ざざーん、ざざん。夜の海は静かだ。聞こえてくるのは波の音だけ。耀くのは白い月だけ。鏤められた星と照り返す海面の光はその他大勢のようなもので、まったくもって煩くない。私と同じだ。文句も言わず、すーっと朝には消えてゆく。私たちの朝は、もう少しで訪れる。
宝塚記念を終えて、私とトレーナーさんは三年目の夏合宿を迎えていた。そしてそんな大事な時期の深夜、ゆっくり休むべき時間に私は海辺を歩いている。明日の寝不足にも構わず夜更かしをして、自分を大切にしていない。そうする理由は単純で、そうしないとつまらないから。真面目にやるのなんてつまらない。勝てなくなった勝負なんて、つまらない。
「はぁ、なんだかな」
虚空に苛立ちを吐き出す。曖昧な独り言だけど、それが苛立ちだと自分には認識できた。私が苛立つ相手がいるとしたら、誰だろう。無意味な考察。本来セイウンスカイというウマ娘が行ってよい思考は、次を勝つための策謀だけ。それを外れてしまった時点で私は私じゃないかもしれないのに、苛立つ先を求めてしまう。たとえば私より輝いている同期のみんな。たとえば私なんかを信頼してくれるトレーナーさん。そんな泡沫を頭上に浮かべて、捩れた思考の矛先を向けてみて。その瞬間に脳裏に走る嫌悪感は、私にそんな考えができない証。私が私を許せない証。つまり、私が苛立てる先があるのなら。
それは、私自身だけ。真上に浮かぶ月の白さが、そんな残酷な答えの正しさを証明している気がした。
そこまで自分を卑下して、また砂浜をくしゃくしゃに歩いて。時間がどれだけ経っても一向に眠気は来ない。昼から寝るのが大好きだった私にしては珍しいのかもしれない。あるいは、私は。私はもう、昔の私とは別人になってしまっているのかもしれない。そんな馬鹿げた考え。けれど馬鹿げた思考を続けることこそ、私が変わってしまった証左だった。もう私は私じゃないから、自分自身を憎みさえできる。見た目が同じだけの空っぽの器。それが周りの人たちを惑わせている。死んだ誰かのガワを被って、かつての繋がりに縋っている。たとえばトレーナーさんは、今日も変わらず私のための合宿特製トレーニングを考えてくれていた。トレーナーさんは、私がいつものように"フリ"をしているだけだと思っているのだろうか。それとも私が変わってしまったと気づいた上で、元に戻ってくれると信じているのだろうか。「作戦のうち」とか、「きっとまた勝てる」とか。そんな仮定を積み重ね、どこかへ消えた本気の私をまだ幻視しているのだろうか。
「……私にやる気なんて、残ってないのにね」
無駄なのに。私の気持ちはどこにあるのか、もうわからない。勝ちたいとか逃げたいとか、そういうことをどうやって考えていたのか、わからない。わからないから、つまらない。過去をなぞって「セイウンスカイ」の行動を再現しても、どこにも空しさだけしかない。そして、それなら。そんなつまらないことをやる意味なんて、ない。それが私の結論で、他に頼れるものなんてなかった。あるとしたら、これも仮定の話。今の私が唯一逃げれるのは、もう、「もしも」だけ。
もしも、もしも。私がまだ私だとしたら。そうすれば、みんな幸せなのだろうか。私自身も含めて、噛み合ったままだっただろうか。そうだったなら、きっと嬉しい。私が幸せを与えられるなら、それは願ってもないことだったはずだ。けれど、同時に。もしそうだとしたら、今の私は存在するだけで皆を不幸にしている。皆から「セイウンスカイ」を奪い去り、そこに居座り同じ待遇を求める。そしてそれに誰も文句は言わない。悪様にできるのは、私自身だけ。
いつのまにか砂浜の端で座り込んでいた。細かな砂が下ろした腰にまとわりついていた。そうして視界も下ろして足元を見て、思考も暗がりへと向かっていた。夜より朝が近くて、朝の日差しが私を消してしまわないか怖かった。そんなふうに怯えていた時、だった。
がさごそ。不意に一匹の猫が現れた。まだら模様でやせ気味で、首輪もつけていない。野良猫だろうか。此方に寄って来るその子を撫でてやる。この子は皆に愛されているのだろうか。野良猫は得てして人里の邪魔をしかねないものだ。だから誰からも愛されない可能性はあるし、当然逆に地域に溶け込む可能性もある。当人はのんびりと暮らしているだけで、どちらにせよあまり気にしていないだろうが。
「……っと、それは私も同じ、だったんだけどな」
一人気ままに生きながら、緩やかに他者の影響を受ける。そんな野良猫のような振る舞いに、かつては親近感を覚えていた。マイペースに、揺るがず進む。誰かの真似をするでもなく、自然と私はそうしてきた。だから、そうしていたのが私だ。今、誰かの顔色を窺っている私とは違う。猫のような振る舞いを、などと型にこだわる私とは違う。そうやって過去との同一性を求める時点で、私は既に私じゃない。なのに、こうしている。
私は結局、トレーナーさんにいい顔がしたくてこの状況に陥った。変わってしまった私がいて、それでも私が持っていた関係性は失いたくなくて。かつての私に求められていたものを再現できるなら、誰も見捨てたりなんかしない。ギリギリまで失望されないように、いつも通りのフリをすること。もう走れなくなった私にできるのは、走る前の準備運動を勿体つけてやることだけなのだ。時間をかけて、引き伸ばして。永遠にさえ、なって欲しいと。
もしも、もしも。また頭にもしもが浮かぶ。もしも何かが違えば、この結末は来なかったのだろうか。もしも私が今の私にならなければ、そんな選択肢はあったのだろうか。それこそわからないことだったけど、不思議とつまらなくはなかった。今私に唯一考えられることだった。散々羨んだ、昔の私に近かった。
何もかもが、もしも。もしも、違うなら。夜空のように広がる全ての事象を選択肢として頭に浮かべ、その矢印を切り替える。かち、かち、かちり。片手で猫の喉を掻きながら、もう片方で宙に図を書いていく。
もしも、もしも。私がまだ、いつもの私だったら。あそこで負けなくて、あそこで勝っていて。そうやって、きらきらしていたあの頃と変わらなかったら。そのシミュレートを始めようとしたところで。
「にゃあ」
と、鳴き声がして。視界は歪み、感覚は宙吊りになった。
※
「おはよう、スカイ」
「おはよう、トレーナーさん。今日も暑いですけど、頑張りましょっか!」
私の名前はセイウンスカイ。クラシックで波に乗ったまま、シニア級でも最強世代の先陣を切っている。だからやる気に満ち溢れているし、私は文字通り追われる立場だ。油断もできない。けれど、これ以上ないくらい充実している。
「今度の秋天も、きっとスカイが一番人気だな」
「やめてくださいよトレーナーさん、私は人気薄の時に掻っ攫う方が得意なんですから」
そう、それがいつもの私だ。考え尽くした策には確かな自信を持っている。怠惰の裏に活力の牙を研ぎ澄ませている。何も問題はない。これが正解のはずだ。トレーナーさんの信頼も、これなら裏切ることはない。
「よぉし、そこまで。あんまり脚に負担をかけすぎないようにな」
「心配しなくても、無理なんてしませんよ。ちょーっと、頑張っちゃうだけですったら」
爽やかな受け答え。私たちに相応しいのはこれだ。軽くていい。浮ついていてもいい。だって「セイウンスカイ」は、最初からそういうウマ娘だったのだから。
「……はあ、お前のことはよくわからないな、スカイ」
そういえば、昔のトレーナーさんはしきりにそんなことを言っていたな。最近は言われていない。それを思い出した。それはきっと安心したから。ずっとここまで勝ち進んできて、変わることのない私を見て。これで全部わかったのだと、わかったから。
「なんですか? セイちゃんはいつでもわかりやすいお誘いをしてるじゃないですか、昼寝とか」
「いつかはわかると思ったんだけどな」
だから、私にはわからない。いつかはわかる。その言葉の意味が理解できない。ゆるっと勝って、いつでも気楽で。それと契約したのだから、それが全てでいいじゃないか。今あなたにわかっているものが、あなたにわかることのできる全てだ。私は当初の印象通り、強いウマ娘であっただけ。それ、だけ。
「トレーナー、さん?」
「君には底知れない強さがある。だけど俺は、君の弱さも知れたらいいと思っていた。でもそんなもの、なかったのかもな。サボりはただのサボりで、悪戯はただの悪戯」
「……やだなあ」
強い私はそれでも飄々としている。誰の指図も受けないし、誰にも依らない存在であるはずだ。そうやって、何があってもいつものまま。
「というわけで、お別れだ」
だから。
「さよなら、スカイ」
そう言って、あなたの姿が消えても。
「……あらら」
それ以上は、なにも言わない。心に襲う感情が、後悔であることにすら気づかず。強さと愚かさを履き違えた道化は、誰も見てくれない手品を続ける。きっと他のトレーナーを見つけて、何食わぬ顔で走り続けて。どこかで負けたとしても、心の底から「次があるさ」なんて言ってしまって。誰もが私の表面を見てくれる。誰もが印象を変えない。私自身も、私の表面だけしか見えていない。
「にゃあ」
その声と共に、ぐにゃり。視界は再び歪み、星空が戻って来る。ギラギラと眩しくて、ホンモノじゃないような気がした。触れる砂浜も不可思議な感覚のままで、今見たものがなんなのか答えはまだ出せない。単なる夢か、願った「もしも」か。それはわからない。でも、わかることはあった。これは、求めたものではない。"いつもの私"だけが私に存在していたら、誰もがその手の内の少なさに飽き果ててしまう。トレーナーさんが、いなくなってしまう。強さだけを見せる私は、本当の意味で私らしくなんかない。
そこまで考えて、一つの道筋を見つける。あるいは私はもっと貧弱であればいい。どうしようもないくらい、あなたがいなければだめな存在になればいい。今の私が呑み込めない嘆きを、肯定してしまえばいい。思考の矢印をまた次々に切り替えて、新しいレールを敷く。
「にゃあ」
猫の鳴き声と共に、再び。私の意識は世界を超えた。
※
「……おはよう、スカイ」
「おはよう、トレーナーさん。いつも悪いですね」
私の名前はセイウンスカイ。クラシックで取り返しのつかない故障をしたあと、私は病院での療養を続けている。シニア級に行ったみんなのことが羨ましい時もあるけれど、仕方ない。それを悲しみ嘆く時間は、もう越えているのだから。
「走りたいと、思うことはないか」
「……私は、弱いですから」
どうせ、無意味だっただろう。引退までに積み上げられる功績は大したものではなく、私はこれっぽっちも勝てずに終わる。それならば、その前にこうなっても大した差ではない。だからこれでいい。そう思えば、全てに納得がいく。
「俺は、お前のそばにいるよ。お前が復帰できるまで、ずっと」
どこかで見た「もしも」とは違う。あなたはもうずっと、私のそばにいてくれるらしい。私の弱さは、あなたを引き止めることができている。
「……嬉しいです」
私も強がらずに、本心だけを述べる。嬉しい。幸せでなくても、嬉しい。私の弱さを認めてもらえるのは、とても嬉しいことだった。
「……まだ、スカイは走れるさ」
「いいんです」
嬉しい。弱さを認めるだけで、嬉しい。だから、それ以外は。
「そんなことない」
「……いいんですったら!」
私のどこかが逆撫でされて、何故か私はあなたに攻撃する。いいや、理由はわかっている。逆撫でされたもの。私の理不尽な感情。
「私は、もう嫌なんです。走って負けるのが、怖いんです。復帰したって勝てるわけありません。それでも勝ちたいと願うなら、それはトレーナーさんのエゴです」
酷い言葉を次から次へと撃ち出す。弱音の形をしたナイフが、避ける気のないトレーナーさんの心臓を抉り取る。弱さだけで人格を作るとは、そういうこと。一方的に攻撃して、それでも反撃はなされない。励ましを求めながら、それでも励ましを拒否する。これもやっぱり、誰との繋がりも求められない。
「私は! トレーナーさんがいなかったら走ることもなかった! 勝利の幻想なんて持たなかったし、届かない夢を見ることもなかった!」
「……そうだな」
それは確かに正しい。
「あなたがいなければ」
あなたがいなければ。
「私は、こんな目に遭わずに済んだ」
私は、どんな夢にも逢えなかった。そうして世界は黒に転換し、思考回路だけの空間が全身を覆う。あなたがいなければ、どうなっていたか。変遷の根本にあるものが、そんな「もしも」だと理解する。いつもの私のような強さだけを求めれば、あなたは離れていって。今の私のような弱さだけを願えば、あなたさえ拒絶してしまって。そうして大きく回り道をして、漸くわかった。なにが求めるもので、なにが正しいか。間もなく全てが消えて、全てが現れる。
「にゃあ」
また、猫が鳴いた。
※
全ての景色が現実へと戻る。星空が、砂浜が。海が、私が。ざらついた感覚はまさしく潮風のそれだ。五感全てが、世界へ帰っていた。
今見た二つの何か。強い私と、弱い私。私は夢を見ていたのだろうか。あれは可能性の話で、夢というには現実の私に近かったかも知れない。それくらいしかわからない。けれど、そのおかげでもう一つわかること。正しい道筋は、思ったより近くにある。全ての矢印を元通りに直し、私は立ち上がる。行先は一つだ。
既に空は明け始め、小鳥が囀る。朝は、私を消し去らない。
「おはようございます、トレーナーさん」
「……おお、おはよう、スカイ」
「トレーナーさんは、私のこと。どう思ってますか?」
「……何かあったのか」
朝一番、寝ぼけ眼のトレーナーさんの元へ。そんな眠そうな顔でも何となく察するあたり、やはりトレーナーさんは私のことをよくわかっている。私は強さと弱さをどちらも知られている。全てを握られている。きっと、それこそずっとわかっていたはずのこと。いつもの私は強がりで、ついつい見落としてしまうこと。さっきまでの私は弱虫で、どうしても頼れないこと。でも、今の私なら。
「私は面倒な女なので、欲張りです。トレーナーさんを振り回したいけど、振り回されたい。一進一退、ずっと変わらない距離感でありたい。……なんてね」
遠すぎて、離れてしまうのも。近すぎて、汚してしまうのも。どちらも嫌だ。曖昧で観測しきれない、それが本当の私らしさ。どんな結果が観測されるとしても変わらないものは、私があなたと一緒にいたいということ。
「……いつも振り回されてばかりな気がするが」
「ご冗談を」
「実は突拍子もないことをして、スカイの本心を暴き出そうと思ってたところではあるな」
「ほら、やっぱり」
「でも、その必要はないみたいだ。今の君なら、な」
「トレーナーさんのおかげですよ」
私が立ち直れたのは、トレーナーさんのことを考えたから。それは気恥ずかしくてとても言えないことだけど、きっとはっきりわかること。つまらなくなんか、一生だってならないこと。手を伸ばせば届くくらいの距離。ずっと、そこから変わらない距離。月と地球、そのくらいの距離。そんな距離を保つには、私の強さと弱さは同居しているのがぴったりだ。
たとえば気持ちは色々なものが重なっていて、それを言葉にするまではどういった感情かはわからない。だから先程までの私が何もわからなかったのは当たり前で、それを解消するためにあの「もしも」があった。私が思ういつも通りの皮を被った私も、私の中にある弱く毒々しい私も。常に重なっていて、どちらも私だ。その感情同士に矛盾があろうが構わない。あの猫が見せてくれた二つの可能性は、どちらかだけでは私が成立しないことをよく示してくれている。確かにその二つは矛盾して、相容れないものだけど。矛盾があれば重なり合わないなんて、そんなことは誰にもわからない。実証してみれば、あり得ないはずの論理だって成立してしまうのだ。
「にゃあ」
「おっと、どうしたんだその猫。新しい友達か?」
「えへへ、そうですね。どっちかといえば恩人……いや恩猫……?」
「なんだそりゃ」
「秘密です、秘密」
夏の夜に、猫の鳴き声と共に見た世界が二つ。強い私と、弱い私。それらが完全に重なり合って、本当の私がある。だからあれはどちらも正しい。それぞれ50%くらいずつ正しい。合わせて100%、文句なし。
「さて、トレーナーさん」
「なんだ、スカイ」
「女の子が手を差し出したら、男の人がやることは一つですよ」
「仕方ないな」
差し出した手に、あなたの熱が伝わる。引っ張って、引っ張られて。何度も強さと弱さが入れ替わるから、手を繋いだ二人は歩くことができる。だから強さと弱さがどっちも必要なのは、なにも個人だけの問題じゃない。私たちが共に歩くためには、強さと弱さを見せ合う必要があるのだ。どんな「もしも」があっても、前提にはあなたの存在があったように。あなたがもしこの先弱さを持っても、その側に私が居ればいいな、と思った。
手を繋いで、二人で朝日に輝く砂浜に躍り出て。私とあなたの距離を、再確認する。やっぱり、手を伸ばせば届くくらいの距離だった。だからこうして今、手を繋いでいる。手のひらが、重なりあっている。これで十分。重なっていれば、それは決して混じりあわないはずの事象でも。
一つに、なるのだから。