったりしない。ずっと、だ」
トレーナーさんの、弱さ。それが、ようやくわかる。独りを選ぼうとして、それが愛する人のためだって。そんな恥ずかしい台詞が、本人の口から語られる。私たちは、互いの弱さを見せ合う。独りになりたい弱さと、一緒にいたい弱さ。それはちぐはぐで噛み合わないとしても、互いの全てを知りたいから。あなたに知って欲しいから。あなたを知りたいから。だから、私たちは愛し合える。
「ねえ、トレーナーさんは。なんでトレーナーさんは、死んでしまうんでしょうね」
少し落ち着いて。あなたの匂いを鼻水まみれの鼻で嗅ぎながら、どうしようもない疑問をこぼす。現実の話だ。吐きたくなかった弱音も、今ならあなたに零せるだろう。
「……スカイ」
「こんなに優しいのに。こんなに愛してるのに。神様なんていないんですかね」
ぎゅっと、背中を抱きしめて。もしも神様がいるならば、こんなに素敵な人に死神を送りつけるだろうか。現実は理不尽。どこにも見えざる手を感じない。やっぱり、どうしようもない。
「俺も確かにそう思った。なんで俺が死ななきゃならないんだって。神に見捨てられたとはこういうことかと思った。でも、今ならわかる。神様はいるよ」
それなのに、あなたはそんなことを言う。うそだ、と思った。こんな残酷な、現実なのに。
「いるんだ。そいつは俺を君に会わせてくれた。だから、俺は幸せな人生だったよ」
でも、そう言われてしまえば。それなら仕方ないと、そう思ってしまう。私の存在が、あなたの人生の理由になれたなら。それが神様の手引きだと思うほどならば、私はそれを否定なんかできない。
「そんなことを言えるなんて、トレーナーさんがきっと神様ですね」
「……それは大変だ。神様なのに一人のウマ娘に恋までしてしまった」
「……私、罪深い女ですね」
罪は背負おう。あなたのためなら。私のための、あなたのためなら。あなたが私の、私だけの神様。それくらい、それくらいの気持ちがあるとも。きっと、愛とはそういうこと。
「トレーナーさん、私のどんなところが好きですか?」
「いくらかあるよ。いくらでも言える。言えば言うほど新しく思いつく」
ああ、それはどんなにか素晴らしい。嬉しいし、いくらでも聞きたい。
「私も言えます。トレーナーさんが好きって、今度こそ」
私もその通り。いくら言っても飽きないだろう。けれど、今は。今はとりあえず。
「スカイ」
「トレーナーさん」
「「愛してる」」
この言葉だけでいい。
私たちは、世界一幸せだ。
※
「私、トレーナーさんのこと。ずっとずーっと覚えておきます。何もかも、匂いまで。そうすればトレーナーさんは、私がおばあちゃんになって死ぬまで、一緒に生きてるのと同じです。人が死ぬのは、誰も覚えていなくなった時ですから」
「ありがとう。でもいつかは俺を忘れてもいいんだぞ? 亡くした恋人に引きずられるなんて……いたた!?」
相変わらず自分を大事にしないトレーナーさんに、裁きのぎゅー。これくらいの力加減で死ぬことはないだろう。だってまだまだ、これから生きてもらわなきゃいけないんだから。
「私はトレーナーさんとの思い出で、一生分幸せになってみせますよ。その自信があります。……これから、いっぱい思い出作りましょうね?」
「……ああ、もちろん。俺だって負けない。死ぬ気で生きてやる。なんだかそんな気が湧いてきた。余命なんて決まってるもんじゃないさ」
「その意気、その意気」
そう、現実は物語より唐突で劇的だ。ひょんなことから治療法が見つかって、すっきり健康になれるかもしれない。ここまで語った決意は全部無駄になって、二人で穏やかな老後を過ごすのだ。子供や孫もたくさんに囲まれて……。それが夢か現実かなんて、未来は誰にもわからない。時間は止まらず、常に動いているのだから。
「ねえ、トレーナーさん」
そうだ。ピンときて、あなたの肩に力をぐっと込める。
「うわっ……と、どうしたスカイ、急に倒れ込んで!?」
「トレーナーさん? これは、押し倒す、って言うんですよ?」
目の前の神様も、私のことなら許してくれるだろう。他には誰も見ていない。……まあバレたなら、それはそれ。既成事実、というやつだ。
「覚悟、です☆」
あなたが死ぬまでにやりたいこと、一つ開始。