ウマ娘の某所に載せた短編集   作:春華ゆが

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久しぶりにまともに短編を書いたと思います
まともな短編じゃないかもしれません


ニシノフラワーの乳歯が抜ける話

 歯が抜けた。それに気づいたのは、朝起きてすぐのことでした。昨日寝た時にはなかった感覚が、今日の私にはあったからです。目を覚まして咥内にある違和感に気づいて、同時に布団に出来ていた赤いシミにも気づいて。慌ててベッドの中を探してみれば、根元にあった歯茎の肉ごとわたしからちぎれていったばかりの小さな白が赤いシミの端っこに見つかりました。最近はぐらついて上手く磨けていなかったから、すこし歯垢が溜まってしまっていた乳歯。幼い時からずっと私と一緒にいただろうそれは、僅かの痛みを伴いながら私から離れていったのだと。昨日の私と今日の私は、少し違ってしまったのだと。その時ようやく、実感しました。

 とりあえずブルボンさんが起きてきた時に心配されてしまわないよう、血のついたシーツはさっさと畳んでしまいました。それなりに大きなシミを作った私の血は、今も少しずつ口の中を染め上げていきます。欠けた感覚のある場所を唾液のついた舌でちろちろとなぞると、なぜたところからぴりっとした刺激が身体に走ると共に、黒くて濃い鉄の味がしました。

 歯が抜けるのはもちろん初めてではないけれど、最初の数本ほど大きいわけでもないけれど。少し無理矢理引き剥がされてしまったそれは、いつもよりちょっとだけ大きな傷をつくっていました。だからずっと、仄かな痛みが染み渡っていました。それなのに不思議と、不快感はありませんでした。シーツを片付けた、裸のベッドに寝そべって。抜け落ちた歯を指先で転がし、そこにくっついていた乾いた血と、まだ水気を含んだ肉の破片で手を汚して。私に起こった喪失を、確かに口の中にある痛みと刺激で理解して。

 また一つ大人になれたんだ、そんなふうに思いました。

 けれど、いつも通りの生活があることには変わりません。私が本当に大人になれるのは、もっと先のことだから。それまではトレセン学園での日常があって、私はそれを大事にしたい。だからもちろん微かな違和感を抱えていても、いつもと同じように登校しなくちゃいけません。いつもの制服に着替えて、いつもの教科書とノートを鞄に詰め込んで。いつもと違うのは、私の歯が一つ抜けていること。

 鏡の前で唇を裏返して確認したところ、抜けたのは下の前歯でした。口を大きく開いたら目立ってしまうな、などと思いました。これでだいたい六本目か七本目くらいなのでしょうか。よくは覚えていないけれど、まだ生え変わり切っていないことはわかります。だからまたいつか今日のように、少しの喪失と共に大人に近づく日が来る。それは待ち遠しいけれど、今すぐ来て欲しいわけじゃない。一つ一つを丁寧に大切にしていきたいと、私は心からそう思います。

 制服、鞄、教科書、ノート。それはいつもの持ち物で、いつもと違うのは私だけ。……おっと、正確にはもう一つ。昨日までは私だったけど、今日はもう私じゃないもの。それをティッシュに包んで、私は寮の扉を叩きます。朝日に染まり濃さを増していく青の空、空の切れ目にも見える薄い雲。それらを網膜に映してみると、また歯茎の隙間にぴりりと刺激が走りました。私が空気を吸い込んだ、その証でした。学園に向けて風を切って駆け出した、それが理由でした。

 自分でも、上手く説明のできない感覚。まだ口の中は血で満たされているし、あったものがなくなった違和感も未だに強い。空の下を駆けてゆくほどに、すーすーとした歯抜けの感覚はより私を包んでゆく。どうしようもなく、変な感覚。ひりひりと痺れる口元の違和感は、それに嫌悪すら抱いても不思議じゃないものなのに。

 どうしようもなく、気持ちよかった。何故だか、そんな気がしました。

 

 

 授業はなんとか乗り越えられました。とりあえず午前中は、だけど。口の中は血がだんだんと溜まってくるので、時折それは飲み込むしかない。出来るだけ口を濯いで済ませたいところではあるけれど、授業中だとそうもいかなかった。そんな未だ止まらない血の源泉を、ついつい舌で刺激してしまう私も悪いんですけど。ちくちくと柔らかい舌の先っぽで突いてみると、ぐにぐにとした感触が返ってくる。昨日まではそこに硬いものがあったのに、今は剥き出しになっている。歯の方に片割れを残してしまった肉のちぎれ目に触れると、ちょっとぴりっとした感触がある。ぴちゃりとほんの少しの水音が耳に響いて、口の中から全身が優しく侵食されるような。私以外誰も知らない、私の内側から。それが少しだけ、気持ちいい。……あまり良い遊びではないのだろうけど、そんな悪いことをしているかのような感覚も、今は一種のスパイスでした。

 さて、それはともかく。午前中が終わって昼休みになれば、必然昼食を取らなくてはいけないわけで。皆が食堂に行く中私は教室で椅子に座ったまま、一人でうんうんと悩んでいました。弁当は昨日のうちに作ってしまっていたので、歯が抜けることなんて考慮したメニューにはできていませんでした。恐る恐る、結果の最初からわかっている弁当箱を開きます。開けたら順に中身をチェック。ご飯粒にトマトにタコさんウインナー、ここまでは良いのだけど。大きく右半分に陣取っている肉じゃがが、今回の曲者です。曲者というか、汁物です。何が問題かと言うと、沁みます。歯抜けには、沁みます。

 とりあえず肉じゃがを見ないふりをして、ちまちまとご飯粒から処理していきます。少しずつ、歯の抜けた穴には触れないように。それでも人は慣れ親しんだやり方をそう簡単に変えることなどできなくて、ついつい噛む場所を間違えて血まみれのご飯粒を作ってしまうのですが。今はもう無い歯で噛もうとして、代わりに血をべっとり付けてしまう。もちろんべっとりというほどではないのはわかっているけれど、その後の味わいは血の味しかしなくなります。ごめんなさい、せっかく作ったのに……。

 そうやってなんとか、ご飯粒を片付けます。「片付ける」という思考の時点で、若干料理に失礼なことは否めないのですが。とはいえ感覚として今口に入れたものはなんでも違和感の原因になってしまう、そちらに気を取られてしまうのは仕方ないことでした。そしてそれすらも、なんだか気持ちいい気がしてしまうのも。ああ、本当に悪い子みたいですね、これじゃ。まあでも、仕方のないことではあります。未だ流れ出る血の味、慣れる気配のない空いた口元、そして昨日よりも大人になれた私。……少し気持ちが高揚してしまうのは、だから仕方のないことです。

 さて、そうして残りのおかずも片付けて。ぴりりぴりりと自分で自分の痛覚を刺激しながら平らげて。残るは汁気たっぷりの肉じゃが。もちろん食べ残しなんてするつもりはないのですが、どうしましょう、これ。……いや、覚悟を決めるしかないですね。

 ぱくり。じわり。ぴりり。三段階の最後に、全身に痺れが走ります。美味しいから、ならよかったんですけど。いやもちろん、頑張って作ったのでそれなりに美味しいといいんですけど。滴る汁気が傷口に入って、その先にある痛覚の神経まで届いてしまう。もはやぴりり、じゃなくて、ずきり。一口一口それだったので、まともに味は分かりませんでした。代わりに噛み締められたのは、私からなくなったものがあるという事実。それを肌で、痛みで感じました。私が、私の成長が付けた生々しい傷跡から。改めて。きっと、今日はしばらく。

 

「……ふう、ごちそうさまでした」

 

 小さく手を合わせて、私は私に感謝した。お弁当を作った昨日の私と、それを食べる今日の私は、きっと違う存在だと思ったからです。それはちぎれてほどけた歯だけじゃなくて、それに伴う痛みだけでもなくて。それだけじゃないとそう思えることこそが、きっと何よりの進歩なのだと。私は、大人になれているのだと。そう思いました。そう、思うことができました。

 だから、もう少しだけ。もう少しだけ、この違和感に浸っていよう。唇の奥の痛覚から伝わるじんわりと甘い痺れも、どろりと口に溜まってこびりついてしまいそうな血のにおいも。もう少しで、終わるのだから。もう少しが終われば、別れの儀式があるのだから。

 

 

 午後の授業も乗り切れました。一度先生に当てられたけれど、多分歯がないからって変な喋り方にはならなかったと思う……多分。口の中にはまだじんわりとした感覚は残っているけど、だいぶ違和感は薄れてきて。慣れてきた、ということかもしれないです。

 それでも何度か舌で赤く腫れた歯の跡を舐めてしまって、その度にえも言われぬ鈍くて少しだけ尖った痛みが身体を駆け巡る。ちくちくと、じゅくじゅくと。それを繰り返す。慣れてきて、癖になってしまったということでもあるのかもしれない。傷口を抉る自傷行為だ、みたいなことを言われてしまえば、確かに返答には困るのですが。でもたとえば爪を噛むようなものだと思う。いや私が爪を噛む癖があるわけではないのだけど、それにちょっと近いのではないかというか。自分の身体を少しだけぞんざいに扱うことで、そんな場所も自分にあるのだと確かめるという意味で。

 自分の中の綺麗なところだけではなく、ざらざらした荒れ地のような私を舌でなぞる。誰にも見せたことのない私の中身を、もしかしたら誰にも見せられないようなものかもしれない私の血と肉を。つーっと優しく、けれど確かな痛みと共に。そういうことを、今の私はしている。校舎の外、人気のない壁際で。この違和感が消えてしまう前に、それを愛しんでいる。消えてしまわないようにとまでは、思わないけれど。

 上を見上げる。広く遠い空より手前に、薄べったい校舎の屋根が見えた。だいぶ高いけれど、思いっきり投げればきっと届くだろう。空までは届かないけれど、あの屋根までなら。

 一人ぼっちの空間で、私は密やかに鞄を開いて。今日の私は一人でした。ブルボンさんもスイちゃんもスカイさんもいない、一人でした。一人で、痛みを抱えていました。大事に大事に、だけどいつか手放すために。ノートや教科書とは別のポケットに、朝ティッシュに包んだ大事なもの。もう血は乾いて肉片も干からびていたけど、もう私の一部ではないけれど。

 それでも私にとって大事な、私の歯。その小さなひとかけらを、薄い紙の膜から取り出しました。

 

「乳歯が抜けたら、下の歯なら上に投げればいい。そうすれば、綺麗な永久歯が生えてくる」

 

 そんなおまじないは、割と有名な話だと思います。もっとも効果の実証はできないただのおまじないで、そんなことは誰もが知っていて。だけど、きっと多くの人が行う儀式。それはきっと、まだ子供だから。子供だから、おまじないを信じられる。子供だから、大人になりたいと願うことができる。そういうものだと、私はそう思うのです。

 だから。

 

「……えぇいっ!」

 

 ぶんっと振りかぶって、思いっきり空に向かって。少し叫んで、心の限りが届くように。大切な大切な私の歯を、手放すために投げました。投げる時に力むと、また歯の抜けた赤い隙間から痺れが伝わる気がしました。柄にもなく大声を出して、それも少し歯抜けの間抜けな声だったかもしれません。けれど、それでも私は。

 それでも私は、大人になりたい。そう、祈るのです。

 おまじないは、子供のためのもの。だからそれに頼った今の私は、きっと子供のままの私。どれだけ勉強してもそれだけで大人にはなれないのだと、トレセン学園に来てわかったことでした。だから子供の私は、大人になれるようにと祈るのです。たとえば歯が抜けてその痛みを癖になるまで転がして、そしてお別れのおまじないをして。そうやって子供の方法で、大人に近づいていくのです。私は子供だから。大人になりたいけれど、まだ子供だから。そして子供の時間を大切にしなければ、きっと大人にはなれないから。だから私は、今はまだ子供です。それだからいいのだと、思えています。

 たとえば乳歯はいずれ抜け落ちて、永久歯に生え変わるもの。ぽろぽろと溢れていく乳歯と、堅牢で強固な永久歯。それなら誰もが一度はこう思うのではないでしょうか。最初から永久歯が生えていればいいのに、と。最初から大人ならいいのに、と。

 だけど、きっとここには理由があるのです。医学的なことはわからないけれど、それ以外のことならわかります。乳歯は、永久歯を育てるためにあるのです。いずれ大人の自分が外に出ていくために、それまでの時間を子供で過ごすために。そして痛みを伴う別れを子供のうちに経験して、大人の歯は大切にしようと思えるように。大人の私を育てるために、私は今、子供なんだ。

 昨日の私と、今日の私は違う。それは当たり前のことだけど、昨日から今日へと伝えられることはある。空いた歯もいずれ埋まるけれど、そこをかつて埋めていてくれたもののことは忘れない。そこにある感覚も痛みも全て、あの時の私を教えてくれるから。

 きっと、これはこれから何度もあること。一度満開になった花びらが一つ一つ散ってまた次の季節に咲くことを繰り返すように、私たち子供は何度も大人になれたと錯覚してはまた成長を経験するのでしょう。それは苦しい道のりかもしれません。もしかしたら、終わりがないのかもしれません。大人になっても間違えることはある、それもきっと当たり前だから。

 それでも、きっと。きっとこれだけは間違いないと、私が唯一胸を張って言えるのは。

 私は昨日より、一歩大人になれている。喪失と流血を乗り越えて、それでもここにいるのだから。

 それが、歯が抜けて私が思ったこと。次に歯が抜ける時、私は何を感じ入るのだろう。次に大人に近づく時、私は何を得るのだろう。それはわからない。わかることがあるとすれば、今日と同じことは思わないだろうということ。それがわかる理由は、とってもシンプル。

 昨日の私と、今日の私は違うのだから。子供は少しずつ、大人になるのです。

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