じりりりりりりり。少女はまだ、目を覚さない。
きゅるりりるらら。マクガフィンが、けたたましく奇怪に鳴っているのに。
──かちっ。そうして、マクガフィンは世界を形造る。
マクガフィンが歌うのは、少女のいる世界。マクガフィンが語るのは、世界に挑む少女。始まりゆくオーバーデイ。あなたのための、例外的一日。
始まるのは、二人の話。少女と少女。その話。
じりりりりりりり。やがて、もう一度鳴り始めるマクガフィン。今度こそ、少女が目覚めるように。
そうして、幕を開ける。
※
──じりりりりり。あつい。熱い……暑い。身体が燃え上がっているような感覚。身体が湿り切っているような錯覚。とにかく、あつい。
──じりりりりり。それだけならいいのに、うるさく鳴り続ける目覚まし時計。それのせいで、わたしは完全に目を覚ましてしまった。こんなものセットしただろうか。とりあえずいまいちすっきりしない目覚めの中で、なんとか目覚ましを叩いて止める。汗まみれの身体でぐったりしながら伸びをしていると、わたしが起きたのに気づいた声があった。
「ああ、目を覚ましたのかい」
「おはよう、◼️◼️ちゃん」
「……おはよー、おじーちゃん、おばーちゃん……」
寝ぼけ眼で二人に返事するわたし。だんだんと目が覚めて、今の状況を思い出す。そうだ、わたしは確か……夏休みの最中。おじいちゃんとおばあちゃんの家にひとり旅に来て、泊まっている。いつまでもここにいれるわけじゃない。夏休みの終わりまで、わたしはこの田舎に軽い引っ越しをしているのだ。寝起きというのはふしぎで、何もかもを忘れている。まるでさっきまで見ていた夢の中が本当で、今ある現実がニセモノな気さえしてしまう。そんなはずないのにね。起きてしばらくすればわかることだ。
「今日は……えーっと」
何日だっけ。まだぼやけた頭はそれすら思い出せない。夏休みにおいて残り日数ほど大事なものはないから、日にちを忘れるわけにはいかないのに。全開の窓から差し込む少しギラギラした陽の光だけに照らされた部屋を見渡し、ちょっとの後真新しい日めくりカレンダーを見つける。目を凝らすとそこには日付が。そうそう、そうだった。簡単なことなのだ。昨日が8月の31日なのだから。
「8月32日」
今日は、8月32日。そうに決まっているじゃないか。カレンダーにもそう書いてあるのだから、きっと間違いないだろう。
「じゃ、いってきまーす!」
「はいはい、気をつけてね」
「暗くなる前に帰ってくるんだよ」
顔に水を叩きつけ、一気に眠気を覚ます。さっきからぽやぽやしすぎだから、しっかりしなくちゃ。しっかりしたら、早く遊びに出かけよう。お気に入りのワンピースに身を包み、とっときのポーチを肩から提げる。あいさつまでしっかりして、わたしはおばあちゃんたちの家を飛び出した。いつもの夏休み。いつものあそこなら。今日もきっと、幼馴染のあの子が待っている。
「いつかちゅーできたら……なんて」
えへへ。目の前でそんなこと、口には絶対できないけど。夏休みに会った、気になる男の子。当然夏休みが終わったらさよならだ。
でも、まだ大丈夫。まだ時間はある。まだ、夏休みは終わらない。
そんな当たり前のことを頭で考えながら、脚は思いっきり走る、駆ける。わたしは走るのが好きだ。自分の脚で何かを進めている感覚。とっても未来に近い感じがする。かけっこなら誰にも負けない。男の子にだって負けない、わたしの自慢だ。
突き抜ける青さの空。青々とした草むら。車も滅多に通らない砂利道。しゃわしゃわと鳴くセミの声を風切って、私は走る。
どれをとっても最高な日が、今日も始まる。このまま終わらなくてもいいかも、なんてね。そう思っちゃえるほど、ステキな夏だった。
※
──じりりりりり。目を覚ますと、知らない場所だった。自分を叩き起こした音の原因さえ、どこにも見つからなかった。でも、やるべきことはわかっていた。何故なら、脚の痛みはそのままだったから。何故なら、心が苦しいのは変わらなかったから。何故なら。
何故なら、ボクは◼️◼️が大好きだから。
※
青空の下、どこまでも続きそうな地面を走って走って。家から少し行ったところにある公園と、その中心の大きな樹。それがわたしと気になる男の子、◼️◼️のいつもの遊び場。そしてわたしはこの待ち合わせに密かにデートを重ねている。もちろんそんなこと、絶対ヒミツなんだけど。近づくにつれて、心臓が高鳴る気がする。とくん、とくん。運命の相手を見つけたから、だったりして。その姿がだんだん近づいてるのがわかるから、だったりして。
大きな樹の下に、いつものように。いた、いた。いつも光り輝くような笑顔。彼がいた。声が届くようになったあたりですぐ、元気な挨拶が聞こえた。
「おはよう!」
「おはよー! 待たせちゃったかな……ごめんね」
すぐにわたしも樹の下に来て、息を切らせながら挨拶する。あなたに会えて、心のときめきが少し膨らむ。そんな気がして、それだけでふわふわ。なのに、◼️◼️が言ったのは予想外の一言だった。
「ああ、それなら心配なかったよ。他の子と一緒に遊んでたんだ。……そうだ、三人一緒に遊ぼう」
……なんだって? わたしとあなたの二人きりのじかんは? そんな質問はやっぱり言えないので、ただむっとしてもう一人の人影を探す。……いや、探すまでもなかった。樹の裏に一応隠れてはいたけれど、どうしたって目に留まる。ぴんとはねた、人間とは違う耳。ふさふさして揺れ動いている、尻尾。そして女として敗北を認めざるを得ない、かわいらしい顔立ち。あまりにも、目立つ。こちらが目を向けるとすぐに、その子は勢いよく挨拶する。わたしたちの中でもいっとう、元気よく。
「……こんにちは! ボクの名前はトウカイテイオー! 今までこの子と一緒に遊んでたんだー! よろしくね!」
わたしにとって初めて見る、ウマ娘という存在。わたしにとって初めて現れた、自分よりかけっこの速い女の子。そしてわたしにとって初めて現れた、恋敵、だった。
「それでねー、ボクは……」
「へえ、さすが……」
むー。そんな自己紹介を終えて先程から一緒に遊んではいるものの、三人というのは一人があぶれるようにできている。今回の場合はそれはわたしのことで、お似合いの男の子と女の子が仲良く語らっているのをじっと睨むことしかできない。ずるい。わたしの◼️◼️なのに。そんなえらそうなことを言えないのはわかっているので、ただただ二人の会話に耳を澄ませるだけ。なんとか割り込めないだろうかとか思いながら。
「ねえ、◼️◼️の好きな子のタイプって?」
「そうだな、元気な子かな」
たとえばそんな会話。元気といえばさっきまではわたしだったのに、今じゃそれはトウカイテイオーのことだ。そんなことをあけっぴろげに聞けてしまうあたりで、敗北感を味わう。
「◼️◼️はさー、はちみつすき?」
「うん、好きだな」
他にはそんな会話。なんでもないはずなのに、言葉尻を聞いてドキッとしてしまう。すき。すき。私は、それが聞きたいのに。だけどこのままじゃ、このままじゃ。このままじゃ、終わっちゃう。夏休みの初恋が、終わってしまう。それはイヤだ。ステキな夏は、まだこれからなのに。……我慢、できない。ついにわたしは、口を開く。
「ねえ、テイオー」
「……どうしたの、◼️◼️」
「勝負して。わたしが勝ったら、二度とわたしたちの前に現れないで」
その提案は、苛烈なものだったと思う。唐突なものだったと思う。けれど、わたしはそれを望んでいた。この夏を守るためだった。
「……うん、いいよ」
「よし、じゃあ俺が審判をやろう」
そして、反対する者はいなかった。◼️◼️も、テイオーも。唐突で苛烈でも、全員が受け入れた。もちろん仕掛けたからには、負けるつもりはない。勝負の方法を告げると、テイオーは少しだけ驚きながらも了承した。この勝負は通常なら、公平どころかこちらが不利でさえあるけれど。わたしはもう、気づいているから。
「……ほんとにかけっこでボクに勝つつもり?」
「かけっこじゃないよ、マラソン。ずーっと、あそこからあそこまでぐるりと回ってここの樹の下に戻ってくるの」
「ウマ娘相手に脚勝負とは、さすが◼️◼️だな!」
「えへへ。そうでしょ」
あらかた勝負の方法を説明すると、さすが、と褒められた。わたしは◼️◼️から見てかっこいいということかもしれない。嬉しい。それだけでも脚で勝負する理由にはなるんだけど、それだけじゃない。無謀に見えるこの勝負にも、勝ち目はある。それでも勝負をテイオーに受けられたのだから、きっとあちらも負けるとは思っていないのだろうけど。
「じゃあ、言った通りルール無用だから。それだけよろしく」
「……ボクは負けないよ。負けられない理由があるからね」
彼女も真剣だ。負けられない理由があるなんて、そんな表情は今まで見せなかった。やはり彼女は◼️◼️を奪ってしまうのか。夏に、終わりを告げてしまうのか。それならこちらこそ、負けられない。
「位置について」
木の枝で引いたスタートラインに、わたしとテイオーで足を揃えて。
「よーい、ドン!」
彼の掛け声とともに、二人で並んで駆け出した。走る、疾る。普通に走っている限り、ウマ娘とヒトの間にはあっという間に差が開いていくだろう。しかしそうではない。そうならない。今、二人の間隔はわたしがリードしているくらい。やはり、思った通りだ。
「やっぱり、脚が悪いみたいだね」
「……さすが、気づくんだ」
ずっとあった違和感の正体。出会った時から今までずっと、彼女の重心は脚を守るような姿勢だった。無論歩けるくらいではあるのだろうが、全力疾走は不可能。それに持久走ならば、さらにその歪みは大きくなるだろう。後ろを見れば、びっこを引くように。彼女は片脚のステップで無理やり走っているように見えた。
「あなたはまともに走れない。今だって、見ればわかる。卑怯な勝負だとしても、わたしは負けられないんだから!」
「◼️◼️が好きだから?」
「……そうよ! だからあなたに◼️◼️を取られて、夏休みがそれで終わりなんていやなの!」
わたしにとっての夏休みは、◼️◼️と遊ぶこと。その邪魔なんて、夏の終わりなんて、誰にも。そう一生懸命に告げると、テイオーも言葉を返してきた。彼女なりの戦う理由、それは。
「悪いけど、ボクも負けられないんだ。好きな人のために」
「そ、それって……!」
十中八九、彼のことじゃないか。それなら尚更負けられない。この勝負は、恋の勝負。想いの強い方が、勝つ! それだけ言いあって、走る、走る、ひた走る。長い長い道のりを、ずっと二人で走っていた。
「……はあ、はぁっ……」
「……はーっ、まだ、ボクが……」
決めたコースは思ったよりもずっと長く、7割を過ぎたあたりで二人ともバテてしまっていた。彼女には脚のハンデがあるはずなのに、食らいつかれている。これがウマ娘と人間の基礎スペックの差か。いや、それなら五分五分。あとは気持ちの問題だ。気持ちの問題。酸素が減ってきた頭で考える、本当の気持ち。わたしの気持ちは、◼️◼️を振り向かせること。テイオーの気持ちも、◼️◼️を振り向かせること。多分、きっとそう。そのはず。……何故か違和感があるのは、走り疲れてまともに考えられないからだろうか?
「負けないよ、ボクは」
「……テイオー」
「ここでは止まれない。まだ、先がある。だから……!」
何故か彼女の言葉を聞いて、猛烈な反感が芽生える。一滴の違和感が生んだ波紋が、さらにうねりを持って広がる。わたしが彼女に反感を覚えた理由。敵意を持って、排除しようとした理由。
「……だめだ、だめなんだよ。諦めて、なんで諦めないの」
だって、だって。夏が終わるのは、よくないことじゃないか。◼️◼️に会えなくなる? いいや、それだけじゃない。秋が来れば、その先に進んでしまえば。ここで、止まらなければ。そうだ、これはあなたのためなんだよ、テイオー。だって、ここで諦めれば。この時間が、永遠になれば。
トウカイテイオーが菊花賞に出走できないなんて事実も、永遠に来ないじゃないか──。
え?
自分の中に沸きたった思考に戸惑う。菊花賞。知っている単語だ。さっきまでは知らなかったそれが、当たり前のように記憶に刻まれていることに気づく。まるで、夢から目覚めるかのよう。
あれ?
何故わたしは走っているのだっけ。恋敵を討ち倒すため? 夏休みの思い出の男の子? それは確かに覚えているけれど、"十年以上前の話"。わたしは、いや、私は。かけっこ好きの女の子だった私は、中高で他人の走りをサポートすることに目覚めて。それが高じてトレーナーになった。そうだ、そしてトウカイテイオーと契約して、そして、そして。そんな思考が濁流となり、勢いよく爆ぜた瞬間。遠くで見守る◼️◼️の姿が弾け、そこから吐き出されたモノクロのモザイクが世界を包み込んだ。
8月32日が、解けてゆく。
──諦めない。
──ボクは夢を諦めない。
──諦めて。
──私に幻滅してもいい、だから諦めて。
「ねえ、◼️◼️」
世界が全てモザイクになって。今までずっと、何かの呼称がモザイクに包まれていたことに、今になって漸く気がつく。テイオーの声が、クリアに聞こえる。
「……トレーナー」
そうやって、モザイクが剥がれる。そう、私はずっと「トレーナー」と呼ばれていた。おじいちゃんおばあちゃんの影も、幼馴染の姿も。みんな、私をトレーナーと呼んでいた。この空間における呼称には、およそ似つかわしくないというのに。だからきっと、私はそういう空間を作った。私がトレーナーとしてふさわしくない空間を作って、トレーナーという呼称にもやをかけて聞こえないようにして。私の夢の庭は、そうやって出来ていた。二人きりになった世界で、もう一人に話しかける。私なりの、結論。
「……ここは多分、私への罰なんだよ。テイオー」
誰がどうやって作ったかもわからないけど、そのことはわかった。なんの法則も持たないであろう空間で、その意味を考察するのは無駄かもしれない。でも8月32日に居たおじいちゃんもおばあちゃんもあの子も、私自身が記憶から作り出した影法師。それは間違いない。今の私なら、それが過去に私の周りにあったものだとわかる。だからあれらは、すべて私だ。私の脳みそから作り出された人格と、私本人と。それだけだから、全てが私。私は私だけの空間で、永遠に夏を過ごしていた。唯一の例外一人を除いて。
「罰なんて、トレーナーが受ける必要ないよ」
きっとテイオーは、それを伝えるためにこの空間に入り込んだ。だから正確には、私への罰の是非を確かめる空間、なのかもしれない。このテイオーが私の記憶から生み出されたものでないことは、何故だか確信が持てた。だからその言葉も、きっと本物なのだろうけど。
「そんなことない。私、テイオーにさ。菊花賞、走らない方が良いって言っちゃったじゃん」
「……そうだね」
「怪我した脚で走るなんてあり得ないし、よしんば治ったとしても病み上がりで勝てるわけないって。そう言っちゃったじゃん」
「……うん」
罰を問うというのなら、審判のための情報が必要だ。私は私の罪を並べ立てていく。テイオーも、否定はしない。
「……でさあ、そんなこと言った後に後悔しちゃった。それで夏合宿の終わりにあなたと喧嘩して、菊花賞なんてずっと来なきゃいいって思っちゃった。とんでもない大悪党だよ」
トウカイテイオーはきっとまだ走りたいのに。それを絶った。あまつさえそれを永遠にしようとした。治った先のことすら願わなかった。一瞬さえそう思ったのだから、私はトレーナー失格だ。それがきっと、私が私を許せなかった理由。言葉通り永遠の夏に閉じ込めて、夢幻の中でその永遠の継続を願わせる。テイオーを突き放すところまで、きっと私が願った夢だ。愚かな思考に自らを拘泥させることで、愚かな結末を実証する。自らを操れるのは、夢想の特権だから。そうして罪状が並べられ、審判の場には暫しの沈黙が流れる。モザイクと二人の少女だけの世界は、綻びながらもまだ永遠であろうとしていた。やがて、テイオーが口を開く。判決が下される。
「……トレーナー、ありがとう」
そこまで罪を重ねたのに、述べられたのは感謝だった。やっぱりやさしいなあ、なんて。
「なんで、感謝されるの」
「ボクに走るなって言えるのは、トレーナーだけだから。一人だったら絶対無理して、もう二度と走れなくなってもいいって思いながら菊花賞に出て、それで」
「買い被りだよ」
「違うよ、ボクにはトレーナーがいなきゃダメなんだ。だから、こうして逢いにきた。たとえ脚が軋んでも、走った。……トレーナーのためだから、大好きなトレーナーのためなら」
そこまで、勢いよく言って。そこでつっかえたように言葉を止めて、顔を伏せて。もう一度顔を上げると、いつも快活なその顔がうるうると涙を溜め込んで。つーっと透明な筋を垂らしながら、彼女はゆっくりと手を伸ばして。
「だから。お願い、トレーナー。ボクともう一度、走ってください」
伸ばされた手を自然と取る。彼女の言葉を裏切る罪だけは、絶対私には出来ないから。それきり互いの会話はなく、世界を覆うモザイクの崩壊が始まる。もう、言葉は要らない。モザイクが増殖し、両眼もその先に映る空間全ても消し去ってゆく。大丈夫、視界もいらない。世界を覆うモザイクの蠢きが激しくなり、じりりりりといつか聞いた音でいっぱいになる。きっと、耳もいらない。何もいらない。二人だけいればいい。二人なら、どんな苦難も乗り越えられる。
感覚はゼロに変わる。閉じて、閉じて。夏よ、閉じてゆけ。
※
じりりりりりりり。少女は漸く、目を覚ます。
きゅるりりるらら。マクガフィンが、役目を終える。
──かちっ。そうして、マクガフィンも本来の世界に戻る。
マクガフィンが謳うのは、他愛もない一日の始まり。マクガフィンが騙るのは、世界に不思議はありふれているということ。終わりを告げるオーバーデイ。私とあなたの、元通りの日常。
始まるのはやはり、二人の話。少女と少女、ではないけれど。
じりりりりりりり。やがて、もう一度鳴り始めるマクガフィン。今度も彼女が目覚めるために、だけど本当にそのためだけに。
そうして、幕は降りる。
※
──じりりりりりり。目覚ましが鳴って、私は目を覚ます。叩き伏せた目覚ましの感触は、なんとなく既視感があったけど。それ以上にはならない。もしかすると夢の中で同じようなことをしたのかもしれないが、今日夢を見ていたのかも定かではなかった。まあ、夢の話はいいだろう。それより大事なのは現実、私の担当ウマ娘トウカイテイオーの話。夏合宿でのリハビリを終えたが、トウカイテイオーはやはり菊花賞には出られない。このままだと、そうなる。そのことについて喧嘩したのが、夏合宿の最後だったけど。どうにもならない、二人の間のひずみだったけど。
でも。
「頑張ろっか」
なんとなく、変わった気がする。気持ちの持ちようが、あの時の喧嘩の後悔から進んでいた気がした。多分昨日の夜までは、菊花賞のことばかり悩んでいたはずなのに。今も菊花賞のことは考えているけれど、何故だか前向きに思えている。理屈はわからない。けれどはっきりしているのは、テイオーに謝らなきゃいけないこと。そして、私にはあなたがいないとダメなこと。それがわかっているから、私はこの先へ進める。あなたと共に、未来へ向かえる。
「おっと」
今日の支度をして出かける直前に、一つ気づいたことがあった。合宿中放置していた、寮の自室の日めくりカレンダー。それを一気に千切る。今日の日付まで、一気に。日付は……そう。昨日が8月の31日だったから。
「9月1日」
今日は、9月1日。そうに決まっているじゃないか。それにたとえ、カレンダーがそう書いていないとしても。私たちの走る道に、間違いはない。